2025年12月17日水曜日

鎌倉の中華の老舗 「二楽荘」でランチ 2025-12-17

 12月17日(水)

今日は鎌倉の二楽荘さんという中華レストランでランチ。

時々、小町通の混雑を避けて脇道に入るときなどに、お店の前を通るけど、なんだか古そうなお店だなと、思ってた。

やっぱり古いお店だそうで、創業は1934年(昭和9年)とのこと。

コースに出てくる「しる麺」には、ことさら「鎌倉文士がどうのこうの」と銘打ってある。

この「しる麺」、そんなカッコつけなくても、ホントにすごく美味しかった。上海風とかお店の方は言ってたけど、超うす味でワタシの好みだった。

せっかく鎌倉に行ったのに、鎌倉の紅葉ラストの妙本寺へは昨日行ってたので、今日は食後直帰となった。

高市早苗さんのお蔭で、電車も街も混んでなかった(決して、誉めてない)。









トランプには「アルコール依存症的な性格」があると、首席補佐官が暴露インタビューで語る / スージー・ワイレスはイーロン・マスクを「公言した」薬物使用者と呼んだことを否定したが、彼女が話した記者はその会話の録音を持っていた。 / ホワイトハウスの首席補佐官スージー・ワイルズ氏は、トランプ大統領が報復の「機会」があるときは「やるつもりだ」と述べています。    

 


〈全文〉

 トランプ大統領の首席補佐官、スージー・ワイルズは、12月16日火曜日に公開された一連のインタビューで、ヴァニティ・フェア誌に対し、トランプ政権のトップ当局者らについての率直な評価を述べました。

トランプは「アルコール依存者のような性格を持っている」と彼女は語りました。副大統領のJDヴァンスについては「10年間にわたり陰謀論者だった」と彼女は述べました。そして、司法長官のパム・ボンディは、性的人身売買の疑いがあるジェフリー・エプスタインに関する文書の初期公開で「完全に失敗した」と彼女は言いました。

ワイルズは、ソーシャルメディア上でこの記事を「私、トランプ、そして彼の内閣に対する不誠実な枠組みの攻撃記事」と呼びました。

「重要な文脈が無視され、私や他の人々がチームと大統領について述べた多くの内容が記事から省かれた」とワイルズは述べました。「それを読んだ後で推測するに、これは大統領と私たちのチームについて、圧倒的に混乱した否定的な物語を描くために行われたものだと思う。」


トランプは、ロシア疑惑を報じたピューリッツァー賞受賞記事を撤回しなかったとして、賞委員会を名誉毀損で提訴した。 しかし委員会は屈するどころか、「財務記録や医療記録を含む広範な証拠開示(ディスカバリー)」を求めて、真っ向から反撃に出た。…


全文〉

 これは成り行きが非常に気になる。


トランプは、ロシア疑惑を報じたピューリッツァー賞受賞記事を撤回しなかったとして、賞委員会を名誉毀損で提訴した。

しかし委員会は屈するどころか、「財務記録や医療記録を含む広範な証拠開示(ディスカバリー)」を求めて、真っ向から反撃に出た。

委員会側は、トランプ自身が「評判」や「損害」を争点として持ち出している以上、

その資産状況や信頼性は訴訟と直接関係すると主張している。

このまま訴訟が進めば、トランプは長年隠してきた情報の提出や、宣誓下での証言を迫られる可能性がある。

これは、報道を威圧しようとした人物が、逆に説明責任を問われる立場に追い込まれたという、まさに「自業自得」の展開だ。

結末は、SNSや集会ではなく、法廷での宣誓証言によって決まることになる。

ピューリッツァー賞委員会には、ぜひとも最後まで踏ん張ってほしい。





野党を貶めるデマ拡散の再犯 これで「副外相」? 即辞任を! → 国光副外相に厳重注意 「辞めた女性官僚たくさんいる」など発言巡り(毎日新聞) ; 「国光氏は11月にも、国会での質問通告のルールをめぐって事実誤認したまま野党の対応を批判する投稿をし、木原氏から注意を受けて投稿を撤回している」 /  しかも、X(ツイッター)アカウントを消して「逃亡」

 

大杉栄とその時代年表(711) 1907(明治40)年3月5日~9日 朝日新聞が漱石にオファーした月給は200円: 主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。

 

池辺吉太郎(三山)

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙) より続く

1907(明治40)年

3月5日

政界革新同志会発会式。河野広中・島田三郎・村松恒一郎・円城寺清・大谷誠夫・桜井熊太郎・石山弥平・大竹貫一・細野次郎ら(かつての講和問題同志聨合会メンバ多い、国竜会は含まず)。

島田は、この春、第23議会で軍拡予算を政・憲両党賛成で通過したことを攻撃。15日より3日連続で神田錦輝館で演説会。~5月末。

3月5日

エスペラント語学校の第三期開講(大杉栄)

3月5日

「三月五日(火)、雪後晴。大塚保治から、英文学の講座を担当し、教授になってはどうかとの交渉を受ける。(教授になると、月給百五十円支払われる。但し、文筆活動も内職として控えなければならぬので、朝日新聞社入社の件決定するまで待って貰う)

(白仁三郎(坂元雪鳥)、風邪にて終日臥床。弓削田精一から手紙来る。)

(三月六日(水)、白仁三郎(坂元雪鳥)風邪がなおらぬ。一度は起きたが、再び臥床。弓削田精一に返事(推定)を出す。)」(荒正人、前掲書)  

3月5日

啄木(21)父一禎、住職再任の前提である滞納宗費(13円)弁済の見通しつかず断念、野辺地常光寺葛原対月を頼り家出(再住運動挫折)。


「殆んど一ヶ年の間戦った宝徳寺問題が、最後のきはに至つて致命の打撃を享けた。今の場合、モハヤ其望みの綱がスッカリきれて了つたのだ。」(「日記」)


妻節子、母に伴われて京子を連れて盛岡の実家から帰る。この頃、妹光子も学費に困窮して盛岡女学校を退学。

20日、北海道での新生活を決意、函館・苜蓿社松岡蕗堂に渡道を依頼。   "

3月5日

(露暦2月20日)第2回ドゥーマ召集。(~露暦6月3日)。社会民主主義者やエスエルが参加。1906年11月9日の勅令承認を拒否。

露暦6月3日、保守派に有利な新選挙法制定。6月3日のストルイピンのクーデタ。

3月6日

清国の江蘇・広東・安徽の各省及び上海などで米騒動。

3月6日

東京の玉川電気鉄道会社、道玄坂上~三軒茶屋間開業。8月10日、渋谷~玉川間全通。

3月7日

中国、英国中英公司と廣九鉄道借款(150万ポンド)。

3月7日

中国、女子師範學堂・女子學堂章程制定。

3月7日

北海道旭川町野戦砲兵第七連隊の兵士37人、上官の虐待のため同盟脱営。

3月7日

「三月七日(木)、白仁三郎(坂元雪鳥)来る。三月四日(月)付の手紙を拐え、手当の具体的回答として、半紙横に二つ折りにし、上段に雪鳥と思われる筆で、下段に池辺吉太郎(三山)のものと思われるペン書きで九か条にわたり、質疑応答の形式で、要件を書き纏めたものを持って来る。夜、白仁三郎は、銀座で弓削田精一・渋川柳次郎(玄耳)と食事する。」(荒正人、前掲書)  

