東京 北の丸公園(2012-03-16)
*永禄12年(1569)
7月
・この月、伊賀守護仁木長政、滝川一益を通じて信長に降りる。この時、仁木氏には伊賀を押える勢力なし。
伊賀北部は南近江の六角氏に、南部は伊勢の北畠氏に属する。
後、仁木氏は追放。伊賀は66人の有力者が割拠。
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・武田信玄の武蔵侵攻。箕輪城代浅利信種・内藤昌秀を中心とした西上野衆が主体。
この年閏5月までには「越相同盟」が成立しているが、謙信は越中の一向一揆対応で忙しく、関東・信濃には出陣できず。
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・フランス、カトリーヌ・ド・メディシス、コリニーの許にドイツ人を送り込む。毒殺に失敗。
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・スペイン、ムスリム反乱軍、バサ峠付近の砦セロンを奪取。
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・ルブリンの合同
ポーランド・リトワ(リトアニア)、ルブリン連合条約締結。共通の王(ジグムント・アウグスト)、共通の国会、共通の元老院。ウクライナ、キエフはポーランド王国に割譲。(リトアニア大公国、事実上ポーランドの従属領となる。)
7月8日
・権大納言山科言継(63)、三河へ向けて京を発す。
近江国坂本で晩食をとり、乗船。
9日巳刻、近江北郡朝妻到着。昼食。戌刻、美濃垂井着。
10日、美濃垂井発、巳下刻、岐阜の大脇伝内宿所へ着。
11日、丸毛光兼邸に滞在中の一条内基を訪問。勧修寺門跡(聖信法親王)も同道。黄昏、武井夕庵、信長使者として一条内基宿所に到来。翌日、信長と面会することになる。
12日、山科言継、岐阜で信長と対面。
信長は言継の老齢と極暑を心配し、家康へは飛脚を送り、言継は岐阜に逗留し続けてよいように取りはからう。
この時、堺の豪商今井宗久も同行、信長の大歓待を受ける。これを機に信長の政商となる。
13日、言継、大脇伝内邸より風呂屋余語孫左衛門邸へ移る。
14日、島田秀満より晩食に招待。
15日、織田信広・飯尾尚清・菅屋長頼・大津伝十郎らを礼問。坂井利貞・豊島十郎らが訪問。
19日、武井夕庵・坂井利貞・野々村又右衛門・山口太郎兵衛らが来訪。
22日、今井宗久が来訪、宿泊。
7月3日付け女房奉書。
「九月五日はせんくわう(先皇・後奈良天皇)の御十三年にて候。
御せんほうかう(懺法講)をこなはれたくおほしめし候へとも、いかにもとゝ(調)のほり候はぬまゝとく川(徳川家康)ちそういたし候やうに、ないないせいくわん(誓願)寺のちやうらう(泰翁)とないたん(内談)候て、とゝのほり候やうによくおほせ事候へく候。
めてたくやかて御とゝのへ候て御のほり(上)候よし心え候て申とて候。かしく。
山しなの大納言とのへ」
8日、老齢により生きて帰ることの困難を思い、子の言経を呼び、「神楽の秘曲・灌頂の所作」を吹いて聞かせ、伝授の奥書を与える(「言継卿記」同日条)。
「倉部(言経)末だ所作あい随はざるの間、若年といい旁(カタガタ)斟酌すと雖も、予老年と云い在国と云い、また堂上地下悉く未灌頂の間、かくの如し」との決意。
同日正午、山科邸を出発。
天文2年(1533)の清洲城からの帰途と逆のコースをとり、「今道たうけ」(志賀峠、大津市山中町)を越えて坂本に出て、翌日湖上を縦断して江北の朝妻湊に上陸、その日は垂井の木村甚介なる宿に宿泊。
供衆は雑掌沢路隼人佑以下総勢9人、言継の旅行では最高の人数(同8日条)。
10日、岐阜城下着、塩屋伝内の許に投宿、織田氏の右筆武井夕庵(爾云)に交渉して信長への面会を待つと、翌日爾云が、「極暑の時分、老足旁(カタガタ)奇特なり。又三川(河)へ下向の事、自分の用けつ歟又御使かあい尋ぬべし。・・・山上は老足大儀たるべきの間、明日麓の宅にて見参すべし。」との信長の丁寧な内意を伝えてくる。
12日、岐阜城下の下屋敷で言継は信長と対面。
この時の信長の様子。
「対面す。予下向の由聞く。仰天の由申さる。
然れば老足と云い極暑と云い、又三川(河)徳川は駿州の堺にこれ有る間、別の用これ無くんば罷り下る事無用の由申さる。
信長飛脚を以て申し調(トトノ)うべく候間、爰に逗留すべきの由なり。
内々夕庵を以て申さるゝは、三川(河)の時調わずんば、信長一、二万疋(百~二百貫)は進上すべきの由申さると云々。」(同日条)。
岐阜~三河の災暑の旅を免れ、言継は沢路隼人佑を三河の大樹寺に隠栖している誓願寺泰翁長老の許へ派遣し、禁裏からの音物や、家康・親乗ら徳川一族・家中への書状を託送。
隼人佑は岐阜~三河間を2往復し、信長の口利きにより、織田・徳川両氏による2万疋献上が成功、8月下旬、言継は京へ引き上げ。
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7月10日
・飯尾盛就・松田秀雄、立入宗継へ、「禁裏御倉職」就任の上は先例に任せて居住・地子銭・諸公事などを免除すると通達(「立入宗継文書」)。
