2012年7月3日火曜日

川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(26) 「十九 立ちあがる大東京 - 震災後の復興」(その2)

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-05
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川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(26)
 「十九 立ちあがる大東京 - 震災後の復興」(その2)

大正13年9月15日
洲崎遊廓を歩き、あたりの様子が変っていることに気づく。
「遊廓の左右以前は海なりしところ、今は埋立地に工場建ち、煤烟雲の如し」

大正15年5月25
「深川冬木町の名称廃せられさんかく龜住町に合せらるゝ由。冬木町の住民之を悲しみ、旧名保存の願を其筋に提出し、又同町の故事を調査し、冬木沿革史を印行し、予の許にも一部贈来れり」
「地震後各区にわたり町名の改称せられし処鮮なら(ママ)ず。小石川御掃除町は既に八千代町となりぬ」

「震災後」の東京では掘割が次々に埋められている。掘割が、震災の残土(のちに地下鉄工事の残土も加わる)の捨て場所にされたのがひとつの理由である。
荷風は、下町の堀割が「復興」のために埋め立てられていくのを悲しんでいる。

昭和3年3月9日
「(酒肆太牙の)新富町邊に家を持ち通勤する女給仕入のはなしに、新富町と入船町との間を流れゐたりし溝渠区画整理にてこの程埋められ、其のあたりには既に貸家立ち並びたりと云」
「市中の掘割追々に埋めらるゝは惜しむべし」

ただ感傷にひたっているだけではない。
のち昭和10年2月27日
「近年埋立てられし市中の溝渠」として、具体的に、埋め立てられた堀割の名前を30余も列挙している。しかもその目くぼりの範印が、京橋区、日本橋区、浅草区、本郷区、牛込区、四谷新宿辺、小石川区、芝区、麻布区、赤坂区、本所区と旧市部の全域に及び、さらに新市部の砂町まで加えている。

「荷風が、よくある〝昔はよかった″の過去追慕者と一線を画しているのは、こうしたディテイルの確かさによる。安っぽい感傷よりも、つねに事実を突きつける。その点で荷風は終始、醒めている。」(川本)

昭和2年4月4
中洲病院に行った折り、震災復興橋梁のひとつ、清洲橋が中洲から深川に向かって建設されているのを見る。「中洲河岸より深川清住町に渡るべき鉄橋の工事半成れるを見る」。


昭和2年7月9日
向島の弘福寺に鴎外の墓を掃ったあと、隅田川に架橋中の言問橋と、完成したばかりの駒形橋を目にとめている。「花川戸より三圍に渡る橋は末成らず、駒形には粗末なる鉄の釣橋出来上りたり」
清洲橋は、大正14年3月工事開始、昭和3年3月完成。
清洲橋の名は、日本橋区中洲町と深川区清住町を結んでいるためにつけられた。

昭和3年4月25日
荷風は、完成したばかりの清洲橋を見たことを記している。「是日中洲河岸より深川にわたる新城橋既に工事落成せるを見たり」

昭和3年6月4日、中洲病院の帰り、関根歌と、新大橋から汽船で隅田川をさかのぼり、沿岸風景の変化に驚く。
「午後お歌来りしかば相携へて中洲病院に往く、注射して後漫歩新大橋に出るに、雨後の河水滔々として流行くさま山の手に住む我等には物珍しく見えたり、お歌舟に乗りたしと勤めしかば、汽船に乗りて河を遡り行くに、横網邊の岸より浅草蔵前へかけて新しき鉄橋架せられたり、吾妻橋より又別の汽船に乗り言問に至りて岸に登る、向嶋の土手七八間程の道幅となり、三圍稲荷土手下の水田は平地となり牛の御前の社殿は他所へ移されて其跡もなし、墨堤旧時の光景今は全く痕跡を留めざるに至れり、三圍の新橋を渡れば直に山の宿の電車通に出づ」

「横網邊の岸より浅草蔵前へかけて新しさ鉄橋架せられたり」は、蔵前橋(完成は昭和2年11月)、「三圍の新橋」は、言問橋(完成は昭和3年2月)。

「荷風は、隅田川に次々と架けられていく「震災復興橋梁」をひとつひとつ自分の目で確かめている。」(川本)

隅田川周辺の堀割に新しく架けられた橋にも目をとめる。
昭和9年6月14日
中洲病院の帰りに、附近を歩く。
「箱崎町を過ぎ豊海橋を渡り越前掘河岸通を歩む。新川の川口に小祠あり。渡海神社といふ額をかけたり。如何なる神なるや知らず。河岸を歩み湊町を過ぎ南高橋といふ橋の上に立ちて大島行の汽船の波止場を離るゝさまを見る」
日本橋川に架かる豊海橋の完成は昭和2年9月、亀島川に架かる南高橋の完成は昭和7年3月。
6月26日、「歌舞伎座前より乗合自働車に乗り鉄炮稲荷の前にて車より降り、南高橋をわたり越前堀倉庫の前なる物揚波止場に至り石に腰かけて明月を観る」

