池辺吉太郎(三山)
大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙) より続く
1907(明治40)年
3月5日
政界革新同志会発会式。河野広中・島田三郎・村松恒一郎・円城寺清・大谷誠夫・桜井熊太郎・石山弥平・大竹貫一・細野次郎ら(かつての講和問題同志聨合会メンバ多い、国竜会は含まず)。
島田は、この春、第23議会で軍拡予算を政・憲両党賛成で通過したことを攻撃。15日より3日連続で神田錦輝館で演説会。~5月末。
3月5日
エスペラント語学校の第三期開講(大杉栄)
3月5日
「三月五日(火)、雪後晴。大塚保治から、英文学の講座を担当し、教授になってはどうかとの交渉を受ける。(教授になると、月給百五十円支払われる。但し、文筆活動も内職として控えなければならぬので、朝日新聞社入社の件決定するまで待って貰う)
(白仁三郎(坂元雪鳥)、風邪にて終日臥床。弓削田精一から手紙来る。)
(三月六日(水)、白仁三郎(坂元雪鳥)風邪がなおらぬ。一度は起きたが、再び臥床。弓削田精一に返事(推定)を出す。)」(荒正人、前掲書)
3月5日
啄木(21)父一禎、住職再任の前提である滞納宗費(13円)弁済の見通しつかず断念、野辺地常光寺葛原対月を頼り家出(再住運動挫折)。
「殆んど一ヶ年の間戦った宝徳寺問題が、最後のきはに至つて致命の打撃を享けた。今の場合、モハヤ其望みの綱がスッカリきれて了つたのだ。」(「日記」)
妻節子、母に伴われて京子を連れて盛岡の実家から帰る。この頃、妹光子も学費に困窮して盛岡女学校を退学。
20日、北海道での新生活を決意、函館・苜蓿社松岡蕗堂に渡道を依頼。 "
3月5日
(露暦2月20日)第2回ドゥーマ召集。(~露暦6月3日)。社会民主主義者やエスエルが参加。1906年11月9日の勅令承認を拒否。
露暦6月3日、保守派に有利な新選挙法制定。6月3日のストルイピンのクーデタ。
3月6日
清国の江蘇・広東・安徽の各省及び上海などで米騒動。
3月6日
東京の玉川電気鉄道会社、道玄坂上~三軒茶屋間開業。8月10日、渋谷~玉川間全通。
3月7日
中国、英国中英公司と廣九鉄道借款(150万ポンド)。
3月7日
中国、女子師範學堂・女子學堂章程制定。
3月7日
北海道旭川町野戦砲兵第七連隊の兵士37人、上官の虐待のため同盟脱営。
3月7日
「三月七日(木)、白仁三郎(坂元雪鳥)来る。三月四日(月)付の手紙を拐え、手当の具体的回答として、半紙横に二つ折りにし、上段に雪鳥と思われる筆で、下段に池辺吉太郎(三山)のものと思われるペン書きで九か条にわたり、質疑応答の形式で、要件を書き纏めたものを持って来る。夜、白仁三郎は、銀座で弓削田精一・渋川柳次郎(玄耳)と食事する。」(荒正人、前掲書)
白仁三郎は漱石に池辺三山の覚書を見せられ自分の希望の殆んど全部が「朝日」側に受け容れられたことを知った。
池辺三山の案による回答。
月俸は二百円で累進式。免職しないという件は正式に保証させる。隠退料は草案段階でまだ確定していないが官公吏程度のもの。作品は2回、各100回程度の小説を掲載したい。作品に対して営業部からは絶対に苦情を出させない。作品が必ずしも新聞向きでなくても、「朝日新聞」の流行によって漱石作品もまた世間に流行するとを確信する。小説以外のものの執筆は無理のない程度で、両方の希望によって臨機に決めたい。小説は全部本社へ頂き、他の新聞に出すのは困るが、従来の関係のある「ホトトギス」外1,2の雑誌への執筆は自由。新聞に載せた作品を纏めて他の出版社から出す版権は認める。
〈雪鳥が示した朝日新聞側の回答〉
一 手当月額如何。並にその額は固定するかあるいは累進するか。
