尖閣で何を慰めたのか 尖閣列島戦時遭難者遺族会会長 慶田城用武
「朝日新聞」2012-10-3
筆舌に尽くせぬ死 政治に利用するな ツケは私たちに
「日本の領土を守れ」「中国の横暴を許すな」。尖閣諸島をめぐる勇ましい声にかきけされがちになりながら、尖閣列島戦時遭難者遺族会会長の慶田城用武さんは静かに問いかけている。敗戦直前、あの島で何が起きたかご存じですか? 遺族が、あの島での慰霊祭よりも望んでいるものが何か、わかりますか?
尖閣諸島の魚釣島に、兄の遺骨が眠っています。用典。5歳でした。
1945年6月30日、石垣港から出る最後の台湾疎開船に、母は兄と2歳の私、11ヵ月の妹を連れて乗り込みました。前の月に父が戦病死したので、すでに台湾に渡っていた姉を頼ろうとしたようです。
船が米軍機の機銃掃射を浴びたのは、その3日後です。母は妹を抱き、私を目の前に置いて、脇にいた兄の頭にはとっさにおにぎりを入れていた竹かごを載せてかばったのだけど、飛行機が去った後、兄の肩のあたりを触ったら血でぬるっとした。「あっ」とも「うん」ともなく、即死だったそうです。
翌日、船は魚釣島に漂著し、兄の遺体も島に上げられました。そのへんの石を遺体の上に載せて、クバ、本土ではビロウと言うんですか、その葉っぱで覆っただけ。穴を据って埋める体力がないからですね。
それから8月18日に救助されるまでの45日間は、壮絶な飢えとの闘いだったようです。クバの芯が一番の食料。長命草やヨモギなどの野草、ヤドカリ、トカゲなど食べられるものは片っ端から食べた。だけど老人や子どもなど弱い者から順に死んでいく。餓死寸前の人は体が青膨れするのだそうですね。生き延びて石垣に戻れたのに、栄養失調から回復せず亡くなる人もいました。
どうして2歳の私が生き延びることができたんだろう。母にいろいろ聞いてみたけど、話したがらなかったですね。「忘れもしない悲惨な出来事は、思い出したくない」。そんなことを言っていました。母だけじゃありません。生存者の口は一様に重く、その歴史は埋もれようとしていました。
しかし戦後50年を機に、体験を後世に伝え、二度と戦争を起こさせないようにしなければと、95年に遺族会を結成。2002年には石垣島内に慰霊碑を建て、毎年7月3日午後2時に慰霊祭を開いてきました。船が攻撃された日の同じ時間です。
この夏、尖閣諸島の領有権がクローズアップされ、「慰霊」という言葉が飛び交うのを、なんだか不思議な気持ちで聞いていました。いったい誰の、何を慰めるんだろうかと。
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自民党の山谷えり子先生から電話がかかってきたのは7月23日です。日本の領土を守るため行動する議員連盟の会長さん、ですか。魚釣島で慰霊祭をしたい、政府に上陸許可申請をするので遺族会も同意してくれないかと。私は「遺族会は、御霊を慰めて二度と戦争をしないことを目的にしています。『領土を守る』というのとは目的が全然違うので同意できません」とはっきりお断りしました。連絡は、後にも先にもそれ1度きりです。
8月18日に石垣島の慰霊碑前で慰霊祭を開いておられますが、遺族会に案内はなかった。沖縄本島から神職3人を伴ってきて神道形式で行い、最後は「君が代」を斉唱した、と。報道で知り、驚きました。
私たちの慰霊はずっと仏式です。しかもなぜ「君が代」なんでしょうね。翌朝には約150人が21隻の船に乗って洋上慰霊祭を行い、その後、10人が泳いで魚釣島に上陸したと。それではっきりしたんですね。ああ、彼らの政治的なアピールに慰霊は利用されたんだなと。
昨年6月、石垣市長が政府に魚釣島への上陸許可を要請しました。島には69年に市が建てた慰霊碑がありますのでね。遺族会に相談はなかったので、私たちは「魚釣島での慰霊祭挙行は遺族会が望んだものではない」という声明を出しました。「中国・台湾が領土を主張し、偏狭なナショナリズムの思想をもつ活動家たちが、過激な行動で挑発しあっている不穏なこの時期に、慰霊祭をするというのは紛争の火種になりかねないと懸念さえしております。ひとたび紛争がおきれば、八重山諸島の住民生活はたちどころに崩壊していくでしょう。御霊もそのようなことは望んでいないはずです」
