2024年9月16日月曜日

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寛弘5年(1008)9月11日 中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む 『紫式部日記』のこと

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘5年(1008)
9月11日
・中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む。

彰子の出産や産養(うぶやしない)、一条天皇の土御門第行幸(10月16日)、五十日祝(いかのいわい)、百日祝(ももかのいわい)などを記録したのが、彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』で、土御門第がその舞台。

『源氏物語』は彰子の土御門第滞在中に大部分が書き上げられ、中宮が内裏に戻るまでの間に冊子作りが中宮御前の女房たちによって行われたと『紫式部日記』にみえる。
局(つぼね)においてあった草稿本を道長がみつけて持ち去り、中宮彰子の妹である尚侍(ないしのかみ)妍子へ献上してしまったことも書かれている。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おはかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきよう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(『紫式部日記』冒頭)

彰子は出産を控えて、土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もつき従った。
『日記』の冒頭、安産祈願の読経と、寝殿と東対の間から南庭の池へ流れこむ遣水の音が入りまじる、初秋の土御門第の美しい情景を描いている。

■彰子の御産と二つの日記
『紫式部日記』はふたつの部分から構成されている。
前半は、一条天皇中宮藤原彰子が皇子敦成親王を出産する前後の記事であり、
後半は消息文と呼ばれ、中宮彰子付きの女房たちや清少納言などに対する批評が有名である。

『紫式部日記』前半は、寛弘5年8月の土御門第の様子から始まり、8月20日頃からしかるべき上達部・殿上人も宿直するようになったこと、里住みの女房たちも参上してきたことなどが記されている。

9月9日夜中から御産の気色が見え始め、10日寅刻には日常使用する御帳台(柱を立て周囲を帳で囲った寝台)を片づけ、白木の御帳を立てて中宮彰子は移った。他の調度類も白一色になる。

天皇の出産関係について男性官人の各種日記類から記事を収集した『御産部類記』があり、その中に後一条天皇の誕生に関する史料が集められている。
その中でも、もっとも公的で詳細な「不知記(ふちき)」(日記の名称不明の意味)と『紫式部日記』を比較してみると、その特徴が明らかになる。

この「不知記」は恐らく中宮職関係の男性官人が記した公的日記だろう。
皇子誕生までの経過をふたつの日記でみていくと、「不知記」では御産の場にまきちらす散米が中宮庁によって準備され、種々の御祈がなされたことが記されている。

一方、『紫式部日記』の記載は詳細で、10日は中宮彰子の不安そうな様子、物の怪を調伏するために修験者や陰陽師が限りなく集められ、御誦経(おんずきよう)の使が寺々へ派遣されたこと、御帳台の周囲には東側に内裏の女房、西側に物の怪の憑人と修験者、南側に僧正・僧都、北側に女房たち40人が伺候している様子が描かれている。

皇子誕生の描写 
続いて、「不知記」では「午刻皇子平安に降誕したまう」と、もう皇子が生まれてしまっている。
しかし、『紫式部日記』では、11日に彰子は北庇に移動したこと、北庇二間のうち彰子のいる間には母倫子、乳母となる宰相の君(中宮女房)、産婆役の内蔵命婦(くらのみようぶ)、仁和寺の僧都、三井寺の内供(ないぐ、天皇の安穏を祈る僧官)が伺候し、もう一つの間に紫式部を含めた中宮の主立った女房たちが侍していたこと、凡帳の外に中宮の姉妹の乳母たちや頼通・教通ら中宮の兄弟、親しい貴族たちなどがいて、凡帳の上からのぞいていたことなどが記されている。

彰子は髪の毛を少し削いで受戒し、出産の後産が済むまで僧俗が声を張り上げて礼拝し、東庇では女房たちは殿上人たちに混じって涙で顔を濡らしながら茫然と顔を見合わせている様子などが記されている。
彰子が生む時には、物の怪がののしる声が恐ろしく手強いので、さらに阿闇梨(密教の伝法灌頂を受けた者)を加えたことなど、御産の現場の様子が生々しく描かれている。

そして、午の時に、男の子が生まれた。
安産である上に男の子であり、嬉しさは並大抵ではないとある。

御産が無事終わって、伺候していた人たちが退出して、中宮御前には年輩の女房たちが侍している静謐な様を描く。
殿(道長)や北の方(倫子)も退いて、僧や医師、陰陽師らに布施や禄を配り、御湯殿の儀式の準備をされているのだろう、とある。

皇子誕生後の行事についても、「不知記」と『紫式部日記』の記述では違いがある。
「不知記」では、皇子が生まれると一条天皇乳母である橘徳子が哺乳の儀を行い、その後、天皇から御剣勅使(みはかしのちよくし、守り刀をもたらす勅使)が遣わされて来る。そして皇子を産湯につかわす御湯殿の儀と読書・鳴弦が行われる。
『紫式部日記』では、皇子誕生後、中宮の母倫子が臍の緒を切ったことがみえること、女房奉仕の御湯殿の儀の記述が詳しく、御剣勅使と読書・鳴弦の記述はごく簡単である。
以上のように、『紫式部日記』の内容は彰子の近くに侍していた女房だからこそ書けたものだといえる。

記録性からみた共通点
『御堂関白記』『小右記』『権記』など貴族の日記にも彰子の御産についての記事はあるが、それらは夫々の貴族の立場から書かれたものである。
「不知記」『紫式部日記』は、中宮職官人と女房(彰子を支える関係者)によって書かれた公式記録という性格をもっている。
この二つの日記は、その記録内容が違うことによって相補って彰子の御産全体を記録している。
『紫式部日記』は、文章力に優れた紫式部が一大慶事である中宮の御産に関する記録をするよう、道長から要請されたと考えられる。

紫式部の位置
女房の身分は、上臈-中臈-下臈に分かれ、内裏に仕える女房は、乳母(めのと)・典侍(ないしのすけ)-掌侍(ないしのしよう、内侍ないしのかみ)-命婦(みようぶ)-女蔵人(によくろうど)に分類できる

『紫式部日記』から彰子の女房を見ていくと・・・
上臈女房として、まず、一条天皇乳母である「橘の三位(さんみ)」と呼ばれる典侍橘徳子が、内裏女房と中宮女房を兼務していた。
職務のある女房としては「宮の宣旨」もいる。
その他、「宰相の君」「大納言の君」「小少将の君」など上臈女房には道長や倫子の縁者が多い。

内侍には、「宮の内侍」「左衛門の内侍」や「弁の内侍」など、
命婦には、「筑前の命婦」や「左京の命婦」「大輔の命婦」などがおり、
内裏と中宮の女房を兼務している者もいた。

その他、中臈の女房として、「五節(ごせち)の弁」「大輔(たいふ、伊勢大輔)」などがいた。

紫式部は公的な役職にはついていなかったと考えられるので、その他の中臈女房の一人ということになる。
中臈女房には紫式部のように受領層の娘や妻室が多い。
摂関家家司で受領の者の妻には、摂関家出身の中宮やその子どもである天皇の乳母になる例もあった

女房には局を与えられて常に伺候する者と、里住みをして臨時に出仕する者とがいた。
紫式部には、土御門第では寝殿と東の対(たい)を結ぶ北の渡殿(わたどの)の東端に局があり、一条院内では彰子御所である東北の対の東長片庇(ひがしながかたびさし、細殿)の三つ目の間に局があった。

