2012年7月2日月曜日

天慶6年(943)~天慶8年(945) 藤原敦忠(38)歿 紀貫之歿 シダラ神の入京

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-06-05
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天慶6年(943)
1月7日
・藤原兼通(18)、従五位下に叙爵。藤原師輔の二男。
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3月7日
藤原敦忠(38)、歿。藤原北家・本院左大臣藤原時平の三男。従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。枇杷中納言・本院中納言。

小倉百人一首(43番)
  「あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり」(「拾遺集」)
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天慶7年(944)
2月6日
・橘遠保(たちばなのとおやす)、何者かに斬殺される。
天慶4年(941年)、伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ、同年7月7日、純友・重太丸の首を朝廷へ進上。純友追討の功により伊予国宇和郡を与えら、その後、美濃介に転任。
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4月
・朱雀天皇、成明親王(朱雀の弟、のちの村上天皇)を皇太子にたてる。
忠平の兄左大臣仲平(なかひら)が東宮傅(とうぐうふ)となり、師輔は東宮大夫の地位についた。
妃安子を介して成明と師輔との結びつきが固いものとなる。やがて出現する師輔全盛時代のまえぶれ。
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4月7日
・藤原実頼が右大臣となる。
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天慶8年(945)
この年
霧島山噴火。
この年、性空が、山頂に登り、法華経を唱えること7日にして神勅を受けようと5日間滞在したが、全山震動して猛火を発し、しばらく止みそうにはなかったという。
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5月8日
紀貫之、歿
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7月
シダラ神の入京
シダラ神:
民衆の信仰、志多羅神(しだらのかみ)、小藺笠神(こいかさがみ)ともいう。
摂津国からの報告によれば、シダラ神をのせ、民衆に担がれた3基の神輿は、筑紫国から順次民衆に送られながら上京し、今、摂津国を通り都を目指している。

それぞれの神輿には「自在天神」「宇佐春王三子(うさはるおうさんし)」「住吉神」と書かれた額が掲げられ、民衆は御幣を捧げ、鼓を打ち歌舞しながら列をなして行進しているという。

「シダラ」とは手拍子のことで、熱狂する民衆が手拍子をしていたことに由来する。
また、小藺笠神ということから、人々は菅笠(すげがさ)のような植物性の笠を被って踊っていたことが想定される。
民俗学的に言えば、笠を用いるのは神を憑依させるためであり、阿波踊り・佐渡おけさなどと共通する

「月は笠着る 八幡は種蒔く いざ我等は 荒田開かん」などという歌が謡われており、シダラ神信仰が農村に根ざしていたことがわかる。


この時期、疫病や飢饉が続発し、数年前には平将門の乱や藤原純友の乱が起きていた。
これらにより農村が疲弊し、田地も荒れ果てていたに違いない。
それを「さあ、我々は荒田を開こう」と叫び、農村を復興しようとする強い意思も見ることができる。

シダラ神は、移動する過程で豊前国の宇佐八幡、摂津国の住吉社を取り込んで、福の神、すなわち復興のシンボルの位置づけを与えられたのであろう。
結局、とある女性に「吾は早く石清水宮へ参ぜん」との託宣が降り、シダラ神は石清水八幡宮に鎮座し、摂社の一つとなった。
謡われた歌は、近年までいくつかの神社で行われてきた「田遊び」(新春、その年の豊作を祈って神社で行われる手祝儀札的祭祀)のなかで、謡われてきたことが知られている。
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9月
・皇太子成明の傅の地位についたばかりの左大臣兼左近衛大将仲平、発病のために出家し、4日後に没。
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10月14日
・純友討伐に殊勲のあった小野好古、大宰大弐となる。曾祖父岑守は、嵯峨朝末年にこの職にあって大いに治績をあげた。好古の父もまた大弐をつとめた。
好古は、収拾しにくい状況を政府に報告し、大宰府官人、九国の国使以外の者の部内への立入りを禁止し、集団の武力をもって人民を脅し、財物を奪う者は強盗に準じて逮捕して、刑罰を科することの立法化を求めた。翌年末、そうした内容をもりこんだ太政官符が公布された。
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11月25日
・右大臣実頼、左近衛大将を兼任。
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