2012年3月12日月曜日

昭和17年(1942)2月14日 「市中にては銭湯の盗難甚多しとの事なり。・・・細民の窮困漸く甚しきに至りし証據なるぺし。」(永井荷風「断腸亭日乗」)

京都 北白川 圓光院 (2011-12-24)
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昭和17年(1942)
2月5日
二月初五。快晴の空風しづかにして暖なり。終日机に憑る。
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2月6日
二月初六。半陰半晴。風曖なり。午後安東菅原永井の三子来訪。ヴイクトルユーゴーの詩篇鐘の翻訳につきてなり。原作はサンサアンの作曲なりと云。
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2月7日
二月初七。快晴。昏暮土州橋より淺草に至る。また菅原君の来るに逢ふ。
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2月8日
二月初八 日曜日。餘寒凛冽なり。昏暮物買ひにと銀座に行く。燈下執筆暁明に至る。
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2月9日
二月初九。晴。春寒料峭たり。夜金兵衛に飰す。
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2月10日
二月十日。同雲暗淡たり。物買ひにと夜淺草に行く。
壜詰牛肉大和煮と称して鯨肉を賣る店多し。
新橋邊に多く酔漢の彷徨するを見る。
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2月11日
二月十一日。晴。餘寒忍ぶべからず。終日家に在り。草稿をつくる。房陽山人に手紙を送り去年四月用立せし金子の返済を請ふ。
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2月12日
・二月十二日。夜淺草の歸途金兵衛に飰す。偶然杉野歌川の二子に逢ふ。
二三日来日英戦争のため株式相場暴落すと云。
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2月13日
二月十三日。風吹きすさみて寒ければ家に在り。小説の草稿稍進むことを得たり。夜寫眞現像。
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2月14日
二月十四日。晴。昏暮土州橋病院に至る。
この頃外來患者の靴外套を盗まれしこと再度に及ぶと云。市中にては銭湯の盗難甚多しとの事なり。
震災以後近年かくの如き盗難は一時その跡を絶ちたるに再びこの事あるは細民の窮困漸く甚しきに至りし証據なるぺし。
アパート及貸二階等の晝鳶もいよいよ多くなれりとの噂なり
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昼鳶(ひるとんび):「こそ泥」のこと
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この頃、日本国内では赫々たる戦果が報じられた熱狂にあった筈なのだが、荷風はそれを一切黙殺し、発表のあてのない小説創作に集中している。
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同時期の「黙翁年表」を掲げると・・・・下記。


2月5日
・日本12軍、魯中作戦開始。26日迄。
山東中央部の国民党干学忠軍10万撃破。
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・ニューブリテン島スルミ占領
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・シンガポール、この日迄にセンパワン、セレター、カランの3飛行場破壊。
テンガー飛行場残すのみ。本国輸送のハリケーン戦闘機大半破壊
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・イギリス、『ディスクレイム(拒絶)』作戦(英工作隊によるユーゴ・パルチザン支援作戦) 
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・ロンメルの進撃、ガザラで停止
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2月6日
・マレー戦、第25軍司令部山下奉文中将、スクダイに戦闘司令所を進める。
シンガポール上陸を1日遅らせ8日午前0時(日本時間)とする。
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・元商工相藤原銀次郎、日商会頭藤山愛一郎ら5人を海軍軍政顧問に任命
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・帝国ホテル内で、大東亜共栄圏駐日記者懇親会開催
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・三菱財閥グループ、第1回南方連絡会開催。
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・ワシントンに英米統合司令部設置の布告
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・自由フランス軍、ネベック入り
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2月7日
・夜、近衛師団一部約400、折畳舟艇20隻により、シンガポール北東ウビン島上陸。陽動作戦
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・フィリピン、バタアン戦、第16師団恒広・木村両大隊の救援収容、難渋。
朝、第16師団司令部は「砲と戦車のため苦戦中、第一大隊は玉砕せんとす」との無線連絡を受ける。
師団は軍の承認を得て、恒広・木村両大隊に撤退準備を命令するが、両大隊がこれを受領したかどうか不明。
夕、師団は両大隊救援収容のため有力な舟艇群を現地付近に向かわせるが、猛射と水雷艇攻撃を受け、発見できぬまま帰還。
翌8日夜、再度の救援行で、海岸近くに集まる重傷者34人を収容した。
航空隊が、両大隊の位置確認と戦闘状況偵知のための努力を続けるが、ジャングルに妨げられ目的を達し得ず。

