2012年3月18日日曜日

寛平9年(897) 全国の移配俘囚を陸奥に還住させる。 受領の誕生。 宇多天皇(31)譲位。皇太子敦仁(13)が践祚し醍醐天皇となる。

東京 北の丸公園(2012-03-15)
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寛平9年(897)
この年
全国の移配俘囚を陸奥に還住させる
群盗追捕のために給養している俘囚が逆に群盗化するという事態に直面した政府・受領は、俘囚を陸奥国に還任させる政策を採用。
この年、政府は陸奥国に、全国に逃亡した陸奥国人を呼び戻して租税免除の特典と経営基盤を与え、辺境防衛と荒田再開発にあたらせたいとの申請を出させた(『類聚三代格」)。
申請では俘囚とは言っていないが、五畿七道諸国に居住する旧陸奥国人の大半は実際には俘囚である。
この申請を受けた政府は、俘囚を公民化する優恤・教喩政策の挫折を宣言することなく、全国の俘囚を陸奥に還任させることにした。
そして、この政策を受けた受領は俘囚に対し、優恤停止と公民並み課税を宣告したうえで、陸奥還住か残留希望かを選択させたものと思われる。
おそらく俘囚の多くは、まだ見ぬ父祖の故国での新たな出発を決断して去っていった。
この後、10世紀に入って、俘囚の処遇に関する法令・政策をみることはない。
政府は俘囚問題の決着に成功した。
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4月19日
・この日付けの官符。調庸未進の場合の中央政府への責任主体は官長のみで、介(すけ)以下は各自の責任を官長に対して果たせばよく、彼らの責任の取り方について中央政府は干渉しないと明言する。
「返抄を取らず、公文(くもん)を勘(かんが)えざるに至りては、則ち息は長官に在り、責は任用に非ざる故なり。此の一例を立てて以て受領・任用の別を明らかにす」(『類聚三代格』巻5)。
納入先から受領証を取ることが出来ず、従って調庸を納めていないと認定された場合の補填責任は、中央に対しては一に国守にある、と単純化された。
こうして中央政府に対する一国の納入責任を一身に負った存在としての受領が誕生する。
国司から受領へと国内支配の主人公が変質していく過程にあって、その下で実際に国務に携わる者たちも、編成変えを余儀なくされていった。


■受領の誕生
律令制下では、地方は諸国に分かれ、国の下に郡が設置され、郡の下に里(のち郷)が置かれた。

国を統治する国司は中央から派遣されたが、郡を治める郡司には、地元の有力者が任命された。郡の下の郷里にも地元出身の里長(のち郷長)が任じられた。

受領は、国司の四等官(長官である守・次官である介(すけ)・判官である掾・主典である目)のうち、長官である守に責任が集中するようになってからの国守の呼び名である。
親王が守となる上総・常陸・上野国においては、守ではなく介が受領になった。

律令制下では当初、中央から派遣された国司が国内支配を行うためには、郡司の地元における支配力に依存する部分が大きかった。
しかし、8世紀半ば以降、郡司以外の有力農民富豪の輩(やから)などの成長により郡司の力が衰退していく一方、国司が直接国内を支配するようになった。

国司が任期4年を終了し交替する際、官倉にあるべき米などの官物にしばしば欠損が起こるようになる。農民が納税を嫌ったり、国司自身の横領もあった。
朝廷はこれを厳しく監察するようになる。
延暦16年(797)頃、それまでの巡察使・按察使などの臨時の地方派遣ではなく、国司交替に際して官倉の欠損の有無に重点を置いた監査の役割をもつ勘解由使が中央に常置されるようになった。

国司の交替が厳しく監査されるようになると、国司の中でも最高責任者である長官の国守の交替時に、官倉の欠損について責任が追及されるようになっていく。

一方、調庸物が都へきちんと送られてくるかについての監査も変化していく。
8世紀の律令制下では、毎年、調庸物が都へ届けられ、それと同時に調庸の納入に関する帳簿も送られた。
しかし、9世紀頃になると、地方では人々が次第に調庸を滞納するようになり、都への進上も遅れた。
そこで、仁寿2年(852)年、調庸の帳簿の審査と、調庸物の都への送進の監査は別々に行うことになった。そして、調庸物の都への送進についても、国司の長官である国守の責任が問われるようになっていく。

こうして、次第に調庸物の都への未納が蓄積していったので、仁和4年(888)年、現在の国司が前任の国司以前の調庸未納分の責任を取ることは免除し、前任の国司以前の未納額の1/10を毎年調庸物の都への納入額に加算して進上することが定められた。
また、任期中に調庸物の未納があればその国司の任期終了を認めないということになった。すなわち、調庸物の都への納入を国守の任期を単位として行うことになった。
国守は調庸物の都への納入を請け負う存在となった。

