プランタンの卓 松山省三画
川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(41)
「二十五 銀座の小さな喫茶店で」(その1)
喫茶店は、明治44年銀座に出来たカフェー・プランタンとカフェー・パウリスタが現代の喫茶店の始まりとして知られている。
それが広く普及していくのは、関東人震災のあとのモダン都市東京である。
昭和4年に大流行した歌「東京行進曲」(西條八十作詞、中山晋平作曲)の4番は、新宿を歌って、「シネマ見ましょか お茶のみましょか」とある。
大正3年銀座生まれの池田弥三郎『わが町 銀座』によると、「お茶でものみましょうか」とは、昭和初年ごろからの言葉で、「ちょっと喫茶店で休んで行こうか」という意味だったという。
この言葉が生まれた背景には、それまでの実質的なミルクホールに代って、喫茶店という新しい形態が出来はじめ、それが急速に東京市内に増えていったという新現象があった。
喫茶店ではたいていの店がレコードをかけていた。その点もミルクホールと違っていた。
そのうちに、コーヒーを飲ませることよりレコード音楽を聞かせる「音楽喫茶」や「名曲喫茶」があらわれた。
『東京百年史』(東京都、昭和47年~54年 ぎょうせい、昭和54年~55年復刊)、東京市内の喫茶店の数は昭和4年に千五百六十五軒、大東京市が成立した昭和7年に三千百六十五軒とほぼ倍、その後も増え続け、太平洋戦争開始後の昭和17年には三千五百七十軒と戦前の最高に達している。
この喫茶店時代をよくあらわしているのが流行歌の歌詞
昭和10年「小さな喫茶店」(瀬沼喜久雄作詞、レイモンド作曲)の2番
「小さな喫茶店に はいった時も 二人はお茶とお葉子を前にして ひと言もしゃべらぬ そばでラジオは 甘い歌を やさしく歌ってたが 二人はただだまって むきあっていたっけね」
と、喫茶店に入った恋人たちの恥かしそうな様子を歌っている。
「この新しモダン都市に登場した喫茶店は、単にコーヒーを飲ませる場所であるだけではない。そこは都市のなかの都市、町のなかの町だった。都市生活者のたまり場であり、書斎や応接室を兼ねるものだった。」(川本)
初田亨は写真集『失われた帝都東京 大正・昭和の街と住い』(柏書房、1991年)の解説で、新しくモダン都市に登場した喫茶店の役割を次のように定義している。
「昭和十一年(一九三六)、街には藤山一郎の唄う『東京ラプソディー』が流行していた。『花咲き 花散る宵も 銀座の柳の下で 待つは君ひとり 君ひとり 逢えば行く 喫茶店(ティールーム)』と唄われた歌に、当時の喫茶店のもっていた性格がよく表われている。喫茶店が、都市に住む人達によって、外出時の休憩・語らい・待合せや商談・情報交換の場として認識され、そのように使われていたのである。この意味からすれば、喫茶店は、大衆化したこの頃のカフェー以上に、より多くの不特定の人々を集める場として定着しつつあったとも言える」
荷風も、この時代よく喫茶店を利用するようになった。
銀座に出ると、喫茶店で休憩したり、知人と談話を楽しむようになった。
「日乗」にはじめて「喫茶店」が現われるのは、大正15年10月7日、「夜銀座ヱスキモ喫茶店にて川合澄に逢ふ」とある。
「川合澄」は帝劇の女優。「ヱスキモ喫茶店」は、銀座八丁目、現在の資生堂パーラーと千疋屋のあいだあたりにあったレストラン、エスキモのこと。「新橋ビューティー」というアイスクリームが名物だったという。しかし、荷風は、大正末から昭和のはじめにかけては、まださほど喫茶店を利用していない。カフェーやレストラン、食堂のほうが主である。
喫茶店を頻繁に利用するようになるのは、銀座通いがさかんになる昭和6年以降のことである。
昭和7年7月20日の「日乗」に登場する「萬茶(バンサ)亭」はお気に入りの喫茶店になった(荷風は「萬茶亭」とも「万茶亭」とも書く)。
