東京 江戸城(皇居)梅林坂(2012-02-28)
*川本三郎『荷風と東京 「断腸亭日乗」私註』を読む(18)
「十五 隅田川を渡って - 深川」(その1)
*
「「裏町」ほど荷風の心をひきつける。
陋巷であればあるほど荷風はそこにすがれた情感を覚える。」(川本)
「日和下駄」の本所深川あたりを論じた文章。
「私は今近世の社會問題からは全く隔離して仮に単獨な絵画的詩興の上からのみかゝる貧しい町の光景を見る時、東京の貧民窟には龍動(ロンドン)や紐育(ニューヨーク)に於いて見るが如き西洋の貧民窟に比較して、同じ悲惨な中にも何処となく云ふべからざる静寂の気が潜んでゐるやうに思はれる」
「傍観者的な位置に自分を限定したうえでの荷風の零落趣味である。」(川本)
大正12年5月19日。
隅田川の東、本所深川。
「日比谷より本所猿江行の電車に乗り小名木川に出で、水に沿うて中川の岸に至らむとす。日既に暮れ雨また来らむとす。踵を回して再び猿江裏町に出で、銀座にて夕餉を食し家に歸る」
麻布、日比谷、日比谷から本所猿江行の電車は、新大橋を渡り、現在、都営新宿線が走る森下町を通り、大横川に架かる菊川橋が終点。おそらく荷風はここで降り、大横川に沿って南へ歩き小名木川にぶつかったところでさらに大横川に架かる猿江橋を渡り、猿江の「裏町」を歩いたのだろう。大正2、3年頃に比べると「新開の町つゞき」となったと書く。深川の工場街が東に延びている。
「たまたま路人の大聲に語行くを聞けば、支那語にあらざれば朝鮮語なり。
此のあたりの工場には支那朝鮮の移民多く使役せらるゝものと見ゆ」
(この項に註あり。(その2)参照)
翌5月20日もまた隅田川を渡って「裏町」をひとり歩く。
「昨日の散策に興を催せしのみならず、鴎外先生の抽齋伝をよみ本所旧津軽藩邸附近の町を歩みたくなりしかば、此日風ありしかど午後より家を出づ。
津軽藩邸の跡は今壽座といふ小芝居の在るあたりなり。
総武鉄道高架線の下になりて汚き小家の立つゞくのみなり」
抽齋の主、弘前城主津軽順承の上屋敷は本所二ツ目にあり、抽齋は縁町、のち亀沢町に住んだ。つまり、この日、荷風は、抽齋ゆかりの地を訪ねる文学散歩を楽しむ。
5月19日の町歩きでは、「裏町」に興を覚え、翌20日には、抽齋ゆかりの地を歩く。
荷風にとって本所深川は、「裏町」として、また、江戸の香りを残す古き良き町として二重に魅力的に見えた。
深川は、江戸以来の木場、洲崎遊廓、富岡八幡宮と深川不動尊の門前町と、明治以降に登場した浅野セメントのような近代工場が錯綜した東京の下町である。
「日和下駄」の言葉を借りれば、浅野セメントの工場と新大橋の向こうに残る古い火見櫓、つまり「工業的近世の光景と江戸名所の悲しき追蹟」が混り合った町である。
一帯には、小名木川、仙台堀川、六間堀、大横川、油堀など大川に通じるさまざまな掘割の流れる水の町である。
西村眞次著『江戸深川情緒の研究』(『深川区史』下巻、大正15年)。
深川は江戸の町のなかでもいちばんおくれて生成した土地であり、深川の人間は、隅田川を渡って市中に行くことを「江戸へ出る」といっていたという。同じ隅田川沿いの町でも、川の東側と西側とでは町の雰囲気が違う。東の深川、その北の本所のほうが陋巷の影が濃い。
「深川の唄」(明治42年)。
荷風が日本を去る明治26年頃まで「悲しい裏町」の深川には繁華な市中からの電車の便はなかった。市中から深川に行くには、汐留から出て三十間堀を通って隅田川をさかのぼる蒸気船か、八丁堀の河岸から出る櫓舟に乗るしかなかった。深川は、川の向こうの、陋巷の残る町だった。
荷風はそこに惹かれた。
「帰朝後、西洋化のすすむ市中の光景に反発した荷風は、川を渡った深川に、開化文明に取り残されたような「悲しい裏町」が残っていることに慰安を覚えた。」(川本)
随筆「大窪だより」(大正2~3年)には、当時、荷風が好んで深川と本所を歩いたことが書かれている。
両国の回向院、竪川、四ツ目牡丹園、猿江、小名木川、森下町、木場、洲崎。
そして、この深川への散策は「日乗」にも受け継がれる。
大正11年10月31日
「午後深川公園より浅野セメント工場の裏手を歩み、此頃開放せられし岩崎男爵別邸の庭園に憩ひ、薄暮に至るを俟ち明治座前の八新に往く」
大正13年9月15日
