2024年9月3日火曜日

大杉栄とその時代年表(242) 1898(明治31)年7月1日~3日 京師大学堂創立 独立協会の安駉壽、日本に亡命 「弊風一斑蓄妾の実例」(黒岩涙香) 子規、東京版「ホトトギス」刊行を決意 キューバ、サンフアン高地の戦い(米西戦争)      

 

セオドア・ルーズベルト率いるラフ・ライダーズ(サン・フアン・ヒルの戦い)

大杉栄とその時代年表(241) 1898(明治31)年6月24日~30日 山東巡撫張汝梅の上奏文(光緒帝、義和拳を政府公認の義勇軍と認める) 憲政党(隈板内閣、初の政党内閣)成立 松山版「ホトトギス」廃刊 より続く

1898(明治31)年

7月

京師大学堂(後、北京大学)、創立。

7月

朝鮮、独立協会の安駉壽、謀反の計画が発覚し日本に亡命。

7月

朝鮮、量田事業開始。

7月

桂陸相、朝鮮南岸馬山浦を日本の軍事基地とするため特別居留地として租借する事を求める。

7月

漱石、内坪井町78に転居。


「・・・・・大きな家で十室以上あった。敷地は五、六百坪もあるというのに、家賃は十円にすぎなかった。若い妻の行動に不安を感じた漱石は、妻の手首と自分の手首を紐でゆわえて就寝した。」(関川夏央、前掲書)

7月

平賀譲(21)、東京帝大工科大学造船学科入学。

7月

「弊風一斑蓄妾の実例」(黒岩涙香、「萬朝報」7月7日~9月27日)。政治家・富豪・学者など知名人の畜妾調べを行ない、順次紙面に発表。

日清戦争後、一方の極には華族・朝野政治家・高叔官僚・高級軍人・資本家など支配層による上流社会が成立し、他方の極には職人・賃金労働者・小作人・貧窮民等による「下層社会」が形成され、社会の底辺に呻吟する庶民の上流社会への反感が、こうした暴露記事を支える。


今や政治の変動一段落を告げ世局漸く静かにならんとす、この際とくに社会を奮起せしむる一記事は、来る七日より朝報紙上にあらわれんとす、其事たるや政治に非ず実業に非ず、最も緊急なる男女風俗問題なり、全社会の刮目を促す(『萬朝報』(7月4日)の社告) 


連載は全68回。伊藤博文、山形有朋、井上馨、榎本武揚、犬養毅、森鴎外、黒田清輝、北里柴三郎など無名有名のものを含めて510件もの「蓄妾」の実態を、本人と妾の実名、住所、年齢、二人の関係などの事実を淡々と記すという形式。

このスキャンダル報道の功績で、『萬朝報』は、創刊2年目の1893(明治26)年に年間発行部数が900万部だったものが、1898(明治31)年には3100万部と部数を増やし、東京府内では『東京朝日新聞』を抜いて第一位に躍り出た。

『萬朝報』が1897(明治30)年から淡紅色の印字紙を使っていたことから「赤新聞」と呼ばれ、扇情的な暴露摘発記事を得意とする大衆向け報道であるイエロージャーナリズムの代名詞ともなる。個人攻撃的な記事は途中入社した内村鑑三からもやめるよう忠告を受けたが、黒岩は「之を黙許して置くのは社会全体の不幸であるから、之を攻撃するのは当然である」と答えたという。

7月1日

子規、妻子と松山帰省中の虚子に長い手紙を出す。柳原極堂の松山版「ホトトギス」廃刊と東京版「ホトトギス」刊行の決意を明らかにする。


「よろしい。引受けてやつても見たい。併し天は我輩の成功を嫉んで居る。何故か運命は我輩をめのかたきとねらって居る」


「イツ大病にやられるやら分らぬ。たとい小生が雑誌の体裁などととのえて置いても、小生が病気したら誰が代理をやるであろう」


悪気込みと準備があっても雑誌は売れないだろう。500部がよいところだと思うが、その500部さえ、売ってゆくには編集の技倆がいる。世の動きに目を光らせ、雑誌全体のバランスと水準を保つ、そういう技倆だ。儲けは薄くとも、儲けは全然見込めなくとも、少しずつ部数を積み増しながら雑誌を永続させる、そういう俗事も技倆だ。自分にはそれがある。


「小生は常に興奮して居る。どんなに身体が衰弱しても精神は興奮して居る」

死地に踏み込む覚悟で雑誌を出すことに決したが、ひとりでは無理だ。といって「飄亭、碧梧桐、露月等には多きを望む事出来ぬ。つまり貴兄(虚子)と小生と二人でやつて行かねはならぬ」。

五百木飄亭は、この月結婚する。その費用は250円ということだし、雑誌どころではあるまい。京華日報に入社した碧梧桐は、憲法を読んでみるつもりだ、などといっているところを見ると、新聞記者として終始するつもりらしい。露月の志は医業にあり、秋田へ帰って開業することを願っている。となれば虚子しかいない。

しかし不安を誘うところが虚子にはある。


「貴兄は、たやすく決心する人で、なかなか実行せぬ人じゃ。これは第一、書生的の不規則な習慣が抜けぬためであろう。第二には、感情が強くて、意思を圧するためであろう。第三には、目的が未来の快楽よりも、寧ろ多く目前の平和にあるためであろう」


「今度若しやるなら臍(ほぞ)を固めてやりたまえ。いよいよやるときまれば、小生は刑場に引かるる心持がする。小生ひとり必死でやるのに、貴兄が存外冷淡であったり、疲労して寝てしまつたりせられては困る」

7月1日

米西戦争(キューバ)。エルカネーの戦い及びサンフアン高地の戦い(サン・フアン・ヒルの戦い)。

キューバ駐屯のスペイン軍は約10万だが、サンチャゴ湾付近の配備は1万4000人ほど。アメリカの陸上兵力は義勇騎兵隊ラフ・ライダーズ(荒馬乗り隊)連隊を含む約17,000人。要所であるサンフアン高地が陥落するなど一日で決着がつく。この時ラフ・ライダーズ連隊の中佐としてサン・フアン高地の戦いを指揮し、戦争の英雄となったのがセオドア・ルーズベルトである。

7月3日

この日、スペイン艦隊がサンチャゴ湾外に脱出したところをアメリカ海軍に攻撃され、沈没・座礁・降伏などで全滅。アメリカ軍はキューバ周辺のスペインに管理された水路を破り、スペイン軍の再補給を妨害、アメリカ軍の安全な上陸を可能にした。

その後、サンチャゴ要塞に籠城したスペイン軍との間でサンチャゴ攻囲戦が続いたが、7月17日、サンチャゴ要塞は降伏

7月21日、小規模なニペ湾海戦でもアメリカ艦隊がスペイン艦を撃破した。

アメリカ軍は8月7日にはキューバからの撤収を開始した。

秋山真之は報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(極秘諜報第百十八号)において、アメリカ軍の前線部隊がハイチ島経由の海底電線の端末を用いてアメリカ本国と通信を交わしていたこと、仮の根拠地を作り軍需品の供給のスピードを高めていたこと、キューバ独立軍に兵器や食料を与えることにより、アメリカ軍が独立軍の支援を受けていたことなど、兵站・後方支援に見るべきものがあったと強調している。


つづく


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