国司の任期は4年だが、寛平2年(890)、調庸物の都への納入に関する国守の責任範囲を、前任国司の最終年と現任国司の3年間の合計4年とすることになった。
仁和4年(888)に定められた前任国司以前の未納額の1/10の加算が、毎年納めるべき額の1/10と軽減された。
寛平8年(896)年には、任期中に調庸などを納めたことを証明する公文として「調庸惣返抄(ちようようそうへんしよう)」が成立した。
こうして、任期中に一定額の調庸等を納めることを請け負う存在としての「受領」が成立した。
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6月8日
・右大臣(台閣の首座)源能有、没。
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6月19日
・藤原時平(27)、大納言に任じられる(台閣の最上席)。
中納言菅原道真、権大納言に昇進。
しかし、宇多のこの道真の起用の仕方は、結果的に他の公卿たちの出仕拒否を招く。
道真は、宇多に願って公卿たちに出仕を命じてもらい(昌泰元年9月18日「菅家文書」巻9)、事態は落着。
宇多が譲位後も権力を握っていたということ、何でも宇多に頼って事態を打開しようとする道真の姿勢が見てとれる。
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7月3日
・皇太子敦仁(あつぎみ、13歳)の元服の儀。
同日、宇多天皇(31)、譲位。皇太子敦仁が、践祚し醍醐天皇となる。

宇多の目論見は不詳。
譲位の詔の中で、醍醐は幼少だから、あたかも関白のような職務を果たすように時平と道真に命じていることから、少なくとも道真経由で醍醐の治世をコントロールできると踏んだように思われる。
その後の宇多の言動は、太上天皇の政治的権能を無くした嵯峨朝の政策を了解していなかったか、反故にしようとしていたかのように見える。
かなり頻繁に自らの命令を東大寺その他に発し、所領争いの現場では、その権威が受け入れられる様相もあって、宇多はいわゆる院政的な政治形態をめざした。

しかし、道真の起用の仕方を巡って賜姓(しせい)皇族(姓を賜って臣下にくだった天皇の実子)を中心に公卿(三位以上と四位の参議)たちの反発をかい、時平につけこまれる余地を生じることになる。
また、学者たちの相互対立も激しく、道真と三善清行、道真とその門人藤原菅根(すがね)の不和も伝えられ、後の院政のような院近臣層(院の側近となる廷臣)育成に失敗している。

宇多の院政路線は、その後の道真の失脚・左遷で完全にその命脈を断たれ、宇多は次第に時平とも融和的になってゆく。

醍醐天皇は母方に問題を抱えていた。醍醐の母は藤原胤子で、胤子の父は藤原高藤、胤子の母は宇治郡司宮道氏の娘。
高藤の元服の頃、狩りに出かけて突然の風雨に遭い、通りがかりの家に泊まることになり、その家の若い女性に一夜の添い寝(夜伽)を命じ、生まれたのが胤子であったという(『今昔物語集」巻22)。
細部はともかく、胤子が宮道氏の血を引いていることは事実と思われる。高藤も、父藤原良門(よしかど)と西市正(にしのいちのかみ、西市の長官)高田沙弥麻呂の娘の間の子と伝えられている(『尊卑分脈』)。
しかし、宇多と温子(基経の娘)との間に子は生まれず、義子(橘広相の娘)との間には、斉中・斉世親王が生まれたが、阿衡事件のためこの時点での即位は憚られた。
消去法と、宇多の強い「押し」により、醍醐が即位することになった。

皇太子敦仁ならば基経・時平親子とは外戚関係がないので、藤原氏北家嫡流を遠ざけることも期待できる。
しかも、皇太子には践祚当日に自分の同母の妹為子内親王を妃として配している。
これが律令に定められた妃の規定が適用された最後の例となる。
内親王身分の女性が在位中の天皇のキサキになるのは、天長4年(827)2月に立后された淳和天皇の皇后正子内親王以来のことで、宇多が藤原氏嫡流との姻戚関係を嫌ったかが窺える。

しかし為子は昌泰2年(899)に内親王勧子(かんし)を残して没する。
時平は、昌泰4年(901)3月、妹の穏子(おんし)を醍醐の女御に入れ、醍醐と穏子との間に保明(やすあきら)親王が生まれると、延喜4年(904)にはこれを立太子させてしまう。
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7月13日
・道真、時平ともに、正三位に叙す
26日、道真、中宮大夫を兼ねる
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