「午後永代橋を渡り八幡宮境内災後の光景を見歩き、木場を過ぎ、洲崎遊廓を歩む」
昭和3年8月28日
関根歌と深川不動尊の縁日に出かける。「是夜深川不動尊の賽日にて橋上人の往来多く、電車通り夜店賑なり」
「岩崎男爵別邸の庭園」は、現在の清澄庭園。
浅野セメントの工場はそのすぐ隣りにあった(現、日本セメント研究所)。
野口富士男『わが荷風』。
「荷風が好きな土地といえば、晩年の彼から浅草を想いうかべる人がすくなくあるまい。・・・が、その生涯を通じて彼がパリの次に最も愛したのは、深川といっていけなければ隅田川以東-げんざいの墨田区から江東区の一円にかけてではなかったか」
"
"親友井上唖々宛ての手紙。「金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね」(明治41年8月8日)。
翌42年、「深川の唄」で深川の町への傾斜を告白。
同年12月~翌年2月、東京朝日新聞連載の長編小説「冷笑」。
第4章「深川の夢」で江戸情趣の残る深川の町を礼讃。おきみさんという洲崎の引手茶屋の養女。その美しさを引き立てるのは、深川という水の町であり、町も美しい女を配されることによって魅力を増す。
「私は唯水の多い、私の好きな深川の景色がこの女性を得て更に美しく、或時は堪へがたいまでに私の詩興を誘ってくれるのを非常なる賜物として喜んで居たのである」
この「水辺の女」のモチーフはのちに「濹東綺譚」に受け継がれていく。
「深川は、単に散策の場としてではなく、荷風にとって”文学の生まれる場”と感受されている。
のちに荷風は、深川からさらに東は葛西、葛飾へ、北は濹東の玉の井、戦後は向島の鳩の町へと、関心の向かう場を拡大していくが、原点は深川にあった。」(川本)
「荷風にとって深川は曾遊の地である。
外遊後に「発見」した下町でなく、十代のころにすでによく歩いていた町だった。
・・・とくに小石川、番町、大久保と東京の山の手に住んだ荷風にとっては、隅田川を渡った本所深川が、ふだんの生活圏とは違った異郷として新鮮に思えた。
山の手が明治の新しい階層の町とすれば、下町は明治以降、工場地区となりながらもなお江戸の残り香を保っていた。」(川本)
「深川の唄」。
帰国後、性急に文明化していく「浅聞しい此の都会の中心」に違和感を覚え、思い立って、市電に乗り古き良き深川へ出かけて行く散策記。
12月20日過ぎ、あまりにもいい天気なので、深川を歩こうと、四谷見附から築地両国行きの市電に乗る。電車は、麹町、半蔵門、三宅坂、日比谷公園、数寄屋橋、尾張町、木挽町、新富町と走る。茅場町で乗りかえて、永代橋で隅田川を渡り、深川へと入る。
「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづかに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云蓋し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである」
「場末」「淋しく悲しい裏町」のなかにすがれた美を見ようとする荷風独特の零落趣味。
時代から取り残されていくもの、隅のほうに押しやられていくもののなかに美を見ようとする。
荷風のロマンチシズムである。
深川のなかに「場末」「裏町」と同時に、失なわれた江戸情趣を見ようとするのも同じ心情のあらわれである。
荷風は「深川の唄」で、水の町に残る江戸の残り香を回想してみせる。
堀割、深川不動の縁日、水に映る祭りの日々の衣服や提灯の色、夏の洲崎遊廓の灯籠、人影しずかな料理屋の二階から聞えてくる芸者の唄。
荷風は、ことさらに深川の古き良き江戸の町という側面を強調する。
「それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は實に平和であった」
「開化文明を嫌った荷風から見れば、「淋しく悲しい裏町」は、静かな隠れ里であり、逆説的なユートピアになる。」(川本)
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(その2)に続く
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