1901(明治34)年
4月21日
清国、督辧政務処設置。
4月23日
4月23日 ロンドンの漱石
「四月二十三日(火)、「天気快晴愉快 夏服ヲツケル、麥藁帽ノ人多シ」(「日記」) Dr.Craig の許に行く。 Tennyson の ""In Memoriam"" (『イン・メモリアム』1850)を評し、趣味は天福であり、君はそれを得たから賀すべしと云われる。帰宅すると、田中孝太郎、新聞を送って来る。池田菊苗に返事出す。明朝三時に新宅に荷物を送るので、大いに混雑する。シャツ一枚で書物を片付ける。 Miss Kate 差配人が来てぎょっとしたことを告げる。 Brett 夫妻共に留守であると、嘘を去って追い払う。午後四時(推定)、お茶を一緒に飲む。その時、主婦、差配人のことで困った状態になっていることを訴える。三人で、差配人の所に行き、厄介な交渉をして、夜十一時頃帰って来る。亭主は、早く日が暮れればよいと云う。 Miss Kate は、日が暮れれば荷物を運び出すことができるからと補足する。(四月未だから、午後十一時でも薄暗い程度であったのか)」(荒正人、前掲書)
*「ぎょっとしたこと」;家賃のことで、家財道具を差し押えようとしているとのことである。但し、日没後日の出前に運び出すことができる。
4月24日
「 昨夜の夢に動物ばかり沢山遊んで居る処に来た。その動物の中にもう死期が近づいたかころげまはつて煩悶(はんもん)して居る奴がある。すると一匹の親切な兎(うさぎ)があつてその煩悶して居る動物の辺に往て自分の手を出した。かの動物は直(ただち)に兎の手を自分の両手で持つて自分の口にあて嬉しさうにそれを吸ふかと思ふと今までの煩悶はやんで甚だ愉快げに眠るやうに死んでしまふた。またほかの動物が死に狂ひに狂ふて居ると例の兎は前と同じ事をする、その動物もまた愉快さうに眠るやうに死んでしまふ。余は夢がさめて後いつまでもこの兎の事が忘られない。
(四月二十四日)」(子規「墨汁一滴」)
4月24日
4月24日 ロンドンの漱石
「四月二十四日(水)、朝、散歩する。帰宅すると、女中のペンが、立て続けに十五分程しゃべる。何を云ってるのか分らぬ。前日、差配人が来た時、やむをえず嘘をついたということである。午前三時頃、 Mr. Brett たちは、家財道具と鞄と書物を手押車で新宅へ運ぶ。ペンと二人残る。 Brett 家の者達がこのまま帰って来ず、詐欺にあったとしたらばかばかしいと思ったりする。午後八時頃、ペンが三階に来て、差配人が来たと云い、しゃべるが、何を云っているのか分らぬ。十時頃、再び上って来て、今日は差配人が三度来たと告げる。また、差配人が来たらどうしようと云うので、今度は相談のためだから心配しなくてもいいと慰める。十時半になっても帰って来ぬ。やがて門が開く音聞えたので、ほっとして眠る。 Brett 家の者たち三人が門を入ろうとすると、差配人が待ち構えていて、深夜に引越しするなんて、君は紳士かと云い、 Mr. Brett 氏は自分で自分の荷物を運ぶのに誰に断る必要があるか、何時に荷物を運ぼうとこちらの勝手ではないかとやりかえす。議論やかましくなり、近所の人たち驚く。」(荒正人、前掲書)
4月25日
袁世凱、変法十事を上奏。
4月25日
ハワイ上下院、ペスト予防のための家屋焼き払い事件賠償金(150万ドル)の支払案を可決。(日本要求額は65万ドルあまり)
4月25日
独、フランクフルト・アム・マイン近郊グリースハイム電子工場でピクリン酸の円筒容器数本に火がつき連続爆発発生。100人以上の死者。
4月25日
4月25日 ロンドンの漱石(大家の引越しの為、4番目の下宿 5 stella Road,Tooting Graveney,London,S.W. に移転)