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7月10日
・下野足利城主長尾景長(43)、歿。
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7月17日
・黄梅院(27)、没。
北条氏政夫人・信玄娘・同盟破棄で甲斐に戻り出家。氏政は早雲寺に塔頭黄梅院を建立。
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7月19日
・毛利軍、富田城将天野隆重の求めに応じ糧食を搬入し、鉄砲隊20余を城内に入れる。
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7月21日
・宇喜多直家、美作三浦貞盛の旧臣に加勢して高田城(三浦の旧城)を攻める。落城せず。
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7月22日
・松永久秀、東山中の小夫へ軍勢を派遣。
23日、山中の小夫城を奪取。
24日、深川へ軍勢を派遣。
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7月24日
・フランス、コリニーの新教軍、ポワティエを攻撃。ギーズ公アンリ、死守。
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7月28日
・信長、滝川一益へ、伊賀の仁木長政に関する「内存」を了承、仁木が忠節に励めば疎略にしないと通達、状況報告を命令。
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8月
・上杉謙信、椎名康胤の松倉城を攻める。寺嶋職定、池田城に立て篭もる。(謙信は魚津城に抑えの兵を残して神通川を渡河し、神保長職を援けて一向一揆 を攻める。)
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・トスカーナ大公国成立
教皇ピウス5世、コジモ・デ・メディチ(コシモ1世)にトスカーナ大公称号を授与。
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・イギリス郵政省長トマス・ランドルフ、ロシア貴族サーヴィンを伴いイギリスに帰国。
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8月1日
・山科言継、岐阜城を訪問。
今井宗久以下堺衆4人、他に江西・武井夕庵・松井友閑・島田秀満・金餘・地下人宗二郎ら。音曲・囃子の後、晩食。信長も陪膳。次いで城中を見物、暮れに下山、帰宅。
山科言継、岐阜城の景観を「言語不可説」と評す。(「言継卿記」4)。
言継は、この月中旬、帰京。
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8月4日
・オスマン朝軍、ロシア・アストラハンを包囲。
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8月8日
・丹羽長秀、池田勝正に、堺五力荘の押領を止めるよう指示。
11月11日、再び勝正に指示。(「宗久書」)。
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8月8日
・フランス、モンゴメリー、オルテス(ベアルン地方の都市)を占領。テレード伯爵、全兵士の命の保証を条件に降伏。
ナヴァール女王ジャンヌ・ダルブレ、ラ・ロシェルを滞在地に定めユグノー軍を指導。
カトリーヌ・ド・メディシス、ナヴァールに小規模の軍隊を派遣、占領。
ジャンヌ・ダルブレ、モンゴメリーにナヴァールより国王軍を追い出す命令。
モンゴメリー、年代記に一大汚点を残す凶暴さをもって追い出し作業を実施。
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8月11日
・長宗我部元親、安芸国虎の拠る安芸城を陥落。国虎自刃、安芸氏滅亡。
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8月11日
・丹羽長秀・中川重政、本圀寺学道中の知行進納を認める(「本田寺文書」)。
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8月12日
・今井宗久、塩座衆中・塩魚座・淀塩座中へ十河存保知行分の座役徴収権を信長より安堵された旨を通達(「今井宗久書札留」)。
この月、宗及は生野銀山に代官を派遣しこれを管理。
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8月13日
・木下藤吉郎、信長の命で但馬・播磨方面を転戦後、帰還。
20日、信長に従い北伊勢に出兵。
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8月15日