白仁三郎は漱石に池辺三山の覚書を見せられ自分の希望の殆んど全部が「朝日」側に受け容れられたことを知った。


池辺三山の案による回答。

月俸は二百円で累進式。免職しないという件は正式に保証させる。隠退料は草案段階でまだ確定していないが官公吏程度のもの。作品は2回、各100回程度の小説を掲載したい。作品に対して営業部からは絶対に苦情を出させない。作品が必ずしも新聞向きでなくても、「朝日新聞」の流行によって漱石作品もまた世間に流行するとを確信する。小説以外のものの執筆は無理のない程度で、両方の希望によって臨機に決めたい。小説は全部本社へ頂き、他の新聞に出すのは困るが、従来の関係のある「ホトトギス」外1,2の雑誌への執筆は自由。新聞に載せた作品を纏めて他の出版社から出す版権は認める。

〈雪鳥が示した朝日新聞側の回答〉

一 手当月額如何。並にその額は固定するかあるいは累進するか。

月俸二百円、累進式ナリ。但シ僕ノ如キ怠ケ者ハ動(やや)モスレバ固定シ易キ傾向アリ。

二 むやみに免職せぬという如き保証できるや。池辺氏あるいは社主により保証され得べきか。

御希望トアラバ正式ニ保証サスベシ。

三 退隠料あるいは恩給とでもいうようなものの性質如何。並にその額は在職中の手当のおよそ幾割位に当るや。それらの慣習如何。

既ニ草案ハアルモイマダ確定ニ至ラズ。併シ早晩社則ガ出来ルナラント信ズ。先ズ御役所並位ノ処卜見当ヲ附ケテ置イテ戴キタシ。

四 小説は年一回にて可なるか、その連続回数は何回位なるべきか。

年ニ二回、一回百回位ノ大作ヲ希望ス。尤モ回数ヲ短クシテ三回ニテモヨロシク候。

五 作に対して営業部より苦情出ても構わぬか。

営業部ヨリ苦情ノ出ルナドイウ事ハ絶対的ニナキコトヲ確保ス。

六 自分の作は新聞(現今の)には不向とおもう。それでも差支えなきや。

差支エナシ。先生ノ名声ガ後来「朝日新聞」ノ流行卜共ニ益(ますます)世間ニ流行スベキコトヲ確信シ切望ス。

七 小説以外に書くべき事項は、随意の題目として一週に幾回出すべきか、またその一回の分量は幾(いくばく)何。

コノ事ハソノ時々ニ御相談致シタシ。多作ハ希望セズ。マタソー無理ナコトハ願ワズ。

ソノ時々社モ希望ヲ述べ、先生ノ御希望モ伺イ臨機ニ都合ヨク取極メタシ。

八 雑誌には今日の如く執筆の自由を許さるべきか。

従来御関係ノ深キ「ホトトギス」へハ御執筆御自由ノコト。ソノ他一、二ノ雑誌へ論説御寄稿ハ差支ナシ。但シ小説ハ是非一切社ニ申受ケタシ。マタ他ノ新聞へハ一切御執筆ナカランコトヲ希望ス。

九 紙上に載せたる一切の作物を纏めて出版する版権を得らるべきか。

差支ナシ。


報酬(月給)200円:

主筆の池辺三山は交際費含め270円、経済部長松山哲堂が140円、創刊以来の古参編集長佐藤北江130円、ベテラン小説記者半井桃水80円、新入社員美土路昌一30円。主筆を除きいずれも漱石よりはるかに低い。


3月7日

宋教仁、満州工作のため帰国するのを前のこの日。前田卓と何天烱をさそって大森の池上に梅を見に行く。

「梅園は山の前側にあり、周囲約半里、園内にはざっと数千株の梅が植えられすべていま満開であった」。

「高く山上から臨むと、見晴らしはひじょうにすぼらしく大森平野、東京湾みなそっくりそのままに一望できた」(宋教仁)

梅と見晴らしを堪能した三人は、明保楼という旅館に入り、食事をし、温泉風呂に入ってしばらく休んだあと、人力車で帰ろうとする。ところがその途中、やはり観梅に来た黄興らとばったり会い、再び旅館に引き返して、もう一度たっぷり梅を楽しみ、一泊して翌日の夕方帰ったという。黄興は、彼らが観梅に行ったことを聞いて、追いかけて来たのだろう。

そのとき黄興が梅の絵を描いて、卓に贈ったと、黄興の長男一欧はいう。「先君(黄興)は平生絵を描くのは巧みでなく、まして絵を描いて人に与えたことはない。唯一の例外は、一幅の梅を描いて宮崎寅蔵夫人の姉前田卓子に贈ったことである」(上村希美雄『宮崎兄弟伝 アジア編下』)。何天烱が賛をしたためた。

3月23日、宋教仁は新橋から神戸に向かって出発した。卓は見送りに行かなかった。

『宋教仁の日記』は、この満州行きの途中で終わっている。

宋の満州での馬賊工作は、この話を持ちかけた日本人同行者の密告により露見し、同志一人逮捕された。宋はからくも逃れ、8月ごろに日本に帰ってくる。

3月8日

大杉栄「青年に訴ふ」(『平民新聞』連載~3月31日、全14回)

3月8日

英労働党下院委員ジェイムズ・キア・ハーディ提出の婦人参政権承認法案、否決。

3月9日

「三月九日(土)、午前、自仁三郎(坂元雪鳥)から手紙来る。(推定)弓削田精一から進言されたものである。(清水三郎)」(荒正人、前掲書)  

3月9日

最初の在郷軍人団体、神田に結成。


つづく


2025年12月16日火曜日

鎌倉紅葉散歩 妙本寺の紅葉 見頃 本覚寺(イチョウと真っ赤なモミジ) 大巧寺(椿〈初雁〉) 2025-12-16

 12月16日(火)晴れ

鎌倉、妙本寺の紅葉が見頃

いつものように結婚式前撮り組が3組(1組帰ったら1組到着、増減なし)

