2024年6月30日日曜日

築地女将さん会のみなさん 小池知事に騙された、とカンカンに怒ってはります。 「私はジャンヌ・ダルクになります!」とか言って知事になったのに、女将さんが 「築地守って下さいね、ジャンヌ・ダルクになって下さいね」と声をかけたら 「ジャンヌ・ダルクは火あぶりになるからいや」 と応じたエピソードが、ホラーっぽい。

 

今日(6/30)のバスタ新宿前 蓮舫 「私はアプローチを変えたい。結婚する人、一人で生きる選択、同性パートナーと暮らす選択、選択的夫婦別姓が実現するまで婚姻届を出さないカップル、一人で子供を育てる決断をした人、これだけ多様な幸せを、私はフェアに応援する都知事になりたい」  「非正規労働から抜け出せない若者が増えている。多額の奨学金を抱え不安定雇用で自分の未来が見えない。経済的要因で結婚や子供を諦める、そんな声を私は東京から取り除いていきたい」  「子供を育てる保育士、子供の学びを見る学校の先生、命を守る医療、シニアの安心を守る介護、この分野で働いている若い人達の奨学金返済支援に税金を使わせて頂きたい。若者が元気になれば納税者が増え社会保障の担い手が増える。持続可能な政策だ」     



 

【東京都知事選情報】6月30日 小池氏がやや先行、蓮舫氏、石丸氏が追いかける展開 誰に投票するか「まだ決めていない」1割以上(FNN) / 東京都知事選挙は小池百合子氏が先行、蓮舫氏と石丸伸二氏が追う展開…読売情勢分析 / 小池氏が先行、蓮舫氏追う 毎日新聞中盤情勢調査 / 小池氏一歩リード、蓮舫氏が続く - 石丸氏猛追、共同通信電話調査 / 小池百合子氏がややリード 蓮舫氏が続く 石丸伸二氏は追う展開(東京) / 小池氏ややリード 蓮舫氏激しく追い上げ 石丸氏が追う 田母神氏ら他候補は伸び悩み【都知事選 中盤情勢】 / 6月23日 小池氏が先行 蓮舫氏追う 石丸氏は苦戦 都知事選 朝日情勢調査 / 小池百合子氏がリード、蓮舫・石丸伸二氏追う 序盤情勢調査(日経) / 小池氏大きくリード 都政「評価」約7割も プロジェクションマッピング「見直し必要」5割超 神宮外苑再開発「見直し必要」約4割(TBS)

 

 

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 ▼JNN(6月23日、インタネット調査) ▼日経(6月23日) ▼JNN(6月23日、インタネット調査)

小池百合子は差別と排除の女で右翼タカ派の日本会議の推進メンバーだった。だから統一教会とも近い。それは応援する萩生田光一が統一教会ドップリであることからも明らかだろう。環境大臣の頃、小池は水俣病の患者に会わなかった。石原慎太郎でさえ会ったのにである。小池はつまり冷血動物なのだ。 — 佐高信

 

蓮舫、銀座街宣(6月30日) 東京都が8割出資の水道会社に小池百合子知事の側近が社長として天下り。「洗い甲斐がある、わくわくしてきた」 / 「東京で水道を止められた人が10万人から18万人に増えた。料金滞納に対して職員の訪問に代わって郵便にしたことが一因。これが行革と言えるのか?命の水をいきなり止めるのではなく福祉職員が相談を聞くのが行政ではないか。」

小池百合子、その時どきで適当に意見を変える風見鶏 ; 過去の小池百合子「親子別姓推進制度(選択的夫婦別姓)は無縁社会・家族崩壊を加速させる!」 現在の小池百合子「私個人は以前から選択的夫婦別姓については、YESでございまして」(←「以前からだと!」 国会で夫婦別姓を妨害してたのはまさに自分なのに・・。   



 

「非常に厳しい」 大阪維新・吉村代表の出身地で市長選「不戦敗」(朝日);「4月に国政政党・日本維新の会の藤田文武幹事長(衆院大阪12区)のおひざ元でもある大東市長選で維新候補が敗れたばかり。「負けた場合の影響も考えるべきだ」(大阪維新幹部)との意見もあり、擁立を断念したという。」

 

大杉栄とその時代年表(177) 1896(明治29)年1月1日~5日 トロツキーの革命運動の第一歩 乙末義兵(朝鮮義兵闘争) 芝山巌事件(台湾) 一葉「この子」「わかれ道」 漱石・鴎外、子規の句会に参加 

 

トロツキー(1897年)

大杉栄とその時代年表(176) 1895(明治28)年12月9日~31日 一葉『十三夜』『やみ夜』(「文藝倶楽部・閏秀小説号」) 金子光晴生まれる 漱石の見合い 「漱石が来て虚子が来て大三十日(おほみそか)」(子規) より続く

1896(明治29)年

トロツキー(17)が政治活動(革命運動)の第一歩を進める。

実科学校7年生の時、学校がオデッサではなくもっと田舎のニコラーエフにあり、ここに移る。

この頃のロシアは古いナロードニズムとマルクス主義の狭間にあり、トロツキーはここで、マルクス主義に惹かれた青年や警察監視下にある元流刑囚と知合い、非合法パンフレットや発禁本を読む。また、ミル「論理学」、リッペルト「原始時代の文化」、ベンサムの功利主義、チェルヌイシェフスキーの現実主義美学、ミニュエ「フランス革命史」などを読む。モスクワの自由主義新聞「モスクワ報知」により西ヨーロッパの政治・議会・政党の知識(ベーベル、オイゲン・リヒター、ダシンスキ)を知る。