女房の仕事は、御膳や整髪など中宮の衣食住についての奉仕や、中宮の娯楽や諮問に答えるなどの精神的な奉仕、公卿や男性官人の取り次ぎなどであった。
紫式部も女房としての仕事をしており、中宮彰子に漢籍を教示したり、藤原実資の取り次ぎをしたりしている。中宮彰子の御産の記録を書くことも仕事の一つであった。

お産のあと
10月16日
一条天皇の土御門邸行幸があり、皇子は敦成(あつひら)親王と名づけられ、彰子の母倫子は、その外祖母として従一位を授けられた。

11月1日
生後五十日を祝う五十日(いか)の儀が、土御門邸で、大臣以下公卿・殿上人雲集して盛大に行なわれる。若宮に祝の餅を道長が進めたのが午後8時、それから大宴会となって、人々はすっかり酩酊した。
右大臣藤原顕光などは、六十五歳の老人のくせに几帳のほころびを引き破ってしまうほどの荒れかただし、女房と袖引き合うのもあり、歌をうたい、盃はめぐり、乱酔の宴となりはてたなかに、右大将実資がシャンとして、落ち着いて女房の衣裳の袖ぐちを手に取って、その色あいを楽しんでいるのがひときわ立派に見える。

ふと、中納言公任が、「恐れ入りますが、この辺に若紫はおいでになりますか」と言う。
若紫は源氏物語の女主人公、紫の上のことで、つまり紫式部を探している。
式部は、光源氏そのままのような人などいないのに、その相手の紫の上なぞいるものですかと思いながら放っておく。
あまりの乱酔ぶりに恐れをなして、同僚の宰相の君としめし合わせて凡帳の蔭に隠れたところ、二人とも道長につかまってしまった。
「和歌一首ずつ詠みなさい。そうしたら許してやる」とのことで、しかたないから一首を口ずさむ。

いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)の あまりひさしき君が御代をば
(若宮の八千年にもあまるご寿命はとても数えられるものではありません。最初に五十日(いか)ということばがちゃんと詠みこんである)

すると道長は、「うん、よくできた」と二へんばかり式部の歌を口ずさむと、すらすらとつぎの歌を詠みあげた。

あしたづのよはひしあれば君が代の 千歳(ちとせ)のかずもかぞへとりてむ
(わたくしに千年という鶴の寿命があったらば、若宮の千年のおん年もかぞえられるだろう)

道長もだいぶ酔ったらしい。声を上げて、
「中宮、お聞きになりましたか、われながら上出来」
と自慢して、さらに、
「中宮の父として、わたくしも不足な男ではなし、中宮もわたくしのよい娘だ。母の倫子も幸せを喜んでご機嫌上々らしい。いい亭主を持ったものだと思っているようですよ」
という。
中宮のご退座をお送りするとて、いそいで立ってゆきながら、「中宮もきょうのわたくしを失礼なとお思いかも知れないが、親のおかげで子供も立派になれるんだぞ」とつぶやいているのを聞いて、人々がほがらかに笑う・・・

11月17日
彰子は土御門邸から内裏一条院に入る。
その頃、彰子のもとでは女房たちが手分けをして、『源氏物語』の豪華な清書本作りに精出しているらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておいたら、道長が探しして見つけだし、次女でやがて東宮居貞親王(三条天皇)の妃となった妍子に贈ってしまった。
このほか、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて聞き、式部の才を賞したという話もあり、宮廷では評判の物語だったらしい。
道長がこの『源氏物語』製作のスポンサーだったと見る向きもある。

紫式部
父は藤原為時、母は藤原為信娘。本名、生没年は不明。生年は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説がある。
姉と弟惟規(のぶのり、一説に兄)がいた。
父為時は冬嗣の子良門(よしかど)の子孫で、祖父為輔は堤中納言と称された著名な歌人。
為時は文章生出身の学者で、花山天皇と関係が深く、永観2年(984)、花山天皇即位後、式部丞で蔵人になったが、花山天皇が退位すると、官位に恵まれなくなり、長徳2年(996)年ようやく越前守に任じられた。その後は越後守となる。
母の父為信は冬嗣の子長良の子孫で、曾祖父文範は文章生出身で権中納言にいたっているが、為信も受領であった。
つまり、紫式部は父母とも文化人ではあるが地方国司たる受領層出身の中級貴族であった。

紫式部の若い頃のことは殆ど不明だが、父為時が弟惟規に漢籍を教えるのをそばで聞いていた紫式部の方がよく覚えてしまうので、父が男の子でないのを残念がったという話が『紫式部日記』にみえる。
父為時が越前守に任命されると、紫式部も共に越前国へ下っている。
『紫式部集』には越前へ下る途中や越前国で作った和歌がみえる。

その後、長徳3年冬から4年春に、紫式部は帰京した。
以前から交際のあった藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためであった考えられる。
長徳4年(998)年晩秋から冬にかけて2人は結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
長保元年(999)年には長女賢子が生まれた。

ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
その後、つれづれなる生活のまにまに紫式部は『源氏物語』執筆を始めたと考えられる。
そしてその評判によって、寛弘2年(1005)年または3年、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が出仕する頃には、『源氏物語』は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が『源氏物語』の作者は「日本紀」(『日本書紀』)を読んでいるにちがいないと評したことが『紫式部日記』にみえている。
その漢学の学識がかわれて、中宮彰子から依頼されて自居易の楽府を講じたことも同じく記されている。
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12月29日
(実家から)宮中に参内する(『紫式部日記』)

12月31日
・『紫式部日記』に、この年の大晦日の夜、一条院内裏に盗賊が入って、女官2人が衣裳をはぎとられた記事がある。
都の治安は乱れ、内裏に盗賊や暴漢が入って来た例はこの他にもある。
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寛弘5年(1008)2月 花山法皇没 5月23日 法華三十講 「妙(たえ)なりや今日は五月の五日とて五つの巻にあへる御法も」(紫式部)

東京 江戸城(皇居)東御苑
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この年
・和泉式部、『和泉式部日記』執筆
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寛弘5年(1008)
1月
・藤原伊周を准大臣とする
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2月
花山法皇、没
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2月
・尾張国の郡司・百姓が国守藤原中清のことを愁訴
左大臣道長は中清に直ちに任国に赴くよう命じ、今後訴えがあれば国司を処分するぞと戒めた。
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5月23日
・4月23日から始まった道長邸のこの年の法華三十講で、5月5日となった五巻の日の様子がが始まる。
『栄花物語』「はつはな」に描かれている。
「きたなげなき六位の衛府など、薪(たきぎ)こり、水など持たる、をかし。殿ばら、僧俗歩みつづきたるは、さまざまをかしうめでたう尊くなん見えける。苦空無我の声にてありける讃歎の声にて、遣水の音さへ流れ合ひて、よろづに御法(みほう)を説くと聞えなさる。法華経の説かれたまふ、あはれに涙とどめがたし。」

提婆品(だいばぼん)には、かつて国王として生まれた釈迦が、阿私仙(あしせん)に給仕する修行をしてついに得法することが記され、五巻の日の薪をかつぎ水を汲み運ぶ行事は、その給仕のさまを表すものである。
『御堂関白記』によれば、この日の行道に加わったのは僧俗計「百四十三人」で、土御門第の池の周りを巡った。
提婆品では、提婆達多(だつた)が仏に敵対したという阿私仙の過去を明かし、将来の成仏を説いていて、悪人成仏や女人往生に通じるのでとくに五巻が重んじられたのである。
この時の五巻の日に参加した紫式部は、
妙(たえ)なりや今日は五月(さつき)の五日とて五つの巻にあへる御法(みのり)も
(『紫式部集』日記歌)
との歌を詠んでいる。