祖師堂左側とそこから墓地に向かう坂の紅葉がピークの感じ。

鐘楼周辺はかなり落葉したようで寂しい。









▼本覚寺 イチョウと真っ赤なモミジと


▼大巧寺 椿〈初雁〉


元維新の足立康史(現国民民主党)が攻撃側に参戦 「当該スキームを開発し、組織的に悪用してきた主体が、皮肉にも「社会保険料を下げる」を掲げてきた日本維新の会の議員団だった」 / 「信頼の根拠として悪用されている可能性が」自民府議が国保逃れの不正に維新議員の関与疑惑を指摘…ネットは「事実なら大爆弾」と騒然(女性自身) / 占部大阪府議(自民)から社会保険制度を悪用した国保逃れの事案に維新関係者が関わっていたことを指摘された維新吉村大阪府知事のカ細い声での答弁     

高市早苗、総理の適格性、どうよ? → 「武力の行使がなければ存立危機事態にはならないという法律の趣旨を述べたもの」と無茶苦茶な弁明 / 自分の非を認めず「受け手側の誤解」にすり替える詭弁 / 間違いを素直に認めない / ついつい威勢のいいことを言ってしまって「国難」を招いているのに、、、 / 高市首相「従来の立場超えたと受け止められ反省」 存立危機発言巡り(毎日) / 「前にも同じこと書いてるけど、高市さんの失敗パターンはいつも同じ。 誰からも求められてないのに調子に乗って勝手に威勢のええこと言い放ってそのせいで調整が難しくなって自分で調整つけられなくなって周囲の人間や部下たちから見放されて最後謝る… こればっかりなのよ。 能力低い。」  「高市さんが安倍晋三に嫌われるきっかけとなった清和会離脱騒動も、高市さんがアホなこと言うて奈良県知事選挙で自民党奈良県連が分裂した時も、総務省の文書問題の時も、全部このパターン。 安倍晋三でさえ見放す理由がよくわかる。」(菅野完)

 

 

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文芸誌「新潮」1月号(12.5発売)で、斎藤真理子さんが週刊新潮・高山正之差別コラムを非難していた。 〈「創氏改名2・0」という言語道断なタイトルで、誰が見ても明らかな事実誤認に基づく偏見でいっぱいの文章が見過ごされるとは。二〇二五年という年はこのことで記憶に残ると思う。〉、、、〈戦後八十年、ちゃんと干していなかった布団でずっと寝ていたら、どんどん背中がカビてきてしまったような感じ。新潮社はちゃんと布団を干すべきだし、新潮社だけではない。〉(「新潮」1月号)   

トランプ氏、ライナー夫妻の死は自身を批判し招いた「怒り」が原因 党内からも異例の非難(AFPBB) / 映画監督殺害で「トランプ錯乱症」と米大統領投稿、超党派から批判(ロイター) / 死去した映画監督をトランプ大統領が嘲笑、「重度の妄想癖」と投稿(Bloomberg) / ロブ・ライナー「権威主義に対して沈黙するのは共犯と同じだ。声を上げることは愛国的な行為だ。民主主義はほうっておいても守られない。民主主義には、一般市民の参加、警戒、そして勇気が必要だ」  

米国人の半数が「クリスマスプレゼントを買うのは経済的に困難」 世論調査 | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

大杉栄とその時代年表(710) 1907(明治40)年3月1日~4日 「小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」(漱石の白仁三郎宛て手紙)

 

夏目漱石

大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』) より続く

1907(明治40)年

3月

観潮楼歌会。森鴎外主催。歌壇結集。根岸派子規の弟子伊藤左千夫(写実派)、鉄幹・晶子、信綱・勇・白秋・啄木。

3月

野口雨情「朝花夜花」(「明文舎」)

3月

島田三郎、「谷中村枉法破壊に関する質問書」を政府に提出。説明演説を行う。

3月

市川房枝(14)、朝日尋常高等小学校卒業。渡米願いを役所に出すが不許可。

3月

民刑局長平沼騏一郎、独仏英に法律取調べのため派遣。翌41年2月14日帰国。

3月

大阪電球株式会社創立。

3月

大阪窯業会社、貝塚煉瓦と和泉煉瓦両会社を合弁。

3月

仏、モロッコ西北部を軍事占領。モロッコの民族的反抗開始。

3月

ベトナムでファン・チュー・チンらがハノイに東京義塾を設立する。

3月

ルーマニアで2月8日に起きたモルダビア農民暴動、軍隊により鎮圧。

3月

パブロ・ピカソが絵画「アビニヨンの娘たち」を完成させる。

3月1日

欧文植字工組合、欧友会結成。

3月1日

渋川玄耳、「東京朝日」社会部長として入社。熊本第6師団法官部補で、日露戦争中、戦場から朝日にしばしば随筆を寄稿していた。漱石と熊本で俳句仲間だった。社会部長として社会面に新風を巻き起こす。1ヶ月後に漱石が入社。

3月1日

『家庭雑誌』5巻5号発行

大杉栄「『筒袖の葬式』(堺為子)の前文」「露西亜の女学生(クロポトキン)」掲載

3月2日

衆議院にて郡制廃止案可決

3月2日

夕張炭坑争議。~7月1日。

3月3日

道清鉄道、開通。

3月3日

日本、ハルビン総領事館開館。ウラジオストク貿易事務官河上俊彦を初代総領事に抜擢。

3月3日

鉄幹(34)と晶子(29)に双生児出産(長女八峰、2女七瀬)。命名森鴎外。

3月3日

大杉栄「エスペラント語講義 練習1(第九回)」(『語学』)

3月4日

3月4日付け漱石の雪鳥宛て入社条件の問い合わせの手紙。

大学から英文科教授になる話があるが、待ってもらっている、そして「いま少し委細の事を承わり置きたくと存候」と手当てや身分保証について、箇条書きにして細かく問い合わせる。末尾に「大学を出て江湖の士となるは今まで誰もやらぬ事に候。それ故ちょっとやってみたく候。これも変人たる所以かと存候」。


「三月四日 (月)、午前、白仁三郎(坂元雪鳥)宛手紙(消印、午前十時-十一時)で池辺吉太郎(三山)に直接会いたいこと、朝日新聞社(大阪朝日新聞・東京朝日新聞)入社の手当を具体的に問い合せる。午後、小宮豊隆宛葉書に、漱石山房の印を押し、「白酒をのみに来てもよろしく候。漱石山房の印をペタベタ押したいが時々来て五六冊づゝ押して被下度候。其代り時々御馳走を致候以上頓首恐惶謹言」と書く。漱石山房の印を押したのは、この時初めてと推定される。また、別の白仁三郎宛葉書(消印、午後五時-六時)に、金曜の午後三時頃に会いたいこと、木曜日ならばいつでもよいと告げる。」(荒正人、前掲書)  

