東京 北の丸公園
*1757年(宝暦7)
12月2日
・郡上一揆。気良村(明宝村)の甚助、逮捕。
順当な裁判もなく同月18日夜、穀見の刑場で打ち首。甚助は「一郡に優れたる頓知発明、智仁勇の三徳兼備の人」といわれた。これが、のちに藩の処置不都合ということで金森家断絶の要因の一つになったといわれる。
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12月5日
・7年戦争、ロイテンの戦い。
フリードリッヒ大王プロシア軍3万5千、コリンの戦いの余勢をかって200km以上を移動、シュレジエン占領のオーストリア軍7万を破る。
斜隊(斜行)戦術の成果。敵の側面に集中攻撃。
ナポレオンは、これを「模範的な動員と決断」と讃え、更に改良して縦隊戦術(一点突破作戦)を完成させる。
ロスバッハの戦いにおいて西方からの脅威を減じさせたプロイセン軍は、オーストリア軍を撃破するため間髪いれずシュレージエンに移動した。
その頃、シュレージエンでは、ダウンの後見の下に皇弟カール公子率いるオーストリア軍が、ブレスラウの戦いに勝利してシュレージエン防衛を任されていたブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公アウグスト・ヴィルヘルム(王妃エリーザベト・クリスティーネの従兄弟)を捕虜とし、ブレスラウを制圧した。
そのすぐ後にブレスラウ近郊に到着した大王軍は、ベーヴェルン軍の残存部隊を収容の後、オーストリア軍に決戦を求めた。
ダウンは、丘の上に陣取って相手の攻撃を待つことを主張した。しかし倍近い兵力を有しながら受け身に回ることをカールは拒否し、大王に応じて決戦のためブレスラウ西方ロイテンに進出した。ブレスラウに向かう街道が東西に走っており、オーストリア軍はこれを分断するように南北方向に細長く布陣。
プロイセン軍もこれに合わせるように西から戦場に進入したが、これは陽動であった。大王はここで有名な斜行戦術を行使した。
プロイセン軍は、オーストリア軍の展開した歩兵の横隊に正面から攻撃すると見せかけながら、実はオーストリア軍左翼側面、すなわち南側に回り込もうとしていた。
まずプロイセン騎兵隊がオーストリア軍左翼騎兵隊を後退させ、さらに後方に回り込んだ。次いで、見事に斜行を成功させた歩兵隊がオーストリア軍側面に一斉射撃を繰り返しながら前進し、さらには銃剣突撃を敢行した。
ダウンは急いで自軍の戦列を回転させて南に正面を向けようとしたが、事前に訓練を受けていないオーストリア兵にそのようなことをさせるのは無理があった。今や後方となった右翼の騎兵隊を南西に動かしてプロイセン左翼側面の攻撃を図ったが、これもプロイセン左翼部隊によって阻止された。
かつての戦列中央部分までがプロイセン軍に崩されるに及んで、オーストリア軍は敗走した。
オーストリア軍はブレスラウに退いた後、メーレンに退却し、プロイセン軍は北のロシア軍を気にしつつ、メーレンに進出してさらなる打撃をオーストリア軍に与えようとした。
しかし、カールが退任して正式に指揮官となったダウンは、徹底的に決戦を忌避して大王に付け入る隙を与えなかった。そのうちにロシア軍がポンメルン深く侵入してきたため、大王は北転してこれの撃破に向かった。
このロスバッハの戦いから合わせた一連の機動は、後の軍人たちに高く評価されている。
ナポレオンはこれを「模範的な動員と決断」と讃えた。
プロイセンの同盟国のイギリスは、ウィリアム・ピット(大ピット)が国務大臣として戦争を指揮すると北アメリカ大陸などのフランスの植民地の攻撃に専念してプロイセンの為に援軍や艦隊を送ることはしなかった。
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12月16日
・福井藩巣鴨屋敷奉行柳下瀬兵衛の倅条右衛門(徒士勤め)、座頭からうけた融資の返済ができず、期日直前に逐電。
定府武士の窮乏。
江戸住居藩士は、借知率は軽減されるが、給禄支給がしばしば遅延。
29日、藩主の秘蔵箱から内証金1千両を放出し、藩士の越年資金に充当。
半知以後藩士の給禄は削減され、加えて元禄7年から借知が再開(この年の借知は、京都の両替善五郎への調達金返済に充当する為)。
藩財政不足を補填する方法として給禄の借り上げは恒常化される(154年間で借知のない年は僅か3年)。
また、借知の極めて重い率の「半減」(給禄50%借り上げ)は、宝暦11年が最初で延べ32年もある。寛政5年には「半減」借知が7年間続く。
借知率の最多は8歩(給禄8%が借知)で、正徳元年以降で延べ53年もある。但し、「半減」・8歩も、その年の最高の借知率で、給禄に応じて率は逓減する。
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12月26日
・江戸浅草黒船町より出火。
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