法華経は、1部8巻28品からなる。
この8巻を朝夕2座を設けて4日間で講説するのを法華八講といい、追善供養の仏事として盛んに行なわれた。
また28品に開結(かいけつ)2経(無量義経(ぎきよう)と観普賢(かんふげん)経)を加えて、30座30日にわたり講説するのが法華三十講である。
永延2年(988)に性空(しようくう)上人が書写山円教寺で行なったのが早い例であるが、藤原道長が行なった三十講も早い例で、道長邸では5月に行ない、寛弘2年(1005)以降はほぼ毎年恒例の行事となった。
三十講も八講も巻五提婆品(だいばぼん)を講ずる「五巻の日」がもっとももり上がった。
寛弘5年の法華三十講は、4月23日から行なわれ、五巻の日は5月5日となった。
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7月
・この月、道長と治部卿源従英(俊賢)の書が入宋の天台僧寂照に送られる。
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9月
・道長、彰子の出産間近に土御門第で五壇法の祈願を行なう。
『紫式部日記』やそれによった『栄花物譜』「はつはな」に記されている。

「ほど近うならせたまふままに、御祈りども数をつくしたり。五大尊の御修法おこなはせたまふ(中略)。観音院の僧正(勝算)、二十人の伴僧とりどりにて御加持まゐりたまふ。」

ほかに心誉・清禅などが各明王にあたったと記している。
五壇法は、このように五人の僧が横に並び、五大明王を横に並べて五壇を設けて修法を行なった。

道長の法性寺五大堂は、五体とも丈六という大きな仏像であり、母屋は桁行5間ないしそれ以上の建築で各柱間に一体ずつ安置されていたと考えられ、天台密教法会の恒常的な空間として成立したとされる。
そしてこれ以降五大堂という建築様式が定着していった。
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イタリア副首相に禁錮6年を求刑 - 移民が乗った救助船の入港拒否で(共同);「移民147人が乗った救助船の入港を拒否し、数週間にわたって海上に立ち往生させたとしてサルビーニ副首相が誘拐などの罪に問われた裁判があり、検察は禁錮6年を求刑」  「サルビーニ氏は、...この日は出廷せず、不法移民から「イタリアを守ることは犯罪ではない」とX(旧ツイッター)に投稿した。メローニ首相もXで「国境を守る義務を犯罪に変えることだ」と検察を批判」

 

寛弘4年(1007)1月 道長六女誕生 3月 土御門第で曲水の宴 8月 道長、金峯山に参詣(御嶽詣)し、経筒を埋納( 金峯山理経) 11月 教通(道長五男)右少将

東京 江戸城(皇居)二の丸雑木林
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寛弘4年(1007)
この年
・源信は横川に戻り、この年には「霊山院式(りようぜんいんしき)」を作成して、華台院南の霊山院で釈迦講を始めた。
その結縁者500余名の中には、僧侶以外にも、資子内親王、中宮定子、藤原公季、藤原道長室源倫子などの上級貴族、また中下級官人、近江の名主層までもが含まれており、寛仁元(1017)年の末法到来に向けての浄土教の広がりがわかる。
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・この頃、「拾遺和歌集」「和泉式部日記」が成立。
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1月5日
倫子(43)第6子嬉子(道長の六女)を出産
「昨日の酉剋(午後5時~午後7時)の頃から、女方(源倫子)は、重く病んだ。これは御産によるものである。卯剋(午前5時~午前7時)に、女子(藤原嬉子)を産んだ。巳剋(午前9時~午前11時)に臍尾(へそのお)を切り、乳付を行った。」(『御堂関白記』)
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1月5日
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、火事が有った。右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)の家であった<中御門(なかみかど)である>。「一物も取り出すことができなかった」ということだ。」
「「(藤原斉信は)叙位の議に出席していて、宿直(とのい)装束が無かった。束帯を着たまま、まだ内裏にいる」ということだ。そこで宿直装束一具(よろい)を届けた。袿を四枚に直衣・指貫・合袴(あわせばかま)であった。」(『御堂関白記』)

1月13日
「未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)に内裏に参った。五位蔵人に右兵衛佐(藤原)道雅を補した。(一条)天皇は、「道雅は、若年ではあるが、故関白(藤原道隆)の鍾愛の孫である。そこで補すのである」と云(い)われた。」
「六位蔵人には兵部丞(藤原)広政と(藤原)惟規を補した。蔵人所の雑色や非蔵人を差し置いて、この人々を補せられるのは、現在、蔵人所に伺候している蔵人は、年が若く、また、補すべき巡にあたっている非蔵人や雑色たちも年少である。」
「そこで、この二人は頗(すこぶ)る年長であって、蔵人に相応しい者である。そこで補せられただけのことである。後世の人に判断を任せよう。この人事の賢愚(けんぐ)はわからない。」(『御堂関白記』)

2月
・この月、道長、前年12月に供養した法性寺五大堂で五壇法を修す。
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3月3日
「土御門第で曲水(ごくすい)の宴を催した。東渡殿の所から流れてくる川の東西に、草墪(そうとん)と硯台を立てた。東対(ひがしのたい)の南唐廂(みなみからびさし)に公卿と殿上人の座、南廊の下に文人の座を設けた。」
「辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時)の頃、大雨が降った。水辺の座を撤去した。その後、風雨が烈しくなった。廊の下の座に雨が入ってきた。そこで対の内部に座を設けていた頃に、公卿が来られて、座に着した。」
新中納言(藤原忠輔)と式部大輔(菅原輔正)の二人が、詩題を出した。式部大輔は、「流れに因(よ)って酒を泛(うか)ぶ」と出した。こちらを用いた。申剋(さるのこく/午後3時~午後5時)の頃、天が晴れた。
「水辺の座を立てた。土居に降りた。羽觴(うしょう)が頻(しき)りに流れてきた。唐の儀式を移したものである。皆は詩を作った。」
「夜に入って上に昇った。右衛門督(藤原斉信)・左衛門督(藤原公任)・源中納言(源俊賢)・新中納言(藤原忠輔)・勘解由長官(藤原有国)・左大弁(藤原行成)・式部大輔(菅原輔正)・源三位(源則忠)、殿上人や地下の文人が二十二人、参会した。」(『御堂関白記』)

3月24日
「内裏から退出した。亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、南西の方角に火事が有った。事情を問うと、東宮傅(藤原道綱)の大炊御門(おおいみかど)の家であった。」(『御堂関白記』)

3月28日
「一宮(いちのみや/敦康親王)は、霍乱(かくらん)を病んだ。」(『御堂関白記』)

4月20日
・この日、賀茂祭で道長に「上達部十余人同道」(『御堂関白記』4月20日条)。
道長は公卿たちを従え賀茂祭(かもまつり)見物などを見物。このようなことは道長以前の摂関には見られなかった。
道長も一条朝前半までは妻子や親しい公卿などと小規模で見物を行っていたが、一条朝後半以降、道長の見物所に公卿等が参集して見物するようになる。
『権記』寛弘6年4月24日条では、賀茂祭の道長の「棚」(桟敷)に藤原道綱以下九人の公卿が集まっている。
このような公卿以下が道長の見物所に参集する見物方法は、院政期の院へと継承され、さらに大規模化・儀式化していく
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4月25日
・4月25、26日、内裏で大規模な密宴と作文が行なわれた。
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8月
道長が金峯山に参詣(御嶽詣=みたけもうで)し、経筒を埋納する。
金峯山理経。

