2012年10月11日木曜日

1758年(宝暦8)9月~12月 美濃八幡城主金森頼錦は領地没収・お家断絶、「領民ヲシテ暴歛苛法ニ苦シメ、騒擾セシムルヲ以テ封除セラレ」 【モーツアルト2歳】

東京 北の丸公園
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1758年(宝暦8)
9月3日
・ポルトガル国王とポンバル侯暗殺計画、露見。
ポンバル侯、これを口実に大貴族1千以上逮捕、弾圧。
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9月14日
・郡上一揆に関連して、遠江国相良藩1万石本多忠央(ただなか)が不正の計らいをしたとして、西丸若年寄を罷免され領地を没収された。
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9月14日
北米、フレンチ・インディアン戦争。デュケーヌ砦の戦い。
イギリス軍指揮官ジョン・フォーブズ指揮の兵6千とジョージ・ワシントンを含むバージニア民兵2千による攻撃(フォーブズは病気のため、進軍指揮は副指揮官アンリ・ブーケが行なう)
9月11日、イギリス軍少佐ジェームズ・グラントは、兵800人以上を連れて、デュケーヌ砦周辺を偵察に出て、翌13日、砦の近くに到着。偵察隊を派遣するが、砦の中に敵は見当たらず、倉庫を焼いて戻って来た。
翌朝、マクドナルド大尉の中隊が砦に近づくと、砦から出てきたフランス兵と先住民兵は、予想を上回る規模で敏捷に動いた。
まず、マクドナルドの囮の軍が圧倒され、次にフランス軍は、待ち伏せしていたアンドリュー・ルイスのバージニア民兵隊に襲いかかった。
ルイス隊は不利を知り退散。
先住民たちは得意の森林でのゲリラ戦を展開した。
森の中の一方的な戦いで、イギリスとニューイングランド植民地の軍は342人の死傷者を出し、232人が捕えられた。
バージニア分遣隊の士官8人のうち5人が戦死、1人が負傷し、ルイス自身は捕虜となった。グラントも捕虜となった。
フランスと先住民の連合軍の被害は、8人戦死、8人負傷のみ。

しかし、フランスは、最初のイギリスの攻撃こそ撃退したが、600人程度の軍では、その10倍ものイギリス軍相手にはデュケーヌ砦を守れないことを知った。
フランス軍は11月24日まではデュケーヌに留まったが、その夜、砦に火をつけ、暗闇にまぎれて去り、オハイオ川にまで退いた。
その夜、フォーブズ率いるイギリス軍は、砦の近くから煙が上がっているとの情報を得て、翌25日砦に到着。
イギリス軍は、デュケーヌ砦を再建し、その名前をウィリアム・ピットにちなんでピット砦とした。
その後、この砦の周辺の町はピッツバーグと呼ばれるようになった。
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9月25日
・モーツアルト従姉妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルト(ベースレ)、誕生
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9月29日
・英、ネルソン提督、ノーフォーク、バーナムソープに誕生。
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10月14日
・この日にザクセンで行われたホッホキルヒの戦いでは、プロイセン軍は、ダウン指揮下のオーストリア軍に払暁攻撃を受け、歩兵の3分の1と砲兵の大部分を失う打撃を受ける。
訓練された兵士の損失は大王の戦術展開を困難にした。
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10月29日
郡上一揆関連、役人への判決
老中本多正珍をはじめ、若年寄・勘定奉行・笠松代官(青木次郎九郎)免職、他に幕府役人も多数処罰。
笠松代官の青木次郎九郎には役職権限外の口出しを理由に免職。
藩主金森頼錦は領地没収・お家断絶。
金森藩重役も重罰(渡辺外記;島流し、粥川仁兵衛;島流し、根尾甚左衛門;死罪、片重半助;死罪)。
百姓一揆が原因で老中など幕閣や藩主が免職や改易になったのは江戸時代でこの事件だけ。
12月25日、農民側判決。死罪14。既に詮議びより獄死21。他に手鎖・遠島・重追放10。

美濃八幡城主金森頼錦は、「領民ヲシテ暴歛苛法ニ苦シメ、騒擾セシムルヲ以テ封除セラレ」(「徳川除封録」)とある。

この月、岩村藩藩主松平乗薀が郡上八幡城を預かり、12月、丹後国宮津藩青山幸道4万8千石が入る。
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11月
・「五海(街)道」に関する記述。
道中奉行所御勘定谷金十郎が尋ねられて、江戸伝馬役馬込勘解由に回答。

