2012年3月11日日曜日

永禄12年(1569)5月~6月 今川家滅亡 フロイスとロレンソ、岐阜に滞在 信長、バテレン保護を保障 [信長36歳]

東京 北の丸公園(2012-03-09)
*
永禄12年(1569)
5月
・信長、伊勢国司北畠大納言具教の弟木造中将具正を帰服させる。
*
・丹羽長秀・松井友閑、名物召し置きの奉行を務める(「信長公記」)。
*
5月9日
・北条氏康の江戸城将富永氏宛ての書簡で、「八王子筋へ甲衆出張由」とあり、また津久井口にも武田勢が押し寄せるとの風聞あると記す。
*
5月10日
・松永久秀・久通、大和国貝吹城を攻撃。
16日、井戸表へ陣替え。
18日、御所の一向宗道場を破却。
*
5月11日
・信長、岐阜に帰還。
*
5月17日
今川家滅亡
今川氏真、和睦に応じ遠江懸川(掛川)城を家康に引渡し戸倉に移る(駿府に新城をたて完成まで待つよう説得)。信長指示に家康提案。
家康遠江1国取得。石川家成守備。
23日、今川氏真、城を出て北条家に身を寄せる。北条氏政嫡子氏直を養子とし、北条氏の領国駿河の処分を任せる。
家康の掛川城攻撃の間、武田信玄は秋山信友を信州・伊那口から天竜川を南下させ、遠江・見付に陣を進ませる(約定違反)。
また、5月下旬、家康の大井川筋を巡視の際、遭遇した山県昌景が不意に家康を逆襲。
この両事件以来、家康は信玄に不信感を募らせ、以後信玄との間は不和となる。
*
5月18日
・フロイス、小西立佐・如清父子に伴われ坂本に赴き、ここで惟政(越水城)の紹介状を持つロレンソと合流、岐阜に向う。
佐久間信盛・柴田勝家・中川重政が彼等を厚遇し、信長ももてなす。
数日後、信長は、大津伝十郎を通して、バテレン保護を願う義昭宛書状とバテレンへの「寵愛」を保障する惟政・日乗宛書状を渡す。
信長はフロイスが別離の挨拶に訪れた際、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみ行い、汝は欲するところにいるがよい」とフロイスに述べる。
閏5月6日、帰京。

①天皇の宗教統制権は完全に侵害。
②その後、日乗と惟政の激しい論戦、惟政の失脚と復帰、日乗が殿中で信長に罵倒され逃げ出すという経緯の後、バテレンは活発な布教活動を展開。
天正4(1576)京都に教会設立。
天正8年、安土に教会・修道院設立。

バテレン保護=仏教弾圧=旧秩序破壊
綸旨を否定しバテレンを擁護、「王法仏徒は車の両輪」といわれる延暦寺焼払いは、天皇権力の積極的侵害。
信長が、多数の寺院を破壊し、多くの仏僧を殺したのは「右のこと(をなし遂げる)ために、彼は幾人かの仏僧が逆った機会をとらえた」(ガスパル・コエリュのイエズス会総長宛て年報1582年2月15日)。
明確な理由を見つけ、大きな利点があると判断した時、バテレンが満足する仏教弾圧を行う。
信長が初めてフロイスに面会したのは、この年4月3日。
一方、信長の仏像破壊はこれよりも早く二条御所造営時に行われている。

ルイス・フロイスの見た城下町岐阜
「我等は岐阜の町に着きたり。
人口約一万なるべし。
和田殿の指定したる宿に就きしが、其出入の騒しきことバビロンの混雑に等しく、各国の商人、塩布其他の商品を馬に附けて来集し、家は雑踏して何も聞えず、或は賭博し、或は食し、或は売買し、或は荷造し、或は荷を解く者、昼夜絶ゆることなかりき。
我等は他に静かなる室なきを以て皆二階にゐたり」(「耶蘇会士日本通信」)。
*
5月18日
・秀吉、広隆寺に太秦の寺領の相違なき旨伝える(「広隆寺文書」)。
*
5月23日
・武田信玄、信長近臣の津田盛月・武井夕庵宛て書状で、家康が氏真と和睦して駿府を占領したこと、未だ人質を出していないことを詰問し、信長が北条氏に敵対するよう要請。
*
5月24日
・連歌師里村紹巴、京都を出達し若狭・丹後の旅に出る(「紹巴天橋立紀行」)。