御嶽詣(金峯山を金の御岳と呼ぶためこう称された)のためには、まず精進潔斎が必要であり、この年閏5月17日に中宮亮源高雅宅を精進所として3月弱の長斎(本来は百日)を始めている。
蔵王権現には子を授かるという効験が信じられていて、『栄花物語』「はつはな」は、翌年彰子の懐妊がわかった時に「みたけのしるし」と喜んだと書き、皇子誕生を祈っての御嶽詣であったと述べている。

『御堂関白記』による行程
8月2日に京を出発。
3日~6日、大安寺や壷坂寺など大和の諸寺に宿し、7日、野極(のぎわ、今日の吉野蔵王堂の下方)に宿す。
以降尾根つたいに修験の道を登り、数多くの難所をへて、10日に山上御在所の金照房に到着。

翌11日は早朝沐浴の後、子守三所、三十八所(日本中の神が集まる)、御在所に参詣し、ここで法華経百部と仁王経を三十八所のために、理趣分(大般若経の一部)を一条天皇・冷泉院・東宮のために、般若心経を八大龍王のために供養。
そして道長が、長徳4年、書写した金泥法華経一部および今度書写した弥勒経三巻・阿弥陀経・心経を供養して、金銅灯楼をたててその下に埋納した。

この時、頼光は随行者の一人として、頼親は大和守として、それぞれ道長にかいがいしく奉仕している。

経筒の銘文
自筆経巻は「妙法蓮華経一部八巻・無量義経・観普賢経各巻、阿弥陀経一巻、弥勒上生下生成仏経各一巻、般若心経一巻」の15巻であると記す。
法華経は「釈尊の恩に報ひ、弥勒に値遇(ちぐう)し、蔵王に親近せんがため」「弟子の無上の菩提のため」、
阿弥陀経は「臨終の時身心散乱せず、弥陀尊を念じ、極楽世界に往生せんがため」、
弥勒経は「九十億劫の生死の罪を除き、無生忍を証し、慈尊の出世に遇はんがため」、
とそれぞれの願意を記し、
最後に、慈尊成仏の時に当りて、極楽界より仏所に往詣し、法華会聴聞のため成仏記を受け、その庭にこの奉埋する所の経巻、自然に湧出し、会衆をして随喜を成さしめん、
と記す。

弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から五十六億七千万年後に下生し、法会を開き、衆生を救うという、弥勒下生信仰にもとづいている。その時に道長は極楽界から参会し、またこの経巻が湧き出ることを願っているが、これは法華経見宝塔品の構想によって経筒を「法身之舎利」として埋めるとのべ、この経筒は一種の舎利塔として湧き出るカをもっていると考えている。

法華経・阿弥陀経・弥動経の各信仰が併存し、金峯山は弥勤下生の地と信じられていたらしいので弥勒浄土信仰が大きな役割をしめ、また末法思想もあった。
ただ経筒の緑に梵字で「南無妙法蓮華経」と記し、納めた経典も第一に法華経であったように、道長の中心にあったのは法華経信仰であったらしい

金峯山理経
金峯山は、吉野の奥、大峰連峰の総称で、山岳修行の第一の霊場。
吉野の金峯山寺は山下と呼ばれ、中心となる山上とは標高1,719mの山上(さんじょう)ケ岳である。その山頂には湧出岩と呼ばれる巨岩があり、蔵王権現が湧現したところと伝えられ、現在も女人禁制。
蔵王権現は、金剛蔵王菩薩ともいい、修験道の開祖役行者(えんのぎようじや)が金峯山の頂上で衆生済度のため祈請して感得したと伝える魔障降伏の菩薩であり、釈迦の化身とも弥勒の化身ともいわれる。修験道とともに発展した神格である。

この山頂付近から、元禄4年(1691)山上の本堂改修の際に、経塚が発見され、寛弘4年(1007)7月の約500字に及ぶ銘が刻まれた円筒形の金鋼製経筒(国宝)とその中に遺っていた道長書写の経典残巻が発掘された。
日本で最古の経塚遺物であるだけでなく、この時の道長の御嶽詣の状況が『御堂関白記』に道長自身が自筆で記して全容が伝わる点でも画期的な事例である。
*
11月
・教通(道長五男)、この月、右少将に任ぜられる。
12歳で春日祭使を勤める。以降摂関家嫡流のデビューの場となっていく。
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2024年9月15日日曜日

「スプリングフィールドで移民が住民のペットを食べているという虚偽の主張は、同市の市長、警察本部長、オハイオ州知事がいずれも否定している。 しかし、12日には市役所や学校などが暴力の予告を受けて関係者が避難したのに続き、13日にも市内3カ所の学校に爆破予告」(BBC) / オハイオ州スプリングフィールド。役所、学校、病院への爆破予告に続いて大学に銃撃予告。今もオハイオ州選出の上院議員であるJDヴァンスがデマを拡散し、それをトランプがディベートで口にし、MAGAがさらに拡散


 MAGA;

Make America Great Again(アメリカを再び偉大な国に)の頭文字を取った造語。トランプ前大統領の選挙スローガン。トランプの熱心な支持者をMAGA、MAGA派、MAGA共和党員などと呼んだりする。


大杉栄とその時代年表(254) 1898(明治31)年11月1日~10日 「東亜同文会」設立 憲政本党結成(旧進歩派) 第2次山県内閣成立(超然内閣復活) 『ホトトギス』第2巻第2号(子規『車上所見』『雲』『山』、漱石『不言之言』)

 

山縣有朋

大杉栄とその時代年表(253) 1898(明治31)年10月21日~31日 尾崎行雄文相辞表提出 後任犬養毅を独断奉請 旧自由党が反発し憲政党解散決議(憲政党分裂)、閣僚辞任(大隈内閣崩壊) 康有為、日本亡命 朝鮮で万民共同会開催 より続く

1898(明治31)年

11月

「日本平民新聞」創刊。和歌山。「日本平民協会」設立。大阪。

11月

後藤宙外「政治小説に就いて」(「新小説」)11、12月

11月

漱石、山鹿方面へ修学旅行。

11月

下都賀郡赤麻村村長、谷中村助役、部屋村書記他6人、石尾銅山を視察。

報告書は、鉱業による予防工事を「予防工事旧来の経験に徴するも、将来、其の功を全うするや否や頗る疑問とする処なり。仮に功を奏するものとするも、数年来渡良瀬川床及び沿岸耕地に沈殿堆層せる処の毒土砂を除去するにあらざれば、到底被害は免れざるものと思料す」と述べた後、次のように根本的対策として毒土除去・土地回復とともに渡良瀬川河川改修を主張するのである。

「之れをして無害ならしめんには、堤防増築、河身改良及び毒土除去、土地は恢復進んでは利根の河身改良を施し、渡良瀬合流を潟せしめされば、吾人、豈、居住するを得んや。故に吾人の覚悟とするは飽迄此れを政府に請求して、其の実践を求むるは急務中の尤も急務とせざる可からざる処なり」

11月1日

義和拳リーダ趙三多、戦いに利有らずと判断し、留善固で隊伍500を解散。高弟10余を率い河北省武邑、晋州、正定、滄州で道場を開き、門弟を募集し拡大。一帯の「反清復明」を標榜する一団も趙三多の義和拳に呼応。

11月1日

隈板内閣の後継内閣の組織についての画策は桂が行うことになる。この日深夜、京都より帰着した山県有朋は直ちに桂を訪問。桂は憲政党(旧自由党)との提携によって議会を乗り切る目算のもとに山県内閣の成立を促す。