「一、五海道と申す儀、何れの海道を申し候哉と御尋ね、道中奉行所にては、 五ケ宿と申す儀度々承り候得共、何れの海道を以て五ケ宿と申し候哉、存 じ奉らず候、東海道・中山道・日光海道・北陸道、右を海道の様に覚へ居 り申し候得共、此の儀も五海道の内に御座候哉、聢と申上られず候、尚又 壱ケ所の儀何れを申し候哉、存じ奉らず候旨申上げ候。・・・ 一、右五海道の訳、同月十七日道中方御勘定谷金十郎殿え承合ひ候処、左の通り御支配共相知り候に付、同月十九日書付右御番所え持参差上げ候得ば、 上げ置き候様仰渡され候事。 
一、東海道 品川より守口迄 美濃路 名護屋より大垣迄 佐屋廻り 岩塚より守山迄 
一、中山道 板橋より守山迄 
一、日光道中 千住より鉢石迄 壬生通り 板橋より岩淵迄 水戸佐倉道 新宿より松戸迄 
一、奥州道中 白沢より白川迄 
一、甲州道中 上高井戸より上諏訪迄 右五口五海道と申し、道中御奉行御支配に御座候、以上。 
寅十一月 大伝馬町 馬込勘解由」(「御伝馬方旧記」)。
5街道の起点である江戸日本橋の伝馬所の記録。

5街道の呼称:
正徳6年(1716)、中山道は東山道の内の中筋の道であるので「中山道」というべきで、中仙道は適切でないとする。
また奥州海道、日光海道、甲州海道は、海のない国を通るのに適した呼称でないので、「日光道中」「奥州道中」「甲州道中」とすべき、とする。

「東海道五十七次」:
東海道の宿場は、江戸~京都間53次で、京都~大坂間にも4ヶ所の宿場が設けられている。
この年の「御伝馬方旧記」には「東海道 品川より守口迄」とされている。
また、天保14年(1843)、幕府が東海道の各宿場の人家数などを調査した「東海道宿村大概帳」には、品川~大津53宿と伏見、淀(京都)、枚方、守口(大阪)の4宿が記載されている。
従って、東海道は江戸日本橋~大坂高麗橋間をいうことは間違いはない。

では「東海道五十三次」とは? 
これは、一般に、江戸~京都間を旅する人が多く、京都~大阪間については、大阪へは伏見から船で淀川を下り、京都~大坂間の4宿は上り中心の片宿となり、他の53宿と比べ利用する人々は少なかったようだ
。江戸後期、広重の「東海道五十三次」がベストセラーになるなど、東海道は公的には57次の機能を持ちながら、一般には53次として定着していったと推測される。

日光道中と奥州道中は、古くから奥州街道と云うが、日光に東照宮があるところから区別している。①日光道中は、千住~鉢石(日光の手前)の21宿、②奥州道中は、白沢(日光道中宇都宮宿の先き)~白河宿の10宿。
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12月
・美濃郡上藩藩主金森頼錦(よりかね、3万8千石)、改易。
宝暦期の幕政は享保改革の政策基調を継続するもので、藩(大名権力)を厳しく統制する方向にあった。
延享2年(1745)、享保改革末期の幕政を主導した老中松平乗邑(のりさと、佐倉藩主)は、幕閣での専横ぶりを批判され、吉宗の隠退と同時に1万石を減らされ老中を罷免された。
宝暦元年(1751)、上総国勝浦藩1万石の植村恒朝が、親族殺害事件について幕府に虚偽の報告をしたとして所領を没収された。
宝暦5年(1755)、美濃国加納藩6万5千石の安藤信尹(のぶただ)が、家中不取締りを理由に1万5千石を減らされ籠居させられた。
また、郡上一揆に関連して、同年(宝暦8年)9月14日、遠江国相良藩1万石の本多忠央(ただなか)が不正の計らいをしたとして、西丸若年寄を罷免され領地を没収された。
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12月25日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。英フォーブズ准将、デュケーヌ砦占領。
ジョージ・ワシントンは3旅団の1つを率いる。フォート・デュケーヌは英宰相にちなんで「ピッツバーグ」と改名。
ワシントンはイングランドに属する者として戦い、帝国での出世を願うが、植民地軍将校は無価値と悟る。新進将校として勇名を馳せ、マーサ・ダンドリッジ・カスティスという若い裕福な未亡人と結婚。実兄夫妻が相次いで没し大土地所有者となる。
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