公共図書館の値上げ反対運動(成功)。相互教授による学校創立(20人集まるが、失敗)。

この年秋、一旦故郷に戻り、オデッサを経てニコラーエフに戻る。

1月

朝鮮、乙末義兵。義兵闘争各地に起きる

江原道春川で蜂起の李昭応らは断髪して赴任した官吏を処断。京畿道・咸鏡道に進出。忠清道堤川では柳麟錫率いる部隊が親日的地方官を攻撃。柳麟錫は李恒老(1792~1868)門人。京畿道砥平・江原道原州・慶尚道聞慶で決起した義兵は合流し、彼を総大将とする。堤川中心に忠清・江原・慶州3道が接する小白山脈づたいの農村で活動、一時は忠州城を占領、忠清道監察使を処刑

しかし、各地で日本軍守備隊・政府軍に敗れ、5月に堤川陥落。柳麟錫は満州に逃れ再起を期す。義兵指導者(義兵将)には儒者が多く反日・反侵略的・反変法的で、王が叛乱罪を不問にし断髪令を中止すると解散

しかし、義兵大衆は「火賊」「活貧党」「東匪」と表現される活動継続。10月、これら初期義兵闘争は終結。

1月

「上海勉学会」、「勉学報」発行(3号)のみ。西太后、「勉学会」解散命令。

1月

片山潜、アメリカより帰国(16年滞在)。

1月

陸軍士官学校に初めて外国人士官が入校。韓国士官11名が入校。清国からは明治33年12月が初めてで、40名が入校。

1月

坪内逍遙(37)「戯曲・牧の方」(「早稲田文学」)~明治30年3月

1月

「新文壇」発刊

1月

「にごりえ」評。

「作者一葉樋口氏は処女にはめづらしき閲歴と観察とを有する人と覚ゆ」(帰休庵、明治29年1月「国民之友」)"

1月1日

芝山巌事件(台湾)

日本人が建設した小学校(芝山巌学堂)の日本人教師6名と用務員1名が抗日ゲリラに殺害された事件。

1月1日

漱石が神楽坂下の飯田町に旧友狩野亨吉を訪ねる途中、人力車で神楽坂の寄席の前を通りかかると、坂下の方から上ってくる3台の車に乗った中根鏡子とふたりの妹、時子、梅子と行き合う。彼女らは、内幸町の官舎から祖父の居る矢来町の中根私邸に年始に向うところだった。漱石も鏡子も相手に気づいたが、江戸っ子なのにシャイ、少し気どり屋のところがある漱石は挨拶しなかった。

狩野亨吉を訪ねるのは、1月3日に狩野らが第一高等中学校同期、紀元会の会合をするのだが、この日は子規宅で句会がある。できれば会合を4日か5日に延期してもらいたいが、自分のために流会となるくらいなら、自分は不参となるが3日に実行しても構わない、と伝えるためであった。

1月1日

衣笠貞之助、誕生。

1月1日

一葉「この子」、「日本乃家庭」第2号付録に掲載。

樋口一葉『この子』(青空文庫)

樋口一葉小説 第十八作品「この子」のあらすじ

〈引用〉

私は生れて間もないこの子が可愛くて仕方がありません。それどころかこの子に感謝しているのです。

私は三年前に裁判官山口昇のもとに嫁ぎました。当座は仲が良かったのですが、馴れるにつれてお互い生地が出てきてうまくいかなくなりました。

私は生来、勝気で直情的な性格でしたから、夫の態度が気にかかるとすぐそれを言葉や行動で表わし、その反応がないとくやしくて口もきかず物も食べず、婢女などに八つ当たりをしました。

それが重なって、とうとう夫との仲は決定的になってしまいました。

夫にやさしい言葉もかけず、世話もせず、客すらろくに接待もしなかったので、夫もしだいに家をあけがちになってしまいました。

面白くてする放蕩ではないので、柔和な夫もしだいに粗暴になり、私もますますヒステリックになりましたので、家の中は荒廃してしまいました。

そんな時、この子が生れたのでした。

そしてこの子をなかだちにして私と夫の心はとけあったのです。

ですから、この子は私どもにとって守り神のように有難い存在なのです。


「この子」は一葉に珍しい口語体小説である。その中の山口昇という裁判官は、渋谷三郎をモデルにしたものと和田芳恵氏はいう。しかしもしそうとすれば、生れた子供の可愛さに惹かれて辛うじて家庭の破綻を免れるという設定は、もし渋谷の嫁になれば、そのような家庭しか作れないという一葉の思いの現れとも云えるのかもしれない。やはり奏任官の原田に嫁いだ「十三夜」のお関が、子供があるにも拘らず離婚を決意するのも、根底に渋谷に対する一葉の嫌悪感があるのかも知れない。

1月2日

セシル・ローズ派遣のリンダー・スター・ジェームソン(42)、ヨハネスバーグ攻略失敗。逮捕

1月3日

午後1時、漱石、正岡子規の句会に参加し森鴎外と初めて会う。高浜虚子、内藤鳴雪、河東碧梧桐らが参加。漱石と鴎外の間で話がはずんだ気配はない。漱石より5歳年長の鴎外は、もっぱら子規と話していた。

鷗外の参加は、前年の従軍による金州での出会いの縁をたよりに、虚子の提案で子規側から案内を出したものであった。

「子規が根岸で俳句会をやる時に、鴎外にも案内して見てはどうかといふと、案内してみようと手紙を出した。会が半ば進行してゐる時分に鴎外がやって来たことがあります」(高浜虚子『定本高浜虚子全集』第13巻)。

1月3日

夕方、漱石、中根家で催される歌留多会に招待される。


「夕刻、中根家の私宅に招かれ、歌留多や福引きをする。福引きに、絹のみすぼらしい帯締が当る。別室でくつろいでいると、鏡が現われ、母親(カツ)がそんをものをあげては失礼だと云うので、鏡のあてた男物の手巾(ハンカチ)と交換する。実は、絹の紐のほうが欲しかった。帰りの人力車は汚く、おいぼれた車夫が引くので、気づまりになる。(鏡)」(荒正人、前掲書)

