東京 北の丸公園
*1758年(宝暦8)
・この年、松前・江差に進出の近江商人は30名前後。
松前交易は、一部は北海道~大坂・下関交易の発展もあるが、全体としては敦賀・小浜中心の交易。しかし、28年後の天明6(1786)年には11名に減少。
北海道~本州諸港の商品流通は、松前藩の再生産構造の特殊性や流通担当商人の性格から、若越中心型として発展。
大きな役割を果たして近江商人は、慶長期頃から松前に進出、寛永期以降は10数名の近江商人(柳川・薩摩・八幡出身者)が松前に出店。
彼らは昆布・干鮭・干鱈・千貝・鰊などの松前物を上方市場で売り捌き、上方からは衣類など生活必需物資を仕入れ松前に持込む隔地間交易で莫大な利益を得ている。
彼らの多くは渡道間もなく藩権力と結びつき、両浜組(ギルド組織)を作り共同行動をとり、また出店を設け運輸業・商業を兼ねた幅広い商業活動を行う事により、諸商品の売買仕込みを通じ集荷過程にまで商権を拡大してゆく。
恒常的交易を望む松前藩は、こうした活動が藩体制維持上は有利であり、彼らに移出入税等の特権を与えるなどの優遇措置をとったことなどにより、彼らは急速に松前交易の独占権を掌握してゆく。
元禄・享保期の鰊生産と需要増大のなかで、彼らは自己の手船だけでなく、共同雇用船団である荷所船(にどころぶね)を使用し、大量の物資を短期間に輸送し、彼らの流通独占体制はより一層強化される。
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・松江藩の藩校文明館、設立。
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・この年、幕府の御徒で講釈師の馬場文耕、『平仮名森の雫』を著し、宝暦年間の美濃郡上一揆を実録物として講談化したため処罰された。
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・明礬会所の設置
「次は明礬会所、これは宝暦八(一七五八)年に江戸、京、大坂、堺四ヵ所において、私売を禁じ、一切会所を経なければ明礬の売買は出来ぬという事に定めた。明和四(一七六七)年の閏九月になって、その禁を犯す者が多いので、さらにその令を申ねた。天明二〔一七八二〕年八月には従来の発売所の外に、新たに薩摩産、およびシナ産のみを引受けるところの会所を江戸、京、大坂、堺に立てさした。自今はその総会所の外は私に売買することはならぬ。もしその産地より私に買出した者があったならば厳罰に処すという事を令した。」(辻善之助『田沼時代』)
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・1758~59年、フランスのラングドック地方とピレネー地方で食糧危機。
過剰地域から不足地域へ産物移送や外国からの輸入は、殆ど不可能。
道路事情の悪さ、輸送の遅さ、国内・対外関税、地域・地方市場保護の為の輸出入の禁止のため。
1750年以降、理論家の一学派は、農業がフランスの基本的な富であり、農業を援助し、国内関税廃止によって農業製品の高価格をもたらすようにするべきと説く。
全ての上納金を「土地単一税」(土地に課せられる唯一の租税)で置き換えることを提案し、地主が豊かになるが、同時に国家も富む。
1758年、医師ケネーが「経済表」を著す。
通商監督官ヴァンサン・ド・グルネーが、経済自由主義の基本である「自由放任」の標語を唱える。
ケネー、グルネーとも多くの弟子(ミラボー侯爵(父)、ルメルシエド ラリヴィエールら)をもつ。
1757年、農業協会が設立され(最初はレンヌ)、こうした考えが普及。
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1月
・ロシア軍、東プロイセン再占領
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1月5日
・フランス、ジャック・カトリノー、誕生。ヴァンデの反乱指導者。
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1月17日
・アフマド・シャー・ドッラーニー、北インド侵入。デリー一時占領
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2月
・郡上一揆。
藩の足軽や寝者(一揆反対派)が帳元の歩岐島村(白鳥町)四郎左衛門宅に押し入り帳面・金銭などを奪う(駕籠訴の裁きがはっきりしないうちに、一揆推進派の組織分裂を目論む)。
2日後、近隣の立者(一揆推進派)たちが歩岐島村に集まり、足軽50余人と大乱闘。
帳面の番人の万場村(大和町)善次郎は捕縛されるが逃亡。
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・北米、フレンチ・インディアン戦争。センントジョン川方面作戦始まる。