漱石が朝日新聞の申し出に対して返事をしないでいるうちに、大学当局から新学期から教授として英文学の講座を担当するように奨められた。漱石は岐路に立たされた。

3月4日、漱石は白仁三郎宛てに返事を書いた。


「拝啓先日は御来駕失敬致候其節の御話しの義は篤と考へたくと存候処非常に多忙にて未だ何とも決せざるうち大学より英文学の講座担当の相談有之候。因って其方は朝日の方落着迄待つてもらひ置候。而して小生は今二三週間の後には少余裕が出来る見込故其節は場合によりては池辺氏と直接に御目にかゝり御相談を遂げ度と存候。然し其前に考の材料として今少し委細の事を承はり置度と存候

一手当の事、其高は先日の仰の通りにて増減は出来ぬものと承知して可なるや

それから手当の保証、是は六やみに免職にならぬとか、池辺氏のみならず社主の村山氏が保証してくれるとか云ふ事。

何年務めれば官吏で云ふ恩給といふ様なものが出るにや、さうして其高は月給の何分の一に当るや。

小生が新聞に入れば生活が一変する訳なり。失敗するも再び教育界へもどらざる覚悟なればそれ相応なる安全なる見込なければ一寸動きがたき故下品を顧みず金の事を伺ひ候。(略)大学を出て江湖の士となるは今迄誰もやらぬ事に候夫故一寸やつて見度候。是も変人たる以かと存候。」

漱石はその他に、発表作品の数と長さ、他の雑誌新聞への執筆制限、作品の版権の問題などを訊ねた。

(『日本文壇史』より)

3月4日

日本に亡命中の孫文、清国政府の要請を受けた日本政府の命令によって国外追放。

清国政府は、孫文の日本からの追放と、革命派の精神的支柱である『民報』そのものの取り締りを、日本政府に要請する。日本政府は孫文に5千円の旅費を贈って、日本を脱出するよう勧告した。単純に「追放」できなかったあたりに、当時の孫文と中国同盟会の影響力の大きさを示している。孫文には日本人の支援者からも1万円の餞別が贈られ、シンガポールに向けて出発。同盟会の本拠地は、日本とシンガポールの二つに分かれることになった。

さらにこのお金をめぐって、同盟会内では孫文批判と不信がつのった。孫文が、民報社の維持費用として、2千円しか残さなかったからである。「旗争い」で見た黄興や宋教仁らと孫文とのあつれきには、この問題も関係していた。とりわけ、民報編集長の章炳麟が、激しく孫文を批判したとされる。

3月4日

5分利付英貨公債2,300万ポンド発行仮契約調印(英仏にて募集)。

3月4日

ボータ、南アフリカの首相に就任。


つづく

高市早苗、子どもダマシの屁理屈 → 共産党の山添議員から、総理のHPに「高市早苗の政策に共鳴し、活動費のご協力をいただける法人・その他団体の皆様は、高市早苗が支部長を務める政党支部で寄附を受けます」と書いてあり、法人による支部への寄附は総理への献金ではないか、と指摘される。 / 上限を超えて献金したドトール創業者の鳥羽氏は『高市さんしかいない。許されるならいくらでも献金したい』。総理への献金では? / 首相「私への献金ではない」 自身代表の支部上限超え寄付に(東京); 「たまたま私が支部長だった。高市早苗に対する献金ではない」とまで詭弁を弄するのか。自民党が奈良2区の議員 (候補者) のために作った党支部。支部長は高市氏。そこへの献金は、高市氏への献金と解するのが当然である。


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2025年12月15日月曜日

大杉栄とその時代年表(709) 1907(明治40)年2月25日~28日 「オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。…… 私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』)

 

トロツキー『往復』

大杉栄とその時代年表(708) 1907(明治40)年2月24日 漱石の朝日招聘 「二月二十四日(日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)」(荒正人) より続く

1907(明治40)年

2月25日

(露暦2月12日)トロツキー、流刑地途中のベリョーゾフ着。老革命家フェイト博士の助言により坐骨神経痛を装い入院。ここで脱走(二度目の脱走)。

妻セドーヴァ・息子とペテルブルクで落合い、フィンランドに潜行。隣村に潜行中のレーニン、マルトフと再会。レーニンは、獄中でのトロツキーの著作に賛意を表するが、ボルシェヴィキに移行していないことを批判。レーニンは、ヘルシングフォルスのボルシェヴィキ連絡先をトロツキーに教え、ヘルシングフォルス近郊オグリビェでの潜行を準備させる。後、レーニンもオグリビェに住む。ヘルシングフォルス警察署長は「アクティヴィスト」というフィンランドの革命的民族主義者で、危険を通報するとトロツキーに約束。トロツキーはここで数週間過ごし、「往復」を執筆・出版し、この印税により妻子を残してストックホルム経由国外へ。ロンドン、ベルリン、ウィーンと亡命生活。

〈脱走行〉

「日曜の真夜中に決行することにした。その日、郡当局は素人演劇を催した。私は、臨時の劇場と化した兵舎をたずね、郡の警察署長に会い、体の具合もずっとよくなったので、近いうちにオブドルスクに出発できるだろうと告げた。これは非常に狡猾なやり方だったが、どうしても必要なものだった。

鐘楼の鐘が深夜の12時を打つと、私は忍び足で『ヤギ足』の庭へと向かった。そこには荷車が用意されていた。私は2枚目のシューバ[毛皮の外套]を敷き、荷車の底に横たわった。『ヤギ足』は凍って冷たくなったワラで私をおおい隠し、それを縄で十字に縛って出発した。ワラが暖まると冷たい水滴が私の顔に落ちた。何ヴェルスタか進んだところで荷車は停止した。『ヤギ足』は縄をほどき、私はワラの下から出た。御者は口笛を吹いた。複数の声がそれに答えた。だが、何たることか、それは酔っ払いの声だった。ズイリャン人は酔っ払っていたうえに、仲間まで連れてきていた。それは実に幸先の悪い出だしだったが、選択の余地はなかった。トナカイの曳くソリに私は小さな手荷物とともに乗り移った。私はシューバを2枚重ね着し――1枚は毛皮部分を裏に、もう1枚は毛皮部分を表に――、毛皮の長靴下、毛皮の長靴、2重毛皮の帽子と同じ2重毛皮の手袋をしていた。つまりは、オスチャク人の冬装備一式を着込んでいた。手荷物にはアルコールの瓶が数本、すなわち雪原では最も頼りになるものが入っていた。……

われわれはソシヴァ河沿いの道に入った。私の案内人が買い入れてきたトナカイは数百頭の中から選び出された選りすぐりのものだった。酔っ払った御者は最初のうち何度も居眠りをし、そのたびにトナカイは足を止めた。これでは2人ともいつ災難に見舞われるかわからない。ついに御者は完全に眠り込み、私が押しても突いてもまったく反応しなくなった。しかたなく私は彼の頭から帽子をとった。彼の髪はたちまち霜で真っ白になったが、少し酔いからさめた。