戦後、ウイロビー少将は稲美正夫(防衛庁戦史編纂官)に、「バタアン戦線の日本兵は、猿のように高い木に登ってわれわれを狙っていることがあり、いつなんどき上から襲われるかと常に恐怖にかられていた」と語る。
1月28日、米軍は日本将校の死体から軍命令を発見し、西海岸の上陸橋頭堡を増強し、マリベレス(バタアン半島南端、コレヒドール島を眺める位置)に向い突進する日本軍の企図を知り、予想上陸に対抗する措置をとる。

米軍の記録では、2月8日、恒広大隊を完全に沈黙させる。9日、木村大隊は兵約200で逆襲、戦線突破し、主力と思われる約80人が北方に脱出。だが主抵抗線南方1マイル(1.6Km)で発見される。米軍はこの掃討に尚2日を要すとある。
この方面の米比軍損害は死傷者170。奇蹟的に生還した木村大隊の兵によれば、10日、木村大隊長は「泳げる者は脱出して、この情況を本隊に伝えよ」といい残して戦死、11日、各中隊長が残存部隊を集め、「受傷して歩行適わずは自決せよ。生きて恥を晒す勿れ。死して護国の鬼とならん」と夫々訓示し敵陣に突入玉砕したという。

密林に飲み込まれ消息を断った隊は恒広・木村両大隊の他にもある。米比軍の火力は依然激しく、第1線部隊の死傷者は増加。
今井武夫指揮第141連隊の場合、1月9日~24日、戦死約350・負傷約400。
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・東横電鉄・京浜電鉄・小田急電鉄が合併し、東京急行電鉄が発足
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・ドイツ、軍需大臣トート死亡、後任にアルベルト・シュペーア
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2月8日
・フィリピン、第14軍(本間中将)作戦会議。サンフェルナンド。
討論の末、本間中将は一旦攻撃を中止し、防勢に転じることに決し、10日、大本営にその旨報告。

議論は、①甲案(攻撃続行)、②乙案(一時態勢を整理し、増援兵力の到着を待って後図を策する)の2つに分れる。
甲案支持は中山高級参謀・佐藤作戦参謀、乙案支持は前田参謀長・牧作戦主任参謀。
数時間の討議の末、午後6時、本間は乙案によって「捲土重来を期すべし」との裁決を下す。

この日付け本間の日誌、「日誌を書く元気なし。最後の場合には立派に戦死する覚悟を堅む。午後全参謀会議。涙出でて止まらず。恒広、木村両大隊の救援成らず。軍は既に攻撃力減衰す。不敗の隊勢を整備して後図を策するの外なし。残念此上なきも然らざれば九仭の功を一簣に欠き、マニラ占領も無に帰するの虞なしとせず。已むを得ざるの処置なり。然し前途に光明ある次第にあらず」。
翌9日付けでは、「東京が軍司令官を取替えるというなら甘んじて替る」と書き、半年後の罷免を予測。
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・マレー戦、第25軍司令部山下奉文中将、ジョホール王宮に戦闘司令所を移す。
9日午前0時10分(現地8日午後10時30分)、ジョホール水道の第25軍全砲門440、シンガポール総攻撃。9日朝迄に3万、渡りきる。

地上総兵力計約5万。歩兵27大隊(近衛歩兵3連隊を除く)、砲兵14大隊(砲140門、速射砲・歩兵砲は含まず)、戦車3連隊(135両)、舟艇180隻。航空支援は、南方軍スマトラ作戦への転用から、第3飛行集団(菅原道大中将)の兵力は削減され、戦闘機60・軽爆撃機60・重爆撃機60。