1759年の2月、イギリス軍の大佐ロバート・モンクトンが、1,150人の部隊を率いて、サンタンヌ・ペ・バ(現在のニューブランズウィック州フレデリクトン)に着くまでの間、セントジョン川に沿ったアカディアの集落を破壊したもの。
モンクトンには、ジョセフ・ゴアハム、ベノニ・ダンクス、モーゼス・ヘイゼン、ジョージ・スコットに率いられたアメリカン・レンジャーズが同行。
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2月18日
・英カンバーランド公の後任にフリードリヒ大王の義弟、ブラウンシュヴァイク公フェルディナントが任命され、この日、ハノーファーに入城。
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3月
・第3次ヴェルサイユ協定。フランス、対オーストリア軍事援助削減。
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3月16日
・酒田、豪商本間家本間光丘(みつおか)、庄内藩から湊西浜に砂防林植林計画の許可を得る。
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3月20日
・郡上一揆。
村預けの駕籠訴人の喜四郎・定次郎と夫々の同村の吉十郎・吉郎治が、密かに江戸へ向かい、この日、江戸北町奉行所依田和泉守へ再度嘆願書を提出、無視される。
ここに至り、喜四郎と定次郎は歩岐島騒動を契機に活動を再開した四郎左衛門を中心とする関の寄合所と連絡をとり、最後の手段として箱訴(江戸評定所門前に置かれた目安箱に訴状を入れる)の計画を進める。
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4月2日
・郡上農民6人、箱訴を決行。
訴状に、「御大切之田地奉預候惣百姓共」(宝暦八年四月郡上藩一揆箱訴状)と記される。
一揆は、領主的土地所有存続を前提に、「御百姓」意識に対応する百姓土地所持観念を基礎にして闘われたことを示す。
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4月11日
・ロンドン協約。イギリス、プロイセン・フリードリッヒ2世への援助金支給約束。
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4月18日
・東方から再び迫るロシア軍が来る前にオーストリア軍との決着をつけようとプロイセンは、この日にシュヴァイドニッツを陥落させた後、オルミュッツを包囲したが補給部隊がラウドンらによって壊滅させられシュレージエンまで戻った。
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5月3日
・ボローニャ大司教・ローマ教皇ベネディクトゥス14世(83)、没。
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5月6日
・仏、マクシミリアン・フランソワ・マリ・イジドール・ド・ロベスピエール、ベルギーに近い北部フランス・アルトワ州(現在のパ・ド・カレ県)で弁護士の長男として誕生。
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5月6日
・仏、アンドレ・マッセナ(後、ナポレオンの元帥)、ニースでワインの貿易商の家に誕生。幼いうちに両親を失い、石鹸製造業を営んでいた叔父に育てられ、13歳の時に家を出て、キャビンボーイとして船に乗り込み住み込みで働く。
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5月8日
・プロイセン・フリードリッヒ2世軍、オルミュッツ包囲
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6月
・北米、フレンチ・インディアン戦争。
プティクーディアク川方面作戦始まる。~11月。
プティクーディアク川の流域に住んでいたアカディア人の追放作戦。
ベノニ・ダンクスと、ジョセフ・ゴーラムのアメリカン・レンジャーズが作戦を遂行。
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6月23日
・プロイセン軍、クレフェルトの戦いでフランス軍を破る。
フリードリヒ大王の義弟、ブラウンシュヴァイク公フェルディナント、クレフェルトの戦いでフランス軍を破りフランス軍はライン川西岸まで撤退。
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