2024年9月5日木曜日

大杉栄とその時代年表(244) 1898(明治31)年7月7日 ハワイ併合 〈ハワイ併合に至る経緯(2)〉 〈アメリカへの傾斜と抵抗(2)〉 〈ハワイ事変(ハワイ革命)(1)〉

 

ハワイ事変(親米派による革命)の舞台となったイオラニ宮殿

大杉栄とその時代年表(243) 1898(明治31)年7月7日 ハワイ併合 〈ハワイ併合に至る経緯(1)〉 〈カメハメハ王朝〉 〈ハワイ王国の立憲君主制の確立〉 〈アメリカへの傾斜と抵抗(1)〉 より続く

1898(明治31)年

7月7日 

ハワイ併合 

〈ハワイ併合に至る経緯(2)〉  

〈アメリカへの傾斜と抵抗(2)〉

1874年、カラカウアは、ハワイ国王として初めてアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約)を締結した。これによりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能となったが、第4条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかることになる。一方、製糖業を支える外国人をハワイ王国の市民として受け入れる政策をとり、これは製糖業を独占していたアメリカ人商人には不評であった。カラカウアはウォルター・マリー・ギブスンを政治顧問とし、内閣を指導させた。

1879年、カラカウアはホノルルでイオラニ宮殿の建設に着手。

1881年、カラカウアは、世界一周旅行を敢行。サンフランシス、日本、中国、シャム、シンガポール、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スペイン、ポルトガルと続く約10ヵ月の旅であった。旅の目的は移民の促進交渉と表敬訪問、各国の王室の見学であった。日本では明治天皇に会見した。

1887年11月、米布互恵条約は、真珠湾の独占使用権を獲得することを条件に更新された。カラカウアは真珠湾独占使用権には反対であったが、アメリカ上院は強硬で、7年という期限付きでの独占使用を認めた。ハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多かった。

1887年、ハワイ王国の野党議員ロリン・A・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが結成され、同年6月30日、ハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力して、首相ウォルター・ギブスンの退陣と新憲法の採択を王に対して要求した。これに対し、カラカウアは自ら組閣した内閣を解散することで抵抗した。ギブスンは国外退去に処された。

次に、ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズなどが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月、採択された、1887年憲法(通称「ベイオネット憲法」)である。「ベイオネット」とは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった。この憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入や資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。

このようなアメリカ人入植者によるハワイ王国支配に対して反発したハワイ人は、1889年に反乱を起こした。指導者はアメリカ人と先住民の混血の青年ロバート=ウィルコックスで、彼は自由愛国協会を組織し、ハワイ王国の王権の回復、先住民の地位向上などを掲げた。このハワイ人の反乱には中国人の移民である華僑の一部が加わった。

国王カラカウアは大西洋列強に対抗するためサモアや日本などと連携する太平洋諸島連合構想を打ち立てた。また、カラカウアはベイオネット憲法の廃案を画策したが失敗に終わった。1891年1月20日、カラカウアは志半ばで保養先のサンフランシスコで死去した。

1890年、アメリカ連邦議会で新たな関税法案が通過。ハワイから輸入した砂糖は無関税だが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金が付けられたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた。サトウキビ農園の地価が暴落し農園労働者の賃金も低下、失業者も現れた。あらゆるものが砂糖に依存していたハワイ経済は深刻な不況に陥った。製糖業経営者の多くはアメリカ人であり、アメリカの保護領か、編入かにより事態を解決する以外の道はないと考えるようになった。

1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。

1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した。

リリウオカラニは、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、アメリカ系白人勢力は道徳的見地からこれを批判した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、女王に権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。

こうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・リービット・スティーブンスは、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。

1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった。中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった。

〈ハワイ事変(ハワイ革命)〉

1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、ホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた。

これに対し、政府側はイオラニ宮殿で反対集会を行うことになった。集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった。リリウオカラニは宮殿外で待機する群衆に、憲法の施行をしばらく延期することを発表した。

翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、駐ハワイ公使スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。

1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立準備のため、判事を辞任。午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国終結および暫定政府樹立が宣言された。ハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府樹立を通達した。

リリウオカラニはスティーブンスに特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。

親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国などが暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。


つづく

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