日本軍の上陸地点予想。
オーストラリア部隊のベネット少将は北西岸と予想。1月20日にシンガポール防備を視察したウェーベル大将も北西岸を指摘。
しかし、バーシバル将軍は、北東部と考える。北西部は渡河距離が短いが、岸はマングローブと湿地に蔽われ、大部隊の作戦には不適当。北東部には日本軍の目標である要塞があり、日本軍はまっしぐらに、おそらく、破壊されたジョホール橋を渡ってくるだろう。将軍は北東部に新鋭の第18英師団を配し、北西部は第8オーストラリア師団と第44インド旅団の担任とする。

8日朝、近衛師団の野砲36、連隊砲12、重砲4、計52門がウピン島対岸チャンギ要塞に砲撃を集中。
午後10時30分、ジョホール水道北側高地に配列の第25軍の全砲門440が一斉砲撃。水際陣地は水煙・土煙に包まれ、鉄条網はちぎれ、トーチカ吹き飛ぶ。砲弾の下を、第5、18師団の第1陣約4千が、舟艇300隻で水道を渡る。
午後10時40分、第5師団、次いで第18師団の上陸点に、上陸成功を知らせる信号弾が上がる。守備の第2/18、第2/19オーストラリア大隊は、猛砲撃に塹壕・トーチカ内に隠れており、第1回上陸は完全な奇襲となる。
第5、18師団の戦闘部隊約3万を運ぶには、舟艇300隻は約8往復しなければならず、全員を運び終った時、夜はすっかり明けている。また、第2波上陸以後は、立ち直ったオーストラリア部隊の機銃弾の雨の中を進まねはならなかった。
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・ケソン、ローズヴェルト大統領にフィリピンの即時独立と中立化を認めるよう求める書簡を送る。
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2月9日
・シンガポール、午前1時、日本軍を迎えたオーストラリア2個大隊(オーストラリア第18連隊第2大隊、オーストラリア第19連隊第2大隊)、早くも退却開始。

夕方、テンガー飛行場占領。

バーシバル将軍は、日本軍の北西部上陸は欺瞞作戦であり、主力はやがて北東部にくると信じるが、各指揮官に対し、万一の場合は、シソガポール郊外に後退布陣する計画を内密に指示。しかし、この計画は、9日午後9~10時30分、命令として西部地区前線指揮官に伝えられる。

夜、近衛師団がクランジ川付近に上陸。守備の第27オーストラリア旋団長マクスウェル准将、一戦を交えただけで後退。しかし、川口にいた「ダル・フォース」200人は小銃・手榴弾により最後の1兵まで戦い、全員戦死。

「ダル・フォース」(「ダリーの無法者たち」「ジョン・ダリーの中国人ノド切り部隊」)。
日本軍がジョホール水道に迫り、シンガポール砲爆撃が強化されると、中国人街の壁に、「立て、奴隷になりたくない者は立ちあがれ、汝の肉と血で新しい万里の長城を築け」というビラが貼られる。これに応え、華僑の若者がマレー保安警察情報部長ジョン・ダリー大佐の許に集まる。教師、学生、事務員、労働者、車夫、金魚売り、金持ち、貧乏人、中年の実業家、国民党系華僑、志願した為に釈放されたマレー共産党所属の華僑、延安からやってきた中国共産党負、等4千が集まる。
これより前の1940年、ダリー大佐は報告書「ジャングル遊撃パトロール隊」をマレー英軍司令部に提出、日本軍進攻の際のゲリラ隊組織の必要を強調するが、受容れられず。1941年12月、インド第3軍司令官ヒース中将が報告書に目をとめ、ダリー大佐に計画実行を指示。大佐は、クリスマスの直前、クアラルンプールで「ダル・フォ・-ス」の中核部隊を組織。

シンガポール華僑の抗日活動。南方華僑1500万~2500万人の中で、経済的政治的中心勢力を占めるマレー、シンガポール華僑は、本国政府と呼応して抗日意識を高め、政府の資金源になるとともに抗日義勇軍華僑連合会も設立。
日本はこの華僑の動向を知り、マレー進入にともなう華僑対策は、華僑の利用よりも現地住民による反華僑勢力育成を基本方針とする。
謀略、政治工作の対象がマレー、イソド人に集中したのも、その現われ。
これに対し華僑連合会は、消極的抗日運動だけでなく、日本軍の全線にわたり積極的に後方撹乱・情報工作を行なう。