1月3日

ドイツ、皇帝ヴィルヘルム2世、トランスヴァール共和国大統領ステファヌス・クリューガー(71)に祝電。ドイツ・イギリス関係悪化。

1月4日

漱石、紀元会に出席し、米山保三郎、大塚保治、立花銑三郎、狩野亨吉と会う。

1月4日

一葉「わかれ道」、『国民之友』第277号付録「藻塩草」に掲載。

樋口一葉『わかれ道』(青空文庫)

樋口一葉小説 第十九作品 「わかれ道」のあらすじ

〈引用〉

十二月のある日の夜更け、一人住まいのお京の家を訪ねる者があった。

近くの傘屋に奉公する吉三であった。

彼は十六歳だが背が低く一寸法師とあだ名されているが、町内では暴れ者でとおっていた。

そんな彼がなぜかお京を慕い、かつ甘えていた。

お京も吉三を弟のように可愛がり、甘えさせていた。

この夜も彼女は吉三のすねた甘えをやさしく許し、はげましもするのであった。

吉三は傘屋の先代のお松が六年前の冬に寺参りの帰りに拾って来た子供であった。

吉三は両親の顔も知らないまま、角兵衛の獅子を冠っていたのである。

吉三は職人の道にはいるが、二年後、お松が死んでからは周囲の嘲笑や白眼視に耐えきれず、反抗的なっていた。

そんな彼の気性を愛するのは、今年の春に裏長屋に越してきた二十余りの意気な女、お京一人であった。

十二月三十日の夜、吉三は仕事帰り、後からやさしく目隠しされる。「お京さんだろ」と言い当てた吉三に、彼女は明日引っ越しすると告げる。驚いた吉三は「やはり妾に行くという噂は本当なのか」と彼女をなじる。

彼女は「仕方ないのだ」とさびしく笑い、吉三を家に連れて行く。吉三は怒り、かつ落胆し、もう逢わないと言い放ち、羽がいじめに抱き止めるお京を振り切って帰ろうとする。


1月5日

ドイツ、レクラム(88)、没。文庫本元祖


つづく

野田数氏という曲者(前川喜平「本音のコラム」東京新聞) / 「水を止めればすぐ払ってくれる」 「小池都知事の身内は天下り天国」「役員報酬は平均1200万円」 元秘書、副知事が外郭団体の社長&理事長に(デイリー新潮) / 水道料金の滞納対策、東京都の「効率化」が情け容赦なさすぎないか(東京) / 水道検針メーター「東京都水道サービス株式会社」には、小池都知事の特別秘書の野田数氏が就任しているが、コロナ禍では、他の自治体と比べても料金を支払えない状況下に置かれる都民の水道をすぐに止めるなど、異常なやり方が目立つ。 / 絵に描いたような天下り / 野田数(かずさ)氏は小池都知事の元「知事特別秘書」、都民ファースト元代表。都議時代に「日本国憲法は無効、現憲法は帝国憲法である」とする採択請願をした極右思想の持ち主。      

 

 

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小泉今日子さんが、蓮舫さんの動画を紹介しながら「次の世代に何が残せるかを考えさせられます」。(保坂展人) ← 実質的な支持表明ですね

小池百合子候補が街頭演説を行った北千住は統一教会の偽装勧誘が横行していた場所。地区教会や研修施設もあり、一度に8人の受講生を救出したビデオセンターも北千住にあった。 演説中に通りかかったのか、人の流れの中に教団本部元広報局長で現在、関東地区を担当している幹部を現認(鈴木エイト)

 

給食無償化「23区はできるのに」と同じ都民が不満 「多摩格差」と「分断」の光景 結局「金がない」:東京新聞

 

2024年6月29日土曜日

阿佐ヶ谷駅は熱かった! 「女性の声が、東京を変える」..... 蓮舫さんが立候補を決意し、私たちが集まった原点は、自民党政治はもういやだ、政治を変えたい、ということ。 都知事が変われば、政治が変わる、暮らしが変わる、私が私を大切にできる社会へ動く— 田村智子

「時間があるなら質問に答えて」小池百合子都知事「公務優先」のなか「都電プロレス」登場で有権者の批判殺到(SmartFLASH) / 沸き起こる「百合子」コール! なおこれは選挙運動ではなく「公務」だそうです。 ← 公務多忙なので、テレビでの候補者討論会出席は忌避中です!

 

 

 ↑ タグ付けて「都知事選」 とか 「小池百合子」とか書いてる



20170810 質問に答えない小池百合子 ; 記者「豊洲と築地と双方に市場機能を残す方針について、記録がなく、最終判断が知事と顧問団による密室で下される 情報公開に逆行するのでは」 小池「 情報というか、文書が不存在であると、それはAIだからです 最後の決めはどうかというと、人工知能です」   

 

小池百合子の政見放送 ;「障がい者の雇用、促進いたします」「すべての課題から真正面から向き合う」と。 実は東京都の障がい者雇用率は、全都道府県の中で17年間連続最下位。(企業に義務付けられた障害者雇用の割合「法定雇用率」を上回った企業は東京都が30.9%で全国最下位)



 

維新はダメです ⇒ 大阪・枚方市長の問責決議案が可決、維新は退席…教育長人事案取り下げ巡る混乱で2度目(産経);「市議会は昨年10月、伏見氏が3選を果たした市長選後に「祝勝会」の横断幕が掲げられた集会に出席した問題でも問責決議案を可決した。」