11月2日

「東亜同文会」設立。会長近衛篤麿(貴族院議長)・幹事陸羯南・池辺三山ら。日本・清国・韓国の提携、清国保全を期す。「東亜会」(進歩党系政治家・陸羯南の「日本」グループ・学生ら)と「同文会」(近衛篤麿グループ・大陸浪人グループ)が合併。

初期の会員:東海散士、福本日南、鳥居素川、徳富蘇峰、陸羯南、池辺三山、岸田吟香(日本の新聞記者の草分け)、三宅雪嶺(「日本」「日本人」の論客)、内藤湖南(「日本人」「大阪朝日」で活躍)、宮崎滔天、高田早苗(「読売」主筆、のち代議士、早稲田大学学長)、犬養毅、平岡浩太郎(玄洋社社員、憲政党)、神鞭知常、星亨、谷干城、小川平吉(弁護士、のち司法相・鉄道相)、花井卓蔵、大谷光瑞、押川方義、川島浪速など。

11月3日

姚文起は自分の村(留善固)で拡大した村民・拳民1千を率い闘争継続。冠県・威県の教会焼き打ち。後、清軍に追われ沙柳葉で逮捕され処刑。

11月3日

憲政党の旧進歩派、憲政本党を結成

11月4日

朝鮮、旧守派による朴定陽内閣打倒。内閣は11月5日迄に独立協会から議員の半数25人の民選議員を選ぶよう通告されていた。独立協会幹部17人検挙(10日釈放)、皇国協会によるテロ。

11月4日

室田忠七の鉱毒事件日誌より


11月4日 「村税県税戸数割徴収猶予願ノ件、其他吾妻村新堤防改築ノ件ニ付、故障ヲ申シ立ツルコトニ決」する。

11月5日 雲竜寺事務所で「吾妻村・植野村・界村三ヶ村新堤防工事ノ件ニ付、久野・筑波・梁田・多々良・渡瀬・大島ハ新堤工事ニ故障ヲ言フ」。

11月8日 雲竜寺事務所で「再請願書中堤防増築ノ件ニ付」について協議する。

11月5日

清朝、近畿(首都近辺)、山東、河北、奉天に「興弁団練(民兵化)」の呼掛け。12月31日にも。

11月5日

元老会議、清国を視察中の伊藤博文の帰国を待たず、山県有朋に組閣を命令

11月5日

宮沢賢治(2)妹トシ誕生。

11月6日

佐久間貞一(52)、没。大日本印刷を創業。

11月8日

第2次山県内閣成立。内相西郷従道・蔵相松方正義・陸相桂太郎・海相山本権兵衛・法相清浦奎吾・文相樺山資紀。非政党、超然内閣の復活

11月10日

朝鮮、独立協会の幹部17 人釈放。

これを好機と判断した朴泳孝は、側近李圭完(イ・ギュワン)を帰国させ、独立協会会員の組織化に取り組む。

11月10日

子規『車上所見』(『ホトトギス』第2巻第2号)。

「病ひつのらばつのれ、得たばとて出らるゝ日の来るにもあらばこそ」と決意を固め、人力車を呼ぶ。この秋の日の三河島方面への外出の記録。

午前中に「日本」に掲載する天長節についての原稿を書き、昼から人力車で出かける。千住の煙突や谷中の天王寺塔などを眺める。雲は低くにあるが、晴れで、なだらかな関東平野の眺めは気持ちがよく「胸開き気伸ぶ」心持ちがする。

東京の稲刈り風景には、子規は違和感があった。故郷では田の水を抜いてから稲刈りをするが、東京では水抜きをしない。俥夫は新潟出身だったが、松山と同じく田の水抜きをするという。新潟では、11月になると雪が降り始めるという。

三河島あたりではイナゴがたくさん飛んでいる。子規は、4年前の散策を思い出す。まだ体が自由だった頃、日清戦争の従軍記者として出かける前のことだった。

諏訪神社の茶店で休み、子規は寒さに震え、家へ向かう。


「我車のひゞきに、野川の水のちらちらと動くは目高の群の驚きて逃ぐるなり。あないとほし。目高を見るはわが野遊びのめあての一つなるを、なべての人は目高ありとも知らで過ぐめり。世に愛でられぬを思ふにつけていよいよいとほしさぞまさるなる。

「三年の月日を寝飽きたるわが褥も車に痛みたる腰を据うるに綿のさはりこよなくうれし。世にかひなき身よ。」

「明治三十一年十一月初旬、おそらく十一月二日であった。秋晴れの日の午後一時すぎ、雇った人力車が根岸の家の門前にきた。子規は車夫に背負われて車上の人となった。

郊外見物に出掛けるのである。その感想を「ホトトギス」の随筆に書こうというのだ。それは、この年七回目の外出であった。

音無川に沿って三河島方向へ向かった。右手に千住の煙突が四、五本見えた。みな黒い煙を誇らしげに吐いている。公害が問題となるのは七十年ほどのちのことで、この時期のそれは、日清日露戦間期の工業化の頼もしい象徴であった。左手は谷中から飛鳥山へとつづく岡、その真ん中あたりに谷中天王寺の五重塔がそびえ立つ。雲はその木立の上、地平線に長くたなびいている。のどかだ。

田の稲はなかば刈られていた。刈った稲は、田のほとりに立てた竹組や、わざわざ植え育てた榛(はん)の木にわたした丸太に掛けて干すのだが、松山ではそうではなかった。稲の実る頃には水を落として田の表面を乾かし、そこで地干しにするのだ。

そういえば、と子規が思い出したのは漱石のことであった。

十年余り前、漱石と連れ立って彼の実家近く、早稲田田圃と呼ばれるあたりを歩いていたときであった。漱石が、この草は何? と若い苗を指して子規に尋ねた。妙な問いにいぶかしみつつ、稲だよ、米になるんだよ、と答えたら漱石は、米は田になるものか、と心から驚いたふうだった。漱石は悪ふざけをする男ではない。東京人とはそういうものなのか。恐るべき頭脳の持主である漱石なのに、信じられぬほど世智にうといところがあった。熊本にある漱石は、今頃どうしているか。

実の残った柿の木がある。もったいない、と子規は思う。だが、遊ぶ子供らが興味をしめさぬところを見ると、渋柿かも知れぬ。

このあたりをよく歩いたのは、明治二十七年であった。一世一代の仕事とさえ思われた「小日本」があっけなく廃刊となり、失意のさなかにあった自分は、新聞紙上の日清の戦報を読むにつけ、従軍記者として大陸へ渡りたい欲望をつのらせた。しかし健康に自信を持てず、願いはかないそうもなかった。そんな焦操と前途への不安を打ち消したくて、歩きつつ句をつくっていた。目に映るあらゆる事物を写生的俳句にしようとしていたのだ。

「うたた思ひ乱るるに堪へず」、別の道へ折れるよう車夫に命じた。と、向こうから女の子がやってきた。手拭いを頭にかぶり、左手には大きな竹籠、右手には鮒を入れた小桶を持っている。十歳くらいであろうか。


眼円くすずしく、頬ふくやかに口しまりて、いと気高きさまはよの常の鄙(ひな)育ちの児とも見えず、殊に其さかしささへ眼の色に現れてなつかしさ限り無し。足にして立たぼ、彼童の後につきてひねもす魚捕るわざの伽にもなりなんと思ふ。(「車上所見」)」(関川夏央、前掲書)


