2012年10月11日木曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(43) 「第3章 ショック状態に投げ込まれた国々 - 流血の反革命」(その1)

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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(43)
第二部 最初の実験 - 産みの苦しみ

ミルトン・フリードマンの理論は彼にノーベル賞をもたらし、チリにピノチェト将軍をもたらした。   -  エドゥアルド・ガレアーノ (『火の記憶』一九八三年〉

自分が「悪者」だとみなされたことなど今まで一度もないと思う。
- ミルトン・フリードマン、二〇〇六年七月二二日付 『ウォールストリート・ジャーナル』紙

第3章 ショック状態に投げ込まれた国々
- 流血の反革命 -(その1)

加害行為は一気にやるべきである。そうすれば相手にそれほど苦しい思いをさせることもなく、その分、相手の恨みを買わずにすむ。
- ニコロ・マキアヴェッリ(『君主論』一五一三年〉

このショック・アプローチが採用される場合には、きわめて短期問に効果が生じるよう、ごく詳細に至るまで内容を公表すべきであると考えます。一般大衆に十分情報が与えられれば与えられるほど、変化への適応が早くなるからです。
- ミルトン・フリードマン、アウグスト・ピノチェト将軍に宛てた一九七五年四月一二日付の書簡

戦う側が一方しかいない「戦争」
アウグスト・ピノチェト将軍とその支持者は、一九七三年九月一一日の事件を一貫してクーデターではなく、”戦争”と呼んでいる。
サンティアゴ市内はまさに交戦地帯の様相を呈していた。
戦車が大通りを走りながら発砲し、戦闘機が政府機関の建物に空爆を加える。
だがこの戦争には奇異な点があった。
戦う側が一方しかいないのだ。

フェアとはほど遠い戦い
最初からピノチェトは陸海軍と海兵隊、そして警察軍を完全に掌掘していた。
一方のサルバドール・アジェンデ大統領は支持者を武装防衛隊へと組織することを拒んだため、彼の側には軍隊はいっさい存在しなかった。
唯一の反対勢力は、大統領政庁「ラ・モネーダ」とその周りの建物の屋上で民主主義の府を守るために勇猛果敢に抵抗した大統領と政権中枢の人々だけだった。
フェアとはほど遠い戦いだった。
官邸内にはアジェンデの支持者がわずか三六人しかいなかったのにもかかわらず、二四発ものロケット弾が撃ち込まれた。

自惚れが強く激しやすい作戦司令官ピノチェトは(彼の乗っていた戦車さながらのごつい体つきをしていた)、明らかにこの事件をできるだけドラマチックで衝撃的なものにしようと目論んでいた
 - クーデターは戦争とは違うものの、それを戦争同然のものにしよう、と。
まさにチリにおける「衝撃と恐怖」作戦の先駆けである。
その衝撃の度合いは想像を絶していた。隣国アルゼンチンがそれまでの四〇年間に六つの軍事政権によって支配されてきたのに対し、チリはこの種の暴力を経験したことがなかった。
それまで約一六〇年間、とりわけ過去四一年間は平和な民主主義政権による支配が途切れなく続いてきたのだ。

大統領政庁が炎上するなか、布に覆われたアジェンデの遺体が担架で運び出され、大統領にもっとも近かった人々は路上でうつ伏せにさせられ、ライフル銃を突きつけられていた。
官邸から車で数分のところにある国防省の建物では、最近ワシントンから帰国して国防相に就任したオルランド・レテリエルが、出勤してきたところを玄関で待ち伏せていた戦闘服姿の兵士一二人に取り囲まれ、短機関銃の銃口を向けられた。

クーデターに至るまで何年もの年月にわたり、アメリカから送り込まれた指導員(CIA要員もかなりいた)がチリの軍隊に徹底した反共教育を施し、社会主義者とは事実上ソ連のスパイであり、彼らはチリ社会には馴染まない「内なる敵」だという意識を叩き込んだ。だがチリ社会にとって真の意味で内なる敵となったのは、本来守るべきはずの一般大衆に対して銃を向けることも辞さない軍だった。

チリ・スタジアムとナショナル・スタジアムでの虐殺
アジェンデが死亡し、閣僚たちが捕らえられ、表立った大衆の抵抗行動も見られなかったことから、軍事政権の戦闘はその日の午後には終了した。
レテリエルをはじめとする「VIP」の捕虜は、シベリアの強制収容所のピノチェト版とも言うべき、チリ最南端のマゼラン海峡に浮かぶドーソン島へ送られた。
だがチリの新たな軍事政権にとって、アジェンデ政権中枢部を殺害・拘束しただけでは、まだ十分ではなかった。
軍の幹部は自分たちが権力の座にとどまれるかどうかは、チリ国民がインドネシア国民のように真に恐怖の状態にあるかどうかにかかっていることを知っていた。
機密解除されたCIAの報告書によれば、クーデターの直後、およそ一万三五〇〇人の市民が逮捕され、トラックで連行きれ拘束された。
うち数千人はサンティアゴの二つのサッカースタジアム、チリ・スタジアムと巨大なナショナル・スタジアムに連れて行かれ、ナショナル・スタジアムではサッカーの代わりに見せしめの虐殺が行なわれた。
兵士たちは頭巾をかぶった協力者を伴って観客席を回り、協力者が「破壊分子」だと指差した者をロッカールームやガラス張りの特別観覧席に連行し、拷問した。
何百人もが処刑され、やがて多くの遺体が幹線道路脇に放り出され、市内の水路の濁った水に浮かんだ。

「死のキャラバン」
恐怖を首都の外にも波及させるため、ピノチェトは冷酷無比な部下セルヒオ・アレジヤノ・スタルク将軍に命じて、「破壊分子」が拘束されているチリ北部の一連の収容所をヘリコプターで次々に巡回させた。
スタルク率いる殺戮部隊は、拘束者のなかから名の知られた者を、多いときには二六人も選び出しては処刑した。
この流血の四日間はのちに「死のキャラバン」と呼ばれ、ほどなくチリ全土に「抵抗は死を意味する」というメッセージが広まった。

ピノチェトの戦いは一方的であったにもかかわらず、その効果はどんな内戦や対外侵略にも劣らないほどすさまじかった。
行方不明または処刑された人は三二〇〇人以上に上り、少なくとも八万人が拘束され、二〇万人が政治的理由で国外に逃れた。
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