第25軍情報参謀杉田一次中佐の極東軍事裁判での証言。
「馬来作戦に於て華僑はその終始を通し・・・我が作戦を不利ならしめたること甚し。・・・ひんぱんなる通敵行為により我作戦企図は敵に察知せられ・・・我部隊の密集地城に砲爆撃を蒙り・・・兵站線の襲撃、交通線、軍用通信線の破壊・・・を実施し軍需品特に弾薬の戦場到着を遅延せしめ、ために神速を要せし馬来作戦を妨害困難ならしめたること屡々なり」。
このような華僑の態度に、日本軍はますます反感を燃えあがらせ、イポー、クアラルンブールでは、抗日分子とみられる華僑を処断。日本軍の硬化は、更に華僑を刺激し、シンガポールでは、抗日義勇軍華僑連合会の他に、抗日女性労働者部隊、シンガポール華僑抗日委員会などの抵抗組織が生まれる。

9日夜の状況。
水道橋西側のクランジ川付近に近衛師団が上陸。第25軍は、近衛師団が北から、第5師団が西から中央を、第18師団が第5師団の右翼、やや南岸沿いに、三方から前進。

夜、辻参謀が第18師団司令部を訪れ、作戦主任参謀橋本洋中佐に対し、2月11日の紀元節にプキテマ高地を占領して欲しい、と言う。

紀元節というだけでなく、シンガポール戦の後は、近衛師団はスマトラ、第18師団はビルマに転用される事になっており、マレー作戦用航空兵力である第3飛行集団には、既に南方軍は14日からバレンパン攻撃開始を命じている。
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・ドイツ、「マラリア」作戦。オシポビチ地方でのソ連パルチザン掃討作戦。
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2月10日
・シンガポール、朝、第25軍司令部山下奉文中将、ジョホール水道を渡り、テンガー飛行場北方英軍高射砲陣地跡に戦闘司令所を進める。

第18師団は南から、第5師団は北からプキテマ高地に進む。守備主力の第22オーストラリア旅団の抵抗は激しく、第18師団第56、114連隊は攻めあぐむ。
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・蘭印・セレベス、日本海軍陸戦隊と蘭印軍の停戦協定。

カンピリ抑留所。
協定により連合国関係者は戦闘員、男子非戦闘員、婦女子と3分して抑留されることになる。捕虜はマカッサル、男子はパレパレ、15歳以下の子供・女子はマカッサル約80Kmの高原避暑地帯マリノで自活することになる。
しかし、占領後、現地人の蘭人ら白人への離反が甚だしく、危険な事態も予測され、日本軍人と婦人たち間の風紀問題もあり、昭和16年11月26日の「占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定」によって蘭領ボルネオ、モルッカ群島、小スンダ列島、ニューギニア、ビスマーク諸島、グァム島、セレペスの軍政担当することになっている海軍では、不測の事態を防ぐ為、婦女子を隔離保護する。
場所はマカッサルに近く、蘭統治時代サナトリウムとして名高かいカンピリが選ばれる。
所長に指名されたのは香川県の農村出身の山地兵曹(27)、隊員僅か7名というもの。被抑留者は蘭印総督令嬢、マカッサル市長夫人など名門女性が多く、若い下士官の所長は敵意をもって迎えられるが、彼は、環境改善、保護に努める。所内に自治制度を導入、農園・豚舎などをつくり自給自足体制を築き、軍用被服縫製を引受けるのと引替えに、ミシン・材料を入手し抑留女性の身だしなみを整える算段をし、禁を破ってオランダ語学校まで作る。
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・坂口支隊、バンジェルマシン占領。
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・フィリピン、第14軍参謀長前田正実名で大本営と南方軍宛てに、現態勢を整理し後図を策するに至った実情を報告。電報は「攻撃続行案」支持の佐藤参謀が起案し、本間・前田が筆を入れる。