政治・仏事をしばし離れて文芸に没頭する若狭の人々。
紹巴は内藤・小野寺不動院・宮川雄蔵主(英甫永雄)・浄土寺・粟屋・山県ら多くの武人・寺僧らと交流、ときに連歌会に臨む。
6月7日には御屋形様(当主元明)の妻(京極高次の妹で、のち秀吉の側室となる松の丸殿か)に召されて盃ののち、「御隠居の御屋形様」(信豊)面会、9日信豊の連歌会に臨む。
翌10、12日、信豊は紹巴を招き「源氏物語」桐壷巻の講釈をさせる。
若狭武田氏の小浜文芸の終焉。
*
*
閏5月
・越相同盟、成立。上杉謙信、信濃侵攻を約束。
6月、誓詞交換。北条氏政は、嫡男国王丸(氏直)を今川氏真の養子とする。
*
閏5月3日
・未刻、龍天院覚弁、殺害(義昭命で幕府衆による成敗か)。(「言継卿記」4)
*
閏5月6日
・佐久間信盛、一色藤長・曽我助乗へ、播磨からの注進について信長へ報告し摂津・丹波の軍勢出動を協議した、再度義昭命あれば信長は上洛する、三淵藤英・歳阿弥・観世国広からの通達は信長へ上申しており織田側としては油断無き旨を義昭へ取成依頼。
*
閏5月23日
・信長、京都東寺へ義昭下知により「当知行」を安堵(「東寺文書」)。
25日、秀吉からも通達。
*
*
6月
・この月、家康、天方城の天方通興、ついで飯田城を攻略。西遠江をほぼ平定。
年末までには家康の支配権は大井川以西のほぼ遠江全域に浸透。
*
6月5日
・武田信玄、武蔵御岳城を攻略。
11日、北条氏邦と秩父三山谷で戦う。
16日、駿東郡に出兵、北条氏方諸城を攻撃、
17日、伊豆三島を焼討ち、伊豆韮山城に兵を寄せる。北条氏方の守り堅く成果なし。
*
6月6日
・リトアニア大公国・キエフ含むウクライナ諸県、事実上ポーランド王国に併合。
(ポーランド、プロイセン公国より西プロイセンを取得)
*
6月7日
・信長、稲葉貞通へ、美濃河西所々における春秋の段銭・夫銭は稲葉一鉄(其方)・氏家直元・安藤守就の美濃三人衆に等分に宛行い上納を義務付けることを「去々年」(永禄10年)に指示したが、近年は上納しないので譴責し、筋目に任せた所務遂行を命令(「豊後臼杵稲葉文書」)。
*
6月8日
・朝廷、後奈良天皇13回忌法会の財源を調達できず、廷臣は頭を痛める。
山科言継は天皇から相談をうけ、三河の徳川家康に献金を上納させるよう長橋局を通じて内々天皇へ提案(「言継卿記」同日条)、廷臣らの協議の結果、言継に任せることになる。

この言継の提案は、言継がかねてより家康重臣松平親乗と親しいこと、永禄9年(1566)12月の家康の徳川改姓願いに対し言継が奔走したこと(「言継卿記」同年12月27日条)、かねて旧知の誓願寺長老泰翁が長く三河にあり家康と親しいこと、が言継に家康との交渉に成算を抱かしめる理由。
言継の長年にわたる武家・地方大名らとの交渉の経験の実績は、ようやく他の上流公卿を圧し、禁中最高の声望を担うようになってきた。
*
6月22日
・足利義昭、権大納言・従三位に叙任。
*
6月23日
・主家再興を目指す山中鹿介(25)ら尼子旧臣、京都で尼子勝久(17)を擁立。
信長の援助を得て、7月3日、海路より船100艘を仕立てて出雲に攻め込む。千酌半島新山城入り。
尼子の残党3千余に膨れ上がる。
毛利元就、野村士悦に富田城守兵の動勢を探らせる。
*
6月23日
・武田信玄、穴山信君を大将として富士信忠の拠る駿河大宮城(富士宮市)を攻撃。
第1次駿河侵攻の際に信玄に内通した葛山氏元も穴山に従い参陣。7月2日、これを攻略。城将富士信忠は降伏。富士郡は武田氏支配下におちる。対する北条側は足柄城・興国寺城を整備し国境の防衛を固める。
*
6月23日
・多聞院英俊、「江州北方」に起きている江州一揆の風聞を知る。
*
6月25日
・フランス、ラ・ロッシュ・ラベーユ村付近で遭遇戦。雨が降り出し、国王軍・ユグノー軍共に退却。
*
6月26日
・正親町天皇、再度、言継に女房奉書にて、禁裏「御大工総官職」の件で義昭が定宗に下知を発したことについて信長に義昭へ「いけん」するようにと命令。
定宗は5、6日前に岐阜へ下向。(「言継卿記」4)
*
*

0 件のコメント: