1898(明治31)年
6月
落合直文門下(久保猪之吉、服部躬治、尾上柴舟、金子薫園ら)による「雷(いかづち)会」結成。
6月
6月頃(6月末あるいは7月初とも) 漱石の妻鏡子が自殺を図る。
「事件がおこったのは、六月のある日の早暁である。鏡子は梅雨のために増水していた白川に身を投げ、自殺をはかった。たまたま近所に網打ちに来ていた人々に見つけられたために大事にいたらなかったが、これが新聞種にならずに済んだのは、五高の舎監で菅虎雄の友人の浅井栄熙がもみ消しに奔走したからである。しかし夏目という高等学校の教授の細君が井川淵で身を投げたという噂は、それにもかかわらず町中にひろかった。
・・・・・金之助はこの事件によって、彼の過去に繰り返された「突然喪失される女」の主題が、まさに彼の生のただなかに刻印されていることを知った。発作がおさまって眠りかけた鏡子を見守る金之助が、疲労のためについうとうととしかける。ふと気がついてみると、鏡子の寝床はもぬけのからで、彼女はオフィーリアのように川に浮び、流れて行く。川は白川であるが、彼の存在の深奥を流れる河のように昏く、鏡子はその暗黒の流れの上をすべって行く。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
「六月末か七月初め(日不詳)、早朝、鏡は自宅近く、梅雨期でかなり水量の多い白川の井川淵に投身自殺を企てる。舟に乗って投網の漁に出ていたかざりや(ブリキ職)松本直一に救われる。元第五高等学校の同僚浅井栄熈の奔走で、醜聞の伝播を内輪に留める」
「投身自殺未遂のことについては、鏡の『漱石の思ひ出』には触れていない。その原因は、鏡のヒステリーとだけは云えまい。複雑な原因があったかと想像される。鏡は、井戸に身投げしたとも伝えられている。(熊坂敦子)北山正迪はこう述べている。「流産のあとで、夫人が心理的に異常な状態にあつたといふことは許される想像である。併し実際には『漱石の思ひ出』を通してみても、新婚以来夫人の生活は本当の意味で落着いたものではなく、その夫人の本当には落着けない状態は落着くことを許されてゐない漱石の気持の反映と看るべきものであって、此の乱暴な投身自殺未遂事件の原因を一方的に夫人の側に求めようとするのは、片手落とも、無理な態度とも、言ひ得るように思はれる。」〈北山正迪「『熊本時代』の漱石のこと二、三」『漱石拾遺遺』鎌倉漱石の会報告第一号)」(荒正人、前掲書)
*「落ち着くことを許されていない漱石の気持ち」;
松山や熊本に逃れて来たことへの忸怩たる思い、本来自分がなすべき仕事を放棄しているという自責の念、教師という仕事に甘んじなければならないという葛藤。これらの思いが漱石の中でくすぶり続け、それによって神経衰弱にもなった。
6月2日
河野一郎、誕生。
6月2日
米西戦争(キューバ)。アメリカ軍、給炭船メリマックをサンチャゴ湾の湾口に自沈させてスペイン艦隊の出港を防ぐ閉塞作戦を実行するが失敗。この状況を日本海軍の観戦武官として秋山真之が視察しており、後に日露戦争における旅順港閉塞作戦の参考とされた。
6月5日
津田梅子(33)、横浜港からオリンピア・ロンドン号で出航、デンヴァーで開かれる万国婦人連合大会出席のためアメリカに向かう。3度目の渡米。のちイギリス滞在を経て、32年7月末、横浜港に帰着。
6月7日
自由党・進歩党の交渉委員会、両党合同方針を固める。同日、衆議院の委員会、地租増徴案を否決。
10日、自由党・進歩党、提携して地租増徴案を否決。伊藤首相は、衆議院を解散。
6月9日
清・イギリス間、「香港地域拡張に関する条約」(九竜租借条約)締結。イギリスが99年間の租借権を得る。フランスの広州湾租借がイギリスへの脅威となるため。
6月10日
内村鑑三ら、「東京独立雑誌」創刊。明治33年7月5日第72号で廃刊。
6月11日