「・・・現下ノ状況ニ於テハ此ノ儘攻撃ヲ続行スルモ成功ノ見込少ク且更ニ重大ナル犠牲ヲ覚悟セサルへカラス最悪ノ事態ニ於テハ比島作戦全般ニ重大ナル影響ヲ齎ス惧無シトセス・・・軍ニ於テハ茲ニ血涙ヲ呑ミテ現在ノ態勢ヲ整理シ暫ク戦力増強ヲ計り爾後ノ攻撃再興ノ場合ニ備ウル卜共ニ併セテ情勢ノ推移ニ応スル適当ナル施策ヲ講スル様決セラルルニ至リシ次第ナリ」。

10日付け本間の日誌。
「いよいよ最後の時が来れば、立派に武人らしく戦死したいと思う。しかし力尽き箭くだけ手に一兵もなくなるまでは頑張る」。
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・南川潤「八つの作品」発禁
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・チャーチル首相、シンガポール死守命令。
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2月11日
・朝、シンガポール、第5・18師団、ブキテマ高地攻撃開始。
この北方を進む近衛師団(西村琢磨中将)は、ブキテマ東方貯水池に迫る。
激闘は、白兵戦も含め翌日も続き、近衛師団が水源地東側から斜めに高地に迫り、攻略。しかし、その頃になると、第25軍に疲れが目立ってくる。

朝、両師団将兵がプキテマ高地に殺到。辻参謀の作戦計画によれば、後は敵の降伏勧告受諾だけとなり、偵察機がシンガポール郊外の敵陣に「英軍司令官に対する降伏勧告文」を入れた木箱29個を投下。
ところが、プキテマ高地奪取は手間どる。高地南側~海岸に布陣した第44旅団・第1マレー旅団は、第18英師団から第5ベッドフォードシャー、ハートフォードシャー大隊の増援を受け、体制を立て直し、第2/15オーストラリア野砲連隊・第5英野砲連隊の協力の下に、逆襲。プキテマでは終日、肉弾戦が展開。

ブキテマ高地突入後、英軍の砲火は第5師団第31旅団(杉浦英吉少将)と第18師団に集中し各部隊は釘づけになる。0730頃より、英軍は南方から攻勢に転じ、砲兵隊支援のもと反撃を開始。第5師団歩兵21・42連隊の損害は続出13、14日も戦局に見通したたず。14日には、師団、砲兵ともに弾薬が尽き、軍司令部でも攻撃一時中止の声が聞かれるようになる。

「降伏勧告文」を投下するが、「夕刻ニ重ルモ返事ナシ」と山下中将が不服げに日誌につぶやいているように、パーシバル将軍は降伏せず、日本軍の前進もはかどらず。
山下中将は近衛師団の戦いぶりに不満。
前日には、「渡河部隊ハ石油ニ焼カレ全滅ス」と報告きたり、「何事モナキ故前進ス」と訂正したり混乱が目立つ。
11日の行動も不活発で、山下は日記に、「GD(近衛師団)ハ不相変グズグズ。業ヲ煮ヤシ馬奈木少将ヲ派遣シテ督促スルニ、一時ハ善キモ又元ノ木阿弥。蓋シ怯懦ニシテ戦ヲ避ケテウロウロ動キ回ルニ過ギズ」と書く。

バーシバルは、カニング兵営の司令部で指揮。
日本軍第5、18師団がアキテマ高地に突進すると、北部の英第18師団から2個大隊を増援。それ迄、日本軍第18師団に圧迫されていた第44旅団・第1マレー旅団は、増援と協同して東南の側方から日本軍を攻撃。
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・11日~13日、トーマス高等弁務官、シソガポール「始末」を命じる。放送局設備破壊、500万海峡ドル紙幣焼却、150万本の洋酒、6万ガロンの支那酒の破棄。
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・社団法人日本新聞連盟、日本新聞会へ発展的解消
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・日本少国民文化協会発足
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・ドイツ海軍、2戦艦の海峡突破作戦。
「シャルンホルスト」「グナイゼナウ」、ブレストに到着
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2月12日
・連合艦隊旗艦、戦艦「長門」より「大和」となる。
この日から、連合艦隊第2段作戦の図上演習。