大杉栄とその時代年表(176) 1895(明治28)年12月9日~31日 一葉『十三夜』『やみ夜』(「文藝倶楽部・閏秀小説号」) 金子光晴生まれる 漱石の見合い 「漱石が来て虚子が来て大三十日(おほみそか)」(子規)   

 

大杉栄とその時代年表(175) 1895(明治28)年12月9日 道灌山事件(Ⅲ) 子規と虚子・碧梧桐 (関川夏央『子規、最後の八年』より) 「非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。」 より続く

1895(明治28)年

12月9日

一葉、日本乃家庭社の有明文吉より「日本乃家庭」第2号への寄稿を依頼され、第1号を贈呈される。

野々宮菊子より関如来との縁談を受けるとの連絡。

星野夕影から「たけくらべ」の続編を促される。

12月10日

一葉『十三夜』『やみ夜』(「文藝倶楽部・閏秀小説号」)。

「やみ夜」は再掲載。「閨秀小説」には、若松賤子、小金井喜美子、田沢稲舟、三宅花圃、大塚楠緒子、北田薄氷などの作品が掲載される。3万部完売し重版される。


「この号は初版三万部と、当時としては破天荒な部数を印刷したにもかかわらず、すぐに売切って再版がかけられた。博文館は大阪には七百部しか送らなかったのだが、その分は一日で売れた。急いで五百部を送ると、それも二、三日ではけた。それは、文芸が生活手段となり得ることをしめした最初のきざしであった。この特別号中、もっとも好評だったのは一葉の二作であった。」(関川夏央、前掲書)


樋口一葉『十三夜』(青空文庫)

〈あらすじ〉(by Wikipedia)

貧しい士族斉藤主計の娘お関は、官吏原田勇に望まれて7年前に結婚したが、子どもが生れてから次第に冷酷無情になる夫の仕打ちに耐えかねてある夜、無心に眠る幼い太郎に切ない別れを告げて、これを最後と無断で実家に帰る。

おりしも十三夜、いそいそと迎える両親を見て言い出しかねていたが、あやしむ父に促されて経緯を話し、離縁をと哀願する。母は原田の娘への仕打ちにいきり立ち、父はそれをたしなめ、お関に因果を含め、ねんごろに説きさとす。お関もついにはすべて運命とあきらめ、力なく死んだ気になって夫の家に帰る。

その途中乗った人力車の車夫はなんとお関が乙女心で結婚を夢みていた幼なじみの高坂録之助。話を聞けば、原田に嫁いでしまった自分のために自暴自棄になり、その後所帯を持ったが妻子を捨てて落ちぶれた暮らしをしている。そのひとを今、目の前にして、万感、胸に迫る思いで無限の悲しみを抱いたまま彼とも別れ、秋の夜の冷たい月が照らす中、2人は別々の方向へと帰って行く。


12月12日

福沢諭吉、「去年来の大戦争に国光を輝かして、大日本帝国の重きを成したる」ことは、「恍として夢のごとく感きわまりて独り泣くのほかなし」と喜ぶ。

12月13日

マーラー交響曲第2番「復活」、自らの指揮でベルリン・フィルハーモニー管弦楽団により初演。

12月14日

漱石の子規宛て手紙。「正岡子規に送りたる句稿その八」同封。

「さて東上の時期も漸々近づき一日も早く〔子規の〕俳会に出席せんと心待ちをり候」

12月15日

虚子の子規に宛てた詫状のような釈明文。


「其節、小生の野心全くなき様申し候ひしは、ちと言ひすぎに有之候


「よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず。我ながら残念に存じ候ヘど、この点に在つては、終に見棄てられざるを得ざるものと、せん方なくも明(あきら)め申條。 

唯併し乍ら、功名一件外の御交際御教訓は、如旧飽迄(きうのごとくあくまで)も奉願度。」


12月15日

一葉、関如来から、「文藝倶楽部」第12編臨時増刊号「閨秀小説」の巻頭写真に一葉も入っていることへの不快感を示される。

17日ころまでに、関如来と野々宮菊子の縁談が破断。

12月18日

この日付けの漱石の子規宛て手紙。

漱石は見合い写真の鏡子を気にいったようである。写真が届いたのは、おそらく11月下旬か12月早々だと思われる。


「遠路わざわざ拙宅まで御出被下候よし恐縮の至に存候。その節何か愚兄より御話し申上候由にて種々御配意ありがたく存候。小生は教育上性質上、家内のものと気風の合はぬは昔しよりの事にて、小児の時分より「ドメスチツク ハツピネス」抔いふ言は度外に付し居候へば今更ほしくも無之候。近頃一段と隔意を生じ候事も甚だ不本意に存をり候。しかしこれがため御配慮を受けんとは期しをらず候ひしなり。愚兄の申す処も幾分の理窟も可有之、上京の節緩々(ゆるゆる)可伺候。結婚の事抔は上京の上、実地に処理致す積りに御座候。かかる事迄に貴意を煩はす必要も無之かと存候。尤も家内のもの確(しか)と致候もの少なき故この度の縁談につきても至急を要する場合には貴兄に談合せよとは兼(かね)て申しやり置候。中根の事に付(つい)ては、写真で取極候事故、当人に逢(あつ)た上で若し別人なら破談する迄の事とは兼てよりの決心、是は至当の事と存候。

(略)」


彼が中根に送った見合い写真はフロックコート姿のもので、それを見た鏡子は、


「上品でゆつたりしてゐて、いかにもおだやかなしつかりした顔立で、外ののをどつさりみてきた目には、殊の外好もしく思はれました」(『漱石の恩ひ出』)


という好印象を受けた。写真では金之助のあばたは修正されいた。

12月20日

(露暦12/8)ロシア、レーニン逮捕。獄中で「ロシアにおける資本主義の発展」の仕事をする。セント・ペテルブルクに1年、後シベリア・大エニセイ川右岸シュシェンスコエ村へ流刑3年間。