われわれは先を急いだ。誰も足を踏み入れたことのない雪原の中を、エゾマツの林を縫い、野生動物の足跡を追いながら進む、実にすばらしい旅だった。トナカイたちは、舌を横から垂らし、間断なく『シュ、シュ、シュ』と呼吸音を立てながら、元気いっぱいに走り続けた…。道は狭く、トナカイはひと固まりになっていたが、驚くべきことに、彼らはお互いの進行を邪魔することなく走っていた。空腹も疲れも知らない驚くべき被造物! 彼らは、われわれが出発するまで、ほぼまる一昼夜何も食べておらず、それから、食物を与えられることなく走りつづけてすでに24時間近くたっていた。御者の話によると、それでもようやく「調子が出てきた」ところなのだそうだ。平均した速度で、疲れを見せることもなく、1時間あたり8~10ヴェルスタも進んだ。トナカイたちは自分の食料は自分で見つけた。彼らの首に[遠くに行けないようにするために]大きな薪を結びあわせて、放してやる。するとトナカイは、雪の下に苔の匂いのする場所を選び、蹄で深い穴を掘り、そこにほとんど頭から突っ込むようにして食べるのであった。私はこの動物に対して、たとえて言えば、飛行士が大海の上空を高度数百メートルで飛んでいる時にモーターに対して抱くに違いない感情と同じものを感じた。……

こうして旅は1週間続いた。われわれは700キロを走破し、ようやくウラル山脈に近づいた。荷馬車の一団と出くわすことがめっきり多くなった。私は、トーリ男爵の北極探検隊の技師で通すことにした。ウラル山脈からほど遠くないところでわれわれは、以前この探検隊のために仕事をしたことがありそのメンバーを知っているという農場管理人に出会った。彼は私を質問攻めにした。幸いなことに、彼も酔っ払っていた。私は、万一の場合に備えて持っていたラム酒の助けを借りて、この窮地を急いで脱した。万事うまく進んだ。ウラルでは馬車用の道が開けていた。今度は役人をよそおい、管轄区を巡回していた税務監査官といっしょに狭軌鉄道にたどり着いた。駅の憲兵は、私がオスチャク人のシューバを脱いでいる様子を無関心に眺めていた。

ウラル鉄道の引込線まできたものの、私の置かれた状況はまだまだ予断を許さないものだった。このような田舎の支線では、誰であれ「よそ者」は目立つ存在であり、トボリスクからの電報で私はどの駅で逮捕されてもおかしくなかった。私は不安な面持ちで先を急いだ。しかし、まる1日が過ぎ、ペルミ行きの列車の快適な客車に落ち着いたとき、ようやく私はこの勝負に勝ったと感じた。列車は、ついこのまえ憲兵や警備兵や郡警察署長があれほど物々しくわれわれを迎えた駅を次々と通り過ぎていった。だが、今は反対方向に向かって進んでおり、気分もその時とは大違いだった。最初のうち私は、ほとんどがら空きの客車の中で、狭苦しく息づまるように感じられた。私はプラットフォームに出た。そこは風が吹き込み、薄暗かった。胸の奥から無意識のうちに大きな叫び声がわき上がってきた。歓喜と自由の叫びが!」(『わが生涯』)


〈レーニンと再会〉

「レーニンもマルトフも、とっくにペテルブルクを退去してフィンランドで暮らしていた。1906年4月、ストックホルム大会で実現したボリシェヴィキとメンシェヴィキの統一は、すでに再び深い亀裂を見せはじめていた。革命の退潮は続いていた。メンシェヴィキは1905年に演じられた数々の無分別な行為を悔い改めていた。ボリシェヴィキはいっさい悔い改めることなく、新しい革命をめざしていた。私は隣の村に住んでいたレーニンとマルトフをたずねた。……

別れ際に、レーニンは、ヘルシングフォルスにいる仲間の連絡先を教えてくれた。これは私にとって非常に貴重なものとなった。レーニンが紹介してくれた友人たちは、私たち家族がヘルシングフォルス近郊のオグリビュで隠れ住む手はずを整えてくれた。私たちが移り住んでしばらくしてレーニンもそこに住むようになった。……オグリビュで私は妻と幼い息子といっしょに数週間をすごした。息子が生まれたのは私が獄中にいるときだった。この人里離れたところで、私は自分の旅の記録を『往復』という本に書き記し、それから得た印税でストックホルム経由で国外に出た。妻と息子はしばらくロシアにとどまった。……

私はスカンジナビアの汽船で新しい亡命の途についた。この第2の亡命期は10年続くことになる。」(『わが生涯』)


2月26日

在ローマ・ウィーン両公使館を大使館を昇格。駐イタリア大使を高平小五郎、駐オーストリア大使を内田康哉に任命。

2月26日

自治制となったばかりのトランスバールで初の選挙。ルイス・ボータ率いる人民党、37議席を獲得、21議席獲得の進歩党に勝利、トランスバール統治権をボーア人の手に戻す。3月4日ボータ首相に就任。

2月27日

治警法改正法案、衆議院請願委員会で可決採択。議会へ上程の運びとなる。

2月28日

中国革命同盟会の軍旗を興中会の「青天白日旗」にするか否かで孫文・黄興らの争い(宋教仁日記)。他に孫文が日本退去にあたっての餞別も買収騒動となる

2月28日

(漱石)

「二月二十八日 (木)、Merchant of Venice 講義終了する。」(荒正人、前掲書) 

2月28日

帝国劇場株式会社設立総会。会長渋沢栄一。


つづく



2025年12月14日日曜日

これが、維新の「身を切る改革」です → 政治資金でキャバクラ 「身を切る」前に身銭を切ろう(毎日) / 政治資金でキャバクラやラウンジに支出 維新・奥下議員が釈明21分「今回は返金する」が「ポケットマネーでやるには限界ある」(ABEMA) / 維新吉村氏、キャバクラ支出批判 - 「普通に考えておかしい」(共同) ← 普通に考えて維新がおかしい / 政治資金でキャバクラに支出 維新・奥下氏側、計9万円(共同) ← 議員削減の対象者にして下さい




 

議員定数削減 → 「だから、結局、国民不在の歌舞伎を我々見せられてるんじゃないだろうか?」  「今、我々が国会で見せられているものというのは、やっぱりある種、急ごしらえの連立の不安定を映し出してるんじゃないか、そんな気がします」 

 

「高市首相に怒られる」から…「旧姓使用」で内閣府が忖度 男女共同参画答申案に「法制化」文言を独断追加(東京) / 高市氏の“旧姓の通称使用”法制化が「愚策」である理由。「選択的夫婦別姓を妨害するためのツール」(ハフポスト日本版); 選択的夫婦別姓に一貫して反対してきた高市早苗首相。旧姓に法的効力を与える法案を検討しているが、さまざまな問題が生じる恐れがある。

高市早苗首相の危なすぎる「政治とカネ」を徹底検証した!《自民党落選者企業に宣伝費年5000万円、天理教に年5000万円を支出、有罪代議士の息子に毎月30万円業務委託費》(週刊文春)

