東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-03-21
*永禄12年(1569)
11月
・この頃、光秀、義昭に近侍。
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11月4日
・越智氏の貝吹城、松永久秀方に渡る。また、近々北里にも久秀が市を立てるとの風聞が伝わる。
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11月8日
・山科言継、岐阜へ向けて京都発。この夜は近江坂本泊。
9日辰初刻に乗船、近江北浜着。次いで乗馬、島口郷迄4里進む。申下刻、貞五郎の宿に逗留。
10日早旦、出発。戌刻に堤孫七郎の宿着。
11日申初刻、美濃垂井の木村宿所着。
12日寅刻、出立。岐阜の風呂屋余語宿所着。
14日、信長と対面。
信長は、
「只今は京面(オモテ)の儀、万事存ぜざるの間、春過ぎ上洛の刻(キザミ)知行分これを申し付くべし。先づその刻まで堪忍すべきの由これを申さる」
と言ったという(「言継卿記」同日条)。
信長が一時幕府介入を放棄したことを示す。
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11月9日
・武田信玄、諏訪大社上社に起請文を捧げ、(第2次)駿河出陣の戦勝祈願。
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11月15日
・毛利軍、筑前から撤兵。毛利軍、吉川元春隊を殿とし夜明け前に撤退開始。
大友軍は、毛利軍を追撃、名島浜から小倉津までの10余里の間に、毛利兵死体3491。
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11月20日
・顕如、明智光秀を通じて将軍義昭に局外中立(三好三人衆に加担せず)を伝える。
「双方合力助言の儀、一切これ無き事候」(「顕如上人文案」)。
しかし巷間では、四国の阿波・讃岐門徒衆は三好三人衆と、近江の江北十ヶ寺門徒は六角承禎・浅井長政に通じているといわれる。
この月、義昭は、顕如光佐に対し阿波・讃岐の門徒の軍事に関して指揮を指示(「益田家什書」)。
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11月23日
・北条氏政、小田原城を修築。
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11月28日
・武田勢、第2次駿河侵攻。甲府出陣。23年余にわたる甲駿相3国同盟破綻。
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11月30日
・スペイン貴族ドン・フランシスコ・ド・トレド(54)、ペルー第5代副王に任命され、着任。
この頃のペルー、パナマ~チリの南アメリカ大陸西側全域、アンデス山脈東方~密林地帯、南東はボリビア~アルゼンチンにまで及び、スペイン人同士(ピサロ4兄弟派と反対勢力)の抗争で混乱。
また、インカ帝国残党がクスコ北方の密林地帯に潜み、スペイン人隊商・植民者を攻撃するなど混乱状態。副王トレドの3大政策推進。
①鉱物資源の増産。
1570年ワンカベリカ水銀鉱山購入と独占により、1574年銀鉱石の新しい精錬法(水銀アマルガム精錬法)を導入、ポトシ銀山などの「銀」の増産に貢献。
また、全鉱山の管理規則・運営方法を改善、鉱物産出量増産を実現。
②インデイオ政策。
1571年スペイン人に反抗するインカ帝国最後の帝王トゥパク・アマル2世処刑。
1574年ボリビアのチリグアノ族鎮圧に軍隊数百名率い出陣、不首尾。
原住民平定工作はしだいに効果をあげ、スペイン人との主従関係が定着。インデイオはスペイン人に税金を払い、鉱山・土木事業・個人使役などに服する。
インディオの生活改善・保護に努める一方、搾取効率を上げるため新しい町レドウクシオンを建設、散在する集落から彼らを移す。人口調査を行い、徴用可能数・租税額などを確定し、ミタの諸条件を定める。インデイオ虐待のスペイン人は処罰。
1570年代中葉以降、ミタ制(原住民徴用制、1720年廃止)の下で「ポー時代」と呼ばれる一時代を画す。
③堕落した宗教関係者の改善。
1551年創設の大学をドミニコ会派と切り離し、新教授陣の下で再編(1570年代以降数世紀に亘り名声を得た「サン・マルコス大学」となる)。他、医師免許認可事業・公衆衛生にも注力。ペルー、ボリビア、アルゼンチンに多くの町を建設。
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11月30日
・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、コリニーの許に暗殺者モルヴェールを派遣、コリニー暗殺に失敗(モルヴェール、コリニーの幹部隊長ムイを誤って撃つ)。
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12月
・織田信忠、岐阜でフロイスらを招いた際、父信長に同席
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・尼子勝久、宇竜の鉄駄別を日御碕社(島根県大社町)に寄進。宇竜浦より出船した鉄船の鉄駄別役の寄進。
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・義昭、豊後の大友義鎮に命じ、安芸毛利氏との和平を促す(「褸氷集」)。
幕府の権限は京都の裁判権や畿内の大名に対する指示のみならず、遠国の大名に対しても一定の軍事指揮権と紛争調停権を保持している。
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・ロシア、イヴァン4世(雷帝)、懲罰のためノブゴロド遠征。長男イヴァン(15)同行。モスクワからノブゴロドまでの途上の町殺戮。
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・スペイン軍、ムスリム反乱軍のグワハールを奪取。守備兵を皆殺し。
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12月4日
・武田信玄、駿河庵原郡岩淵宿を焼き払う。
5日、北条綱重の拠る蒲原城を包囲、開城勧告をするが拒否。6日、陥落。
7日、岡部正綱の籠もる駿河今川館を包囲。翌8日陥落。正綱は降伏開城し信玄に臣従。
13日、信玄、駿府に再入城。
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12月9日
・筒井衆・興福寺衆ら500、大和十市城へ入る。今後について談合するが決裂。松永久秀派の河合権兵衛以下6名、城を出て今井に移る。
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12月10日
・武田信玄、信長に、輝虎の信濃出兵を中止するよう依頼。
この頃、信玄は家臣市川十郎左衛門を送りこみ、上杉氏との同盟交渉調略を依頼。
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12月20日
・上杉輝虎(40)、関東出陣、沼田城に入り、関東諸将の参陣を促す。
26日、北条氏政は沼田城の輝虎に歳暮を送る。関東で越年。
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12月24日
・小田氏治、常陸手這坂で太田資正・梶原政景親子と戦う。
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12月27日
・今井宗久、山城西九条名主・百姓中へ、敵方十河民部大夫「当知行分」の西九条縄内で新たに信長御料所となった分の年貢・地子銭・諸物成以下は義昭下知・信長朱印により今井宗久が代官する旨を通達(「今井宗久書札留」)。
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12月27日
・謙信、越中より春日山へ帰城。
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