12月22日頃

「たけくらべ」(十三)(十四)脱稿、30日、『文学界』第36号掲載。

12月後半、国木田収二(独歩の弟)の依頼による「わかれ道」成稿、翌年1月4日発行『国民之友』(民友社)新年第277号付録「藻塩草」に掲載(江見水陰、星野天知、泉鏡花、後藤宙外らの作品も掲載)。わかれ道脱稿後、続いて有明文吉の依頼により「この子」を執筆、12月22日までに届けられる。翌年1月1日発行の「日本乃家庭」第2付録に掲載。

12月23日

「空想と写実と合同して一種非空非実の大文学を創出せざるべからず、空想に偏僻し写実に拘泥するものはもとよりその至る者に非るなり」(『日本』「俳諧大要」明治28・12・23)

12月25日

金子光晴、愛知県海東郡ニ誕生。

2歳、名古屋に移り、金子家養子。5歳、京都に移る。11歳、東京に移り、泰明高等小学校入学。13歳、暁星学園中等部入学。19歳(1914大3)、早稲田大学高等予科文科入学。

12月26日

帰京の途についた孤蝶が秋骨と小田原で待ち合わせる。

12月27日

漱石、上京。

12月28日 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子(鏡、戸籍名はキヨ、18歳)と中根一家が住む書記官長官舎(麹町区内幸町)で見合いする。見合いは上首尾であった。 


「宏壮な洋館と和風住宅の二棟からなった官舎に、中根重一とカツ夫妻、鎮子をかしらに女四人男二人のきょうだい、それに書生三人、女中三人、抱車夫一人がいた。まだ東京ではめずらしい電灯と電話のついたその家の二階、二十屋敷さの広い部屋で見合いは行われた。夏目家側は漱石ひとりのみの出席である。

(略)

鎮子は、漱石の鼻のアバタに気づいた。それは写真にはなかった。仲人も、アバタはないと保証していた。給仕に出ていた妹の時子が、あとで鎮子に「夏目さんの鼻のあたま、でこぼこしていたわ、あれ、アバタじゃない?」といった。「そうよ。アバタよ」と鏡子はこたえたが、それで漱石の印象がそこなわれたわけではなかった。

大きな塩焼の鯛が出されたとき、漱石はいきなりその横腹に箸をつけて穴をあけた。しかしそれだけで食べるのをやめた。その鯛は折に詰めてもらい、持って帰った。穴のあいた鯛を見た直矩が「おい、これはどうしたんだ」と漱石に尋ねた。「ひと口食べてみたが、あんまり大きいからやめにしたんだ」とこたえた漱石に、直矩は「引物に箸をつけるやつがあるか。嫁に嫌われるぞ」といった。だが、嫁は漱石を嫌わなかった。」(関川夏央、前掲書)

 

漱石は鏡子についてつぎのような感想を周囲に漏らしていた。

「歯並が悪くてさうしてきたないのに、それを強ひて隠さうともせず平気で居るところが大変気に入つた」(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。       

12月28日

第9議会開会。

軍備拡張のため予算案は膨張する、政府は自由党と国民協会の協力により予算を成立させる。しかし軍拡予算の財源には公債が充てられ、地租増徴問題は審議されず。会期中、対外硬派が遼東半島還付についての内閣弾劾上奏案を提出、自由党と国民協会が否決、伊藤内閣は無事に議会を乗り切ろ。

12月29日

英南アフリカ会社リンダー・スター・ジェームソン(42)、兵士500率いトランスヴァール共和国不法侵入企図、失敗。

12月30日

この日より一葉日記「水のうえ」始まる。~明治29年1月10日。無署名。

孤蝶が冬期休暇により帰省。家に帰るより先に一葉を訪ねる。家には小田原の蒲鉾などを、妹邦子には大津絵の藤娘を描いた扇子を土産にくれる。4ヶ月ぶりなので話すことも多い。これから眉山を訪ねるということで夜更けに帰る。孤蝶は1月7日朝に彦根に戻るまで毎日一葉宅を訪れる

「文学界」第36号に「たけくらべ」13,14を掲載。


「これをはじめにして七日の朝帰郷までに、一日も我が家を訪ひ給はぬ事なかりき。ある時は三人、五人の友、うちつれて来る事もあり、ある時はただ一人しておはすこともあり。いとおもしろくにぎやかにのみ打過ぎぬ。」


この年は、一葉自ら「やうく世に名をしられ初て、めづらし気にかしましうもてはやさるゝ」(十月「水のうへ日記」冒頭)と記した通り、小説家一葉の名が高くなった年であった。だから彼女の実人生は、ほぼ執筆に明暮れる日々が中心となっていく。「文学界」同人や川上眉山あるいは博文館の大橋乙羽などとの交流も密になっていったが、その合間に彼女は執筆に全力を傾注し、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」という代表作を続けざまに発表。

12月31日

漱石、子規を上根岸の家に訪ねる。そこへ虚子もきた。

子規、漱石を詠んだ俳句(四句)を作る。


語りけり大つごもりの来ぬところ

漱石が来て虚子が来て大三十日(おほみそか) 

梅活けて君待つ菴の大三十日

足柄はさぞ寒かったでござんしょう


つづく



小池氏、異例の連日「公務」 「同じ土俵」回避狙う―都知事選(時事) / あるテレビ局は「公務」を理由に3回断られ、ある1日は蓋を開けてみたら街頭演説していたと言う / 史上最大のピンチ…! 東京都知事選、小池百合子が「街頭演説を避ける」2つの理由とは?(文春オンライン) / 小池陣営は“ステルス作戦”徹底か…前代未聞「会いに行けない百合子」vs「街に出る蓮舫」の行方(日刊ゲンダイ) / 蓮舫「テレビ局報道番組から小池都知事と私の討論会企画への出演依頼をいただきますが、知事側から多忙を理由に断られ企画が成り立たないとの話を聞きます。」 / 「これからもTV番組が企画した討論会にぜひ一緒に出ていただけないでしょうか?」と蓮舫。なぜかイヤそーな小池百合子。