「偽サッチャー」「自滅的」「時代遅れ」 高市首相の経済政策を海外メディアが酷評…ここまで言われるワケは(東京); ◆ロイターが、エコノミストが、テレグラフが… ◆インフレ加速への懸念で円安が進行 ◆国債も不人気…高金利で買い手を募る悪循環 ◆マイナス金利を解除したのに円安が         

大杉栄とその時代年表(708) 1907(明治40)年2月24日 漱石の朝日招聘 「二月二十四日(日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)」(荒正人)

 

鳥居素川

大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。 より続く

1907(明治40)年

2月24日

この日午前、坂本雪鳥(白仁三郎、前年東大より東京朝日入社、五高教授時代の熊本での俳句会で知合う)、朝日入社の可能性探るべく漱石を本郷西片町に訪問。漱石の反応良好。

3月4日、漱石から三山に会いたい旨の手紙が届く。

7日、雪鳥は漱石を再度訪問。入社条件提示。

11日、再度漱石より三山との面会意向の手紙。


「二月二十四日 (日)、午前十一時三十分(推定)白仁三郎(坂元雪鳥)来て、朝日新聞社(大阪朝日新聞社・東京朝日新聞社)へ入社の件に関し最初の予備交渉を試みる。(午後三時頃(推定)、二葉亭四迷(本郷区西片町十番地にノ三十四号)の家で、渋川柳次郎(玄耳)・弓削田精一待っており、白仁三郎(坂元雷鳥)の来るのが遅いと迎えが来る。白仁三郎は、交渉の結果を報告する。二葉亭四迷も喜ぶ。)


「三山翁の意を体して内偵に来れるを以て、成丈け漠然と軽き意味にて種々の質問応答あり、読売新聞との御関係如何、若し朝日社或は其他の社にても全然師の御入社を乞ふ事あらは、條件によりては目下御奉職の各學校を御止めになる事を得べきや、読売との関係は極めて簡単なり、書いたら出さう位也、學校は止められぬ事なし、寧ろ學校に出るは五月蝿い感に堪へず、併し叉或意味に於ては気楽なり、四月ならば或は高等學校にて教授とするやも知れず、左すれば当分止められぬ事となる可し、(以下略)」。(坂元雪鳥「西片町の二文豪」 (随筆集『壁生草』 (稿本)所収)


白仁三郎(坂元雪蔦) は予定の時間より早く家を出て、本郷区丸山福山町(現・文京区西片一丁目十七番七号) に住む長野蘇南(熊本県出身の軍医で、渋川柳次郎(玄耳)・白仁三郎の共通の俳友) を訪ねたが留守だった。西片町に向う途中生田長江に逢い森川町に野村宗明を訪ね、居合せた高須質淳平(乙字) と俳論をする。これは約束の時間まで待てなかったからである。西片町の二葉亭四迷宅で渋川柳次郎・弓削田精一と落ち合うことになっていたが、まだ来てないと思い、淀見軒(西洋料理・果物商 本郷区本郷四丁旦一十八番地) で昼食をし、淀見軒から朝日新聞社に電話したけれども通じない。市電で社に赴き、池辺吉太郎(三山)に報告し、当分内密にすることを約東する。銀蛭で境野正(愚石)と立話をし、白仁三郎は本郷三丁目まで市竜で行き、人力車で渋川柳次郎・弓削田精一と本郷一丁目の天麩羅屋で祝盃をあげる。弓削田精一が最も喜ぶ。この天麩羅屋はよく分らぬ。但し、都築音松(本郷区本郷一丁目四番地)の経営する料理店では、天婦羅も出す。(明治四十四年一月『東京職業名鑑』による)三人は、神楽坂下停留所まで電車で行って別れる。白仁三郎は、九時前に帰宅する。渋川柳次郎は、陸軍から退職の辞令が出ず、まだ正式に東京朝日新聞社に入社してはいない。だが、一年半ほど前から、『東京朝日新聞』に、「閑耳目」という欄を与えられ執筆している。渋川柳次郎を池辺吉太郎に推薦したのは、弓削田精一である。漱石の入社を喜んで、二人が同席していたのは、こういぅ事情からである。」(荒正人、前掲書)  


〈「大阪朝日」主筆鳥居素川の漱石招聘計画(日本文壇史より)〉

前年(明治39年)12月初め、「大阪朝日新聞」主筆の鳥居素川から漱石へ随筆を依頼する手紙が画家の中村不折経由て届く。この依頼は実を結ばなかったが、以後素川は漱石の著作を読みあさり、社主村山龍平にも読ませ、池辺三山とも打ち合せて、漱石を「大阪朝日」に迎える案を立てた。

鳥居素川(赫雄)は、熊本の出身で、三山池辺吉太郎が明治29年に「大阪朝日」主筆となって後、その翌年末頃に「大阪朝日」に招いた。鳥居は独逸協会学校に学び、かつ漢学にも素養があり、筆力旺盛で、特に諷刺比喩の才能があり、辛辣な政治批評では並ぶもののない名手であった。鳥居は、独逸協会学校を経て、明治24年上海の日清貿易研究所に入ったが、病んで帰ってから池辺三山の「経世評論」に執筆し、日清戦争には「日本」の記者としての正岡子規とともに従軍した。三山はその人物を愛して、彼が「東京朝日」に移って後、素川を「大阪朝日」主筆に推薦した。

素川は、漱石の「草枕」を「新小説」で読んで、その才筆に感歎し、原稿を依頼をした。

この月(2月)、朝日新聞社側の案は熟し、漱石の「東京朝日」招聘の交渉することになった。「東京朝日」は、池辺が主筆で玄耳渋川柳次郎が社会部長であった。その渋川の同郷人で、熊本の第五高等学校で漱石の生徒であった自仁三郎は、このとき文科大学国文科の学生であったが、渋川との縁で時々「東京朝日」に短文を番いていた。その白仁が使者に選ばれた。

白仁三郎は穏和な青年で、俳句を好んで作っていて、時々漱石に逢っていた。予め面会したいとの手紙を出して打ち合せてから、白仁三郎は、約束の2月24日11時頃に夏目家を訪れた。そして、朝日が招聴したがっている旨を伝えた。同時に白仁は、大学や高等学校は本人の意志ですぐにもやめられるものか、留学後の勤務の義務年限はどうなっているのか、「読売」の社告に出た件は実際はどのようなものなの、を訊ねた。漱石は「読売」には何等縛られていない、義務年限は留学年限の二倍なので今年3月で終ると話した。

こ時の漱石の話しぶりで白仁は直感的に有望だと思った。この日「朝日」側は、結果を気づかって、漱石の家のすぐ近くにある二葉亭四迷の家を足だまりとし、そこへ渋川玄耳と通信部長の弓削田精一を待たせておいた。白仁が戻って、有望だ、と告げると、待っていた3人はともに喜び合った。(日本文壇史より)