月俸二百円、累進式ナリ。但シ僕ノ如キ怠ケ者ハ動(やや)モスレバ固定シ易キ傾向アリ。
二 むやみに免職せぬという如き保証できるや。池辺氏あるいは社主により保証され得べきか。
御希望トアラバ正式ニ保証サスベシ。
三 退隠料あるいは恩給とでもいうようなものの性質如何。並にその額は在職中の手当のおよそ幾割位に当るや。それらの慣習如何。
既ニ草案ハアルモイマダ確定ニ至ラズ。併シ早晩社則ガ出来ルナラント信ズ。先ズ御役所並位ノ処卜見当ヲ附ケテ置イテ戴キタシ。
四 小説は年一回にて可なるか、その連続回数は何回位なるべきか。
年ニ二回、一回百回位ノ大作ヲ希望ス。尤モ回数ヲ短クシテ三回ニテモヨロシク候。
五 作に対して営業部より苦情出ても構わぬか。
営業部ヨリ苦情ノ出ルナドイウ事ハ絶対的ニナキコトヲ確保ス。
六 自分の作は新聞(現今の)には不向とおもう。それでも差支えなきや。
差支エナシ。先生ノ名声ガ後来「朝日新聞」ノ流行卜共ニ益(ますます)世間ニ流行スベキコトヲ確信シ切望ス。
七 小説以外に書くべき事項は、随意の題目として一週に幾回出すべきか、またその一回の分量は幾(いくばく)何。
コノ事ハソノ時々ニ御相談致シタシ。多作ハ希望セズ。マタソー無理ナコトハ願ワズ。
ソノ時々社モ希望ヲ述べ、先生ノ御希望モ伺イ臨機ニ都合ヨク取極メタシ。
八 雑誌には今日の如く執筆の自由を許さるべきか。
従来御関係ノ深キ「ホトトギス」へハ御執筆御自由ノコト。ソノ他一、二ノ雑誌へ論説御寄稿ハ差支ナシ。但シ小説ハ是非一切社ニ申受ケタシ。マタ他ノ新聞へハ一切御執筆ナカランコトヲ希望ス。
九 紙上に載せたる一切の作物を纏めて出版する版権を得らるべきか。
差支ナシ。
報酬(月給)200円:
主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。
3月7日
宋教仁、満州工作のため帰国するのを前のこの日。前田卓と何天烱をさそって大森の池上に梅を見に行く。
「梅園は山の前側にあり、周囲約半里、園内にはざっと数千株の梅が植えられすべていま満開であった」。
「高く山上から臨むと、見晴らしはひじょうにすぼらしく大森平野、東京湾みなそっくりそのままに一望できた」(宋教仁)
梅と見晴らしを堪能した三人は、明保楼という旅館に入り、食事をし、温泉風呂に入ってしばらく休んだあと、人力車で帰ろうとする。ところがその途中、やはり観梅に来た黄興らとばったり会い、再び旅館に引き返して、もう一度たっぷり梅を楽しみ、一泊して翌日の夕方帰ったという。黄興は、彼らが観梅に行ったことを聞いて、追いかけて来たのだろう。
そのとき黄興が梅の絵を描いて、卓に贈ったと、黄興の長男一欧はいう。「先君(黄興)は平生絵を描くのは巧みでなく、まして絵を描いて人に与えたことはない。唯一の例外は、一幅の梅を描いて宮崎寅蔵夫人の姉前田卓子に贈ったことである」(上村希美雄『宮崎兄弟伝 アジア編下』)。何天烱が賛をしたためた。
3月23日、宋教仁は新橋から神戸に向かって出発した。卓は見送りに行かなかった。
『宋教仁の日記』は、この満州行きの途中で終わっている。
宋の満州での馬賊工作は、この話を持ちかけた日本人同行者の密告により露見し、同志一人逮捕された。宋はからくも逃れ、8月ごろに日本に帰ってくる。
3月8日
大杉栄「青年に訴ふ」(『平民新聞』連載~3月31日、全14回)
3月8日
英労働党下院委員ジェイムズ・キア・ハーディ提出の婦人参政権承認法案、否決。
3月9日
「三月九日(土)、午前、自仁三郎(坂元雪鳥)から手紙来る。(推定)弓削田精一から進言されたものである。(清水三郎)」(荒正人、前掲書)
3月9日
最初の在郷軍人団体、神田に結成。
つづく