2012年3月27日火曜日

昌泰4年/延喜元年(901)1月~3月 時平派のクーデタ(右大臣菅原道真追放工作)

江戸城(皇居)東御苑 2012-03-27
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昌泰4年/延喜元年(901)
1月7日
・時平と道真は従二位に叙された。
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・時平派のクーデタ
時平は大納言源光を味方に引き入れ、醍醐天皇に対して道真追放工作を開始。
時平は、年少の天皇の不安感に鋭く触れて、道真の陰謀、即ち醍醐天皇を廃し、皇弟で自分の女婿である斎世(ときよ)親王を立てようと企み、既に法皇の同意を得ていると述べる。
天皇はことの真否を法皇に質す暇もなかった。
斉世は、橘広相の娘と宇多の間に生まれた親王で、道真も娘を嫁がせていたから、恰好の標的になった。
道真が一種の外戚的な立場になる可能性があることに無警戒だったことと、急激な昇進が他の公卿たちの反感を買っていたことが、道真の立場を悪くしていた。
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1月25日
・醍醐はこの日、詔を発して右大臣菅原道真の行動を非難し、これを貶(へん)して大宰権帥(だざいのごんのそち)に左遷。
また、光を右大臣に任じ、定国に道真が兼ねていた右近衛大将を兼務させる。
この日、諸陣は警固の態勢を敷く。
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1月30日(5日後)
・宇多法皇は醍醐天皇に会うために皇居に赴くが、官人以下、衛士らがこれを阻止。
仕方なく建春門に向かい合う侍従所の西門の所に座って終日待ったが、とうとう開けてもらえずに終わる。

実際には、宇多へはいちはやく前右大臣道真から歌が届いていた筈である。
「ながれゆくわれはみくづとなりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ」
しかし、法皇は5日の日時を空費した。

クーデタによって、時平はひとり政局を支配する時期に入る。

法皇が引き上げた日、道真は護衛と共に大宰府へ出発。
子息らも左遷されて、それぞれ任地に下向し、その邸はに室の宣来子(島田忠臣の女)と年長の女子を残して道真一家は離散を余儀なくされた。

西府に向かう道真は、
「東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな」
「君が住む宿の梢をゆくゆくとかくるるまでもかへり見しはや」
というような哀切な詠首をいくつか残している。

その後の大宰府での幽閉に等しい生活を窺わせるものに、道真が編み紀長谷雄に届けたという詩文集「菅家後集」がある。

道真は、延喜3年(903)2月、59歳で大宰府で病歿

事件後、時平は同母妹の藤原穏子を醍醐に入内させており、この一件は、彼の策謀と推測されている。
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2月
・三善清行、革命により改元を奏請する。
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2月5日
・信濃国、東国群盗蜂起を飛駅使(早馬)で報じる。
政府は、上野国の場合と同様また追討勅符を下し、4月には推問追捕使を派遣。
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3月
・時平は同母妹の藤原穏子を醍醐に入内させる(女御)。
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