東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-07
*天慶3年(940)
2月下旬
・伊予国衙で位記を受け取った純友は2月下旬、叙位への奏慶(天皇へのお礼)と自己の軍事的実力の示威のために上洛の途についた。
純友はこの段階で要求実現と判断し、事態を収拾しようと考えた。
この上洛が実現していれば、純友は山陽道諸国の群盗鎮静の最高殊勲者として迎えられるはずであった。
しかし、事態は純友の意図を越えて展開していく。
まず、将門が余りに早く敗死した。
次に、備前の藤原文元、讃岐の前山城掾藤原三辰(みつとし)らが正月の任官に満足せず、純友の収拾工作を無視して運動を過激化させた。
純友が政府と交渉を進め、文元らの任官を実現したころ、文元は備前・備中を制圧していた。
讃岐国では、文元に呼応して三辰が介の藤原国風(くにかぜ)に反乱を起こし、三辰との合戦に敗れた国風は阿波を経て淡路に逃れた。
文元と三辰の行動は、任官・叙爵で目標達成と踏んでいた純友の収拾構想を大きく狂わせることになった。
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2月22日
・都にも純友の配下の者が入り込み、放火を繰り返すようになった(『貞信公記』天慶3年2月22、26日条)。
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2月23日
・純友が上洛を目指していることを知った政府は、純友の上洛を阻止し、備前の文元と讃岐の三辰を武力鎮圧する方針を打ち出す。
備後国警固使を任じ、逃亡した阿波・讃岐両国司に任国帰還を命じ、それまでの追捕山陽道使に加えて追捕南海追使を任命した。
この転換は、忠平らが将門敗死の情報を得たからこそ可能であった(正規の報告より前に忠平のもとに情報が届いていてもおかしくない)。
しかし政府はこの時点ではまだ純友を「凶賊」 と名指ししておらず、上洛を断念した純友は 「悦(よろこ)び状」を帰京する位記伝達使に託して叙位の謝意を表し、叛意なきことを示そうとした。
到着は3月2日。
同時に届く「伊予解文」は、守紀淑人が純友の立場を弁護したものであろう。
この後、純友による事実上の伊予制圧、文元の備前・備中制圧、三辰の讃岐・阿波制圧という状況のなかで、1ヶ月間、政府側と反乱軍側との睨み合い状態が続く。
それは、将門追討に投入された軍勢を純友追討に再投入するための、政府側の時間稼ぎでもあった。
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2月25日
・将門が貞盛・秀郷によって射殺されたとの第一報は、信濃国の飛駅によって、この日に都へ届けられた(『貞信公記』『日本紀略』)。
「信濃国の馳駅(ちえき)、来奏して云わく、凶賊平将門、今月十三日、下総国幸島(さしま)に於いて合戦の間、下野・陸奥〔常陸〕軍士平貞盛・藤原秀郷等の為、討ち殺さるるの由。」(『日本紀略』2月25日条)
この時の情報伝達のさらに詳しい内容が、『大法師浄蔵伝(だいほつしじようぞうでん)』奥書に記されている。
将門が常陸国府を占領してから将門が殺されるまで、坂東諸国からは直接情報が発信されず、信濃・駿河国などの隣国から発せられていた。このことから、将門が坂東を支配していたとする『将門記』の記載を間接的に証明できると考えていた。
奥書の「平良□」という記載。平姓で名の一字に「良」を持つ者は、将門の父艮将の世代に限られること、残画が「ある人物」の名の一部に当たるのではないかということ。
「将門の事 外記々に云わく、この日の申(さる)の三点、信濃国の飛駅使、馳せ来たる。その奏文に云わく、上野国の去る十五日の牒、今日の亥の刻に到来して偁わく、安陪(倍)忠良(ただよし)、今日の巳の時に馳せ来たり申して云わく、平□□夜半に馳せ来たり申して云わく、平将門、今日十三日、下総国辛(幸)島郡の合戦の庭において、下野・常陸等の国の軍士平貞盛・藤原秀郷等の為、討ち殺されるること己に畢んぬてへり。今日、仁王会の夕講、末だ終わらざるの前に、この奏文有りと云々。」
「外記々」とは、『外記日記』のこと。
外記は、太政官の一員として、公文書の作成などに携わる一方、職務としてその日に起きた重要事項を日記に書き留めていた。それを『外記日記』と呼ぶ。
『外記日記』を整理すると。
「十三日 将門が下総国猿島郡で貞盛・秀郷に殺害される
十四日夜半 平良口が安倍忠良に伝える
十五日巳刻 (午前十時頃) 安倍忠良が上野国へ伝える
