2013年5月9日木曜日

牧野和春『桜伝奇』を読む(7) 第6章 荘川桜(岐阜県)

牧野和春『桜伝奇--日本人の心と桜の老巨木めぐり』を読む(7)
第6章 荘川桜(岐阜県)
1 御母衣ダムの建設

御母衣(みほろ)ダム
 『飛騨山川』にいう岩瀬・赤谷・中野・海上・尾上郷の五集落(正確にはこれに落部(おちべ)が加わる)が、これに白川村の秋町が、御母衣ダムの底に沈んだ。
地図をみても、現地に足を運んでも明らかに感じられることであるが、この地帯の地形は周囲を深い谷に取り囲まれ、さながら大自然の”袋小路”といった状態なのである。

 御母衣地区の対象世帯数および人口はどれくらいだろうか。世帯数にして二四八戸、人口にして約一二〇〇人である。湖底に沈んだ田畑の面積は約一四〇ヘクタール、地域の総面積は約七〇〇へクタール。
 これだけのものを犠牲にして御母衣ダムは昭和三五年十二月、高さ一三一メートル、最大出力二一万五〇〇〇キロワット時の東洋一のロックフィル式ダムとして完成したのであった。

*御母衣ダムと荘川桜の関連についてはWiki(←コチラ)がたいへん詳しいので、これらの経緯についてはこちらご参照願いたい。
 ここでの主役は、電源開発初代総裁(第2次鳩山内閣経済審議庁長官)高碕達之助。
地元のダム建設反対運動との折衝の傍ら、水没地域にある桜を移植して水没から救う計画をたてそれを実行する。

2 二本の老樹の移転計画

光輪寺と照蓮寺の巨桜(エドヒガン、推定樹齢400年)
 話を桜の木にもどすことにしよう。
 実は、桜の老樹は光輪寺のほか、もう一つの寺、照蓮寺にもあった。
いずれも推定樹齢四〇〇年以上。たぶん、この寺の歴史上、なにか由緒ある一区切りを記念して植えられたものではあるまいか。

 白川郷は、飛騨真宗の発祥地といわれる。それは後鳥羽天皇の皇子と伝える嘉念坊善俊が宝治年間(一二四七-一二四八)この地に来たり、一宇を創立したのに始まるという(中野効四郎『岐阜県の歴史』山川出版社、昭和四五年刊)。

 光輪寺も照蓮寺も浄土真宗の寺院で、殊に照蓮寺は嘉念坊善俊上人から九代目、明教のとき、飯島にあった寺が帰雲城主内ヵ島氏のために焼かれ、再建に当って門徒の中で争いが起こった。
そこで嘉念坊お手植えの大杉を伐り倒し、村で一番強い赤牛にその杉を曳かせ、牛が止まったところを寺の敷地とすることに決めたところ、その牛は中野で止まり、そこに中野御坊として再建、現在の照蓮寺となったと伝える。巨桜は、たとえばこうした伝承を反映しての再建時の記念樹かもしれない。

 ともかく、光輪寺、照蓮寺(ともに中野集落内)にそれぞれ一本ずつの巨桜である。
桜はともに種類はエドヒガン、樹齢も二本ともほぼ同じである。

”桜博士”笹部新太郎
 帰京した高碕氏は、自身が植物好きであったこともあって、二本の桜の移植に知恵を絞る。
専門家にも相談してみるが、四〇〇年もたった桜の移植など、どだい無理な話だと受けつけて貰えない。
最後の頼みの綱として相談したのが”桜博士”の異名をとる神戸の笹部新太郎氏であった。

 笹部氏は、桜愛好家にとっては今や伝説上の人物となったが、氏は明治二一年(一八八八)大阪、堂島の大地主の次男として誕生する。
しかし、一歳で母に死別、二一歳頃(東京帝大法科)から桜の研究に着手、二五歳で兄、栄太郎から宝塚、武田尾の土地を譲り受け、桜の演習林「亦楽(えきらく)山荘」を造園、犬養毅(木堂)に師事、渋沢栄一、後藤新平らの発起で、「東京さくらの会」を発足させ、全国の桜をみて歩き、大正から昭和戦前にかけて桜の植樹運動を展開、戦後も桜に対する社会的啓蒙に尽し、昭和五三年(一九七八)九一歳の天寿をまっとうした稀有の人物だ。

笹部氏、高碕氏の依頼(桜の移植)を承諾する
 その笹部氏に『櫻男行状』(平凡社刊、昭和三三年)なる一書あり、更にこれの新訂増補版が平成三年、双流社より出版された。
幸い、私の手元に、この双流社版がある。
このなかに「御母衣の桜」なる一項があり、
「昭和三五年早春の頃、私は計らずも高碕達之助氏の訪問を受けた。全く思いもよらぬことであった。ところは大阪倶楽部のホールの一隅」
という書きだしで、この経過がかなり詳しく述べられている。

以下、それにより要点のみ拾うと、高碕氏は一枚の桜の写真を笹部氏に見せて、「樹齢はどれくらいか」と聞く。笹部氏は直感で「四〇〇年はくだらぬ」と答える。すると、高碕氏が「この桜が、いま、自分のやっている御母衣の電源開発の工事のためにダムの水底に埋められてしまうことになる。できることなら何とかして活かしてやりたい。活着の見込みはありますか」と、笹部氏の顔をじっと見詰めるので、「おそらく自信をもって活着可能といい切れる人はまずいないでしょう」と笹部氏は答える。
「あなたはどうです」
「私だとて自信は持てませんナ」
「 - 絶対に駄目ですか」
そう切り込まれて笹部氏は答えた。"
"「絶対などという言葉は、活き物に関する限り私は使いたくありません。観音信仰のあなたにはまさに仏縁とでも申すべきでしょう、やればいいでしょう。枯れてもともと…・」
返事はいささか開き直りである。
高碕氏はこれを黙々と聞いていたが、ひょいとうつむいていた顔をあげて、笹部氏に向いただひとこと。
「万事、あなたにお委せしますから早々に移植にかかって下さい」
「私でよろしくばやってみましょう」
二人のこのやりとりが、二本の桜の老樹の行末を決めたのであった。