 わざわざ都庁にいるのに、記者が別室でのオンライン参加なんて、何で? よっぽどフリーランスからの質問が命取りなんだろうな。 / 「子育て・教育にお金がかからない東京へ」 小池百合子知事が公約発表 オンライン会見は40分 東京都知事選(東京); 質問できたのは僅か5人!40分で終了! / 「よほどフリーランスの記者の質問を受けたくなかった」 and/or 「よほど学歴詐称に触れられたくなかったんだろう」


対面を回避するいかにもこの人らしいズルい手口 ⇒ 「討論する機会を少なくする作戦(&これが実績と一方的に言い張る)の一環か」 / 小池知事は首都決戦も「AIゆりこ」任せの仰天…学歴詐称疑惑の追及逃れで街頭に立たず?(日刊ゲンダイ) / 「AIゆりこ」の“不気味さ”の正体は? 小池都知事の「付け焼刃」ぶりを識者が指摘(日刊ゲンダイ) / 「こんなことするよりも、都議会や記者会見での答弁拒否や答弁逃避を止めて、ちゃんと質問や疑問に答えてくださいよ(辻野晃一郎)」




事件は昨年12/24に起き、沖縄県警は今年3/11に書類送検、3/27に起訴(この時点で上川外相と官邸に報告)。沖縄県への連絡は、県議選・慰霊の日が終るまで3ヶ月放置。そして、5月にもまた! ⇒ 「なぜ謝らない」返答せず 米司令官・総領事 表情なく (琉球新報) / 米兵の性的暴行事件5月にも 県警発表せず 知事「怒り心頭」(朝日) / 「政府が不信感を招いていることを重く受け止める」と上川外相 米兵の少女誘拐暴行事件で(沖縄タイムス) / <社説>米兵少女暴行事件 人権軽視、主権が問われる(琉球新報) / 米兵を少女への性暴力で起訴…その後3カ月、国が沖縄県に黙っていたのはなぜ? 「県議選」終わった後に発覚(東京) / 米兵の少女暴行事件 沖縄県、政府の姿勢に憤り 県警からも情報なく(琉球新報) / 【動画】玉城知事、米兵起訴に「怒り心頭」 少女性的暴行事件 外務省から連絡なく 沖縄 / 林官房長官「捜査機関の活動内容に関わる」 少女誘拐・性的暴行で米兵起訴 沖縄県に伝えなかった理由答えず(沖縄タイムズ) / 米軍関係の事件事故を沖縄県に通報「常に必要とは考えていない」 外務省報道官、少女への性的暴行事件受け(沖縄タイムス) ← 県議選や慰霊の日前だから意図的に通告を遅らせたのではという疑念を証明するようなコメント / 被告の身柄は米側に戻る 那覇地裁が保釈 時期や理由は「答えられない」 米兵少女暴行事件 沖縄(琉球新報)

 

「出馬要請」の経緯めぐり小池百合子知事を東京地検に告発 都民ら175人(東京); 都民ら175人が小池知事を検察に告発。5月に調布市市長に要請を打診した疑いがあるとして公選法違反容疑で東京地検に

2024年6月28日金曜日

6月なので、今年も水無月を戴きました 2024-06-27(昨日)

 





経済学者トマ・ピケティが「フランス議会選挙」で新・人民戦線の綱領を支持。「なぜ300人以上の経済学者がこのプログラムを支持するのか。それは他の2つと比べて唯一このプログラムだけが将来における健康・教育・研究・インフラへの投資のための財源についての本質的なポイントを示しているからだ」  

羽田に着陸する旅客機が日常的に超低空で飛来し、騒音や落下物の危険、恐怖感に苛まれ続ける大井町で、蓮舫は羽田新ルート の見直しを求めることに言及。大きな拍手。大井町だけでなく、新ルートの下に位置する町々の住人にとって切実な問題のはず。 / 直下の有権者190万人よ、小池都政に怒れ!「羽田新飛行ルート」問題も都知事選の争点(日刊ゲンダイ)



 

大杉栄とその時代年表(175) 1895(明治28)年12月9日 道灌山事件(Ⅲ) 子規と虚子・碧梧桐 (関川夏央『子規、最後の八年』より) 「非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。」

 

高浜 虚子

大杉栄とその時代年表(174) 1895(明治28)年12月9日 道濯山事件(Ⅱ) 高浜虚子『子規居士と余』 関川夏央『子規、最後の八年』 「道灌山の失意は、病者の一瞬の気の弱りであったろう、と碧梧桐はいう。子規は根が明朗な明治前半期の青年であり、人を恨みつづけることのできぬ人であった。」」 より続く

1895(明治28)年

12月9日

道灌山事件(Ⅲ)

■子規と虚子・碧梧桐

(関川夏央『子規、最後の八年』より)

「高浜虚子は明治二十五年九月、京都の第三高等中学校に進んだ。尋常中学四年まではよく勉強する端整な態度の生徒で、級友らに「聖人」と仇名されるほどであった。それが五年生以降急激にかわったのは、子規に感化されたからであった。そのとき、虚子の内部に漠然とした文学的野心が頭をもたげ、同時に官吏や教師といった職業への道が光彩を失った。