「〝明治の児″荷風の周囲でいやおうなく、「復興」がすすんでいる。荷風は、その新しい東京を単純に否定はしていない。むしろ、わざわざ日記に記すところに、新風景への興味を感じさせる。」


荷風は、工事中の町の姿を丹念に日記に記す。
昭和2年5月18日
「午後中洲病院を訪ふ、病院新築既に竣成す、五階つくりにてヱレベターにて昇降す、廊下廣く屋根の上に花壇を設く、萬事ホテルの如き体裁なり」

上野公園も新しくなっている。
昭和3年10月17日
「(友人と共に)上野公園を歩む、工事の最中なり、樹木は伐倒され崖は切崩され道路は掘返され惨澹たる光景戦場の如し、東京市にては上野公園を改作して洋式の遊園地となす計画なりと云ふ」
偏奇館のすぐ近く、霊南坂のアメリカ大使館も、震災で焼け、新しく建て直された(昭和7年3月8日)。

両国橋では橋の掛替工事が行なわれている(昭和7年5月23日)。
新橋の際では、銀座パレスというカフェーが建築工事中(昭和7年9月20日)。
清洲橋を渡って久しぶりに深川に行ってみると、人家が立て続いて町の様子が(またしても)「一変したり」(昭和7年3月14日)
郊外の中野町馬橋に行くと、20年前に来たときは茅茸屋根の農家が残っていたのに、いまはアスファルトを敷いた道路に車が走り、市中と変らなくなっている(昭和6年9月30日)。
江東の大島町あたりを歩いてみると、震災前は、工事の煤煙やドブの臭気がひどかったのに、いつのまにか工場は清潔になり、道路もセメント敷になっている(昭和6年11月20日)。

「東京のあちこちで工事が行なわれている。橋が出来、新しい建物が建つ。銀座では地下鉄の工事が行なわれている。「復興」の活力と喧騒が無秩序にまざり合っている。荷風はあわただしく変貌する東京に困惑しながらも同時に、新しい都市風景をきちんと見とどけようとしている。」(川本)

荷風はさらに震災のあと、東京の新しい盛り場として急速に発展している新宿にまで、足を延ばす。
昭和4年に大ヒットした「東京行進曲」に、「シネマ見ましょかお茶のみましょか いっそ小田急で逃げましょか 変る新宿 あの武蔵野の月もデパートの屋根に出る」と歌われた、東京の西の、新興の盛り場新宿に興味を示す。


昭和6年1月13日
「(午後、友人たちと)新宿追分の烏料理かもめに飲む、女中の美なること藝者の如く酒肴亦場末に似ず味ふに足る、新宿邊の繁華實に驚くべし」

三越デパートが大震災後の人口の郊外への移動を読み取って新宿に進出したのは、大正12年10月震災直後のこと。当初は木造バラックでの営業、その後、改築、昭和5年には、地上八階、地下三階の大型ビルを建てた。三越の急成長が新宿の発展を象徴している。

「荷風は、昭和六年に、新宿と浅草というモダン都市の盛り場をともに視野におさめたことになる。そしてどちらの場合も、決して、忌み嫌ってはいない。新宿を見ては「繁華實に驚くべし」と書き、浅草を見ては「市街の光景全く一変したり」と驚く。〝明治の児″荷風は同時に、新しい都市風景に目を見張っているモダン都市の遊歩者である。」(川本)


昭和7年10月3日
復興なった東京は市制改革を行ない、5郡隣接82町村を合併、20区を加え25区の大東京市が生まれた。人口は倍増し497万人、ニューヨークに次いで世界第2位の都市になった
この日、銀座で食事をした荷風は、夕刊でそのことを知った。
「夜銀座に飯す。夕刊の新聞紙を見るに府下の町村東京市へ合併の記事および満洲外交問題の記事紙面をうづむ」
大東京市が成立した年は、前年の満州事変勃発によって大陸に緊張が高まりつつある年でもあった。
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(註)
1
この乗合汽船は明治初期の創業のころ1区間1銭の運賃だったため「一銭蒸汽」と呼ばれ親しまれた。のちに運賃が3銭、5銭と値上りしてもこの愛称は変らなかった。吾妻橋を起点として二つの船会社が営業。
上流は吾妻橋から白鬚橋を経て千住大橋までを千住汽船会社が、下流は吾妻橋から永代橋までを隅田汽船会社が船を走らせた。荷風は浅草に出るときによくこの船に乗っている。
昭和3年6月4日、「吾妻橋より又別の汽船に乗り」とあるのは、隅田汽船から千住汽船に吾妻橋で船を乗り替えたことを示す。

2
『東武鉄道六十五年史』(東武鉄道、昭和39年)によれば、浅草駅は昭和6年5月25日、現在の業平橋駅から1.2キロ、隅田川を渡って浅草花川戸まで高架橋延長とともに同所に新築した東武ビルディング内に新設されたもので、開設当初は「浅草雷門駅」と称したが、昭和20年10月1日に「浅草駅」と改称された。
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