・北条氏康、吉田兼右宛て書簡。
「武運長久、国家安全の御祓」の礼のあと、頂戴した南蛮水滴(水差し)を秘蔵すると述べる。フロイスの京都布教が始まったばかりのこの頃、日本神道の本山の兼右が南蛮渡来品を所有している事実(南蛮商人と親しい関係)。兼右の次男梵舜は後にキリシタンとなる。
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8月18日
・毛利元就、内藤元康に命じ、円明寺に幽閉中の尼子勝久兄弟の監視を厳重にする。
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8月19日
・この日付の政僧朝山日乗(義昭・信長間を取りもつ)から毛利元就以下に宛てた書状。
信長は伊勢国司北畠教具を討った後、畿内近国を平定して上洛、次は阿波・讃岐の三好氏か越前の朝倉氏のどちらかを討伐する予定であると報じる。
信長の二大敵対勢力は朝倉・三好氏と見做されている。
実際は、信長は、伊勢攻めに手間どり、かつ信長・義昭間の政治的対立が深まり、岐阜へ下り年内は動かず。
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8月19日
・武田信玄、里見義堯に使者を派遣。里見義堯、武田信玄と同盟(房甲同盟)。
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8月20日
・信長、伊勢木造城主木造具政の内応を契機に北畠氏討伐のため南伊勢(桑名)出陣。
この日、桑名に着陣。翌日は鷹野をする。
美濃・尾張・近江・北伊勢7万の軍勢。
北畠具教・具房父子は大河内城(松阪市)に篭る。1ヶ月の籠城、10月初め勝利。
滝川一益を安濃津、弟信包を上野に置く。
具教軍1万6千余。今徳城に奥山常陸介、小森上野城に藤方御所一族と北畠小原具就、八田城に大多和兵部少輔、木造城に木造御所一族、阿坂城に大宮入道含忍斎、船江城に本田一族、曽原城に天花寺小次郎、岩内城に岩内御所一族を置く。
8月20日
・輝虎(40)、椎名康胤を討伐するために越中に出陣。堺川(境川)を越え、22日、松倉城攻撃開始。攻略後、河田長親を魚津城将とし、越中の守将たちを統括させる。
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8月20日
・松永久秀、布施衆を攻撃。布施で刈田ののち田中表へ攻め寄せる。
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8月22日
・信長、白子観音寺(鈴鹿市白子町)着陣。
23日、木造(久居町)着陣。
5月、木造氏(当主木造具政は北畠具教の弟)、北畠具教に反旗を翻す。
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8月24日
・武田信玄4万、躑躅ヶ崎を出陣、上野へ兵を進める。
佐久郡~西上野~武蔵~相模、10月、小田原城包囲。北条氏を小田原にくぎ付けにする為の陽動作戦。
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8月24日
・フランス、ポーでの「聖バルテルミーの虐殺」。
モンゴメリー、ポーにオルテスの捕虜を移送させ、全員虐殺。
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8月26日
・信長、伊勢国司北畠具教の阿坂城(松坂市)を攻略。
木下秀吉、先陣、豪弓の北畠家臣(阿坂城主大宮入道の子)大宮大之丞景連の矢を左腿に受けて負傷。1日で開城。阿坂城には滝川一益の手勢を置く。
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8月27日
・織田勢、伊勢国司北畠具教・具房親子の籠る大河内城(松阪市大河内町)へ押し寄せる。
信長、城東の山に陣を取り、夜半、町を焼き払う。
28日、大河内城攻囲開始。
城南の山:
織田信包・滝川一益・稲葉一鉄・池田恒興・和田新介・後藤喜三郎・蒲生賢秀・永原筑前・永田刑部少輔・青地茂綱・山岡景隆・山岡景猶・丹羽長秀。
西:木下秀吉・氏家ト全・安藤守就・飯沼勘平・佐久間信盛・市橋長利・塚本小大膳。
北:斎藤新五・坂井政尚・蜂屋頼隆・簗田弥次右衛門・中条将監・磯野員昌・中条又兵衛。
東:(信長本陣)柴田勝家・森可成・山田三左衛門・長谷川与次・佐々成政・梶原平次郎・不破光治・丸毛長照・丸毛兼利・丹羽源六・不破彦三。
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8月29日
・織田軍の池田恒興、北畠軍日置大膳・家木主水・舟木光春・堀内光経らが守る大手の広坂口で戦闘開始。
搦手から織田軍丹羽長秀・稲葉一鉄らが攻撃。城兵奮戦により織田軍の損害甚大。
信長軍は初めて実戦に鉄砲を用いる。
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