子規『雲』(『ホトトギス』第2巻第2号)。


「春雲は絮(わた)の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く、晨雲(あさぐも)は流るるが如く、午雲(ひるぐも)は湧くが如く、暮雲は焼くが如し。」

子規『山』(『ホトトギス』第2巻第2号)。


「一生の思ひ出に、今一度山の細道、朽葉の露を踏んで静かに辿らましかばいかに嬉しからまし。」

漱石、評論「不言之言」(『ホトトギス』2巻2号)。続編は12月に発表。

この頃、五高生中心の俳句結社「紫溟吟社」興り、漱石は指導的役割を果たす。


つづく

小泉進次郎氏が打ち出した解雇規制緩和 「怖すぎる」SNS不安の声(毎日) / 小小泉進次郎氏、「クビを切りやすくなる」とかつて批判された解雇規制緩和に前向き 自民総裁選、候補者間には温度差(東京) / 泉進次郎元環境大臣 解雇規制見直しは「解雇促進に全くあたらない」「丁寧に説明」(TBS) / 解雇規制の緩和、反対強く 総裁選候補が政策打ち出す(共同) / 「世襲議員がお気楽に言うな」解雇規制見直し論に立憲4候補が猛反論(朝日)

 



 

ハリス氏が勝てば「ホワイトハウスがカレーの匂いになり、演説はコールセンター経由で進められる」 トランプ氏を支持するローラ・ルーマー氏の人種差別的な発言に共和党内からも批判 これまでも反イスラム主義や移民嫌悪の発言が批判されています — ハフポスト日本版

【理由非公開】国会議事堂近く… 財務省公用車で歩行者ひき逃げ(死亡)、現行犯逮捕の男性を『不起訴処分』 / 国会議事堂付近で財務省の車で死亡事故を起こしたとして逮捕の男性を不起訴 東京地検(TBS) / 容疑者は、国会前の横断歩道でひき殺し、ひき逃げし、200m逃走し横転、逮捕時に大暴れ。 / 永田町ひき逃げ事件の犠牲者はイトマン事件でも名前が出た「バブル紳士」だった(AERA)   

「「いのちを脅かす万博危険がアブナイ!」シリーズ第3弾 今話題の「誰が行くねん!恐怖休憩所」の場所の確認と9月1日現在の総重量90トンの花崗岩のぶら下がり具合を公益性を鑑みてドローンで撮影してきたので公開いたします。」(佐々木芳郎) / 750個の石をネックレスのようにつるす万博休憩所、若手20組の1組である工藤浩平氏(川又英紀 日経クロステック) / 工藤浩平さんは、「休憩所2では建築基準法をはじめとした各種法令を遵守し、構造計算や各種専門家へのヒアリング、強度試験などを行った上で設計・施工を進めております。」 と言ってますが、、、   



 

2024年9月14日土曜日

大杉栄とその時代年表(253) 1898(明治31)年10月21日~31日 尾崎行雄文相辞表提出 後任犬養毅を独断奉請 旧自由党が反発し憲政党解散決議(憲政党分裂)、閣僚辞任(大隈内閣崩壊) 康有為、日本亡命 朝鮮で万民共同会開催    

 

康有為

大杉栄とその時代年表(252) 1898(明治31)年10月11日~21日 漱石、欠勤延長(鏡子の悪阻が酷いため) 日本美術院開院式 社会主義研究会結成 梁啓超、日本へ亡命

より続く

1898(明治31)年

10月21日

内務大臣板垣退助は、単独で参内して天皇に対し尾崎文相を弾劾し、閣内において両立できないと上奏

翌22日、天皇は、侍従職幹事公爵岩倉具定を総理大臣大隈のもとに遣わし、天皇の内旨として、尾崎を辞任させるようにと伝える。岩倉は尾崎にもこれを伝える(板垣が尾崎とは両立できないと主張しているというのが理由)。

尾崎はこの日(22日)、大隈に辞表を提出、24日に辞表を奉呈ということになる。

天皇が大臣の罷免を指示するのは、憲法上の問題があり、宮中筋は悩んだが、結果的には大隈による尾崎辞職願の奏請と勅許という形で決着する。

10月23日

高野房太郎(30)、横浜・蔦座での対工場法案演説会で演説。

10月24日

尾崎行雄文相、共和演説事件(8月21日)に関して辞表提出。後任を巡り閣議は紛糾。

26日、大隈首相、独断で犬養毅を文相に奉請

尾崎の後任ポストを巡っては、旧自由党と旧進歩党が激しい争う。大隈は26日の閣議の後参内して、閣内不統一の責任を理由に自らの進退に関する天皇の「聖慮」を問い、天皇から辞職に及ばずとの言葉を得ると、尾崎が後任として推薦した旧進歩党の犬養毅を文相に奏請。

10月25日

趙三多の義和拳、冠県梨園屯で始めて「助清滅洋」スローガン掲げる。民衆運動ではなく体制擁護の愛国運動とする策略的スローガン。

10月25日

康有為、香港から宮崎滔天に伴われて日本へ亡命。この日(25日)、新橋駅へ到着した康有為を、梁啓超と清朝の若手官僚だった王照が迎える。

康有為も三橋旅館で数日宿泊した後、10月29日、牛込区市谷加賀町1丁目3番地の柏原文太郎が所有する貸家へ移り、梁啓超も合流した。

康有為と梁啓超は清国再生の提案書をまとめ、日本政府に提出したが、日本は清国政府から「犯罪者を保護している」との抗議を受け、最終的に康有為に国外退去を求めることになる。「光緒帝からの手紙」を持っているとして権威を振りかざす傲慢な康有為に手を焼いたこともある。しかし、梁啓超には「学術研究」という名目で日本滞在許可している。礼儀正しく物静かな梁啓超は、日本政府や日本人から好感を持たれた。

10月25日

岸田吟香(65)、横浜・羽衣座での横浜売薬業者による売薬増税不可の政談演説会で「貢納論」を演説。

10月27日

板垣内相、参内し、大隈への不信、犬養が文相になるなら、蔵相松田正久・逓相林有造と共に辞職すると奏した。

10月29日

憲政党分裂。板垣退助内相・松田正久蔵相・林有造逓信相ら旧自由党系の閣僚、辞表提出

同日、憲政党の旧自由派は、憲政党解散と新憲政党の結成を決議。

31日、大隈重信首相・大石正巳農商務相・犬養毅文相ら旧進歩党系の閣僚も辞表提出。大隈内閣崩壊。

29日、文相に犬養毅が決まったことを不満とする旧自由党は、星亨が中心となって自由党系の憲政党員だけを集めて党大会を開き、そこで「憲政党」解散を決議し、次いで新たに同名の「憲政党」を結成。

星亨はアメリカ駐在大使であったが、訓令を待たず勝手に帰国して、大隈首相が兼任していた外相のポストを要求したが、星を閣内に入れることに尾崎が強く反対して実現しなかった。尾崎は星の怨みを買い、星は倒閣を策したと言われるが、両派の猟官運動は、最初から激しく、両派争闘の火種となっていた。それが尾崎文相の後任問題で一挙に妥協の余地のない形で噴出し、党の分裂に至った。

