東京 江戸城(皇居)東御苑
*ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(41)
「第2章 もう一人のショック博士
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その11)
体制転換における教訓 - ブラジルとインドネシアの例
アジェンデの反対派が、実行可能な方法として詳細に研究していた「体制転換」のモデルは二つあった。 - ブラジルとインドネシアである。
ブラジルの所謂「紳士的クーデタ」
一九六四年、ブラジルでアメリカの支援を受けたウンベルト・カステロ・ブランコ将軍を首班とする軍事評議会が成立した際、軍が考えていたのは、ただ単に貧困層に手厚い支援を行なったジョアン・グラール政権を転覆することだけでなく、ブラジルを外国資本に開放することだった。
当初、ブラジル軍指導部は、どちらかというと平和裏に体制を転換しょうとしていた。
あからさまな残虐行為や大量逮捕は行なわず、のちに一部の「破壊分子」が残酷な拷問を受けたことが明らかになったものの、その数は少なかったために(加えてブラジルが広人な国ということもあり)、拷問の事実はほとんど知られることはなかった。
軍事政権はまた、限定的ではあれ、言論の自由や集会の自由など民主主義の痕跡を残すように努めた(いわゆるク紳土的クーデター)
そして、「国家による殺人は日常茶飯事となった」
六〇年代後半、多くの市民がこの限定つきの自由を利用して、軍事政権に対する怒りを表明するために立ち上がった。
ブラジルの貧困を悪化させている元凶は大企業優先の経済政策(その大半はシカゴ大学の卒業生によって策定された)にあるというのが、彼らの主張だった。
一九六八年には、学生を中心とする反軍事政権のデモ隊が街を埋め尽くし、政府は深刻な危機にさらされていた。
追い詰められた軍事政権はなんとか政権維持を図ろうと、それまでの戦術を大幅に転換する。
市民的自由はすべて弾圧され、拷問は組織的に行なわれるようになった。
そしてのちに設置されたブラジルの真実委員会によれば、「国家による殺人は日常茶飯事となった」。
インドネシア;
CIAは「状況と利用できる機会を見計らって、スカルノ大統領を排除する」よう指令を受けていた
一万、一九六五年に起きたインドネシアのクーデターは、これとはまったく異なる経緯をたどった。第二次世界大戦後オランダから独立したインドネシアは、初代大統領スカルノによって治められてきた。
スカルノは今日で言えばベネズエラ大統領ウーゴ・チャベスのような存在で(チャベスのように選挙に熱心ではないが)、自国経済の保護を第一に掲げ、富の再分配を図り、国際通貨基金(IMF)と世界銀行は欧米の多国籍企業の利益の代弁者だとしてそこから脱退する、という一連の政策により富裕国の怒りを買った。
スカルノは民族主義者であり共産主義者ではなかったが、党員三〇〇万人を数えるインドネシア共産党と緊密な連携を取った。
米英両政府はスカルノ政権打倒へと動き、機密解除された資料によれば、CIAは「状況と利用できる機会を見計らって、スカルノ大統領を排除する」よう、高ベルからの指令を受けていた。
CIAの支援を受けたスハルトのクーデタ、左派一掃の殺戮
何度かのフライングののち、その機会は一九六五年一〇月に到来した。CIAの支援を受けたスハルト将軍が政権奪取と左派一掃のために動き始めたのだ。
CIAはひそかに作成した同国の左翼指導者のリストをスハルトに渡す一方、米国防総省は武器のほか、インドネシア軍がどんな遠隔な島にいても相互に通信できるように野外無線機を供給した。
スハルトは、CIAが「銃撃リスト」と呼ぶ名簿に名前の挙がった四〇〇〇~五〇〇〇人の共産党関係者を探して始末するために兵士を送り出し、その経過は定期的にアメリカ大使館に報告された。
CIAはこの情報をもとに名簿から名前を消していき、殺戮はインドネシアの左翼が絶滅したと考えられるまで続けられた。
この作戦に関わった一人でジャカルタの米大使館に勤務していたロバート・J・マーテンスは、二五年後にジャーナリストのキャシー・カディンの取材に応え、「インドネシア軍にとっては大きな助けとなった」と話している。
