1901(明治34)年
4月17日
「 鼠骨が使をよこしてブリキのカンをくれといふからやつたら、そのカンの中へ御(み)くじを入れて来た。先づ一本引いて見たらば、第九十七凶といふので、その文句は
霧罟重楼屋(むころうおくをかさぬ) 佳人水上行(かじんすいじょうにゆく)
白雲帰去路(はくうんかえりさるのみち) 不見月波澄(げっぱすむをみず)
といふのであつた。この文句の解釈が出来んので、それから後毎日考へてもう三十日も考へ続けて居るが今に少しも解釈の手掛が出来ぬ。
(四月十七日)」(子規「墨汁一滴」)
4月17日
林董駐英公使、イギリス外相ランスダウンに日英間の永久的協約に関して見解を表明。
4月18日
日鉄矯正会、社会主義表明。
4月18日
「 今日は朝よりの春雨やや寒さを覚えて蒲団引被(ひきかぶ)り臥し居り。垣根の山吹やうやうに綻(ほころ)び、盆栽の桃の花は西洋葵(せいようあおい)と並びて高き台の上に置かれたるなどガラス越に見ゆ。午後は体もぬくもり殊に今日は痛(いたみ)もうすらぎたれば静かに俳句の選抜など余念なき折から、本所(ほんじょ)の茶博士より一封の郵書来りぬ。披(ひら)き見れば他の詞ことばはなくて
擬墨汁一滴(ぼくじゅういってきにぎす) 左
総じて物にはたらきなきは面白からず。されどもはたらき目だちて表に露(あらわ)れたるはかへつていやしき処あり。内にはたらきありて表ははたらきなきやうなるが殊にめでたきなり。
道入(どうにゅう)の楽(らく)の茶碗や落椿
春雨のつれづれなるままの戯(たわぶれ)にこそ、と書きたり。時に取りていとをかし。
(四月十八日)」(子規「墨汁一滴」)
4月18日
4月18日 漱石に2月28日発行の「ホトゝギス」4巻5号(子規の随筆「死後」が掲載されている)が届く。
「ホトゝギス来ル二月十八日発行ナリ」
4月19日
英仏独日、清に賠償金4億5,000万両要求。清国、5月29日受諾。
4月19日
「 をかしければ笑ふ。悲しければ泣く。しかし痛の烈しい時には仕様がないから、うめくか、叫ぶか、泣くか、または黙つてこらへて居るかする。その中で黙つてこらへて居るのが一番苦しい。盛んにうめき、盛んに叫び、盛んに泣くと少しく痛が減ずる。
(四月十九日)」(子規「墨汁一滴」)
4月19日
4月19日~20日 ロンドンの漱石
「四月十九日(金)、 Port Said (ポート・サイド)から立花銑三郎の葉書受け取る。(最後の葉書となる)渡辺雷と望月淳一からも礼状来る。池田菊苗(在ドイツ)に手紙を出す。(推定) Swiss Cottage (不詳)の女性から、下宿のことで問い合せていた返事来る。行かぬことにして返事を出す。
四月二十日(土)、快晴。風強い。朝、食堂に行くのが遅くなって誰もいない。下宿について問い合せていた寡婦とその妹の住む家から、下宿の希望に応じると云ってきたが、一週三十三円なので断念する。朝食中、今の下宿の主婦を呼んで、この家の新転居先に金之助も共にうつることを告げると、主婦も主人も喜ぶ。昼食に、魚・肉・米・馬鈴薯(推定)・プディング・パインアップル・胡桃・蜜柑が出る。下宿の姉妹、新居の窓掛けその他の寸法をとるために外出する。午後七時、お茶に出る。正岡子規・高浜虚子宛に手紙を出す。(「倫敦消息」其二(『ホトトギス』第四巻第九号六月三十日刊)として発表される。最後は省略される)」(荒正人、前掲書)
4月20日 漱石の子規宛て手紙(「倫敦消息(二)」)。
「何(なに)こんな生活も只二三年の間だ。国へ帰れば普通の人間の着る物を着て普通の人間のの食ふ物を食つて普通の人の寝る処へ寝られる。少しの我慢だ、我慢しろ我慢しろ、と独り言をいつて寝て仕舞ふ。寝てしまふ時は善いが、寝られないで叉考へ出す事がある。元来我慢しろと云ふのは現在に安んぜざる訳だ ー 段々事件が六づかしくなつて来る ー 時々やけの気味になるのは貧苦がつらいのだ。年来自分が考へた叉自分が多少実行し来りたる処世の方針は何処へ行つた。前後を切断せよ、妄りに過去に執着する勿れ、徒らに将来に望を属する勿れ、満身のカをこめて現在に働けといふのが乃公(だいこう)の主義なのである。然るに国へ帰れば楽が出来るから夫を楽しみに辛防し様(やう)と云ふのは果敢(はか)ない考だ。国へ帰れば楽をさせると受合つたものは誰もない。自分がきめて居る許りだ。自分がきめてもいゝから楽が出来なかつた時にすぐ機鋒を転じて過去の妄想を忘却し得ればいゝが、今の様に未来に御願ひ申して屠る様では到底其未来が満足せられずに過去と変じた時に此過去をさらりと忘れる事は出来まい。のみならず報酬を目的に働らくのは野暮の至りだ。死ねば天堂へ行かれる、未来は雨蛙と一所に蓮の葉へ往生が出来るから、此世で善行を仕様といふ下卑た考と一般の論法で、夫よりも猶一層陋劣な考だ。国を立つ前五六年の間にはこんな下等な考は起さなかつた。只現在に活動し只現在に義務をつくし現在に悲喜憂苦を感ずるのみで、取越苦労や世迷言や愚痴は口の先許りでない腹の中にも沢山なかつた。夫で少々得意に成つたので外国へ行つても金が少なくつても一箪(いつたん)の食一瓢(いつべう)の飲然と呑気に洒落に叉沈着に暮れると自負しつゝあつたのだ。自惚々々! こんな事では道を去る事三千里。先(まず)明日からは心を入れ換えて勉強専門の事。こう決心して寝て仕舞ふ」(4月20日付け『倫敦消息(二)』(6月30日『ホトトギス』4巻9号))
