東京 北の丸公園(3月1日)
*仁和5年/寛平元年(889)
4月27日
・「寛平」に改元。
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5月
・桓武天皇の曾孫高望王に平姓を与える(桓武平氏)。
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寛平2年(890)
2月
・殿上で太政大臣基経の三男仲平の元服式。宇多天皇は、加冠をし、宸筆の位記を与える。
父光孝の先例に従ったものであるが、宇多の基経への宥和の態度を公然と示したもの。
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春
・菅原道真(46)、国司の任期を終え帰京
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4月
・寛平大宝(皇朝十二銭の十)を鋳造。
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5月
・橘広相(54)、没。
宇多天皇は弔問の使いを派し、中納言を追贈し、従三位に叙し、穀倉院の絹布を遺族に供して葬儀の費にあてさせる。
阿衡の紛争において基経や佐世らの激しい人身攻撃にあいながらも最後まで抗争しようとした広相を庇護しえなかった宇多は、広相の没に際し手厚い恩恵を施した。
広相は、この年、『蔵人式』を撰進している。
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10月
・病床の太政大臣基経、快方に向わず。
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寛平3年(891)
1月13日
・太政大臣藤原基経(56)、没。
基経の子は、時平・兼平・仲平・忠平、頼子(らいし、清和女御)・珠子(しゆし、同上)・温子(宇多女御)・穏子(おんし、ずっとのちに醍醐の皇后となる)。
長子時平は21歳、蔵人頭を経験したが参議にも列していない。正室は廉子(れんし、本康親王の女)。
温子に皇子が生まれるかは測り難く、皇室との閏閥的関係は不安定。
・宇多天皇は、忠仁公良房の先例に倣い、勅を下して「昭宣(しようせん)」諡(おくりな)を贈る。
・宇多天皇はこの月、阿衡の紛議の際に宇多・広相側に不利な論陣を張り、結果的に広相追い落としに一役かった藤原佐世を陸奥守に左遷する。
・宇多天皇は関白を置かず、寛平の治と呼ばれる親政を開始。
良房・基経のほぼ30年に及ぶ執政時代(前期摂関政治)は、字多天皇の親政への積極的な切替えによって終焉を告げる。
①時平(21)と、仁明の孫王源興基(みなもとのおきもと)を参議に起用。
以降数年の間に、源家の貞恒(さだつね)・湛(たとう)・希(まれ)・昇(のぼる)らを参議とする。
時平に対する対抗策であり、皇権強化の狙いでもある。
②寛平5年(893)、女御胤子(いんし)との間に生まれた敦仁親王(9歳)を皇嗣とする。
女御の父は藤原高藤(傍流の藤原北家系、冬嗣の孫)。
これで、時平の、外戚・外舅への道を封じ、皇太子の外祖父高藤を参議に任じる。
③基経没後1年後に、良二千石といわれた藤原保則を、さらにその翌年には菅原道真を参議に起用。
・宇多天皇は、菅原道真を讃岐から呼び戻し、2月、蔵人頭に任じる。
蔵人頭は、公卿の末席である参議への出世コースにあるが、道真以前に儒者でこれになった最後は、陽成朝初期の橘広相であった。
宇多は道真を広相の後釜と見ていた。
同年4月、道真は左中弁に任じられ、太政官の事務機構の中枢に入った。
2年後の寛平5年(893)には、左中弁のまま参議となり、同年内に左大弁に昇進、さらに勘解由長官と皇太子敦仁(9歳、後の醍醐天皇)の春宮亮とを兼ねる。
・宇多天皇は、4月、藤原保則(やすのり、67歳)を左大弁に抜擢。
翌年に参議、さらにその翌年には民部卿を兼ねさせ、国政の新局面を展開してゆく(国司長官の受領化の完成)。
基本的には、ここで成立した制度が以後の2世紀ほどにわたる地方支配の枠組みを作ることになる。
保則は、門地・官歴からみて、9世紀後半の受領の典型である。
受領の裏も表も知り尽くし、民を安んずる政道において、同時代の何人よりも豊かな体験を積み、その政治的所信に極めて忠実であった。
だから、ごく少数とはいえ、国政の第一線にたつ良心的硬派からは嘱望され支持されていた。