 笹部氏は高碕氏に問う。
「それで、移植の時期は?」
これに対し、高碕氏は答える。
「いまの日本の産業は御母衣ダムの電力に一日を争う期待をかけている」
この辺に、復興から発展途上の戦後日本の産業用電力の逼迫した状況がうかがわれる。政府は第一次池田内閣である。

笹部氏と豊橋の造園主、丹羽政光氏
 これから笹部氏の御母衣通いが始まる。
そして、巨樹移植の豊富な経験をもつ植木職人、豊橋の庭正造園主丹羽政光氏を電源開発側が笹部氏に引き合わせる。笹部氏の表現を借りれば、丹羽氏は「東海地方を縄張りとしているらしく」とある。職人にかぎらず、日本人の生業の世界を垣間みせて興味深い(あくまで現代の次元での感想ではあるが)。

40日かけた移植作業
 これより二人は意気投合、技術的にはいろいろ苦労を重ねるが、電源開発側も十五トンのクレーン車二台、三〇トンのブルドーザー二台、四〇トンのブルドーザー一台、さらに五〇〇人の作業員を動員させて協力。二本の桜は周囲一〇〇メートルにわたって根を張っていたのをできるだけ短く切り詰め、縄でぐるぐる巻きにし、枝の方もでき得るかぎりカットした。それでも、光輪寺の桜の方は重量四二トン、照蓮寺の方は三八トンもあった。

 これを運ぶのであるから、新しく、”コロ”と呼ばれる丸太や鉄棒を使っての路を作り、その上をソロリソロリと約一キロ引いて行き、次にダムの上まで二〇〇メートルの高さに引きあげたのである。
移転作業に取りかかったのが昭和三五年十一月十五日。湖畔の空地に無事移植を終ったのは十二月二四日であった。この間、約四〇日のスピード作業であった。

 この頃には、湖底に沈む人々との補償問題も終って、ダム工事そのものはほぼ完成していた。電源開発側では一刻も早く湖に水を入れねば日本の産業が遅れをとる、という状況であった。
かくて昭和三五年は暮れる。

昭和37年春、桜はようやく「本物の顔」になる
「私はひたむきに新しい春にあって出てくるであろうこの老樹の嫩牙(どんが)を待ちつづけたが、雪国のおそい春にじれじれした」と、笹部氏は書き残している。
 そのうち、二本の木にはその若芽が枝を覆っていたコモの目を突いて出始めた。そして、わずかながら花は咲いた。桜は二本とも生きているのである。

 しかし、まだ本物ではない。ところが、それをみて新聞紙面には「御母衣ダム、沈む村のかたみにサクラ”名木”永遠に残す。高碕氏も尽力、湖畔の名所に」 - といった見出しの記事が派手におどり始める。
問題は、この桜が本当に活着したかどうか。その正念場がこの年の夏であった。夏の間に葉と枝をふやして若返りを果たせば本物である。

かくて、昭和三七年の春がきた。桜はいくらか枝も花も数をふやしていた。ようやく本物の顔になった。
そして、昭和三七年六月十二日。
水没記念碑の除幕式が行なわれることになり、・・・

二つの後日談
”大阪育ち”の”荘川桜”
 ”荘川桜”については実は後日談が二つほどある。
一つは、若山さんが”荘川桜”の実生から育てた桜の苗木のうち、うまく生長したものが八本ほどあり、うち二本を大阪の高碕氏の遺族に贈ったところ、うち一本が根づき、今は数メートルの樹高になって毎年花を咲かせるまでとなり、若山さんらも招かれて”大阪育ち”の”荘川桜”二世に対面した、というほほえましい話である。

バスの車掌佐藤良二さんの”さくら物語”
二つ目は旧国鉄パス名金線(名古屋-金沢間運行、現在は廃止)の車掌佐藤良二さんの”さくら物語”である。
 佐藤さんは岐阜県白鳥町在住のバス車掌であった。バスは名古屋-岐阜-郡上八幡-美濃白鳥-荘川-岩瀬(荘川桜)-白川郷-城端(じょうはな、富山県)より金沢まで、太平洋側と日本海側を結んで二六〇キロをひた走る。

 佐藤さんは走るバスの中から、みごとに活着した”荘川桜”の生命力と、そのすばらしさに感動する。そして、自分が走るこの名金線を桜の花で埋まる”桜街道”にしようと決心したのだ。
それより、彼は沿線のバスの停留所ごとに土地所有者の賛同が得られたところから黙々と桜の苗木を植え始めたのである。
すべて自費である。乏しい蓄えを桜の苗木購入に当てた。少ない休みもそれに当てた。
以来約二〇年、”荘川桜”が活着して間もなくの頃からである。やがて、奥美濃の名金線沿線に、若い桜木の花がところどころみられるようになり、人々の話題となり始めた。

 しかし、その夢もむなしく、やがて佐藤さんは病魔に侵され、昭和五二年、四七歳で逝った。
植えた桜の若木約二千本。そのうちには枯れたものも当然ある。

 この話は別の形で、もう一つの”桜物語”として静かな感動を呼んでいるわけだが、このたび明春(平成六年)桜の季節をオープンとして決め、現在、映画『さくら』の制作が進行中である(監督神山征二郎氏)。・・・

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