「我々黄色人――黄色人とは甘(うま)くつけたものだ。全く黄色い。日本にいる時はあまり白い方ではないがまず一通りの人間色という色に近いと心得ていたが、この国ではついに人-間-を-去-る-三-舎-色と言わざるを得ないと悟った――その黄色人がポクポク人込の中を歩行(ある)いたり芝居や興行物などを見に行かれるのである。しかし時々は我輩に聞えぬように我輩の国元を気にして評する奴がある。この間或る所の店に立って見ていたら後ろから二人の女が来て“least poor Chinese”と評して行った。least poor とは物匂い形容詞だ。或る公園で男女二人連があれは支那人だいや日本人だと争っていたのを聞た事がある。二三日前さる所へ呼ばれてシルクハットにフロックで出かけたら、向うから来た二人の職工みたような者が a handsome Jap. といった。ありがたいんだか失敬なんだか分らない。」(『倫敦消息』(ニ))
4月20日
林権助駐韓公使、露韓電信接続に対抗して、釜山馬山浦間電信線架設、および海底電線布設陸揚権等を韓国に要求。10月、未解決のまま懸案化。
4月20日
幸徳秋水(31)「廿世紀之怪物帝国主義」(警醒社)。内村鑑三序文。第一章緒言 第二章愛国心を論ず 第三章軍国主義を論ず 第四章帝国主義を論ず 第五章結論から成る。
「帝国主義は、いわゆる愛国心を経(たていと)となし、いわゆる軍国主義を緯(よこいと)となして、もって織りなせるの政策」と定義。
秋水は、二十世紀が帝国主義にたいする社会主義・平和主義の闘争の時代であることを確信していた。
4月20日
成瀬仁蔵ら、東京小石川区高田豊川町(現・文京区目白台二丁目八番一号)に日本女子大学校設立。家政・国文・英文の三学部。明治37年4月、第1回卒業生121名。
4月20日
自身の病状について記す
「 諸方より手紙被下(くだされ)候諸氏へ一度に御返事申上候。小生の病気につきいろいろ御注意被下、(中略)しかしながら遠地の諸氏は勿論、在京の諸氏すら小生の容態を御存じなき方多き故かへつて種々の御心配を掛(か)け候事と存候。小生の病気は単に病気が不治の病なるのみならず病気の時期が既に末期に属し最早如何なる名法も如何なる妙薬も施すの余地無之(これなく)神様の御力もあるいは難及(およびがたき)かと存居(ぞんじおり)候。小生今日の容態は非常に複雑にして小生自身すら往々誤解致居(いたしおる)次第故とても傍人には説明難致(いたしがたく)候へども、先づ病気の種類が三種か四種か有之、発熱は毎日、立つ事も坐る事も出来ぬは勿論、この頃では頭を少し擡(もた)ぐる事も困難に相成(あいなり)、また疼痛(とうつう)のため寐返り自由ならず蒲団の上に釘付にせられたる有様に有之候。疼痛烈(はげ)しき時は右に向きても痛く左に向きても痛く仰向になりても痛く、まるで阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄もかくやと思はるるばかりの事に候。かつ容態には変化極めて多く、今日明日を計らず今朝今夕を計らずといふ有様にて、この頃は引続いてよろしいと申すやうな事は無之、それ故人に容態を尋ねられたる時答辞に窮し申候。「この頃は善い方です」とは普通に人に答ふる挨拶なれども何の意味もなき語に有之候。一時的容態はかく変化多けれども一年の容態をいへば昨年は一昨年よりも悪く、今年は昨年よりも悪き事歴々として事実に現れ居候。かくの如き次第故薬も灸もその他の療養法も折角御教被下(くだされ)候事ながら小生には難施(ほどこしがたき)事と御承知可被下(くださるべく)候。ただ小生唯一の療養法は「うまい物を喰ふ」に有之候。この「うまい物」といふは小生多年の経験と一時の情況とに因(よ)りて定まる者にて他人の容喙(ようかい)を許さず候。珍しき者は何にてもうまけれど刺身は毎日くふてもうまく候。くだもの、菓子、茶など不消化にてもうまく候。朝飯は喰はず昼飯はうまく候。夕飯は熱が低ければうまく、熱が高くても大概(たいがい)喰ひ申候。容態荒増(あらまし)如此(かくのごとくに)候。
(四月二十日)」(子規「墨汁一滴」)
つづく
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