東京 江戸城北桔橋門(2012-02-29)
*永禄12年(1569)
2月
・信長、山城慈照院へ、相国寺内塔頭慈照院境内の宜竹軒領の地子銭・年貢米を安堵(「慈照院文書」)。
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・武田信玄、駿河蒲原城を陥れ、陣中から真田幸隆(57)、信綱に戦況を報じる。
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2月1日
・柴田・森・坂井・蜂屋・佐々木、三好三人衆を助けた金剛寺を叱責し、罰として兵糧米を賦課。
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2月2日
・信長、禁裏に鯨肉・鱒を献上。
廷臣にもおすそわけの配分をする(「御湯殿上日記」同日条)。
山科言継は鯨3きれを拝領し、持ち帰るが、「但し路次に於いて一切鵄(トビ)これを取ると云々」(「言継卿記」同日条)と、鵄に持ってゆかれる。
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2月8日
・上杉・武田仲裁の足利義昭御内書、上杉輝虎へ。
10日、織田信長、輝虎重臣直江景綱へ親書。
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2月11日
・信長、堺を接収(直轄地化=自治都市の敗北)。
この日、信長上使(佐久間信勝・柴田勝家・和田惟政・森可成など)、堺を接収。
津田宗及、信長上使100名を自宅に招く。
信長は自分に近い納屋衆で薬種商の今井宗久を堺近郊の堺五ヶ荘の代官職に任命、家臣松井夕閑を奉行として堺に常駐させる。
堺の経済力・交易力、鉄砲・武器の生産力掌握が狙い。
「永禄十二年己巳正月九日、信長本圀寺に至る。
江・濃・尾の兵、迅速に馳せ登り、五万人に及ぶ。
信長今度戦功の輩を賞し、且今度泉南堺津大商の長三十六人が三好家に荷担して、彼の津に於て軍用を調へしむる罪を鳴らし、尽く焼討にすべき旨沙汰せらる。
逆徒皆四国に逃渡ると云々。
堺津より黄金二万を以て罪を贖う。」(「武徳遍年集成」)。
統一政権と結ぶ「死の商人」として巨大化。
堺では今井宗久らが最も早く織田政権と結びつく。
堺は日本最大の鉄炮産地であり、かつ火薬の原料である硝石は貿易に頼っていた為、堺は戦争に不可欠の鉄炮・玉薬の調達を行った。
この年10月、「公方様並信長御台御料所」の代官として、豪商今井宗久は、南材本町・甲斐町の運上銭を徴収し、塩合物過所銭を収納するなどの活躍をする。
豊臣政権においても、宗久は河内直轄領の代官、伏見城造営奉行として物資調達にあたる。
また、徳川覇権の際にも、巧みに転進し、徳川氏と密接な関連をもつ。
宗久ほど顕著な活躍をしたのは少いが、天王寺屋宗及などが同様であり、伏見奉行長谷川宗仁、キリシタン大名小西行長も堺商人出身。
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2月15日
・足利義昭、将軍家祈願所摂津忍頂寺へ、足利将軍家代々判形に任せ寺領以下に守護不入を安堵。詳細は細川藤孝・中沢元綱が伝達。(「寿泉院文書」)
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2月16日
・柴田・森・坂井・蜂屋・佐々木、本興寺に軍が駐留することを禁止。
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2月24日
・この月14日、山科言継は、信長に対し貧乏のあまり来たる26日の参内に行きかねる旨をこぼすと、信長は合力を約束(「言継卿記」24日条)、参内が迫ったこの日(24日)、銭貨10貫を信長から贈られ、「祝着満足せしめ罷り帰り了んぬ」と喜ぶ。
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2月26日
・佐久間信盛、柳生宗厳へ織田側と松永久秀と連絡を取っていることを賞し信長よりの謝意を通知。また去年以来の結城忠正との談合については決して油断していない旨を通知。
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2月28日
・信長、織田勢3千を尼崎に差向け矢銭を課す。
拒絶され尼崎を焼払う(「細川両家記」)。
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2月28日
・信長、撰銭令を発し、条目を追加(「京都上京文書」)。
この日、禁裏へ米100俵を献上(「言継卿記」4)。
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3月
・春、信長、唐物茶入れなど天下の名物を収集。
上京の大文字屋所持の初花肩衝、祐乗坊の富士茄子の茶入れ、池上如慶のかぶらなしの花入れ等の名品が差出される。
使者は松井友閑・丹羽長秀。所蔵主には金銀米穀が代償として与えられる(「信長公記」)。
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・信長、山城誓願寺泰翁長老へ、「参銭」等と、また「如近年可為一職」を安堵(「誓願寺文書」)。
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・ブリュッセル全国議会、 「十分の一税」・二十分の一税賦課。
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3月初
・毛利元就、山陽道4ヶ国4万の軍勢を動員、九州に上陸。元就は長府に布陣、九州攻めの総指揮を執る。
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3月1日
・信長、摂津天王寺・上京に撰銭令発す。流通銭の種類を定め品質により永楽銭の2、5、10倍の交換率指示。
16日、撰銭令追加条目公布。米による物品売買禁止。
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3月2日
・朝廷より信長を副将軍とする使者(万里小路惟房・広橋兼勝)が遣わされる。信長は返事せず。
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3月2日
・和田惟政・竹内秀勝(久秀家臣)・柴田勝家・蜂屋頼隆・野間長前・坂井政尚・佐久間信盛、摂津多田院に矢銭を免除。
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3月3日
