永禄12年(1569)
4月16日
・木下秀吉・明智光秀・中川重政・丹羽長秀、立入宗継へ、宇津頼重が禁裏御料所を押領した件について信長の糺明により宇津頼重へ違乱停止命令が出され、信長朱印を以て山国荘両代官(庭田重保・高倉永家)へ上奏した、従来通り朝廷直務とするため年貢納入を確保することを通達。
18日、丹波の宇津頼重へ、禁裏御料所山国荘について禁中命令を受け信長朱印を以て違乱禁止を通達。(「立入宗継文書」)
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4月16日
・木下秀吉・明智光秀・中川重政・丹羽長秀、若狭国人広野孫三郎に武田36人衆の忠節次第で所領安堵すると伝える。また、若狭の菊池治郎助に所領を安堵。
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4月16日
・松永久秀1万、大和片岡城攻撃。城将片岡春利逃亡。
5月10日、貝吹き山城攻撃。11月4日、降伏。
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4月18日
・松永久秀・久通父子、万歳城を攻める。
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4月19日
・信長、烏丸光康へ、義昭が摂津の当知行分及び上牧内の「近年御不知行分」などを改めて進呈するとの下知を受け「如前々」く「不入之地」として安堵(「烏丸家文書」)。山城大原野神社へ、義昭下知に任せ社領を安堵(「大原野神社文書」)。
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4月20日
・フロイスとロレンソ、朝山日乗と信長の面前で宗論を戦わせる。
答えにつまった日乗、ロレンソに斬りつけようとして取り押さえられる。
激高した日乗が、「人に霊魂があるというのなら、おまえを殺してその霊魂を見てやる」と、部屋にあった信長の刀を取りあげ、信長と家臣たちに取り押さえられる。
それでも、日乗は依然、皇居修復の職に留まる。
この前日・翌日、日乗は信長にバテレン追放を説く。
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4月20日
・義昭、上杉輝虎へ、越甲和睦交渉促進のため使者瑞林寺を派遣した、是非和睦締結に応じること、軽率な軍事行動を誡めると通達。詳細は信長に伝達させる。
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4月20日
・信長、曇華院殿へ、今後は山城大住荘(曇華院領)内を直務として「一円」を申し付け、同様に代官南大隅(曇華院被官人)の知行分「跡職」も安堵。
伊丹親興へ、摂津潮江荘の「散在」及び摂津難波村は「曇華院殿御領」で伊丹親興が代官である、未進の去年分の年貢の進納を督促。(「曇華院文書」)
京都大徳寺塔頭大慈院へ、清光院私領・代官敷地・買得田畠地子銭を将軍家代々下知に任せ当知行として安堵(「大慈院文書」)。
京都妙顕寺へ、義昭御内書・下知に任せ寄宿免除を安堵(「妙顕寺文書」)。
京都東寺へ、将軍家代々御判・下知により「当知行」を安堵(「東寺百合文書」)。
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4月21日
・信長、京都発。岐阜へ帰還。
柴田・丹羽・木下・明智ら、留守預かる。
木下藤吉郎(33)、二条城警護を命令される(「重編応仁記」)。
この日、信長は義昭の御所に出向き暇乞い、太刀・馬を献上。
「信長はいろいろ申し置き各々は落涙した。義昭は門外まで見送り、東側石垣に登り、信長が粟田口に入るまで遠見する」(「言継卿記」)。
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4月24日
・合戦に敗れたため武田信玄、駿河を放棄して帰還。興津城から撤退、甲斐へ退却。
北条軍は追撃。駿府城防衛の山県昌景も退却。横山城に穴山信君、久能城に板垣信頼を残す。
富士川沿いの退路は北条方が遮断しているため、信玄本隊は、駿府の山県昌景隊と共に、庵原郡からの山越えを敢行、途中で新道を開き、甲斐の徳間へ出て甲府へ退陣。
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4月25日
・朝山日乗、バテレン追放綸旨を獲得(「お湯殿の上の日記」)。
正親町天皇のバテレン追放令(永録8年)はまだ効力を有しており、信長の行動は朝廷側の大きな反撥を招く。
この日午後、日乗は禁裏名代の公家と共に義昭を訪問、バテレン追放を求める。義昭は拒否。
日乗は、更に綸旨を持参して再訪するが、却下。
和田惟政は信長・義昭の朱印状に書状を添えて禁裏に提出。また、フロイスを伴い目覚まし時計を持参して義昭を訪問。
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4月27日
・北條・上杉双方の使者、上野新田に会し、越相同盟の条件を討議。
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4月29日
・朝山日乗、フロイス居所の町に人を派遣し、内裏の追放令を無視して町に戻したのは誰かと尋問。
和田惟政は、兵を派遣し内裏・公方から命令あっても従わぬよう、そうしないと町を破壊すると威嚇。
禁裏の綸旨と義昭・信長の朱印状との有効性の激突。
(日付不詳)信長が、「内裏に一任」として一時的に妥協して折れる。
信長と天皇の懸案②(キリシタン排斥問題):
キリシタン追放綸旨は義昭に追放執行を命じる。
義昭は、入京・出京に関る事柄は自分の権限であるとして綸旨を無視。
日乗は綸旨施行を信長に求めるが、信長は、宣教師追放に関しては、朝廷に一任すると日乗に返答。
秀吉の仲介でフロイスが岐阜に信長に面謁し球状を訴えると、信長はフロイスに、内裏や公方様の事を意に介するな、一切は予の権内にあることだ、予がその方に云うことだけを行い、その方の望む所に居るがよろしい、と返答。
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下旬
・毛利元就、吉田を出発。途中より輝元を伴い本営を長府に設置。九州遠征の諸将を督励。
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