「おそらく彼らは多くの人間を殺し、私もそれに加担した。でも必ずしもそれは悪いことではない。相手を徹底的に攻撃しなければならない決定的な瞬間というものがあるのです」
そして、無差別大量虐殺へ
銃撃リストに載っていたのは標的を定めた人物だったが、スハルトは無差別の大量虐殺を行なったことでも悪名高く、その任務は多くの場合、宗教学校の学生が担った。
軍による速成訓練を受けたあと、学生らは地方から共産主義者を「一掃」せよとの海軍参謀長の指令を受けて、農村部に派遣された。
ある記者はこう書く。
「彼らは嬉々として部下を召集し、剣と銃をウエストバンドに差し込み、棍棒を振り回しながら、長らく望んでいた任務に着手した」。
『タイム』誌によれば、「何千人という単位で大量虐殺が行なわれ」、わずか一カ月あまりの間に少なくとも五〇万人、場合によっては一〇〇万人が殺害された。ジャワ島東部では「それらの地域から移動してきた人々が、小さな川や水路は文字どおり死体でせき止められたと話した。このため所によって河川輸送は妨げられていたという」。
「バークレー・マフィア」と呼ばれる人々の役割
こうしたインドネシアでの一連の出来事に、アジェンデ政権転覆を画策するワシントンとサンティアゴ双方の人間や組織は熱い関心を寄せた。
彼らはスハルトの残虐さに関心を引かれただけでなく、カリフォルニア大学バークレー校で教育を受けたインドネシア人経済学者たちの果たした特別な役割に注目した。
スハルトは共産主義者を排除することに成功したが、将来のインドネシア経済の青写真を用意したのは、この「バークレー・マフィア」と呼ばれる人々だったのだ。
バークレイ・マフィアとシカゴ・ボーイズ
彼らとシカゴ・ボーイズには驚くほどの共通点がある。
バークレー・マフィアは、フォード財団の資金によって一九五六年にスタートしたプログラムの一環としてアメリカに留学し、帰国後、欧米式の経済学部であるインドネシア大学経済学部を自国に忠実に再現した。
学部の設立にあたっては、シカゴ大学の教授がサンティアゴに出向いたように、フォード財団によってアメリカ人教授がジャカルタに派遣された。
「スカルノの失脚後、インドネシアの指導者になるべき人間を養成するというのがフォードの考えだった」と、当時フォード財団の国際研修・研究プログラムの責任者だったジョン・ハワードは単刀直入に説明する。
貿易相やアメリカ大使など重要な経済関係ポストに
フォード財団の資金で留学した学生たちは、スカルノ打倒に関与した学生グループのリーダーとなった。
バークレー・マフィアはクーデターの準備段階で軍と緊密に協力し、スカルノ政権が突然崩壊した場合に備えて「非常事態計画」を作成した。
これらの若い経済学者たちは、大型金融取引についてなんの知識もないスハルト将軍に対し、強大な影響力を持っていた。
『フォーチュン』誌によれば、バークレー・マフィアはスハルトが経済学の講義を自宅で聞けるよう、テープに録音した。
また面会したときには、「スハルト大統領はただ話を聞くだけでなく、ノートを取っていた」と、メンバーの一人は誇らしげにふり返る。
別のバークレーの卒業生はスハルトとの関係を次のように描写する。
「(われわれは)陸軍上層部(新秩序における決定的要素)に対し、インドネシアの深刻な経済的問題に対処するための〝レシピ″を集めた”料理本”を提示した。陸軍最高司令官としてのスハルト将軍はこの料理の本を受け入れただけでなく、レシピの書き手に経済顧問になってもらいたいと望んだ」。
実際、そのとおりになった。
スハルトは組閣にあたってバークレー・マフィアを多く登用し、貿易相やアメリカ大使をはじめ重要な経済的ポストはすべて彼らの手に渡った。
*このプログラムで派遣されたアメリカ人大学教授のすべてが、こうした任務に納得していたわけではない。
「私は大学が、一国の政府に対する反乱という性格を帯びつつある事態に関与すべきではないと感じた」と、フォード財団インドネシア経済プログラムの責任者に任命されたバークレー校のレン・ドイル教授は語っている。
こうした見方により、ドイルはカリフォルニアに呼び戻され、任務を外された。
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