理由のふたつめは、碧梧桐河東秉五郎との接近であった。

兄たちの友人である子規から、いち早くベースボールの手ほどきを受けた碧梧桐は、俳句への目覚めにおいても虚子に先んじた。明治二十四年三月、尋常中学四年課程を終えると上京、錦城中学に籍を置いて、その年の七月、中学四年修了の資格で一高の試験を受けた。しかし失敗、八月には松山へ戻った。虚子とはこの頃から親しさを増した。

明治二十四年八月、碧梧桐は松山の中学に復学して五年生となり、二十六年九月、三高文科予科に入学した。虚子より一歳上であった碧梧桐だが、このとき虚子の下級生となった。三高正門前の下宿で虚子と同宿した碧梧桐は、虚子が短い期間のうちに「聖人」を脱し、大言壮語の気味ある文学書生にかわっていることに驚いた。

まだ碧梧桐が三高入学前の明治二十五年十一月、虚子は京都で子規と一週間ほど遊んだことがあった。「日本」入社を決意した子規は、陸羯南に故郷の家族を呼び寄せるよう勧められ、母八重と妹律を神戸港まで迎える途中であった。

虚子が麹屋町の旅館柊屋に訪ねると、子規は縁先の踏石の上に白い布切れを敷き、そのうえに紅く染まったもみじの葉を石で叩きつぶしていた。

「何をしておいでるのぞ」

と尋ねると、

「昨日高尾に行って取って帰った紅葉をハンケチに映しているのよ」

と子規はこたえた。

この白い小布はのちに律にわたされたのだが、このときの光景は、その日午後に出掛け、全山紅葉の嵐山を背景に、料理屋で酒をくみながら子規とかわした文学談義の記憶とともに、虚子の記憶にあざやかにとどまった。

(略)

子規が去ったのち虚子の精神は不安定となり、やや神経衰弱的症状を呈した。慣れぬ京都でのひとり暮らしのせいもあろうが、神経衰弱は、伝統的社会と西欧移入の「個人」の矛盾を生きる明治二十年代以降の青年の流行病のようであった。明治二十六年三月の春休み、虚子が徒歩での東京行を敢行したのは、おそらく無意識のうちの対症療法であった。

もっともこのときは、名古屋をすぎたあたりで足裏の肉刺(まめ)をつぶして歩けなくなり、刈谷から汽車に乗った。突然出現した虚子を子規は歓迎し、内藤鳴雪らと小さな句会を催してくれた。帰りも虚子は富士川を渡るまでは歩いた。それから汽車で京都へ帰った。

すでに碧梧桐と同宿していた明治二十七年一月にも虚子は上京した。このたびは退学届を出しての上京であった。文学の道を歩む志を立てたのである。それもまた明治二十年代青年の流行、または病気であった

虚子は内藤鳴雪が舎監をつとめる本郷真砂町の常盤会寄宿舎に入れてもらい、東京見物をしたり上野の図書館に通ったりして日をすごした。青年たちの文学熱を導いた坪内逍遥、森鴎外、幸田露伴の作品は図書館にはなかったから、古書店で漁った。

逍遥の『小説神髄』『当世書生気質』『妹と背かがみ』などは明治十八、九年に刊本となった。ついで露伴が明治二十二年『風流仏』を出し、二十三年『露団々』を刊行した。二十三年はじめには鴎外の『舞姫』が「国民之友」に掲載され、ついで『うたかたの記』が出た。明治二十四年から二十五年にかけて鴎外『文づかひ』、露伴『いさなとり』『五重塔』と発表され、その後に斎藤緑雨、樋口一葉がつづいて、子規、独歩、そして漱石の明治三十年代文学を準備するのである。

だが、二度目の上京を必ずしも虚子はたのしまなかった。句会が期待したほどおもしろくはないのは、よい句ができぬからであった。みなが「道楽者」の行末に同情しているように思われたからでもある。

明治二十七年四月、「日本」に小金井の観桜記を書けと子規に命せられたが、書けなかった。かわりに「百花園の春色」というのを書いて見せると、子規に酷評された。「こりゃ文章になっておらん。時間の順序が立っていないし、場所もはっきりしない。学校までやめてかかった人としてはこんな事ではいかんのじゃないか」と叱られた。虚子は、子規がいうところの「学問」の意味を思い知った。

五月、虚子は京都へ帰った。帰ったら復学するつもりで、すでに碧梧桐を通じて担任教授に願いをあげてあった。このときも信越線で軽井沢まで行き、あとは上田、松本を通って木曾路を歩いた。岐阜からは汽車に乗った。「木曾紀行」も子規が編集する新聞「小日本」に書けといわれていたのだが、結局虚子は書かなかった。

(略)

木曾徒歩旅行ののち京都に帰った虚子は、三高の担任教授服部宇之吉を訪ねた。復学の願いは碧梧桐を通じてあげてあったが、本人が直接こい、といわれたからである。

「もう二度と勝手をしないという条件で、今度だけは復校を許す」

服部はそういい、さらにこうつづけた。「今度京都の予科は解散することに決ったから、君は鹿児島へ行け」

明治二十七年六月二十五日、高等学校令が公布され、高等中学校は高等学校となった。当時の第一高等中学校から第五高等中学校(東京、仙台、京都、金沢、熊本)はそれぞれ第一高等学校から第五高等学校に改称・改組された。このとき三高には法・医・工の三科のみがおかれることとなり、大学予科は廃止された。ナンバースクール五校のほか、当時山口高校(のち高商となる)、鹿児島造士館(のち第七高等学校)があったが、その鹿児島に行けというのである。

いまだ鉄道も達せず、蛮風の地と他郷出身学生に恐れられていた鹿児島では、自分はとても生きのびられそうもない、と虚子は思った。が、学校にあらためて質すと移籍先は熊本(五高)、金沢(四高)、仙台(二高)でもよいといわれた。虚子と碧梧桐が西日本人には縁遠い仙台を選んだのは、東京にもっとも近いからであった。彼らは子規との縁を失いたくなかったのである。