(光緒24年4月23日)戊戌の変法(百日維新、~旧8月6日迄の103日間)
光緒帝の詔勅。新法・新制度布告(国是を定める詔」)。「変法自強」を宣言。
明治維新にならい、中央の制度局・地方の民政局の設置、科挙制度改革、京師大学堂設置、中央各省庁整理統合、保守派政治家罷免(李鴻章を総理衛門大臣から罷免)。
改革派(「帝党」、光緒帝)と伝統派(「后党」、西太后)との軋轢。西太后が撒き返し詔勅が反故になる可能性高いとみて、中央・地方官僚は動かず。変法詔勅が実効性を持たぬため、光緒帝と維新派は后党打倒クーデタを計画(栄禄を殺害し兵権を掌握、西太后を幽閉)。
6月12日
フィリピン共和国独立宣言。フィリピン独立運動指導者エミリオ・アギナルド
6月15日
豊国炭鉱ガス爆発。215人死亡。
6月15日
高野房太郎(29)、「労働世界」14号に消費組合のモデル規約を執筆。26日、労働組合期成会月次会で幹事に再選。
6月15日
島崎藤村、詩集「一葉船」。
6月15日
ハワイ併合条約に関する合同決議案(ニューランズ決議)はアメリカ下院を通過。
7月6日、上院通過。
7月7日、マッキンリー大統領がハワイ併合決議案に署名(ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲)。
8月12日、アメリカのハワイ編入宣言。
6月20日
米軍、グアム島占領(米西戦争)。
アメリカ海軍巡洋艦チャールストン及び輸送船3隻の艦隊が、スペイン植民地のグアム島を砲撃。スペイン側司令官は米西戦争開始を知らず、司令官自身がチャールストンに現れて降伏の意思を伝え、スペイン軍兵士54名は捕虜となり、グアムは占領。
6月21日
改正民法公布
6月22日
自由党・進歩党合同、「憲政党」成立。
政府の3つの対処方法:
①非妥協的な強硬策(現内閣に山県・樺山を補強した薩長連合内閣による強硬策)。大浦は「是ノ場合ニ処スルニハ随分政府も腰ヲ据ヱ、ドコ迄モ最強硬ノ方針ヲ以テ例ノ中止迄遣り付ケル覚悟必要卜存じ候」と述べる。「例ノ中止」とは意法停止の意味で、大浦はそうした強硬策を推進するには、「山伊井樺西ノ連合」がもっとも必要と述べる。樺山も、大浦同様強硬策を第一とし、松方に宛てて「内閣ハ解散又々解散之覚悟ニ於テハ、大合同を歯牙ニ掛ルも不及事ニ御座候・・・泰然トシテ奮進之決心有之候上ハ、如何様合同相成候而も長持チハ不容易、犬猿混済物之結合破裂ハ掛鏡恕見」と書く。陸相桂太郎も同意見で、元老総結集による内閣改造を主張し、「然る上は幾回反抗を受くるとも、幾回も解散を行ひ、結局は縦使憲法を中止してなりとも戦後経営は忽略に付し去る能はざるなり」と述べる。
②伊藤の方策(政府側が憲政党に対抗しうる新党を組織し、総選挙を争う)。伊藤は、これ迄に何度か発起しては断念した政党組織に急遽乗り出す。伊藤は、井上蔵相の協力を得て、増租を支持する勢力を糾合して新党を作り、自ら党首となって総選挙で憲政党と対決しょうとする。24日、伊藤はこの案件を御前会議の議題とする。山県および山県系は伊藤の新党組織に反対。山県は、悪党に対抗する政党(山県の云う「勤王党」)の必要は認めるが、これを首相で元老の伊藤が率いることは超然主義の原則を否定するもので、政党内閣の端緒を開くものであると主張。
③総選挙で確実に衆院の大勢を制するであろう憲政党に政権を渡す策。伊藤は「一番下策」としながら、御前会議が新党組織に反対するや辞任を決意し、憲政党の大隈・板垣を後継首班に推す。伊藤に代って、強大な野党に対決すべき後継首班を引き受ける者がいなかったことによるが、この策を考えたのは伊藤だけではなく、井上も、衆院以外に拠点をもたない憲政党内閣は集権化能力に乏しく、結局短命で自壊するであろうと見通す。また、事実、隈板内閣は自壊する。
つづく
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