東京 北の丸公園
*1758年(宝暦8)
9月
・北米、フレンチ・インディアン戦争。セントローレンス湾方面作戦。
イギリス軍による、現在のニューブランズウィック、セントローレンス湾沿岸のガスペ半島にある、アカディア人集落への奇襲作戦。指揮官は、海軍サー・チャールズ・ハーディと陸軍ジェームズ・ウルフ准将。
1758年のルイブールの戦いの後、両指揮官は、9隻の軍艦に分乗した1500人の部隊を率いてガスペ湾に向かい、9月5日に上陸。
そこから9月12日にミラミチ湾、9月13日にケベック州グランド=リビエールとパボス、9月14日にケベック州モンルイにそれぞれ分遣隊を送り込んだ。
その後何週間かで、ハーディは4隻のスループ艦またはスクーナーを率いて、約200の漁船を壊し、200人ばかりを捕虜にした。
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・ルソー 「新エロイーズ」完成。
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9月2日
・郡上一揆に関連して老中の本多正珍(まさよし)が罷免
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9月3日
・田沼意次、加増(1万石となる)されて大名となり、評定所へ出ることを許される。
いよいよ幕政に参画。田沼時代始まる。
■田沼意次:
享保4年(1719)、旗本の田沼意行の長男として江戸に誕生。
父意行は、もと紀州藩士で、藩主吉宗が8代将軍に就任した際に、これに従い旗本となった。意行は600石を与えられ、小納戸頭取(将軍の私的財政の責任者)を勤め、享保20年(1735)48歳で病没。
意次は、翌年に家督を継ぎ、1737年(元文2)に従五位下主殿頭(とのものかみ)に任ぜられた。
15歳の時、吉宗の長男家重の小姓となり、1745年(延享2)に家重が9代将軍に就任するさい、これに従って西丸から本丸に移り、1747年に小姓組番頭格、1748年(寛延元)には小姓組番頭となり、奥の任務も兼ねるとともに1,400石を加増された。
宝暦元(1751年)には御側申次(おそばもうしつぎ)となり3,000石を加増され、1758年9月には遠江国榛原郡のうちに5,000石を加増され、旧領を改めて遠江、相模、下総内で1万石を与えられて大名となった。この時、評定所列座を特別に許される。
宝暦10年(1760)9月、家重に代わり家治が10代将軍に就任したが、家治もまた意次を重用した。
意次は、明和4(1767)に側用人となり従四位下に叙されるとともに、遠江国相良藩(静岡県榛原郡相良町)2万石の城主となった。
明和6年(1769)に5千石の加増をうけて老中に準じる老中格となり、安永元年(1772)には5千石の加増をうけて3万石となり老中に就任(54歳)した。
1783年(天明3)には長男の意知(おきとも)が若年寄に就任し、父子で老中(側用人)と若年寄を占め、権勢並ぶものがない状態になった。
意次は、その後さらに加増を重ね、1785年(天明5)には5万7千石となった。
600石の旗本・小姓から5万7千石の大名・老中へと異例の出世。
意次が政治を主導した時代、すなわち田沼時代とは、田沼が評定所一座に加わった1758年(宝暦8)から、1786年(天明6)に老中を失脚するまでの28年間をいう。
意次が最も煙たがった老中首座松平右近将監武元でさえ、館林藩6万石の領主だった。武元は、吉宗時代から32年間老中の地位を保持し、御三家の一つ水戸中納言頼房の曾孫、松平頼明の三番目の男子で、養家先を継いで館林藩主となったもの。しかし、その武元でさえ在職32年間の加増は7千石。
意次が、2万石からでも、2、3年おきに5千石の加増をうけていったのは、異例のこと。
■田沼台頭の条件
①紀州派家臣団による将軍側近官僚組織、②1758年(宝暦8)の評定所出座、③閨閥の形成
①吉宗が将軍に就任した際に、200名余の紀州藩士が幕臣となり将軍側近に配置されたが、田沼は紀州派2世の一員として、この中から成長した。
田沼は実権を握ると、同じく紀州派2世のなかから石谷(いしがや)清昌と安藤惟要(これとし)を勘定奉行に、古坂道経と佐々木孟雅(たけまさ)を勘定吟味役に抜擢した。
