江戸城(皇居)東御苑 2012-07-04
*永禄13年/元亀元年(1570)
9月18日
・坂本・宇佐山の戦い
本願寺に呼応して浅井長政・朝倉景健3万、坂本に接近(信長を挟撃する共同作戦)。宇佐山城森可成、城を出て坂本へ。
19日、信長弟信治、援軍2千で北国勢に斬込む。森可成(48)・織田信治戦死、1200余討たれる。
宇佐山城持ちこたえ、北国勢は攻略断念。
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9月19日
・顕如より淡路島にまで出陣している阿波木津城主篠原右京進長房に大坂への着陣を要請。
10月1日、中嶋に着陣。
「今度、渡海の事、早速同心有り、すでに淡州(淡路島)に至り、着岸の由、欣悦これに過ぐべからず候。いよいよ以って相急がれ、この表(大坂)に着陣の儀、希む所に候」
(九月十九日付『顕如上人文案』)
篠原長房は、本願寺の一族が入って院家となっている大和教行寺佐栄の妹を妻に迎えていることから、協力関係にあった。
篠原長房は、阿波・讃岐の門徒衆の支援を得て、2万余を率い淡路島を経て、10月1日に本願寺近くの中嶋に到着する。
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9月19日
・山科言継、参内、明日石山本願寺へ勅使として柳原淳光と共に派遣する旨を通達される(義昭の要請による和議調停)。烏丸光康も同行。
20日、山科言継・柳原淳光は勅書を拝受。
(主文)
「今度、大樹(将軍)、天下静謐のため出陣候。信長同前のところ、一揆をおこし、敵対のよし、その聞え候。不相応のこと、然るべからず候。早々、干戈(かんか)を相休むべきこと、肝要候。存分候わば、仰せ出され候べく候。なお両人(山科言継・柳原淳光)に仰せ含め候なり。
本願寺僧正とのへ 」(『言継卿記』9月20日条)」
(義昭・信長の出陣は天下静謐のためのもの(国事行為)、顕如の敵対は不相応であり早々に干戈を相休むよう命令。信長の正当性を認め、本願寺挙兵を「一揆」「不相応」として叱責)。
「お叱りの勅書」(今谷明)。
信長は将軍利用から天皇利用に転換。天皇は朝廷維持のため信長に迎合。
午時、摂津へ発足しようとしたところ、坂本に朝倉・浅井・一揆勢ら3万が出撃。森可成が迎撃、小勢のため森可成討死、坂本・大津等が放火されたため、勅使発足を延引。
21日、山科言継は「故障」と称して勅書を柳原淳光へ委ねる。(「言継卿記」4)
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9月20日
・浅井長政・朝倉義景、大津に達する。大津焼き討ち。
21日、山科に到達。醍醐・山科を焼き、京に迫る。
夜半、明智光秀・村井良勝・柴田勝家、大坂から京都に戻る。勝家は事態の重大さを信長に注進。
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9月20日
・春日江(滓上江、かすがえ)堤の戦い。本願寺勢5千、天満の森対岸の春日江堤から守口方面に出撃、刈田と見せて信長方を誘う。母袋衆佐々成政らが近江川を越えて出撃、待ち伏せの本願寺鉄砲隊が一斉射撃。織田勢先鋒佐々成政、負傷・敗退。前田利家が突入し、窮地を救う。義昭家臣野村越中守が戦死。(日付は9月14日が有力)
信長、野田城・福島城衆へ森口周辺の苅田を実行させる。織田軍、川口向城より出撃し石山本願寺一揆軍と本格的交戦に突入。信長も出馬するが、織田軍は敗北し野村越中守が戦死。前田利家・毛利秀頼・湯浅一忠・中野又兵衛・細川藤孝・松井康之ら力戦。(「松井家譜」、「武徳編年集成」)。
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9月20日
・信長、三好政勝へ摂津豊島郡を扶助(「福地源一郎氏所蔵文書」)。
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9月20日
・能島城主能島武吉、毛利元就らと盟約を結ぶ。
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9月21日
・浅井長政、藤堂九郎左衛門へ、内存により同心したことを賞し私領安堵を通知(「養源院文書」)。
22日、近江「十ヶ寺」へ「内々」の沙汰を諒承し調儀及び防備促進を指示(「誓願寺文書」)。
「出陣をお願いします どうかご油断なきよう(不可有御油断)」。
この頃、越前朝倉氏も、丹生郡の岩本氏や今立郡の木津氏ら土豪たちの田畠等目録に朝倉氏裏判が据えられるようになり、土地安堵を通じて在地土豪層の掌握・軍事編成が進められ、本願寺門徒や三門徒に対しては鎗持ちを課されるなど、戦力強化を図る。
また府中両人や敦賀郡司が有する管轄郡内の支配権は一乗谷に吸収され、義景の奏者である鳥居景近・高橋景業が奉行人に代わって重用されるなど、朝倉惣領家へ権限を集中、信長に対する臨戦軍事体制を整えていく。
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9月22日
・柴田勝家、この朝に摂津へ再度下向。
夜、信長、津野田・福島砦の囲みを解き、天満ヶ森本陣に諸軍を集め京都に戻る。畿内の兵は帰国させる。
石山攻め惨敗。
撤退に際し信長は、淀川の支流の神崎川渡しの江口の船頭に対して、その功労に報いるために禁制を出している。
「渡舟の儀、昼夜馳走(奔走)せしむるの条、当村の事、乱妨・狼籍、一切の非分(不法)は除く。若し猥(みだ)りの儀あらば、成敗すべきの状、件の如し。
元亀元年九月 (信長印)
江口村 船頭中 」
江口は淀川と神崎川の津頭にあって、古代から淀川交通の要地。一帯は、蓮如が石山に御坊を設けて布教して以来、渡りといわれた船乗りや人足を中心に門徒衆が形成されていた。
江口の近くには三番(さんば)の定専坊(じようせんぼう)があり、対岸には古橋の願得寺、出口の光善寺など、いずれも蓮如やその子どもが開いた寺がある。これらは、淀川水系で水運に従事する門徒衆に支えられていた。
江口の船頭は、信長軍の渡河に協力したが、一帯の門徒が蜂起していた。
「一揆蜂起し、渡舟を隠しおき、通路自由ならず。稲麻・竹葦なんどの如く、過半竹鑓を持って、江口川の向かいを大坂堤へ付きて、叫喚すると雖も、異なる事なし」(『信長公記』(巻3)。
門徒らの挙兵を何事もなかったように記述しているが、信長軍の撤退はかなりに困難をきわめたようである。
それ以上に信長軍の反転で、悲惨な目にあったのが、現地で召集された人々。
近国の城持ち武将は、それぞれの城に這々の態で入って守りを固めることができたが、播磨衆や紀州の湯川衆・根来衆は、本願寺勢や三好三人衆に追撃されて難儀したという(『細川両家記』)
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9月23日
・義昭、亥刻に上洛。信長、子刻に上洛。殿軍は柴田勝家・和田惟政がつとめる。
この日、山科言継は長橋局から勅使として信長・義昭を慰労するよう命じられる(「言継卿記」同日条)。
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9月23日
・朝倉勢先鋒、清水寺山に着陣。総大将朝倉義景、白川へ出陣。
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