「四月二十五日(木)、午前九時頃、起床。階下の食堂に行くと、 Mr. Brett と Mrs. Brett は食事を終えたところである。食卓につくと、 Mrs. Brett が昨夜の騒動を知っているかと云うので、三階では何も分らなかったと云うと、差配人との悶着を語ってくれる。 Mr. Brett に向い、一体いつ移れるのかと尋ねると、今日でもよいと云うので、午後、 Mrs. Brett と移ることにする。 Mrs. Brett と昼食を食べていると、 Mr. Brett が弁護士の許から帰って来て、 Mrs. Brett に、差配人の所に手紙を書いて書留で出すようにと命じて、外出する。 Mrs. Brett は手紙を書き、内容を読んでくれる。裁判になった時の準備である。暫くして、 Mrs. Brett と共に出掛ける。雑物を押し込んだ手提の革鞄を右手に、左手に洋傘とステッキを抱える。 Mrs. Brett は、網袋に、渋紙包四つを持つ。その一つに、寝巻と帯を入れて貰う。左手には敷布を入れた渋紙包を持って貰う。角まで行き、鉄道馬車に乗る。 Kennington 迄行って乗り換える。 Tooting (トゥーティング)で、乗合馬車に乗る。新宅の前に来る。煉瓦造りの長屋四、五軒並んでいる。家主の家のほかは、貸家の札が張ってある。家主の家の隣りに住むことになる。二階に下宿する。以前より少し良い。三階には、 Mrs. Brett の妹と Mr. Ernest (アーネスト Mr. Brett の店で働く店員)と犬二匹(カーローと Jack (ジャック))住むことになる。(女中 Pen は解雇される。)新宅は、2(現、11) Stella Road, Tooting Graveney, London S.W. である。(ロンドンで第四回めの下宿)(Brett 夫妻は、差配人との紛争が落着するまでは、旧宅に泊る)」(荒正人、前掲書)
「フロッテシ・ロード六番地の家はもともと借家で、(下宿の女主人)ミセス・ブレットとその妹は七年前に家賃を滞納したことがあり、そのために移転しようと思えは家財を差押えられるという条件を差配に課せられていた。しかし、四月十三日に同宿の田中某がケンシントンに移り、下宿人が金之助ひとりでは到底経営が成り立たぬことが明らかになった。一家は夜逃げ同様にしてロンドンのもっとも貧しい場末、トウーティングの新開地に建ったばかりの長屋に引越さなければならなくなったのである。」
(クレイグ先生のところに置いてもらおうとしたが、彼のところは狭くて漱石の同居は無理と判明)
「新聞広告で見つけた「レデーの所有」にかかる高等下宿は家賃が高すぎて到底払える見通しが立たず、金之助はやむなくブレット一家と行動をともにせざるを得なくなった。」
「・・・二十五日の午後、・・・・・トゥーティングから辻馬車を雇って新宅があるというところまで来てみると、粗末な煉瓦造りの長屋が四五軒並んでいて、その前には砂利を掘った大きな穴があいているという荒涼とした風景が開けた。「聞シニ劣ルイヤナ処デイヤナ家ナリ。永ク居ル気ニナラズ」と金之助は書いている。ブレット一家の新しく借りた家はこの長屋のひとつであった。」
「金之助が意気消沈したのも当然で、トゥーティングは今世紀初頭のロンドン市中ではまずもっとも貧寒な場末であった。平らな緑のない地面の上にエプサムとリーゲイトに通じる街道が一条伸びていて、鉄道馬車が走っている。その両側にどこまで行っても同じかたちの赤煉瓦造りの下層中流階級の住宅が建ち並びはじめている。西南にスプロールしたロンドン市が、郡部に出逢う直前にいぎたなく繰りひろげてみせた都会のもっとも醜悪な部分。ミセス・プレットの一家が沈没して行ったのは、このような近代産業都市の排泄物のただなかであった。
引越の翌朝、トゥーティング・ステーションのあたりを散歩した金之助は、吐いて捨てるように「ツマラヌ処ナリ」と記している。・・・・・
彼がトゥーティングからただちに逃げ出さなかったのは、ドイツから理学士池田菊苗がロンドンにやって来るのを心待ちにしていたからである。」(江藤淳『漱石とその時代2』)
つづく
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