石谷は、父清全(きよのり)が幕臣となり、桑原から石谷に改姓した家の人物である。小納戸、小姓、寄合、西の丸小十人頭(こじゆうにんがしら)をへて、1753年(宝暦3)に西の丸目付、1756年に佐渡奉行を勤め、1759年10月から1779年(安永8)4月まで勝手方勘定奉行に在職した。この間1762年6月から1770年(明和7)6月まで8年間長崎奉行を兼任している。
安藤も元紀州藩士の家で、1761年9月から1782年(天明2)まで公事方勘定奉行に在職した。
石谷・安藤の両名は、田沼時代28年のうち20年をこえる長期にわたって勘定奉行の職にあり、経済政策を主導した。
田沼政治は、吉宗が整備した官僚政治の延長上に展開した。
②評定所出座は、通常の評定所構成員が、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行であったことを考えると、御側申次の出座は異例のことであった。
以後田沼は、政策の立案・審議に正式に参画することになった。
当時、田沼の席次は、三奉行のうちで最も高い寺社奉行の次であったが、1767年(明和4)に側用人に昇進して寺社奉行を上回り、評定所を主導する立場となった。
③閨閥の形成
まず長男意知の妻に老中首座となる松平周防守康福(やすよし、石見国浜田藩6万石)の娘を迎えたが、慶福は田沼時代の全時期を通じて、老中として田沼政権を支えた人物である。
四男忠徳(ただのり)は水野出羽守忠友(駿河国沼津藩3万石、側用人から老中)の養子となった。
六男雄貞(かつさだ)は伊勢国菰野藩主土方雄年(ひじかたかつなが)の養子となり、七男隆祺(たかよし)は丹波国綾部藩主九鬼隆貞の養子となっている。
三女は西尾忠移(ただゆき、遠江国横須賀藩2万5千石、のち奏者番)に嫁いでいる。忠移の養子には、老中の牧野備後守貞長(常陸国笠間藩8万石)の四男忠善が入り、忠移の娘(田沼の孫娘)の婿になっている。
四女は越後国与板藩主井伊直朗(ながあきら、のち西丸若年寄、大老の彦根漕井伊掃部直幸(なおひで)の分家)に嫁いでいる。
さらに意次の妻が御三脚一橋家の家老伊丹直賢(なおかた)の娘であったことから、弟意誠(よしのぶ)を一橋家の家臣とし、のち同家の家老としている。
また一橋家から11代将軍になった家斉の生母お富の方は、意次の推挙で一橋家に入ったといわれる。このように田沼は閣閥を形成することによって、幕閣での勢力を伸ばした。
■辻善之助『田沼時代』
「そもそも田沼意次は専左衛門意行(オキユキ)の嫡子として、素(モト)は紀州の士であった。専左衛門意行、和歌山において吉宗に召使われ、吉宗が八代将軍となった時に、付いて江戸に来たのである。そうして享保九〔一七二四〕年に叙爵して、主殿頭(トノモノカミ)となった。十年を経て、意次は西丸の御小姓(オコショウ)となった。享保二十〔一七三五〕年意行が死んで、意次が家を嗣ぎ、家重に事えて、宝暦元〔一七五一〕年に御側衆となった。八〔一七五八〕年の九月には万石の家となって大名に列し、宝暦十二〔一七六二〕年に五千石を加えられて、一万五千石となった。これからその才を現わして、明和四〔一七六七〕年には御側御用人となり、また加増せられて二万石となり、遠州相良に城を築いて、城主の列に入れられたのである。六年には老中の格となって、さらに五千石を加えられ、なお、奥勤故(オクヅトメモト)の如くいたしておった。安永元〔一七七二〕年には、本格の老中となって、さらに五千石を加えられ、その後もしばしば封を加えられて遂に五万三千石にまで昇った。天明三〔一七八三〕年に、その子の意知(オkトモ)は若年寄となり、父子相列んで要路に当って、天下の政治を自由にした。かくの如くにしていわゆる飛ぶ鳥も落す勢いであったところを、天明四(一七八四)年に、意知が佐野善左衛門に害せられて、これからさすがの意次も段々と、その勢力に亀裂がはいって来ることになる。しかしながら、跡から見てこそ、もうその勢力は下り坂になっていたとはいいながら、その経歴を見るというと、なお、幕府においては勢い頗る熾(さか)んであって、意知の害せられた翌年には、さらに一万石加俸をせられ、天下の政治を擅(ほしいま)まにしておった。しかるに六(一七八六)年になって、たまたま、将軍の病気に田沼の薦めた医者が失策って、それから将軍の病が革(あらた)まり、とかくする内に意次の勢力は、大奥で全く斥けられ、遂に同年閏十月五日を以て差控を命ぜられ、居屋敷を引払わしめられ、七(一七八七)年十月二日に、相良城をも収められ、嫡孫竜助(意明)に僅かに一万石を賜って、辛うじて家名を繋ぐことを許されたのである」
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