永禄12年(1569)
4月
・明知光秀・羽柴秀吉、京都の諸政に関与する。
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・この月~元亀2年10月迄、信長は禁裏修理費1万貫を負担。
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・信長、山城清和院へ院領の山城西岡富坂・敷地・末寺について代々の綸旨・下知により安堵(「清和院文書」)。
猪飼野佐渡守・孫右衛門尉へ、近江滋賀郡山中からの木場役を従前の如く取沙汰する旨命令(「高須文書」)。
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・義昭、本願寺顕如へ幕府御料所である越中太田保に関する命令を下す。
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・毛利元就、足利義昭へ石見国大森銀山の半分を付加。
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・神保長職、一向一揆・椎名康胤に挟撃されて苦戦し、上杉謙信に援軍を要請。
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・小早川隆景弟毛利元清(先手三村元親)、備中・宇喜多方佐井田城、包囲。宇喜多直家、来援し、毛利勢は敗北。
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・朝倉氏と本願寺・加賀指導部、最終的和議を締結。
顕如の室の如春尼と義景の室(但し早世)は細川晴元の子女であるが(「朝倉始末記」)、元亀2年(1571)4月義景の娘が将来顕如の子教如へ嫁する約束も交わされる。
永正3年以来の一向宗禁制は60年ぶりに解除、亡命寺院は越前各地へ復帰。
長期間断続的な戦いで両国軍事力は疲弊し、越後上杉勢の伸長や織田信長勢の上洛という新情勢の展開に座していられないとの共通認識があるため。
禁制解除後、越前教団は急速に復興。
亡命寺院の復帰とあいまって、それを迎え入れる多数の門末の禁制下における永続的な営みがあった。
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4月1日
・柴田・森・坂井・蜂屋・佐々木、堺に資金提供を催促。
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4月3日
・松永久秀(60)、京都より大和多聞山城へ帰還。
この月、弾正少弼を改め山城守と称す。
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4月3日
・信長と義昭、禁裏修築方針で衝突。
信長は、「禁裏御大工総官」を宗久とし、義昭は宗定とする。
この月、義昭、禁裏大工惣官を定宗とする幕府奉行人奉書発給。
この日から元亀2年10月迄、信長、禁裏修理に1万貫を費やす。
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4月3日
・信長、二条御所建築現場でフロイスに謁見。2時間程話す。
フロイスは京都居住許可証の下付と仏教学僧との宗教論争願う。後、叶う。
信長は、和田惟政に命じ、義昭がフロイスを引見するよう案内させ実現。
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4月5日
・信長、山城八瀬童子の諸商売について綸旨・将軍家代々下知に任せて安堵。
八瀬童子の居住地八瀬の山林・竹木伐採や郷質・所質を停止。(「八瀬童子会文書」)
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4月6日
・この日付け佐竹義重宛て信玄書状によれば、信玄も北条氏の越相同盟締結の動きを察知し、小田原侵攻を懇願、信長からの援軍も近く到着する、自分も小田原に攻めのぼると伝える。
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4月7日
・信長、紀伊金剛峯寺へ、三好三人衆に加担し度々の軍事行動及び要害構築したこと、大和宇智郡に於ける不法行為(2城を構築)などを譴責し、恭順の意を示さなければ成敗すると通達(「高野山恵光院文書」)。
金山信貞(三好義継家臣)、紀伊国守護代遊佐盛・三宅智宣・遊佐高清からも同様通達。
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4月7日
・足利義昭、上杉輝虎へ、「甲越無事」の件で返答を督促。再度の使者派遣と軽率な出陣を誡める。詳細は信長に伝達させる。
信長、直江景綱へ、去々月に上杉輝虎・武田信玄の和睦に関する足利義昭御内書が下されたが、使者帰洛が無いため再度御内書が送付されたので、この旨に応ずるよう促す。(「上杉家文書」)
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4月7日
・信長、本郷信富へ、武田義統(義昭妹婿)の「折紙」に任せ若狭本郷の年貢以下を集積し名家本郷家の維持を安堵(「若狭本郷文書」)。
若狭の旧武田家臣の状況:
三方郡の粟屋勝久は、武田氏に背き朝倉氏援軍の攻撃を受ける中で早くから信長と意を通じる。
この月、大飯郡の本郷氏や、未だ去就の定まらない治部助・広野孫三郎ら武田元明近習「三十六人衆」の許に、領地安堵と一致団結を促す信長朱印状が届き、旧武田家臣の多くが信長につく態度を明確にする。
建前上は将軍支配の若狭について、信長は旧武田家臣をほぼ掌握。
信長の下に結集することで、分裂している旧武田家臣が一つの纏りを取り戻す。
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4月8日
・松永久秀・久通、「南」(摂津方面)へ出陣。
三好義継・畠山高政、摂津・河内・和泉の軍勢を率い出陣。
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4月8日
・宣教師フロイス、在京中の信長から、
①京都居住許可、②課役など義務免除、③領国での滞在許可と、この内容を妨害したり、バテレンに苦痛を与える者の処罰を保障する朱印状発行。
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4月10日
・信長、山城北野社松梅院へ、社領丹波船井郡の「地頭職」11ヶ村を将軍家代々の判・義昭下知に任せて安堵(「北野天満宮史料」)。
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4月10日
・飯尾貞遙・諏訪俊郷、上山城賀茂荘へ、社領安堵と毎年400石の運上・軍役100人徴集を通達。
14日、明智光秀・木下秀吉、山城賀茂荘中へ、「落来」(隠蔽)田畠について義昭下知に任せ「賀茂売買之舛」により毎年400石の運上・軍役100人の命令が出されたと通達。(「賀茂郷文書」)
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4月12日
・丹羽長秀・木下秀吉・中川重政・明智光秀、立入宗継に、禁裏御料所山国荘の直務相違なき旨を伝える。
18日、宇津頼重に、禁裏御料所山国荘の違乱を止めるよう命じる。(「立入文書」)。
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4月13日
・信長、妙覚寺へ宿所を変える。
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4月13日
・信長、山城西岡の灰方公文へ、広橋国子が徴集の西岡灰方からの夫銭は月毎に納入するよう命令(「曇華院文書」)。
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4月13日
・多聞院英俊、松永久秀が布陣の片岡城を見舞う。
15日にも。16日、大和興福寺多聞院へ帰還。(「多聞院日記」2)
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4月14日
・足利義昭、新築二条城移転。
義昭は信長の庇護の下にあることを一層認識。
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4月14日
・信長、花山院家輔へ、京都一条の道場屋敷半分南方と門・藪を「花山院殿御分」として安堵(「梅戸在治氏所蔵文書」)。
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4月14日
・丹羽長秀・中川重政・明智光秀・秀吉、立入宗継に、禁裏御料所丹波山国荘の直務の相違なき旨を伝える(「立入家所持記」)。
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4月15日
・信長軍、摂津入江城と山城普賢寺谷城を攻略。
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4月15日
・信長、摂津西宮西蓮寺「住持職」を本寺証文の通り眼阿弥陀仏に安堵。
25日、佐久間信盛、摂津西宮眼阿弥陀仏へ、西蓮寺「住持職」を本寺証文に任せ、信長御朱印を以て安堵する旨を通達。(「西蓮寺文書」)
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4月15日
・将軍義昭、信長の勧めと和田惟政の取成しによりフロイスに制札を発給。
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