川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(20)
「十六 放水路の発見」(その一)
鏑木清方の荒川放水路
鏑木清方「新江東図説」(『清方随筆』双雅房、昭和17年刊、昭和12年執筆)
荒川放水路沿いの風景のなかに昔の江東(濹東)のひなびた風景が残っているのを知り、堀切橋から葛西橋の下流へかけて、よく足を運ぶようになった、と書く。
「私はただ今日あるがままの放水路以東のわずかに残された近在風景をもとめまわることを、近ごろの楽しい仕事の一つにしている」
「近在風景」(都市郊外の風景)が、東京の都市化とともに、東へ東へ、隅田川のあたりから荒川放水路へと移行している。
かつて、明治の文人墨客は、「墨水の東」、小梅、向島、綾瀬、寺島、亀戸、柳島などの近郊を、行楽、隠棲の地とした。
隅田川を越えたそれらの地には、まだ田園の静けさが残っていた。
明治37年、向島の寺島村に生まれた幸田文は、『崩れ』(講談社、1991年)で、自分のことを「育ちは郊外の農村」という。
しかし、その「墨水の東」(江東)も、工業地帯に変っていく。
鏑木清方
「その江東も明治の末頃から、水利あるために工場地に選ばれて、昔吟詠絲竹の跡、いまは動力の騒音に擾され、煤煙と塵埃とは、ありし緑草の影もとどめなくなって、かてて加えて東京の古いものを根こそぎ代替りしたかの大正の大震災があったのだから、昔景勝の地であっただけに、ここらかいわいと、根岸の里はど無残に変り果てたところはない」
ところが昭和12年初夏、荒川放水路に足を運び、田園風景が残っているのを見て感動した。
水田、清流、青蘆、鎮守の森、広重の絵に見るような松、先が見えないような長い橋。
ところどころに工場の煙突や亜鉛の屋根も見えるが、それもここでは青々とした自然の風景のなかに溶け合って、「箱庭の中の焼き物」としか見えない。
そのことを発見した清方は、しばしば、放水路に足を運ぶようになり、堀切橋から葛西橋にかけての放水路一帯を「新江東」と名づける。
「昔、唱えた江東の称を、私はいま新たにこれを放水路以東の名に呼びかえたいと思っている」
この放水路沿いの新しい風景をはじめに「発見」したのは実は、荷風だった。
清方が、昭和12年初夏、放水路に足を運んだのは、荷風の影響だった。
清方は、葛西橋付近の「人っ子一人いない海端の淋しい景色」「黒い波に立つ飛沫」を見たくなったのは「荷風大人の随筆」を読んだからだと書いている。
おそらく、荷風が、昭和11年6月「中央公論」に発表した随筆「放水路」のことだろう。
荷風と清方の親交については、「日乗」昭和2年6月29日に「始めて画伯鏑木氏に逢ふ」とある。
「放水路」。
「隅田川の両岸は、千住から永代の橋畔に至るまで、今はいづこも散策の興を催すには適しなくなった。
己むことを得ず、わたくしはこれに代るところを荒川放水路の堤に求めて、折々杖を曳くのである」
荷風は、工業地帯となった隅田川両岸から足を東に延ばし、まだ人に知られていない荒川放水路へと向かう。
荷風の”もうひとつの隅田川”、清方の「新江東」。
「荒川放水路は明治四十三年の八月、都下に未曾有の水害があった為、初めて計畫せられたものであらう」
荒川放水路は、隅田川の治水のために人工的に作られた川。
絹田幸恵『荒川放水路物語』(新草出版、1990年)。明治44年~昭和5年の19年間。
大正3年秋、荷風が六阿弥陀詣をした際、南足立郡沼田村の六阿弥陀第二番目の恵明寺で、休茶屋の老婆が「来年は春になっても荒川の櫻はもう見られませんよ」と人にいっているのを聞いてはじめて放水路工事を知った。
大正9年秋、放水路に足を運ぶ。
この日、深川の高橋から行徳に通う小さな乗合いモーター船に乗って浦安の漁村に遊んだ。
「船はいつか小名木川の堀割を出で、渺茫たる大河の上に淀んでゐる」。
思いもかけない放水路の寂然たる風景に荷風は心動かされた。
日時の記述に混乱がある。
