東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-03-21
*昌泰4年/延喜元年(901)
この年
・雲南の南詔国が滅亡。
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・坂東の群盗が蜂起し、とりわけ信濃・上野・甲斐・武蔵国の被害が大きい(『扶桑略記』)。
これに対して、政府は、神社や寺院に祈祷させたり、追捕便を派遣した。
御牧(みまき)の存在
この4ヶ国すべてに、御牧(みまき)とよばれる官牧が存在している。
御牧は、天皇の前で馬を牽き回し、臣下に分配する駒牽(こまひき)という宮廷儀式のために、毎年多くの馬を貢上する牧のことで、信濃・甲斐・武蔵国には、宇多法皇や陽成上皇の私牧も存在した。
例えば、武蔵国の秩父牧はもと宇多法皇領、同国の小野牧は陽成上皇領であった。
こうした牧は院宮王臣家の荘園とまったく同質の性格をもっており、牧経営のために多くの浪人を必要とした。
この4ヶ国が群盗の被害が最も多く、群盗の中に牧で働く人々がいた可能性は高い。
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・寛平・延喜東国の乱の平定と武士第一号としての高望・利仁・秀郷の活躍
押領使たちの活躍によって、7年に及ぶ東国の乱は平定された。
特に、この時期の押領使に任命された平高望、藤原利仁、藤原秀郷の3人の坂東での活動がめざましく、子孫の武士たちからは神話的始祖として仰がれ、また武士の始祖に似つかわしい英雄伝説をもっている。
①平高望(たいらのたかもち):
桓武平氏の祖。桓武天皇-葛原親王-高見王-高望王と続く。桓武天皇の孫で生涯無位で終わった高見王の子。
『平家勘文録(かんもんろく)』(琵琶法師のために『平家物語』の由来を説いた秘伝)は、都での謀反を平定し、寛平年間に上総介となって朝敵を平らげ平姓を賜ったという伝説を載せる。
彼の息子たちは、坂東諸国に土着して国衙官人になり、武士として勢力を張った。
高望は上総国押領使として赴任したものと推定される。
②藤原利仁(ふじわらのとしひと):
後世「利仁(りじん)将軍」の通称で親しまれた伝説的武士。
藤原鎌足-不比等-房前-魚名-鷲取-藤嗣-高房-時長-利仁と続く。平安後期には、もっとも初期の伝説的武士として語られていた。
祖父高房は「膂力(きよりよく)人に過ぎ、甚だ意気あり」と評され、美濃介のとき単騎で妖術集団を追捕したといわれる武芸好きの官人であった(『文徳実録』)。
利仁は、高房が越前守時代に築いた富豪経営と俘囚戦術を受け継いだ、王臣子孫=勇敢富豪層であった。
『今昔物語集』からとった芥川龍之介の小説「芋粥」で、芋粥をたらふく食べたいというしがない「五位」を越前の館に招き、大勢の従者に芋を持ってこさせて粥を作らせた富裕な豪族として描かれている。
『今昔物語集』の別の説話では、新羅征討将軍に任命されて出征する途中、頓死したことになっている。
『鞍馬寺縁起」(原形は11世紀初頭に成立)は、追討宣旨を受けた利仁が、都に送る調庸を略奪していた下野国高蔵山(たかくらやま)の群盗千人を、鞍馬の毘沙門天の加護と自らの計略によって追討したという武勇伝説を伝える。
この群盗は、寛平・延喜東国の乱の群盗蜂起のことである。
『尊卑分脈』(室町初期に成立した諸氏の系図集成)では利仁を上野介としており、武芸を見込まれ上野国押領使に抜擢されたと推定される。
彼の子孫は、越前・加賀を中心に有力武士団、斎藤党として成長していくが、早くに清和源氏の家人となった家系もある。
③藤原秀郷:
後世「俵藤太」の通称で親しまれた伝説的武士。藤原鎌足-不比等-房前-魚名-藤成-豊沢-村雄-秀郷と続く。
将門の乱では将門の首を討ち取る最高の武勲に輝き、子孫は小山・藤姓足利氏ら北関東の武士団として発展した。奥州藤原氏も秀郷の子孫である。
播磨介として俘囚管理に当たったことが確認される曾祖父藤成は、俘囚戦術を学んだと考えられる。
『尊卑分脈』によれば豊沢(とよさわ)・村雄(むらお)・秀郷の子孫三代は下野国下級宮人の娘を母としており、王臣子孫=勇敢富豪層として下野国内で富豪経営と騎馬戦術を受け継いだものと思われる。
寛平・延喜の東国の乱にあたり、秀郷は下野国押領使に任じられて群盗鎮圧に活躍し、下野国内に大きな勢力を築いていったものと推定する。
④この時期に武名をあげて武士になった人物として他に、
・武蔵権介源仕(みなもとのつかう、嵯峨源氏。摂津渡辺党の祖)、
・秩父牧司(まきし)から武蔵掾・介・守へと異例の昇進を遂げた高向(たかむこの、小野)利春(武蔵七党小野氏の祖)
があげられる。
2人は延喜19年(919)に武蔵国府で合戦をしている。
延喜東国の乱のあと、藤原秀郷・平高望ら、その平定に活躍し勲功をあげた人々とその子孫は坂東諸国にそのまま土着した。
藤原利仁は延喜年間に鎮守府将軍を務めた後、坂東には土着せず越前に帰った。子孫は北陸武士団として成長していく。
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