2月24日

大杉栄、「東京複式消費組合」(発起人竹内余所次郎)設立の参政人となり、その会員募集広告が『平民新聞』(33號)に載る。

ほかの参政人は、石川三四郎、原真一郎、岡千代彦、吉川守邦、田添鉄二、村田四郎、宇都宮卓爾、矢木健次郎、山口義三、山川均、福田英子、深尾韶、幸徳秋水、幸内久太郎、幸徳伝次郎、赤羽一、堺利彦、斎藤兼治郎、志津野又、椎葉十千ら

2月24日

日米、移民に関する紳士協定を結ぶ。


つづく

2025年12月13日土曜日

大杉栄とその時代年表(707) 1907(明治40)年2月23日 有島武郎、ロンドンでクロポトキンを訪問 クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。

 

有島武郎

大杉栄とその時代年表(706) 1907(明治40)年2月18日~22日 「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。」(続平民社時代) より続く

1907(明治40)年

2月23日

有島武郎、再度クロボトキン家を訪ねる機会がなく、この日、ロンドンで乗船、日本に向かう。地中海を経て、3月7日ポートサイド、3月21日コロンボ着。彼は毎日トルストイの「アンナ・カレーニナ」の英訳を読みつづけていた。


〈有島武郎のクロポトキン訪問(日本文壇史より)〉

有島武郎は、パリで壬生馬と別れて、1月17日にロンドンに向う。このとき、武郎は数え年30歳、壬生馬は26歳。

武郎はロンドンにクロボトキンが流寓生活を送っているのを知っていて、彼はクロボトキンの愛読者だったので、できればクロボトキンに逢いたいと思っていた。彼は、クロボトキンの自叙伝「回想記」を読んで圧倒されていた。


「この時代、ロシアの無政府主義者クロボトキンが西ヨーロッパの思想界に与えていた影響は、トルストイと並んで、極めて大きなものがあった。彼の思想の核心は、ダーウィンの学説なる生物界の競争による自然淘汰に対して、生物学的に反証を提出したところの相互扶助論であった。クロボトキンは一八四二年に生れた。貴族の出で、幼年時代から近侍としてロマノフ朝の宮廷に入り、皇后の膝で眠ったりすることもあり、皆に愛される美しい少年であった。国家の役に立つことを心から考える純真を青年として、彼は近衛士官学校に学び、自ら進んで東シベリアのイルクーツクの兵営に入った。そこで彼は、クーケルという将軍の副官になったが、このクーケルは革命的な自由思想を持った人物であり、彼はその影響を受けた。監獄制度、流刑制度などの改善に心を傾けたが、シベリアでそのような善意が実現する機会はなかった。

クロボトキンは、一八六八年、二十六歳の頃に軍籍を脱し、ぺテルブルグ大学の物理数学科に入って、五年間学究生活を送った。彼は地質協会の有力な学者と目されるようになり、フィンランドに探検旅行をした。その経験で、極北地方における動植物界の相互依存的な生活状態を知り、自由競争を前提とする十九世紀の社会思想を否定するという思想的な自覚を彼は抱くに到った。また彼は富裕を貴族なので、しばしば社交界に出入していたが、ある冬の夜舞踏会が終って外に出ると、馭者が吹雪の中で眠っているのを見た。そのことが彼の生活についての直接の反省を生むきっかけとなった。そして一八七二年から、当時のロシアにおける革命運動の中心であったチャイコフスキー団の一員となった。彼はその財産を放棄し、社会主義者の結社であるインターナショナルに加わって、西ヨーロッパを旅行し、その一地方支部員として労働者の間に混り、実践運動に入った。やがて彼は捕えられて二年間獄中にいたが、脱獄を試みて奇蹟的に成功し、一八八六年にイギリスに亡命したのだった。イギリスに来てから彼は、インターナショナルから分裂したバクーニン一派の無政府主義者の作った社会民主同盟に加わっていた。」(『日本文壇史』)


武郎は、自分の経歴の中に、クロボトキンと通じるものがあるのを感じた。彼は、札幌農学校に学び、自然科学の世界にも親しんだこと、海外に出て社会主義に関心を持つようになったこと、貴族でないにしても、富裕な家の出で、自分の受け継ぐ財産についても考えねばならぬことなどによるものだった。日本にいたとき皇太子の学友として赤坂離宮にしばしば行き、成年になってから輔導役になるように勧められたことすら、一脈クロボトキンの少年時代に通じていた。また彼の中にあるキリスト教の考え方からすると、共産主義よりも、生物界の秩序に相互扶助的な力が働いているとするクロボトキンの思想が受け容れやすかった。

2月、武郎は、ロンドン西方郊外にいるクロボトキンにあててお目にかかりたいという手紙を出すと、次の月曜日に待っているとの返事があった。たまたまその日は武郎の都合が悪く、1日前の日曜日に彼は勝手に出かけた。

武男はロンドンから汽車で20ほどの町へ下り、逢う人ごとに道をたずねてようやく捜し出したクロポトキンの家は、三軒続きの貸家らしい石造の家の右端にあった。クロポトキンは、その夫人・娘と住んでいた。招き入れられた部屋は、入ってすぐの、往来に面した細長い客間であった。家具も粗末で様式の統一もなかった。マントルピースの上には、トルストイとドストエフスキーの写真が置かれていた。壁に掲げられた写真はブルードン、バクーニン、ブランデスなどで、ブルードンのような故人を除いて大部分の写真には、それぞれその人からクロボトキンあての献辞をサインしたものであった。

クロボトキンは、「長く待たしたね」と言いながら入って来た。写真で見ていたとおりの広くて高い額、白く垂れた頼髭と顎類、厚みのある形のよい鼻、眼鏡の奥で輝いている灰色の目など、写真にそっくりであった。しかし逢って見て分るのは、清廉な心とよい健康とを語るような艶々とした皮膚、60幾年の辛酸に耐えて来たその広く大きな胸を包んでいる単純な服装などであった。厚く大きく、そして温い手で強く握手をされたとき、武郎は目に涙の浮ぶのを感じた。

武郎は、自分はひどい臆病者で、思想的には暗中模索をしており、精神的には乞食のような存在であると言った。クロボトキンは好意のある微笑をしなから、武郎を慰めた。クロボトキンは、自分は自分の主義に専心しているのだからと言って、日本における社会主義運動のことをたずねた。有島は知っているだけのことを説明してから、「相互扶助論」について疑問の点をたずねた。