保則は、南家の中納言乙叡(おとえい)の孫で、藤原氏の傍流。父の官途は左兵衛佐で終わっている。
保則は斉衡2年(855)治部少丞、貞観13年(871)備中国権介、以降、受領として備中・備後で活躍し、その治績を大いにうたわれた。
元慶2年(878)の出羽国の夷俘の乱に際して、基経から鎮定の大役を任され殊功をあげる。
その後ずっと受領生活を続け、讃岐守・大宰大弐として良吏の誉れを一層高めた。
寛平・延喜の国制改革(前期王朝国家への転換始まる)
9世紀、中央集権的統制が緩和され、受領の国内支配の裁量権が拡大されたが、建前としては編戸制・班田制・調庸制は堅持されている。
この現実と建前との矛盾が、9世紀後半、郡司富豪層と王臣家との結託による租税の未進を深刻化させ、国家財政と受領の国内支配を危機に陥れた。
この危機を克服するため、宇多天皇は、寛平3年以降、受領経験のある菅原道真らを抜擢し、受領による国内支配を立て直し、中央への税収を安定化させるための国制改革に着手した。
この改革は次の醍醐天皇の治世でも一貫して継続された(左大臣藤原時平による右大臣道真左遷事件があっても)。
地方支配に関する改革の主な内容は、
①富豪層と王臣家との私的結合の分断。
富豪層の王臣家への田宅寄進の禁止、富豪層の王臣家人化の禁止、王臣家人化した富豪層の納税拒否の禁止などの政策が次々に出され(『類聚三代格』)、受領に王臣家人(と彼が経営する田地)に対する徴税権と、納税を拒否する王臣家人の国外追放権・逮捕権などを与えた。
こうして国内居住者は所属・身分にともなう免税特権を否定され、国衙支配に服さなければならなくなった。
②中央財政の構造改革
政府は、国司に正丁(せいてい)数を基礎とする調・庸を大蔵省へ一括納入させ、大蔵省から受給者(宮司・宮人)に分配する中央集権的財政構造を放棄。
受給者が政府から随時、必要物品の給付を特定の国に命じる手形(官符など)の交付を受け、直接受領に必要物品を請求する財政構造に転換。
受給者の請求額は固定され、固定された総支出を基礎とする新たな財政構造のもとで、受領の請負額も固定された。
受領は官司・官人の随時請求に応じるため京内外の倉庫にモノを集積したが、任国からの運京は受領の私的な活動になった。
こうして郡司富豪層が国衙から大蔵省までの調・庸運京を請け負う方式は廃止され、財政官司や王臣家から未進追及を受けることもなくなった。
運京請負にかこつけたピンハネもなくなり、郡司富豪層が王臣家と結託する大きな要因が除かれた。
③土地制度改革の実施
延喜2年(902)、延喜の荘園整理令。
④受領による国衙機構改革(受領による国内支配体制の確立)
行政機能ごとに公文所(政所)・田所(たどころ)・税所(さいしよ)・調所(ずしよ)・検非違所・船所(ふなしよ)などの、受領直属の部局である「所(ところ)」を作り、子弟郎等ら京下りの側近を「所」目代に任じ、その下に有力田堵(私営田領主)を在庁官人に任じて配属し、実務を分担させた。
こうして国司四等官制は実体を失い、受領と私的関係で結ばれていない任用(掾・目)は在京して俸禄を受給するだけになり、9世紀以来の受領と任用の対立からくる国衙支配の不安定性は解消され、受領による国内支配体制が確立した。
この一連の改革によって、受領は任期4年分の貢納物を完済することを条件に、国内支配を委任されることになった。
受領は中央政府には固定額の貢納物を納めるが、国内では公田面積に対して税率を変動させたり付加税を加えたりしながら徴税した。
両者の差額が、受領の私的収益になる。
この税制上の二重構造が、「受領は倒るるところに土をつかめ」(『今昔物語集』」)といわれた受領の貪欲さの根元であった。
・宇多天皇は、宮中の秩序に関して新方策を打ち出し天皇の地位を再浮上させようと図る。
昇殿制度を確立して、宮廷社会に新しい序列を作ろうとした。
天皇の居所である内裏の清涼殿の殿上の間に昇る(昇殿)ことの出来る人間を、位階で決めるのではなく、天皇が一代ごとに個人個人について資格の有無を検討し、決めようとする。
漠然としていた侍臣(側近)を、制度として確定し、天皇が貴族官僚の序列を決めるということを再確認しようとした。
結局、参議以上の公卿は昇殿を許されるのが普通となり、実質的には蔵人頭の指揮下に四位・五位の殿上人が陪膳(ばいぜん)や宿直(とのい)に当たるという制度に出来上がる。
ただ、後世、宮廷人を公卿・殿上人・諸大夫(しよだいぶ)と階層づける出発点とはなった。
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