(略)

明治二十七年九月、虚子と碧梧桐は連れ立って仙台へ行った。

「汽車が白河の関を過ぎた頃から天地が何となく蕭条(しようじよう)として、我等は左遷されるのだというような一種の淋しい心持を禁ずることが出来無かった」

「扨て仙台駅に下車してみると、其は広い停車場ではあったが、何処となくガランとしていて、まだ九月の初めであるというのに秋風らしい風が単衣の重ね着の肌に入(し)みた。車を勧めに来た車夫のもの言いが皆目判らなかった」(高浜虚子「子規居士と余」)

ふたりが落着いたのは、「スンマツスツジウスツパンツスズキヨスキツ」新町七十七番地鈴木芳吉方で、湯屋の裏座敷であった。

(略)

・・・・・虚子と碧梧桐はふたり連れだった。そのうえ二高には坂本四方太、大谷繞石(じようせき)など京都からの転学組もいた。それでも仙台はさびしかった。秋深まるにつれ、さびしさはつのった。東京、子規、文学、俳句、句会の座、みな恋しかった。

虚子と碧梧桐は協議の末、二高を退学することにした。虚子にとっては二度目の退学である。碧梧桐は子規にその決意を書き送った。すると子規はすぐに返信してきた。強い反対の意をしるした返信であった。

「学校をやめる事がなぜ小説家になれるか、一向分らぬように思はれ候。学校をやめて何となさる御積りか。定めて独学とか何とかいはるるならん。なれども独学の難きは虚子兄之熟知せらるる所に候へぼ、同兄より御聞取り成さるべく候」

これは明治二十七年十月二十九日付だが、十一月二日付の手紙はより烈しかった。

「若し両兄が今迠に作り給ひし文章俳句小説、之を文学者の作として見んか、平凡ならざれは陳腐、幼稚ならざれば佶屈(きつくつ)、殆んど見るに足るべきものなきなり」

「之を要するに、高等中学生たりし両兄に向つては感服せしもの多し、然れども文学者たる両兄に対してはあき足らぬ者猶多し」

ふたりとも未熟だといっている。もう少し修業してオトナになってから文学を志しても遅くはないといっている。

しかしこの手紙を受けとったとき、すでにふたりは退学の手続を済ませていた。彼らは子規に相談をもちかけたのではなかった。ただ報告したにすぎなかった。

明治二十七年十一月末、上京した碧梧桐は子規宅に転がりこんだ。虚子は小石川の新海非風(にいうみひふう)の家に同居の後、本郷台町に下宿した。そこはかつて漱石がいた家であった。根岸の家にふたりは置けぬという事情があったにしろ、虚子は子規の監視を避けたのである。

(略)

明治二十八年に入ると非風が日銀の北海道支店に転勤が決まったので、虚子は本郷の医科大学附属病院前、龍岡町の下宿に碧梧桐と同居した。

明治二十八年五月、虚子は京都に遊んだ。折しも内国博覧会開催中の京都には寒川鼠骨がいて旧交をあたためた。子規瀕死の電報を陸羯南から受けとったのはそのときであった。

(略)

明治二十八年夏、子規を須磨の保養院へ送った虚子は、七月末に東京へ帰った。帰ると龍岡町の下宿を引払い、東京西郷戸塚村へ移った。そこは、その年四月にピストル自殺した藤野古白がいた下宿であった。秋、虚子は東京専門学校(のち早稲田大学)の入学試験を受けた。「学問をせよ」という子規の意見にしたがい、坪内逍遥のシェークスピアの講義を聞くつもりであった。

東京専門学校の試験は形式的なもので、虚子は誰よりも早く答案を出した。・・・・・だが、いざ学校へ行ってみると、逍遥の講義はシェークスピアではなくワーズワースであったから、ワーズワースに興味のない虚子は、じきに学校へ行かなくなった

そんな虚子に子規はよくこう忠告した。

「お前は人に相談という事をおしんからいかん。自分で思い立つと矢も楯もたまらなく遣っておしまいるものだから後でお困りるのよ」

しかしその忠告は、子規自身に向けられてしかるべきものであった。晩年に至って子規は些事まで人に相談する人となったが、それは病床から動けなくなった子規が、他人を「悦服」せしめるために「相談」というステップを踏んだにすぎない、とは虚子の追懐である。

虚子との同居を解消した碧梧桐は、子規の推薦で「日本」に入社し、神田淡路町に住んだ。従軍記者となって外地へ向かう子規の後継という含みであった。だが、神戸、須磨、そして松山で病身を養う子規に聞こえてくるのは、若い碧梧桐のもの知らずぶりと勤務態度への不評ばかりであった。

非風と仲違いし、碧梧桐にも失望した子規が「後継者」として期待するのは、ひとり虚子のみとなった。・・・・・」(関川夏央、前掲書)


つづく


築地市場、神宮外苑に続き、葛西臨海水族園も破壊 ⇒ 都立葛西臨海水族園の建て替え計画の事業者プラン詳細を情報開示請求したところ、85ページ中76ページがほぼ真っ黒。 どんな水族館になるのか、住民説明会も開かず、何ら説明がない。 / 葛西臨海水族園改修問題「水辺の自然」エリア最後の日…記者が感じた自然へのリスペクト欠如(日刊ゲンダイ);「伐採によって失われるのは樹木だけではない。東京都から自然が失われる中で、緑を回復しようとする考えや人々の努力が否定されるのです。一部エリアの話だからと伐採を容認してしまえば、悪しき前例となり連鎖してしまいかねません」  



 

焦る小池知事は都知事選「公務優先」もマユツバ…連日のしたたか演出で組織固めに没頭中(日刊ゲンダイ)