某日亥刻 (午後十一時頃) 十五日付けの上野国の牒が信濃国に到着する
二十五日中三点 (午後四時三十分頃) 信濃国の飛駅が都へ到着する」
『外記日記』によって、将門殺害からその情報の都への到着までの情報伝達の様子を復原すると。
将門殺害の時刻は『外記日記』にはないので、『将門記』によると、『将門記』では未申刻(午後3時頃)から合戦が始まったとする。
初め追い風が吹いて将門が戦いを有利に進め、後に風向きが変わって将門が射殺されたので、その時刻は、申酉刻(午後5時)~酉刻(午後6時)頃と推測される。
そうすると、将門殺害から6~8時間後には、平良口によって、その情報が安倍忠良に伝えられ、順次、上野国・信濃国・都へと伝達された。
安倍忠良の素性は不詳。
情報を最初に伝えた平良口は、名前に1字の欠落があるものの、「良」という将門の父の世代に共通する通字を有していることから、平良文と推測できる。
『大法師浄蔵伝』奥書に、将門の死ならびに臨時仁王会に関する『外記日記』が抜書きされた理由:
「浄蔵法師伝」の写本の底本となるのは奈良国立博物館所蔵の写本(奈良博本)で、寛喜3年(1221)11月27日の午刻(正午)頃、宗蓮(しゆうれん)という僧侶が北山庵という場所で書写した。そして、その宗蓮が『外記日記』を書き込んだ。
浄蔵は、「意見封事十二箇条」の筆者、三善清行の息子。幼くして仏道に帰依し、宇多法皇の仏弟子でもあった。呪力に優れており、死者を蘇生させるなどの強い法力を兼ね備えていたという。
『大法師浄蔵伝』は、『扶桑略記』にも引用されており、浄蔵に関する説話的な内容を多く含む伝記である。
浄蔵は、天慶3年正月22日から21日間、延暦寺で将門調伏のため、大威徳法(だいいとくほう、五大明王の一つである大威徳明王に降魔を祈る修法)を修していると、将門の姿が灯明の上に現れ、護摩檀から鏑矢が東を指して飛んでいった。それによって、浄蔵は将門の降伏を予知した。
また、都で臨時仁王会が営なまれ、浄蔵が待賢門講師として参加していると、都の人々は、将門が上洛するのではないかと騒いでいた。
そこで、浄蔵は、今日、将門の首が都に到着すであろうと奏上すると、果たしてそのとおりになった。
宗蓮が、将門の死ならびに臨時仁王会に関する『外記日記』を、浄蔵の伝記の奥に抜き書きしたのは、この話を裏付けるためであったと考えられる。
平良文:
『尊卑分脈』などの系図類によれば、村岡五郎と呼ばれている。
村岡は、相模国鎌倉郡村岡郷(神奈川県藤沢市)、もしくは武蔵国大里郡村岡郷(埼玉県熊谷市)といわれている。また、鎮守府将軍との尻付(しつけ)もみられる。
良文の孫から、11世紀前半に房総半島を中心にして戦乱を引き起こした平忠常が現れ、さらに、その子孫から源頼朝を助けて、鎌倉幕府成立に貢献した上総広常・千葉常胤が生まれる。
下総国の荘園として著名な相馬御厨も、もとは平良文の所領から出発したと、千葉常胤は主張している(『平安遺文』2586・3139号文書)。
説話史料としては、『今昔物語集』巻25、源充・平良文合戦語がある。東国にいた源充と平良文という名のある武者が、他人の讒言によって一騎打ちを行ったものの、勝負がつかず仲直りをしたという説話である。
また、中世初期の百科辞典ともいえる『二中歴(にちゆうれき)』巻13にも、高名な武者として見える。
高望王---国香
-良兼
-良将--将門
-良孫
-良広
-良文
-良持
-良茂--良正
この良文が将門敗死の第一報を短時間の内に伝えたということは、良文が、猿島郡の戦場近くにいたことを意味している。更に、この情報が都へ届けられたということは、良文は、貞盛・秀郷側に与して合戦に参加していたと推測できる。
そして、良文は天慶3年11月16日の恩賞に預かった可能性もある。
彼の孫、平忠常は、「下総国ニ平忠恒卜云兵有ケリ。私ノ勢力極テ大ニシテ、上総・下総ヲ皆我ママニ進退シテ、公事ヲモ為サザリケリ」といわれ(『今昔物語集』巻25)、下総・上総国の大私営田領主として、両国の国司に任じられた経歴を持っていた。
忠常の経済的基盤は祖先の段階に築かれ、それを継承・発展させたものと考えることができる。
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また、平(千葉)常胤が、相馬御厨(下総国相馬郡にあり、常胤の祖先が伊勢神宮に寄進した荘園)は、良文から継承してきたと主張している。
良文の経済的・軍事的蓄積を継承したからこそ、忠常は大私営田領主に成長できた。
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