この思いは今も変わっていません。それなのに日中の緊張をあおるようなことに使われて・・・。
山谷先生は8月24月の国会で、野田佳彦首相から「遺族会は領土議連からの上陸に対する同意要請を断った」と言われ、「それは間違っている」と反論されています。どういうことかと議事録を取り寄せて読んでみたところ、「私は遺族会の方に、今回一緒に申請なさいますかと聞いたら、『石垣市長が私たちの気持ちをくんで申請してくださっている』『もちろん上陸して慰霊をしたい、しかし政府が認めないのなら私たちはどうすることもできない』と、そういうことだったんですよ」と。どうしてそんなことを言うのでしょう。少なくとも遺族会の会長である私はそんな話はしていません。非常に憤りを感じます。
尖閣諸島は間違いなく日本の領土です。かつて魚釣島にあったかつお節工場で働いていた人も八重山には多くいて、なじみ深いというか、近しい感覚があります。中国の反日デモで、日系企業やスーパーが破壊されているのを見ると、日本人として胸が痛みますね。私は、国を愛する気持ちは人に負けないつもりです。
魚釣島への上陸に反対だというと、「国や領土を守ることになぜ反対するのか、おかしいんじゃないか」と、一部の人から非国民のように見られることもあります。そう言われますとね、答えようがないんですよ。国を守るか守らないか、さあどっちだという二者択一ではそもそもないはずなのに、領土が絡むと必ずそうなってしまう。
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石垣市は長く革新市政が続いたことからも分かる通り、平和的な考えをする人が多いのですが、最近、空気が変わったように感じます。石垣市は今年度から、「新しい歴史教科書をつくる会」系の育鵬社版の公民教科書を中学校で使っています。経済がよくないですから、自衛隊がいい就職口の一つとしてみられるようになり、市内には「ボクらの誇り自衛隊」という看板もあります。
自民党の総裁選を見ていると、みなさん「国を守る」と強調されていましたね。なにかこう、島と中央が響き合っているというのかな。南西諸島の防衛強化が進むのではないか、そういう土壌が育まれつつあるのではないかと心配もています。
石垣は国境の島だからこそ、守るのではなく、開いていった方がいい。交流が進めば信頼関係が生まれ、それが結果的に守ることになるはずです。実際、これまでも台湾や中国・福建省などとの交流を強めてきました。島には台湾出身の方も数多く住んでいる。私たちの慰霊碑の石だって、中国・アモイから取り寄せたものです。
今年7月の慰霊祭のあいさつでも私は、石垣市は国に頼らず、ましてや東京都の下請けなんかやらずに、アジアの各都市と「外交」して独自の経済圏をつくればいい、魚釣島でけんかしている場合じゃない、という話をしました。しかし、こうなってしまうと・・・・。来年3月に開港する新しい石垣空港には、上海や台湾、ソウルなどからの直行便就航が期待されていたのですが、どうなりますかね。
石原慎太郎都知事の尖閣諸島購入を支持する人たちは、日本の主権を守るためだと言っていました。だけど米軍に治外法権的な特権を与えている日米地位協定によって、米軍人や軍属による事件や事故の被害者は泣き寝入りさせられてきました。主権が侵されている、改定してほしいと私たちはずっとお願いしてきましたが、主権を声高に言う人たちは本気で動いてくれたでしょうか。地元の反対を押して強行されるオスプレイの配備に反対の声をあげてくれたでしょうか。万が一、中国と事を構えることになった時、国境を接する私たちの生活がどうなるのかを本当に考えてくれたことがあるのか。
遠くにいる人ほど、大きな声で勇ましいことを言える。その結果生じた「ツケ」はまた、私たちに回ってくるのでしょう。
(聞き手・高橋純子)
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