東京 北の丸公園
*長保5年(1003)
この年
・平維良(これよし、貞盛の弟繁盛の子・平兼忠の子、貞盛の養子)は下総国府を焼き討ちし、追討使が派遣されるが事件はうやむやとなった。
維良は、数年後には鎮守府将軍となり、延任の取りなしを求めるため、道長に馬・鷲羽・砂金など莫大な贈り物を持参(『小右記』長和3年(1014)2月7日条)。
維良(これよし)は、『今昔物語集』に「並び無き兵」として登場する余五(よご)将軍(十余り五、すなわち十五男の意)維茂(これもち)と同一人物。
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8月
・寂照が入宋する。
寂照は天台僧で、五台山巡礼を二度申請したが許可されず、この年に肥前国から出航した時は、許可を受けていたか或いは黙認されたらしい。
明州(寧波)に到着後、延暦寺の僧源信から託された『天台宗疑問二十七箇条』を延慶寺僧智礼に渡している。
これに対しては、中国天台を代表して四明知札(しめいちれい)が答釈を書いている。
唐代には日本から学問や仏教についての質問を提出して、唐側から答え(唐決)を得るという方法を取っていたが、同様のやり方をしている。
翌年、北宋の都汴京に到り、皇帝真宗に謁し、無量寿仏像・金字法華経・水晶数珠等を進上し、科試・神道・日本に流布する書籍について問答し、円通大師の号と紫衣を賜わる。
また五台山巡礼を求め、道中の食糧の便宜を与えられている。宋において多くの文人と交流をもち、高官丁謂(ていい)の帰依をうけ、蘇州に行き呉門寺に住し、報恩寺内に普門寺を建立したとされる。
寂照は、文人大江斉光の第三子大江定基で、蔵人・図書頭をへて参河守となったが、その在任中に妻を失い、永延2年(988)、寂心(慶滋保胤)を師として出家。
その後比叡山横川の源信に天台教学を学び、醍醐寺の仁海に密教を学んだ。
寂照と道長の間には、しばしば手紙の往来があった。
寛弘2年(1005)12月、寂照の書が道長に届けられる。
寛弘5年7月、道長と治部卿源従英(俊賢)の書が送られる。
長和元年(1012)9月、道長は寂照の手紙と送られた「天竺観音一幅」と「大遼作文一巻」を手にしている。
長和2年9月、寂照の弟子念救が帰国して、道長に『白氏文集』の版本と天台山図を贈り、また天台山国清寺から日本延暦寺へ、天台大師智顗(ちぎ)の像、彼が使用した袈裟と如意、茶垸(ちやわん)、壷などを送っている。
念救は翌々年7月には帰ったが、その折に道長は、多くの公卿の知識物とあわせて、琥珀や水晶の念珠、螺細蒔絵厨子や、砂金百両、奥州の貂裘(ちようきゆう、貂の皮衣)を送った。尚、この時に先に延暦寺に送られた品々が座主故覚慶の弟子院源が隠匿していたことが発覚して問題になった。
道長が天台山に答えた書によれば、天台山は大慈寺再建の助成を求めたようで、道長以下はそれに応えて砂金等を送ったらしい。
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11月25日
・藤原行成『権記』(長保5年11月25日条に、「この夜、夢に野道風に逢ふ。示して云はく、書法を授くべし。雑事を言談す」と夢に道風に会って、書法の伝授をうけている。
行成の書法は、奈良時代以来の王義之の書法を継承しているが、一方で小野道風の書を直接継承している。
道風は、『源氏物語』「絵合」に「絵は常則、手は道風なれば、今めかしうをかしげに、目も輝くまで見ゆ」と賞されるように、すでに一条朝において絶大な人気を博していた。
『権記』には、道風の書の貸借や贈答の記事も多く、行成のそばには常に道風の書が置かれていた。
小野道風・藤原佐理・藤原行成は三蹟と呼ばれ、後世尊重されてきた。
南北朝時代には、野蹟・佐蹟・権蹟(権大納言藤原行成の筆跡を指す)と呼ばれ、この三人が三賢とされて、室町時代には三蹟の名が定着している。
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