「夕方銀座にて食事中神代君たづね来る。裏通なるカツフヱーの間を歩み数寄屋橋際なる伯拉爾児珈琲店萬茶亭といふに立寄り、街路樹の下に椅子を持出で涼を取らむとすれど、そよとの風もなし。萬茶亭の主人は多年サンパウロの農園に在りて珈琲を栽培せし由」
友人神代帚葉に教えられ。荷風は胃腸が弱かったので夏でもなるべく冷水を避けた。
「濹東綺譚」の「作後贅言」によれば、夏も冬と同じように熱い茶かコーヒーを飲んだ。ところがそのころ銀座通りのカフェーや喫茶店では、夏に氷を入れたコーヒーを出すようになっいた。夏に熱い茶とコーヒーを作る店はほとんどなくなる。胃腸の弱い荷風にはこれがこたえた。友人の神代帚葉はそれを知って、荷風を案内した。そこでは夏でも熱いコーヒーを出した。荷風はそれが気に入った。
「萬茶亭」は裏通りにある小さな店だった(現在の並木通りの三笠会館の並び)。文壇ジャーナリズムを避けていた荷風にとっては、表通りではなく裏通りの小さな店であることもよかった。この日以降、銀座に出ると、「萬茶亭」に立ち寄ることが多くなる。
昭和7年7月25日
「晴。晡下葵山子電話をかけ来る。銀座二丁目に往て晩餐をともにす。神代氏来る。食後万茶亭に憩ふ。主人ライムジュースといふものをつくりて薦む。味淡白にして香気あり。遠洋を航海する者平生生菜を食する事稀なり。此のライムジュースを飲用して活力を養ふと云ふ」
同年8月2日
「炎暑は昨日に劣らねど庭樹を動す風の音俄に秋らしくなりぬ。日の暮るゝを俟ちて銀座にゆき今宵もふけわたる頃まで萬茶亭の樹下に椅子をつらねて、神代氏をはじめ、近郷の人と雑談にふける」
同年8月7日
「炎暑甚し。萬茶亭夜涼例の如し」
同年8月20日
「晡下夕立ふり来りしが須臾にして歇む。夜萬茶亭に往く。神代高橋生田の三子に逢ふ」
昭和7年の8月から9月にかけ、「日乗」にしばしば「萬茶亭」が登場する。主人が特別製のライムジュースを作ってすすめるところなど、客と主人(三原萬次郎)のいい関係をうかがわせる。いっしょに夜、車をとばして隅田公園まで夕涼みに出かけたこともある。
8月27日には、「プラヂル珈琲屋店頭之圖」という店のスケッチが添えられている。右隣りに「獨逸人酒場ラインゴルト」(現在のケテル)が見える。萬茶亭の前は並木道になっていて、パリのカフェテラスのように歩道に椅子が並べられている。8月の暑い夜、夕涼みをかねて、歩道の椅子に座って、気のおけない友人たちと雑談に興じる。これは都市生活者荷風にとって、ささやかな喜びであっただろう。
9月1日
「今年は梅雨あけて土用の暑襲来りし頃より毎夜食事の帰途神代君にいざなはれ、西銀座なるプラヂル珈琲店万茶亭に至り、路傍の樹下に椅子持出で珈琲啜りて四方山のはなしに夜のふくるを忘るゝなり」
喫茶店の普及を考えるとき、コーヒーの産地ブラジルと日本の関係は見逃せない。
明治44年に、現在の喫茶店の原型といっていいカフェー・パウリスタを開いた水野竜は、南米柘植の社長。南米移民に功績があったとして、サンパウロ州政府からコーヒーを大量に無償で供給され、それをもとに安い「ブラジル・コーヒー」を売る店を作った。
「パウリスタ」とは「サンパウロ人」のことで、この店は、「日本でのブラジルコーヒー宣伝のために」作られた(平野威馬雄『銀座の詩情』白川書院、昭和51年)。
池田弥三郎によれば、「パウリスタ」のコーヒーは安さが有名で、そのために、カフェー・プランタンのほうには文壇・詩壇・画壇・劇壇の人家が集まったのに対し、パウリスタのほうには若い人たちが集まったという。
コーヒーは一杯五銭で、その安さは、「ブラジル・コーヒーの市場拡大の拠点」ならではである。
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プランタン
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