2012年3月12日月曜日

「運営する側の人間が自らの言葉の価値を下落させたきり、だれひとり責任をとらず、信頼回復の努力を怠っている」(阿部和重)

「朝日新聞」3月10日

原発事故で露呈した「情報隠し」によって、「言葉もまた壊された」。

「信頼できる情報を共有する場」を「取り戻さなければならない」、との作家・阿部和重さんの文章。

後半部分をご紹介
(読みやすくするために段落を付加する)
***************************************(始)
(略)

東日本大震災と原発事故は、有形無形を問わずこの国の多くのものを破壊した。

けれども「言葉は壊れなかった」のだと、谷川俊太郎は書いている(11年5月2日付朝日新聞夕刊)。

当の詩のなかで語られた種類の「言葉」については、その通りだと言えるかもしれない。

しかし、3・11以降の現実の、別の側面に目を向ければ、言葉もまたさらに壊されたのだと言わざるを得ない気がしてしまう。
天為ではなく人為による、言葉という情報の機能不全 - そのような意味での破壊にも、たしかにわたしたちは直面していたはずだからだ。

ばらまかれたのは放射能ばかりではない。
震災と原発事故への対応をめぐる、政府と東京電力と原子力安全・保安院による一連の不手際が国中に撒き散らしたのは、ぴとえに疑いの種だ。
この1年、「情報隠し」というフレーズにわたしたちは何度触れたことだろうか。

そのことが報道で流れるたびに、初出のニュースにもかかわらず、ネット上では「知ってた」という揶揄が飛び交っていた。
すなわちそれらの公共機関は、どうせ都合の悪い情報を隠蔽しているに決まっていると見なされ、いつしかまったく信用されなくなっていたわけだ。

そうした人々の不信感をわざわざ自ら裏づけるようにして、国や東電はその後も情報隠しをくりかえしていった。
九州電力の「やらせメール」問題が発覚したのにつづき、保安院と中部電力のあいだでも過去に原発賛成派動員工作がなされていたことが明らかとなった。

原子力村は、この期に及んでもなお、従来通りに情報隠蔽や印象操作や世論誘導といったステマ的な偽計を駆使し、原子力政策を推進しようとしていたわけだ。

結果的に起きたのは不要な対立と不信感のさらなる蔓延だ。
情報の信頼性が著しく損なわれ、言葉がその場しのぎの道具へ貶められた。
それを率先したのがいずれも公共機関であることが二重に悲劇的だ。

原発の有用性や安全性をめぐる主張に、仮に真実が含まれているとしても、説得力がまるごと失われたままの言葉が通用するわけがない。
運営する側の人間が自らの言葉の価値を下落させたきり、だれひとり責任をとらず、信頼回復の努力を怠っているためだ。
震災発生から1年後の今日も、不信は少しも除去されていない

信頼をなくしたのは所詮「あちら側の連中」だと、他人事みたいに思うべきではない。
好むと好まざるとにかかわらず、彼らの言葉はわたしたちの言葉とじかにつながっている。

あちらの価値下落は、こちらの信頼喪失でもある
おなじ社会に生きる以上、それは否定しがたい現実なのだ。
とすればつまり、わたしたちにとって克服すべき現実ということだ。

この1年、情報は放射能さながらにわたしたちを翻弄した。
昨今のがれき受け入れ問題なども、結局は情報の機能不全からくるものではないかという気がする。

岩手県と宮城県には2度、福島県には1度、わたしは被災地を訪れた - その際は、被災者のケアのためにも土地の整備は急務だとただちに悟らされたものだが、それと同時に必要なのは、言葉の信頼回復と情報の交通整理だと今あらためて痛感させられる。

けれどもこんなことを、わたしのようなちゃらんぽらんな人間が述べても、なおのことだれも耳を貸さないのではないかという、心もとない気持ちも抱いている。本稿にさんざん書いてきた通りの現状のせいだ。
ならばどうするべきなのか。

■  ■

社会には本来、ここだけは決して借用を落としてはならない場というのがあるはずだ。
少なくとも、ここから発せられる情報に関しては信頼してもいいと公的に認められた場所。
被災地の復旧とともに、そのような場をもう一度わたしたちは取り戻さなければならない。
真偽や確度が曖昧な情報が一緒くたに共存する、この情報化社会のなかにあるからこそ、品質の高い情報をだれもが共有できる場が確保されなければならない。

誤解してはならぬのは、これは低級な情報の排除を求める話ではないということだ。
むしろ逆に、真偽や確度が曖昧で、質の低い諸情報と今後もつきあってゆくために、それらを見分ける基準となる信頼の場の再建が急がれると訴えているのだ。

それにはまず、先の公共機関が、不誠実を正さなければならない
「知ってた」などと揶揄されぬよう、正確な情報の適切なタイミングでの開示は必須だ。
その情報が使われるべきなのは、公衆の保護のためであることを絶対に忘れてはならない。
これは最低条件だ。

報道機関はどうだろうか。
情報の供給者として、報道機関は信頼の場に値すると、言い切れるのだろうか。
この1年にかぎらず、これまで各報道機関はどのように言葉を使い、世間に情報を伝えてきただろうか。
信用にたる、公正なジャーナリズムが、果たして実践できていたのだろうか。

もちろん、という回答がかえってくることを信じたふりでもして、わたしたちはひきつづき、情報の検証を重ねてゆくしかないのだろう。

***************************************(終)
*
「言葉」や「信頼」が、原発事故で壊されたということに強いて反対はしないが、どちらかと言うと、

「壊されていたこと」が「露呈した」、というほうが正しいかもしれない。

このムラの住民たちによる、
・情報隠し
・世論操作
・メディアへの脅しとの買収
は、ずっと前から始まっていた。

例えば、
メディアへの脅しと買収は、「朝日」夕刊に連載中の「原発とメディア」が暴いてくれている。

また、
昨年の原発事故当日、東電会長はメディア関係者を引き連れて中国旅行中であったことは有名な話。

そして、
現在でもなお、このムラの住民たちは、例えば、NHKの番組に対して高圧的な威嚇活動を行っている。
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