寛平6年(894)
この年
・大江千里が宇多天皇のもとめで『句題和歌』を編集。
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2月23日
・「不論土浪人(ふろんどろうにん)」政策
実際の耕作地の面積に応じて公出挙本稲を支給(強制的貸し付け)するという公出挙稲についての新政策。
(諸税を負担させるのに、その対象が居住地の戸籍に登録されている者(土人)であるか、流れ者で戸籍には登録されておらず、「浮浪人帳」などといった特別な帳簿に登載されている人々(浪人)であるかを区別しない、という政策)。
紀伊国では「土浪貴賎を論ぜず、耕田数に準じて、段別に五束以上正税を班挙(はんこ)する」
(土・浪(土民・浮浪人)、貴・賤の区別なく、耕田の数に準じて段当たり五束以上の正税を割りあてる)
(『類聚三代格』巻14寛平6年2月23日官符)。
税制の中で公出挙(政府の貸付け稲)の占める比率は大きいし、特に公廨稲(くがいとう)出挙のように国司の給与に直結するような部分は、国司の重要な関心事である。
しかし、現実には、中央諸宮司の下僚や良家の子弟、あるいは諸院・諸富・王臣家の人々などの富裕な浮浪人(富豪浪人)は、この負担を免れながら実際には広大な田地を借りたり開墾したりして耕作している。
富裕な浮浪人(富豪浪人)が存在する。
ここに、実際の耕作地の面積に応じて公出挙本稲を支給するという強制的貸し付け政策が打ち出された原因がある。
この新制は、従来の人頭税を一種の土地税にかえて、国府の財源を確保しようと企てたものである。
これには、戸籍の制が崩れて、国府が精確に部内の公民の人口を把握できていないという事情もあった。
この政策は、紀伊国の受領の報告書にある要望をそのまま実行させたものであった。
これに見られるように、9世紀後半からの傾向として、国府(受領)が改正案を盛り込んだ解文を中央に提出して政策を導き出している。
良房執政の時代などはこの受領のつきあげで地方政治が動いてもいた。
受領たちは赴任さきの国の状況に対して大胆に行政上の手をうっていた。
受領の行政力・施策の良否が、ただちに地方の豪族・農民の経済・生活に影響を与えるようになった。
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4月
・新羅の賊、対馬に来襲。
政府は、この年以後、対馬へ防人を配置し、越前・能登・越中・越後の諸国で史生(しじよう、主典の下の書記)を減らして弩師(どし、大弓に長じたもの)を設置する。
弩師は、大宰府では延暦16年(797)に一旦廃止され、弘仁5年(814)に復活。それ以後、整備にむかい、良房・基経の執政時代にも弩師を増置している。
この年(寛平6年)は、西辺防備策の一環として弩師を増置している。
新羅海賊の西辺への出没を、前の時代よりもはるかに重大視している。
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7月
・半世紀ぶりの遣唐使派遣が朝議決定。
7月21日、在唐の僧中瓘(ちゆうかん)から上表文とお茶が宇多天皇へ献上されてきた。
上表文には、唐温州刺史(長官)宋褒(しゆほう)の朝貢使派遣の申し入れが記されていた。
この頃、唐では農民反乱、黄巣の乱が全土に波及していたが、それを鎮めるのに功績があったのが朱褒。
太政官は、朱褒が皇帝の親任を得て温州刺史に任じられたことなどの情報を唐商人より入手しており、遣唐使派遣を決定した。
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8月21日
・遣唐大使に菅原道真、副使に紀長谷雄(きのはせお)が任命される。
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9月14日
・菅原道真、「諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしむを請う状」という奏状を上程(『菅家文草』)、航海の危険や唐の治安の不備を考慮して、公卿たちが遣唐使派遣の可否を合議することを、天皇に求める。
道真は唐の情勢に通じ、『菅家文草』には、道真と在唐の僧中瓘(ちゆうかん)が書状のやり取りをしたことも書かれている。
道真は、唐に関する直接の情報をもとにして判断したと思われる。
但し、この時点で遣唐使を廃止したのではなく、この後も、道真と長谷雄は「遣唐大使」「遣唐副使」の肩書きを使用しており、再派遣の可能性は残していた。
道真は寛平9年(897)まで、長谷雄は延喜元年(901)まで大使・副使を名乗っているが、結果として遣唐使は派遣されなかった。
『日本紀略』(編者不明)では、9月30日、「其の日、遣唐使を停(や)む」とあり、従来、道真の奏上が遣唐使廃止の決め手と考えられてきた。
しかし、近年、「其の日」が9月30日かということに疑問が出され、この記事は遣唐使廃止記事ではないと考えられるようになった。
道真の奏上は遣唐使廃止の建言ではなく、この回の遣唐使の可否を問題にしているのであって、このような状況下で、遣唐使はなし崩し的に停止に至ったと考えられる。
遣唐使派遣がなくとも、僧侶・新羅商人・唐商人らによって唐の情報や文物が入手可能な状況になってきていた。
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12月15日
・菅原道真(50)、侍従を兼ねる。
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