・信長、細川藤賢(「細川右馬頭」)邸の庭より人夫3、4千人で「藤戸石」を笛鼓にあわせて勘解由小路室町まで運搬。日暮れ迄には堀之内へは入れられず。山科言継、この「藤戸石」を見物し驚嘆(「言継卿記」4)。4日、堀之内へ搬入。
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3月3日
・丹羽長秀、誓願寺泰翁上人宛て知行安堵の朱印状に副状を発給(「誓願寺文書」)。
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3月5日
・家康、掛川城に総攻撃開始(~7日)。
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3月7日
・義昭の二条御所の石垣工事終了。
11日、南門の櫓、28日、西門の櫓、完成。豪壮な景観。信長の実力見せ付ける。
この日、山科言継、他の公卿と共に信長の京都残留を願い出、石垣竣工を見物して「今日悉く出来、目を驚かす事なり。十一ケ国衆の普請なり」と感歎し、自宅まで送ってきた細川藤賢と驚くべき工事について語り合う。
言継は、この工事中しばしば信長の機嫌を見舞い、3月11日は日野氏らと共に信長の晩餐の相伴にあずかる。
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3月10日
・この日付け織田信長宛ての武田信玄条目、「越甲和与の御内書」を請けたいとする。この頃、信玄は信長を介して将軍義昭の御内書により上杉氏との和睦工作を試みるが、実現しない。
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3月11日
・フロイス、日本人修道士ロレンソと共に3年半ぶりに京都に戻る。
13日、信長、フロイスに謁見。信長は黒いビロードの帽子を受取るだけで、佐久間信盛・和田惟政に食膳をもてなさせ、フロイスとは話を交えず。
この日から40日間で、フロイスは計5回信長を訪問。
信長は京都で15回、安土で12回、その他入れて計31回以上バテレンと会談。
永録12年1月の三好勢の本国寺襲撃に堺町衆が協力していた事を知り、信長は堺に矢銭を要求。
町衆がこれを拒否し、町は殲滅されるとの噂が広がり、フロイスは本拠を尼崎から高山飛騨守の居城高山(大阪府豊能郡)の山中に避難。
ここに和田惟政が、信長の許可により京都復帰が可能と知らせが入る。
フロイスは堺に戻り、堺奉行となった和田惟政の世話になり、豊後から戻ったロレンソと共に京都に戻る。
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3月13日
・フランス、ジャルナックの戦い
シャラント川湖畔ジャルナック、ブルボン家コンデ親王ルイ(ルイ・ド・コンデ、39)とコリニー提督の新教軍、アンジュー公アンリ率いる国王軍と戦い、国王軍勝利。
コンデ親王が捕らえられて処刑。
コンデ公に代わってアンリ・ド・ナヴァール、アンリ・ド・コンデが首長に仰がれるが、実際の指揮権はコリニーにある。
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3月13日
・武田信玄、下総関宿城主梁田晴助を誘い武蔵を攻めさせる。
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3月14日
・上杉輝虎、北條氏との同盟に同意。使僧天用院、これを氏康に報告。上杉家からの条件は上野の領地を旧領主へ返還、北条家からの人質の提出(養子)。
この同盟で武田信玄の策謀は消える。
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3月16日
・信長、上京(惣町に宛てて)へ「銭定」など全7ヶ条の「精撰追加条々」を下す。
「一、銭定(ゼニサダメ)違犯のともがらあらば、その一町切(イッチョウギ)りに成敗たるべし、その段あい届かざらば、残りの惣町一味同心(イチミドウシン)に申しつくべし、なおそのうえに至りても手余りの族(ヤカラ)においては注進せしむべし、」
(撰銭令に達犯した者がいたならば、まずは個々の町で処罰せよ。それができない場合は、惣町が心を一つにして処罰せよ。もしそれでももてあますような者がいたならば、訴え出るよう)
かつては、「銭定に違犯の人が出た町は、その町人すべてを処罰する。違反者を届け出ない場合は惣町を一味同心と認め処断する」と、町と惣町とを連座させて処罰するという意味に解釈されていた。
近年の研究では、この一文は、信長が洛中へ命令を伝達するにあたって、その命令を惣町へくだすことで個々の町にまで伝わることを認識していたことを示すものと理解されるようになった。
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3月17日
・丹羽長秀、三井寺花光坊に、買得の田地を安堵(萩野由之氏文書)。
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3月20日
・伝奏・右少弁両名を勅使とし信長に副将軍を推任。
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3月23日
・武田信玄、信長に図り、上杉・北条氏との和睦を画策。
この月、佐竹・里見・宇都宮氏の小田原攻撃態勢を完成させる。
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3月23日
・島田秀満、丹波船井郡11村(北野社領)へ義昭下知・信長朱印で「如先々」く命令したので早々に年貢・諸公事物などは北野社松梅院雑掌に渡すよう通達(「北野神社文書」)。
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3月23日
・信長、大和奈良の方々へ「銭定ノ制札」を下す(「多聞院日記」2)。
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3月26日
・輝虎(40、上杉謙信)に包囲された越後村上の本庄繁長、葦名盛氏・伊達輝宗を通じ降伏。
輝虎、繁長の子・顕長を人質として本領を安堵、春日山城に凱旋。
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3月28日
・山科言継、信長を訪問し御城普請を見物。
烏丸光康・烏丸光宣・三好義継・松永久秀らが見舞に来訪。
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