旧進歩党系はこの解党決議を無効とし「憲政党」を名乗ったが、板垣内相名で、解党した「憲政党」を名乗ることの禁止通告を受けたので「憲政本党」と改称した。

この日、旧自由党系が憲政党解党を決議すると同時に、内相板垣退助・蔵相松田正久・逓相林有造は辞表を提出した。

辞表は大隈総理経由ではなく、直接宮中に提出された。ここに隈板内閣の性格が象徴的、かつ正確に現れている。この内閣は大隈総理にだけでなく、大隈・板垣二名に組閣が命じられるという変則内閣であった。板垣は自派の閣僚の辞表を取りまとめて直接天皇に提出し、天皇もまた総理を通さないそのその辞表を受け取った。

板垣の上表文に「偶々文部大臣尾崎行雄ノ国体ニ関スル言説、容忍ス可ラサルモノアリ。臣再三之ヲ重信ニ論議スル所アリ。重信断セス。終ニ辰慮ヲ悩マシ奉ルニ至ル」と述べて、共和演説を理由としている。

これに対して大隈総理は、改進党から後任大臣を任命して、あくまで内閣を維持しようとの方針で、直ちに参内して、「板垣らが辞職しても議会に多数を制しうる確信があるから三大臣の辞職はお許しになり、後任の選定は自分に命じられたいと言上したが、天皇は考えおくといわれただけであった」。

陸軍大臣桂太郎もまた、同参内して、天皇に、「願はくは退助の辞意を聴したまふことなかれ、総理大臣伯爵大隈重信、退助を斥くるも尚且議会に多数の賛同を得べLと公言すと雖も、其の実頼むに足らず,恐らくは其の結果容易ならざるものあらん」と奏上し、天皇も「直に其の奏上を善とし、太郎及び海軍大臣侯爵西郷従道に勅して退助を諭して留任せしめたまひ、又侍従職幹事公爵岩倉具定を退助の許に差遣して其の留任を勧告せしめたまふ」た(『明治天皇紀』)。

桂は大隈・板垣の提携を前提とした内閣の存続を望んでいるかに見えるが、実は逆に、内閣総辞職を確実ならしめるための策謀であった

翌30日、天皇は岩倉具定を遣わして、元老の黒田清隆・松方正義に善後の処置を諮問した(元老伊藤博文は清国旅行中、山県有朋は京都に在って留守)。天皇は、板垣留任、板垣免職の両様に分けて、対応策を尋ねた。

天皇は、自身が分析した状況を盛り込み、有り得る選択肢を具体的に列挙し、それぞれの問題点を指摘し、最良と思われる選択は何かと尋ねている。そこに示された状況判断はきわめて的確であった。天皇は、きわめて主体的に判断し、行動する有能な政治家であった。

同じく30日、隈板内閣成立当初から倒閣を期して西郷や桂と策応してその機会を窺い、尾崎の共和演説を機に「百方其の倒壊を策」していたという薩摩閥の黒田清隆が、「書を従道・太郎及び侍従職幹事公爵岩倉具定に致し、内閣の不統一を責め、重信の独り留まらんとするを以て、当初内閣組織の趣旨に背戻するものとし、其の存続の到底許すべからざることを言ひ、其の決心を促」した。それを承けて西郷従道が大隈を訪問して、「事既に此に至る、卿蓋んぞ速かに其の進退を決せざる、卿にして其の職を辞するに於ては、予も亦同じく其の職を辞すべし」と辞職を勧告した。自由党系と連絡のある桂と違って、西郷はそれまで閣僚として大隈に好意的であったから、大隈は、自由党と連絡のある桂は辞職しても、西郷は改造内閣に留まってくれるものと期待していたが、西郷から辞職を迫られ、自分も一緒に辞めると言われて、大隈はついに辞職を決意した。

翌31日、大隈は、自派の農商務・司法・文部各大臣の辞表を取りまとめて総辞職した。

のちに尾崎行雄が桂太郎から直接聞いたところによると、隈板内閣の成立当初、西郷は桂に語って、「この内閣は、ぢきに内輪喧嘩をはじめます。その時自由派はあなた(桂)に、進歩派は私(西郷)に援助を求めるでせうが、お互ひは何方にも荷担しないことにしませう。喧嘩の仲間に入っては不可ませんよ、と、例のやうに咲笑された」という。桂は自由党側について、閣内から倒閣策謀に深く関わったが、大隈内閣に最後のとどめを刺したのは、大隈側につくと期待されていた西郷であった。結果として、桂と西郷のみごとな役割分担であった。

西郷は大隈には一緒に辞めると言ったが、板垣派・大隈派の全閣僚が辞任した後、結局西郷と桂だけが大臣として留まることとなった。軍部の両大臣は憲政党員ではなく、直接天皇の信任を得て任命されたのだから、板垣派・大隈派の総辞職に付き合う必要はないと言う理由からであり、天皇も両大臣の留任を命じた。

10月29日

大隈重信内閣の辞職で、中根重一はまもなく貴族院書記官長を辞職する。後に終身官の行政裁判所評定官という地位を得る。

10月30日

朝鮮、独立協会、朴定陽内閣合意で漢城で万民共同会開催。1万人。主権守護を決議。採択された献議をもとに中枢院官制公布。議官50人中25人を独立協会より選出。

10月30日

鈴木諧子(67)、没。名古屋基督教会。


つづく


スウィフトさんの支持表明に「いいね」900万超、選挙サイト訪問急増(Reuters 2024/09/12) / テイラーさん投稿、若者動かす? 大統領選サイトに34万人(日経) / 「イーロン・マスク氏はX(旧ツイッター)で「テイラー、君の勝ちだ。君に子どもを与えて、君の猫を命をかけて守ろう」と反応。セクハラ発言だと受け止められ、Xでは「 #ElonIsCreepy (イーロンは気持ち悪い)」がトレンド入りした」 / カマラ・ハリスを支持した「独身の猫好き」テイラー・スイフトに対して「孕ませてやる」とツイートしたイーロン・マスクをイーロンの20歳の娘ヴィヴィアンが「凶悪なインセル野郎」と罵倒。Incelとは非モテをこじらせた女性嫌悪者。      



 

万博、ガス対策など最大98億円の追加費用 ペット同伴は見送り決定(朝日) / 万博会場のガス爆発対策に30億円超の追加負担 吉村知事「安全のため必要」(産経) / 万博の会場建設、追加費用52億~62億円計上へ 理事会で決定方針(朝日)

堕落「維新」の不祥事続く、、、今度は会派ぐるみ → 維新また不祥事…千葉市議2人が市民の請願を捏造して議会提出「間に合わせるため」のア然(日刊ゲンダイ) / 千葉市議が請願署名を偽造 17日にも辞職勧告案 「維新・無所属」会派議員へ(千葉日報オンライン) / 千葉市議会 議員2人が名義人の同意得ず請願を作成し提出(NHK) / 維新会派「自作自演だった」と謝罪 千葉市議会、請願の無効を決定(朝日) / 千葉市議会維新会派が請願書偽造か(チバテレ)

 



 

2024年9月13日金曜日

【自民党総裁選2024 ; 衆院選のための事前選挙運動】 大竹まこと 自民総裁選で私見「“裏金議員80人はいりません”と落ちてもいいから言える人はいないのか」(スポニチアネックス) / 裏金再調査、9候補ともに否定的 衆院選見据え国民の負担増を回避(共同) / 岸田から次期総裁への置き土産「憲法改正」は総選挙に向けた「裏金問題」隠しか(ニューズウィーク日本版) ;「政治資金問題は何一つ解決していないにも関わらず、自民党総裁選への出馬ラッシュが始まってから、自民党の支持率は回復傾向にある。メディアで毎日主要候補のアピールが報道されるからだ」 / 「自民党は政策活動費の廃止に消極的でした、ところが高市氏などは急に廃止に変わった、何で国会中に言わないのか?」 / 「アタリ」が入ってなくて全部「ハズレ」のクジみたい 又は、「凶」しか入ってないおみくじ、そのうちの何本かは「大凶」 



 

カナダはイスラエルへの武器販売許可を30件停止し、カナダで製造された弾薬をイスラエル軍に送るという米国政府との契約も取り消した。

大杉栄とその時代年表(252) 1898(明治31)年10月11日~21日 漱石、欠勤延長(鏡子の悪阻が酷いため) 日本美術院開院式 社会主義研究会結成 梁啓超、日本へ亡命 

 

梁啓超

大杉栄とその時代年表(251) 1898(明治31)年10月1日~10日 「仏敵板垣」排撃運動 漱石、五高生徒らの俳句結社「紫溟吟社」主宰者となる(寺田寅彦、渋川玄耳ら) ホトトギス』第2巻第1号 子規『小園の記』 より続く

1898(明治31)年

10月11日

清、栄禄を欽差大臣として北洋四軍統率させ、軍権の集中を図る。2ヶ月後、北洋五軍を武衛軍と改称。列強に備える。

10月12日

漱石、教頭の狩野亨吉に欠勤延長届を提出。妻、鏡子の悪阻が酷いため。悪阻は11月頃まで続き、やがて平静に復する徴候を見せ始める。

10月12日

栃木県知事、鉱毒被害を視察し被害民の案内により堤防を見る(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月14日

大杉栄(13)の妹秋(あき、四女)が生まれる。

10月15日

日本美術院、開院式

岡倉天心が東京美術学校を辞職した際、行動を共にした美術家達(橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月)が結成。7月1日、創設趣旨を発表。

10月16日

この日付け漱石の子規宛て手紙に添えられた漱石の句稿。


病妻の閨に灯ともし暮るゝ秋

病むからに行燈の華の夜を長み

病癒えず蹲る夜の野分かな


10月16日

雲竜寺事務所で「被害民救済願・自治破壊ニ付救済願・堤防増築願ノ件ニ付県知事参考書類ヲ出スコト」を決議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月18日

清、両江総督劉坤一(変法運動鎮圧の保守派)、「沿江・沿海の各省に、団練を実行させたい」と上奏(康有為と同じ発想)。

11月16日、西太后、民を訓練すれば「緩急の際の恃みとなすに足る」と述べる。

10月18日

社会主義研究会結成。キリスト教徒とアメリカ留学経験者を中心とする研究会。村井知至・安部磯雄・片山潜・幸徳秋水(11月20日第2回会合より参加)・河上清。同日「六合雑誌」に連載記事。

明治33年、非社会主義者が退会し「社会主義協会」結成。第2インター第5回大会に村井知至派遣決定。

10月19日

久野村鉱毒事務所で「鉱毒地免租継年期願ノ件」で協議する(室田忠七の鉱毒事件日誌より)。

10月20日

フィリピン、グレゴリオ・アグリパイ神父、フィリピン独立革命軍従軍司教総代理に任命。

10月21日

西太后の軍事クーデター「戊戌政変」で清国を追われた梁啓超、日本へ亡命。広島経由で東京へ到着すると、その晩は北京の日本大使館から付き添ってきた平山周に伴われて、麹町区平河町4丁目の旅館三橋旅館(三橋常吉経営)に宿泊。

翌22日、牛込区早稲田鶴巻町40番地の高橋琢也方へ移り、手紙を書くことに没頭する。

まず、伊藤博文に感謝の意を表するのと同時に、光緒帝を救ってくれるよう嘆願して面会を求めた。だが伊藤から返事はなかった。他の政治家たちにも面会を申し込んだが、誰からも反応はなかった。

ようやく外務大臣大隈重信の代理人志賀重昂と再会できることになり、梁啓超は徹夜で「光緒帝救出作戦計画」を作成して持参した。

10月26、27日、梁啓超は志賀と筆談で懇談した。志賀は梁啓超の熱意に打たれ、同情の念を示した。だが、退職間際の志賀には権限もなく、期待した日本政府の支援には繋がらなかった。日本政府は形ばかりの機会を設けて話を聞いてやり、それでお茶を濁した

日本の新聞で「性急な改革が今般の禍を招いたのだ」との改革派に対する批判記事が掲載されると、梁啓超は品川弥二郎子爵に丁重な手紙を書き送り、日本の世論に対する違和感を切々と訴えた。

手紙の末尾には、

「(梁)啓超は敬愛する(吉田)松陰、東行(高杉晋作)両先生にあやかり、いま名を吉田晋と改めました。現住所は牛込区鶴巻町四十番地です。もしお手紙を賜りますれば願ってもない喜びに存じます」と書いた。

日本に来た中国知識人の多くが日本名を名乗っていたのは、この時代の特徴的な現象である。


梁啓超;

1873年、広東省新会県に生まれる。幼時から神童と呼ばれ、17歳で科挙試験の郷試に合格して「挙人」の称号を得る。18歳で康有為に師事して一番弟子となり、清朝の政治改革運動に従う。

1898年夏、光緒帝(27歳)が康有為の提言を容れ、日本の明治維新に倣って政治改革「戊戌変法」を実施したが、守旧派の既得権益に触れて怒りを買い、西太后の画策した軍事クーデター「戊戌政変」により潰される。光緒帝は幽閉され、改革派は逮捕・処刑されたが、康有為は逃げ延びた。梁啓超も北京の日本大使館へ駆け込み、折から清国訪問中だった伊藤博文に助けられて日本へ亡命した。

天津で戦艦「大島」に匿われ、失意のどん底にいた梁啓超を見るに見かねた艦長が、東海散士『佳人之奇遇』を手渡した。世界7ヶ国の歴史を説いて日本国の危機を訴えたこの政治小説に、梁啓超は夢中になり中国語に翻訳した。

その後、梁啓超は14年間、日本で亡命生活を過ごすが、貪欲な情熱で「日本学」や近代科学を吸収していった。雑誌『清議報』を創刊。東京大同中華学校、横浜大同学校(現在の横浜山手中華学校)、神戸中華同文学校の開校に携わる。


日本への亡命の船中で詠んだ漢詩。


鳴呼 済艱乏才兮 儒冠容容

佞頭不斬兮 侠剣無功

君恩友仇両未報 死於賊手母乃非英雄

割慈忍涙出国門 掉頭不顧吾其東


ああ、艱難を救うには才が乏しく、儒学の冠をかぶる者は易きに追随する。

頭をへつらい斬らず、侠士の剣は効なし。

君子の恩も友の仇もふたつとも報いるをならず。賊の手により死す者はすなわち英雄ならんか。

慈を割き涙を忍んで国門を出る。頭をふるって顧みず、われは東へ行かん。


吁瑳乎

男児三十無奇功 誓把区区七尺還天公

不幸則為僧月照 幸則為南洲翁

不然高山蒲生象山松陰之間占一席

守此松筠渉厳冬 坐待春回 終当有東風


ああ、

男子三十にして功もなし。誓ってつまらぬ私が身を天に還さん。

不幸ならば僧の月照となり、幸いならば西郷南洲となろう。

さもなければ高山(彦九郎)、蒲生(君平)、(佐久間)象山、(吉田)松陰の間に一席を占めよう。

松竹の常緑を守りて厳冬を渡り、座して春の巡るのを待ち、いつの日にか東の風に当らん。


つづく

2024年9月12日木曜日

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