連合艦隊の第2段作戦構想は、アリューシャン、ミッドウェーを攻略後、一旦トラック島に集結。次にフィジー、サモア、ニューカレドニアを攻略、機動部隊はシドニーを空襲して、再びトラックに帰航。更にジョンストン島からハワイを攻略するというもの。
審判長は、統監と青軍(味方)司令官を兼ねた宇垣参謀長。
ミッドウェー攻撃の際、敵陸上爆撃機が味方空母を襲う。統監部員奥官正武少佐(4航戦参謀)が、爆撃命中率を決める為にサイコロを振る。
結果、「赤城」に命中弾9発と出るが、宇垣審判長は奥官少佐に、「ただいまの命中弾は、三分の一、三発とする」と言う。9発なら沈没、3発なら小破。「赤城」は再び戦列に加わる。
数次の攻撃で「加賀」は沈没と決まるが、次のフィジー、サモア作戦には、沈んだはずの「加賀」が堂々と参加。
居並ぶ参謀たちは、一方的な宇垣参謀長の統監ぶりに、「さすが心臓の強い飛行将校達もあっけにとられるばかりであった。」(奥宮正武・淵田美津雄共著「ミッドウェー」)。5月1日~4日間のこととする、記述もあり。
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・臨時軍事費予算追加
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・民法改正で庶子・私生児の名称を廃止
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2月13日
・兵器等製造事業特別助成法公布
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2月14日
・蘭印、1126第1挺進団(久米精一大佐)第2連隊空挺部隊430、スマトラ島パレンバンに落下傘降下。15日、第2悌団降下。パレンバン市街に突入、占領。油田を破壊させない為。18日、南部スマトラを制圧。

降下部隊は2波に分れ、マレー半島カハン、クルアン飛行場を出発。
14日午前10時頃、久米大佐直率第1波240人はパレンパン飛行場、中尾中尉指揮第2派90人はパレンバン精油所付近に降下。空挺作戦には、陸軍機約140、海軍機約180が協力。降下部隊は、これら航空機の援護の下に前進。飛行場の高射砲・高射機銃・トーチカ陣地は爆破され、飛来したスピットファイアー戦闘機5磯の内3機が撃墜。降下部隊は、落下地点が密林又は湿地帯の為、兵力集結が遅れ、3~6人の小集団単位で、更に、投下した兵器・弾薬の行方がわからず、身につけた軽火器・手榴弾で突進。英・蘭・濠連合守備隊(約500)は装甲車で応戦、市街の兵舎より増援部隊が来援。降下部隊は、装甲車・トラックを待ちうけ、その機銃を奪ったり、拳銃1挺で1個小隊のオランダ兵とわたりあうなど、随所に激戦を展開。
降下部隊は39年春から志願兵だけで構成される精兵ぞろいで、勇猛かつ能率的な闘いの結果、飛行場は14日午後7時半、精油所は同深夜、占領。降下部隊死傷者約40人。精油所のうち、西側のBPM工場は殆ど無傷で占領するが、東側のNKPM工場は降下部隊着陸と同時に放火、破壊され、施設の約80%を損傷。
翌15日、更に100人が飛行場に降下、第1次隊と合流し、同日夕刻、パレンバン市に突入。
18日、第38師団主力はムシ河口から舟艇でパレンパン市に入り、軽微な抵抗のみで南部スマトラを制圧。
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・マレー、第25軍参謀池谷半二郎大佐、ジョホール~シンガポール送水管切断させる

山下中将、「市民ニ対シテ恐怖心ヲ抱カシムル」為、市内の砲兵陣地砲撃を命令。居住区域に落下する砲弾もあり死傷者もでる。

ジョホール水道橋の修理が完成し、重砲部隊が前進。
もともと12、13日迄の戦闘を予想した砲弾なので、残量が少なく、第一線各師団の砲には数発を残すだけのものもある。また、糧食も欠乏。
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・「広域爆撃指令」により、イギリス空軍は特殊目標から一般市街目標攻撃へ方針転換

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