東京 北の丸公園 カワヅザクラ (2012-03-06)
*寛平5年(893)
・この年の太政官執政部の顔ぶれ:
藤原氏7名・源氏6名、菅原氏1名。源氏が藤原氏に追っている。
中納言以上の台閣上位者の勢力配置:
左大臣源融(72歳)、右大臣藤原良世(よしよ、72歳)、大納言源能有(よしあり、50歳)、中納言源光(48歳)、同藤原諸葛(もろかつ、68歳)、同藤原時平(23歳)。
大臣は源・藤両氏からでているが、老齢で、政治家としての実績もない。
藤原氏の長者は良世だが、剛毅な性格の時平がこの中でいちばん光っている。
これに対抗できる人材として、宇多天皇は、受領の中から保則と道真を選んだ。
国政の第一線で奮闘してきた受領の経験と識見が、中央政界で大きくものをいう時代。
この年、道真は、左中弁のまま参議となり、同年中に左大弁に昇進し、さらに勘解由長官と皇太子敦仁(9歳、醍醐天皇)の春宮亮とを兼ねる。
この時、春宮坊大夫(長官)は時平。
道真の出自と閲歴は、受領的な保則とは異なる。
道真の父祖3代は儒官として朝廷に重きをなし、父是善(これよし)は貞観14年(872)、少内記のときに参議になっている(この時、道真は28歳)。
貞観16年(874)、道真は、従五位下に叙せられ、兵部・民部・式部の少輔を経て、3年後には文章博士を兼任。
元慶4年(880)、父が没し、父祖以来の家塾を維持してゆかねばならず、文章代作の仕事も多忙であった。
仁和2年(886)、讃岐守として任地に赴くことになり、そのため式部少輔・文章博士・加賀権守の3官は除かれる。
讃岐守の4年間は詩賦に心を傾け、その頃の作140篇を、のちに『菅家文草』に収録している。
讃岐勤務の際の阿衡の紛議では、帰京し意見書を関白基経に捧げてこれを諌め、橘広相のために弁護した。
それは情理をつくした文章で、基経よりも、この問題でながく気を腐らせていた宇多に強い感銘を与えた。基経没後、天皇が保則に続いてかれを抜擢したのも、ひとつにはこの行動を高く評価したためらしい。
宇多天皇あっての寵臣道真、という関係がここに始まる。
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・三善清行(きよゆき)「意見封事十二箇条」(延喜14年)序文に見えるこの頃の地方の有様
(備中国下道郡邇磨郷(にまのごう))。
「臣、去る寛平五年に備中介に任ず。
かの国の下道郡に邇磨郷あり。
ここにかの国の風土記を見るに、皇極(こうぎよく)天皇(実は斉明天皇)の六年に、大唐の将軍蘇定方、新羅の軍を率いて百済を伐つ。
百済使を遺(つかわ)して救わんことを乞う。
(中略)天皇詔を下し、試みにこの郷の軍士を徴(め)したまう。即ち勝兵二万人を得たり。天皇大に悦びて、この邑(むら)を名(なづ)けて二万郷と曰(い)う。後に改めて邇磨郷と曰う。
(中略)天平神護年中に、右大臣吉備朝臣、大臣というをもて本郡の大領(だいりよう)を兼ねたり。試みにこの郷の戸口を計(かぞ)えしに、纔(わずか)に課丁千九百余人ありき。
貞観の初めに、故民部卿藤原保則朝臣、かの国の介たりし時、旧記を見るにこの郷に二万の兵士の文あり。大帳を計うるの次に、その課丁を閲(けみ)せしに、七十余人ありしのみ。
清行任に到りて、またこの郷の戸口を閲せしに、老丁二人・正丁四人・中男三人ありしのみ。
去る延喜十一年(九一一)、かの国の介藤原公利、任満ちて都に帰りたりき。
清行問わく「邇磨郷の戸口、当今幾何ぞ」と。公利答えて云わく「一人もあることなし」と。」
この文章にはやや誇張が多い。
例えば、一つの郷の人口は千人強なので成人男子全員を徴発しても二百数十人程度なので、かつて一郷から兵士2万人が出せたというのは、単なる地名起源説話である。吉備真備の大領在任中の数字も、同様に誇張であると思われる(課丁数ではなく戸口数としても多すぎる)。
しかし、人身の把握に基づく口分田の割り当ては、帳簿上では10世紀に入っても行われていたので、藤原保則が調査したという貞観の初め以降の数字には、帳簿上の根拠があったと判断できる。
しかも、清行の意見封事以後の平安時代の史料には邇磨郷が見えず、次に二万郷として現れるのは鎌倉時代後期である。
従って、邇磨郷の課丁(成人男子)数が9世紀中に激減したという清行の記述は、事実を述べた可能性がある。
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2月16日
・菅原道真(49)、参議になる。式部大輔を兼ねる。
藤原時平、中納言となる。
(台閣:左大臣源融(とおる)・右大臣藤原良世・大納言源能有・同光)
22日、道真、左大弁に転ず。
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3月15日
・菅原道真、勘解由長官を兼ねる
4月1日、春宮亮(とうぐうのすけ)を兼ねる
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4月2日
・敦仁親王(9歳、醍醐天皇)が立太子。母は藤原の高藤の女胤子。
藤原高藤は冬嗣の孫で、藤原北家系(傍流)。
これで、時平の外戚・外舅への道をひとまず封ずることに成功し、皇太子の外祖父高藤を参議に任じる。
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5月
・新羅人の武装した小集団(海賊)が肥後国飽田(あきた)郡に侵入して民家に放火し、肥前国松浦(まつら)郡の方面に姿を消す。
翌年には対馬が襲われている。
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5月17日
・1年の調庸の1/10を、累積未進穴埋め用として別途徴収する(従来の調庸の1割増し)(『類聚三代格』巻8寛平5年5月17日官符)。
仁和4年、調庸の任中完済の原則を定めた後、この時棚上げされた累積未進分の補填について、累積未進の1/10を追加納入させていた。これでは未進補填分だけでも本来の1年の調庸より多く、新任国司は圧倒されていた。
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9月
・菅原道真、勅命により『新撰万葉集』を撰進。
「藤原朝臣、新撰万葉集二巻を撰進す」(日本紀略)
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