2012年7月11日水曜日

永禄13年/元亀元年(1570)9月25日 信長、浅井・朝倉を追って全軍を比叡山下に展開 持久戦に入る [信長37歳]

江戸城(皇居)東御苑 2012-07-04
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永禄13年/元亀元年(1570)
9月24日
・信長1万、山科へ向かう。
柴田勝家は山中越から下坂本着陣。
北国朝倉勢3万は比叡山中に後退、蜂が峰・青山・局笠山に陣を取る。持久戦法へ。
睨み合いは3ヶ月近く。
信長、延暦寺僧10人程を呼び寄せ、信長に味方するか中立を維持するよう勧告。その旨を稲葉一鉄に朱印状にしたためさせる。その上で「このこと違背するならば、根本中堂・三王二十一社を始め諸堂ことごとく焼き払う」と宣告。無視。

浅井長政、大坂石山本願寺に協力依頼。「御迷惑御大儀ながら御同心下さるようお願いいたす」。
10月7日、本願寺は近畿各地に反信長の檄をとばす。南近江、伊勢長島で一揆。
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9月24日
・幕府奉公衆、申刻に白川の一乗寺・試楽寺等へ布陣(「言継卿記」4)。
信長2万余、白川経由で志賀口・穴太口に布陣(「兼見卿記」1)。
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9月24日
・この夜、近江で「一揆発騒動」す(「言継卿記」4)。
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9月24日
・秀吉、横山城より坂本に出陣。江南の一揆を鎮圧(「信長公記」)。
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9月25日
信長、浅井・朝倉を追って全軍を比叡山下に展開、谷を焼き払う。
後、宇佐山へ本陣移し持久戦態勢。12月の講和まで3ヶ月釘付け。
義昭、比叡山西麓勝軍山へ2千で入る。

織田勢はまず麓の香取屋敷を補強して平手監物・長谷川丹後守・山田三左衛門・不破光治・丸毛長照・浅井新八・丹羽源六が入る。
穴太(大津市坂本穴太町)に砦を築き簗田広正・河尻秀隆・佐々成政・塚本小大膳・明智光秀・苗木久兵衛・村井貞勝・佐久間信盛ら16将が入る。
田中(下坂本町)には柴田勝家・氏家ト全・安藤守就・稲葉一鉄が布陣、唐崎(下坂本町)の砦に佐治八郎・津田太郎左衛門が入る。
叡山西麓の将軍地蔵山(京都市左京区の瓜生山)の古城跡には織田信広・三好康長・香西越後守に公方衆を加えた兵2千余が布陣。
八瀬・大原口には山本対馬守・高野蓮養坊が陣地を築き、夜中山上に忍び入っては谷々へ放火。

信長が叡山に釘付の間、三好三人衆は野田・福島砦を補修、諸牢人を集めて河内・摂津で示威行動。
しかし、信長方の高屋城畠山・若江城三好義継・交野の安見右近や伊丹・塩河・茨木・高槻の各城が堅固に構え、和田惟政率いる畿内衆も各地に陣所を構えて守備を固めているため、三好三人衆は京へ進めず。


江南では六角承禎父子が再び挙兵、甲賀口の三雲氏居城菩提寺城(滋賀県石部町)まで寄せるが寡勢のため戦にならず。
また、江州の本願寺門徒も蜂起し、濃尾方面への通路遮断を狙うが脅威にはならず。


木下藤吉郎・丹羽長秀が江南各地を転戦してこれらを鎮圧。横山城・佐和山城付砦の百々屋敷に十分な守備兵を残し、志賀へ参陣すべく西上、途中の建部(八日市)には一揆勢が砦を構え、近隣の箕作山・観音寺山と連携して通路を塞ぐが、両人はこれを破り志賀へ到着、瀬田へ入る。(「信長公記」)
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9月27日
・三好方篠原長房(阿波木津城主)、顕如の要請に応え阿波・讃岐勢2万を率い兵庫に上陸。
翌日、5千が尼崎に進出。
10月1日、中嶋に着陣。岳父大和教行寺佐栄の立会いで顕如と誓紙を交換。
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