「日乗」では、深川の高橋から船で浦安に行ったのは、「放水路」にある大正9年秋ではなく、大正12年6月8日(放水路が表れるのはこの日が最初)。
「午後杖を江東に曳く。深川高橋より行徳通の石油發動船に乗り、中川を横り、西船堀の岸に上り放水路の坡上を歩む。西岸には工場立続きたれど東岸には緑樹欝蒼茅舎の散在するを見る。蘆荻深き処行々子の聲騒然たり。船堀橋を渡り小松川城東鉄道停車場に至る時雨に逢ふ」
「今日見たりし放水路堤防の風景は恰も二十年前の墨堤に似たり」
このあとさらに大正13年8月16日に再び、放水路を訪れる。
「午後銀座に用事あり、それより電車にて本所猿江に至る」
「猿江より錦糸堀に出で、城東電車に乗り、小松川に至り、堤防を下りて蘆萩の間を散歩す。水上舟を泛べて糸を垂るるものあり。蒹葭の間に四手綱を投ずるものあり。予は蘆萩の風に戦ぐ聲を愛す」
昭和2年~3年、体調を崩した為か放水路には行かず、昭和6年~7年、再び放水路を訪れる。
「日乗」昭和6年12月2日。
「午後第百銀行銀座支店に往く、電車にて深川洲崎に至り、城東電車に乗換へ、砂町、稲荷前、境川、大嶋町、等の停留場を過ぎ、錦糸堀千葉街道口にて更に小松川行の電車に乗替へ、荒川放水路土手下の終点に至る、大正十一二年頃折々散策に来りし処なり、土手に登るに放水路の両岸に繁茂せる蒹葭は見渡すかぎり褐色に枯れ、一條の水流帯の如く其間を縫ひ行けり」
このあと、小松川橋から船堀橋まで放水路の西岸を川下に向かって歩く。
震災前よりあたりは開けているが、それでも、「両岸曠漠たる光景」に惹かれ放水路の堤を歩き続ける。船堀橋下流に以前はなかった長橋がまたひとつ架かっているのを知り、夕闇の濃くなっていくなか、そこまで歩く。
「あたり全く暗くなりし時かの橋の袂に辿りつきぬ、欄干の電燈をたよりに老眼鏡をかけて見るに、葛西橋の三字をよみ得たり」
「葛西橋の上より放水路の海に入るあたりを遠望したる両岸の風景は、荒涼寂莫として、黙想沈思するによし」と、充実した孤独を楽しんでいる。
放水路のほうから江東(深川)を見たときに見える工場の煙突の情味についても触れている。
「(葛西橋)橋上に立ちて暮烟蒼茫たる空のはづれに小名木川邊の瓦斯タンク塔の如く、工場の烟突遠く乱立するさまを望めば、亦一種悲壮の思あり」
都市生活者荷風にとっては、煙突の風景も「悲壮」の美しさを持ったものとして感じられていた。だから、荷風は放水路と同時に、深川の先の新開地、砂町にもしばしば足を向けることになる。
12月7日にも、錦糸堀から小松川に出て、放水路を見る。
翌昭和7年1月18日、東武電車に乗り、堀切で下車し、放水路と堀切橋を見る。
「見渡すかぎり枯蘆の茫々と茂りたる間に白帆の一二片動きもやらず浮べるを見る、南岸とも人家の屋根は高き堤防に遮られて見えず、暮靄蒼茫たるが中に電車の電柱工場の烟突の立てるのみ」
ここでも、放水路の風景は、「枯蘆」という田園的要素と「電車の電柱」「工場の烟突」という都市的要素の両方から構成されている。
この日は、堀切橋を渡って葛飾区の方まで足を延ばしている。
「こゝにも京成電車の停留場あり」とは京成の堀切菖蒲園駅のこと。
「隅田川以東の地は紳士の邸宅らしきものなく見るもの皆貧し気にて物哀れなれば、世を避けてかくれ佳むには却てよかるべし」
1月22日、再び堀切橋に。
「千住大橋を渡り旧街道を東に折れ堤に沿ひて堀切橋に至る、枯蘆の景色を見むとて放水路の堤上を歩み行くに、日は早くも暮れて黄昏の月中空に輝き出でたり、陰暦十二月の十五夜なるべし、枯蘆の茂り相まばらなる間の水たまりに、固き月の影盃を浮べたるが如くうつりしさま給にもかゝれぬ眺めなり」
寂しい風景こそを美しいとする。荷風の落塊趣味。
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(その二)に続く
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