クロボトキンは、武郎を二階の書斎(四方の壁が天井まで本で埋められている陰気を広間)に連れて行き、説明しはじめた。聞いているうちに武郎は、自分の境遇も、自分が日本人であることも、ここがイギリスであることなどすっかり頭から去って、ただ年とった親の膝下でその話に耳を傾けている小児のような気特になった。彼は、クロボトキンの書物で読んだ「未だ人間というものの運命について深く考えもせず、激しく働いたこともないものが、私の説の当否を論ずることはできない。そういう人間は 赤面して沈黙すべきだ」という言葉を思い出した。

クロポトキンは自著「Fields, Factories and Workshops」に署名して武夫に与え、日本に帰ってから自分の著書を翻訳しようと思うなら、君にその許可を与えようと言った。

昼食後、「ロシアの文学のことが話題になり、武郎がトルストイについて意見を武郎が求めると、クロボトキンは、自分はトルストイと兄弟にも劣らぬ親しい間柄だが、自分の最も共鳴するのは彼の壮年時代の思想である。彼は大分年をとって、その信仰に曖昧な神秘主義が混って来たのか残念だ、と言った。」(『日本文壇史』)

2時頃になり、武郎は暇を告げた。クロボトキンは、送って出て、今度は君をロンドンの自分たちの仲間のクラブに連れて行ってあげよう。もっと色々なことを君はそこで知ることになるだろう、と言った。

2月23日

麒麟麦酒設立

2月23日

日清豆粕製造株式会社設立。

2月23日

明治屋社長米井源治郎ら、ジャパンブリュワリー買収。麒麟麦酒株式会社設立。本社横浜。


つづく


2025年12月12日金曜日

高市首相の答弁書に「台湾有事答えない」と明記 存立危機発言当時(毎日) / 官僚作成の答弁資料では、むしろ「台湾有事という仮定の質問にお答えすることは差し控える」と、具体的なことにふみこまないよう、はっきりと書いてあった / 高市首相の台湾有事答弁、事前の応答要領になし アドリブが明らかに(朝日) / 「スタンドプレーが起こした事故」高市首相 官僚答弁をスルーして“台湾有事”に言及したことが判明しSNS批判続出…元宝塚女優は「今すぐ辞任して」と糾弾(女性自身) ← 高市早苗「自身」の勇み足で招いた「国難」。他人に押し付けないで、ちゃんと自分で責任とりなさい。総理不適格。

 

大杉栄とその時代年表(706) 1907(明治40)年2月18日~22日 「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。」(続平民社時代)

 

幸徳秋水

大杉栄とその時代年表(705) 1907(明治40)年2月12日~17日 社会党第2回大会 決議案に対して田添と幸徳から修正案が提出 前後3時間を費して採決の結果、田添案2票、幸徳案22票、評議員会案28票で原案が可決成立 より続く

1907(明治40)年

2月18日

三菱長崎造船所職工800人、賃上げで同盟罷業。~20日。

2月18日

(漱石)

「二月十八日 (月)、講義休む。」(荒正人、前掲書) 

2月18日

大杉栄「エスペラント語講義 第八回」(『語学』)

2月18日

米下院、新移民法可決。

20日、大統領、裁可。

24日、日米、移民に関する紳士協定を結ぶ。

2月19

「幸徳秋水氏の演説」「日本社会党大会」(「平民新聞」第28号)。

20日、発売頒布禁止・同号差押さえ処分。発行兼編集人石川起訴、禁固4ヶ月。


「日本社会党の大会が終ると早くも二月二十日、前日発行の『平民新聞』に掲載された大会の決議、及び幸徳秋水の演説は新聞紙条令第三十三条に違反するとして発売頒布を禁止された上、裁判所に告発された。超えて同二十二日、社会党大会の決議が「安寧秩序に妨害ありと認むる」として、内務大臣から日本社会党禁止の命令が発せられた。

幸徳の演説記事が発売禁止及び告訴となったのは、革命的手段としてゼネストを鼓吹したものとの認定、また大会の決議が社会党禁止の理由とされたのは、大会が「本党は国法の下に社会主義を主張する」という党の綱領を、一層明瞭に「本党は社会主義の実行を期す」と改訂したからである。」(続平民社時代)

2月19日

片山潜、帰国。

2月19日

警視庁、自動車取締規則を制定。自動車運転免許第一号が発効

2月19日

郡制廃止法案、衆議院に提出。

3月21日、貴族院で否決。

2月20日

「東京朝日」主筆池辺三山、この頃、漱石に入社の可能性を打診。村山・上野良社長に漱石招聘を伝え、五校時代の漱石の教え子坂元雪鳥(東京帝大生、時々「朝日」に寄稿」を通じて漱石に確認。24日、雪鳥が漱石を訪問、入社に前向きな返事を貰う。

東京朝日の主筆池辺三山が夏目漱石の入社を経営陣に薦める書簡(2月20日)。

書簡の前半は、当時熊本第六師団の法官部に勤めていた渋川玄耳が円満に陸軍を退官できそうで、すぐにも朝日に入社する見込みを述べている。渋川玄耳は後に東京朝日社会部長として活躍する。その後、三山はこう記す。

「さて昨今流行第一の文学家小説家夏目漱石君二百円くらいの俸給ならば大学教授を辞職して入社いたし候べき見込有之、此際断然招聘如何と存じ候。その人物及び伎倆は鳥居君承知に候、御聞取奉希候」

(漱石)

「二月二十日 (水)、『東京朝日新聞』主筆の池辺吉太郎(三山)、村山龍平・上野精一両重役に、渋川柳次郎(玄耳)の入社予定を報告し、その日に白仁三郎(坂元雪鳥)に依願して、夏目漱石に面会を申し込む手紙を出す。

二月二十一日 (木)付で、二十四日(日)午前十一時と十二時の間に会いたいと白仁三郎(坂元雪蔦)宛に返事を出す。」(荒正人、前掲書) 

2月20日

フッ素研究でノーベル化学賞受賞、仏モアッサン(54)、没。

2月20日

米大統領、新移民法を裁可。

2月21日

治安警察法改正請願署名223名分、衆議院議員江原素六に手渡す。

2月21日

ルーマニア大農民反乱開始。

2月22日

奥村組創業。

2月22日

日本社会党、内相命令により「安寧秩序に妨害ありと認む」との理由で治安警察法第8条第2項により結社禁止命令

2月22日

菅野須賀子妹秀子(21)、没。

2月22日

(漱石)

「二月二十二日(金)、東京帝国大学の事務所へ、研究科在学の川井田勝助の徴兵延期のため在学証明書を貰いに行ったところ、研究科生は東京にいなければならぬという規則があることを知る。川井田勝助は、広島県江田島海軍兵学校丙号宿舎に住んでいる。川井田勝助宛手紙に、「もし胡魔化せば小生が責任となる。あらはれゝぼ君は忌避となる。よろしくない事と思ふ。」と書き、研究科を退学し、徴兵検査を受けたほうがよいと勧める。

二月二十三日 (土)、鈴木三重吉宛に、次の手紙を出す。「拝啓書物の名前は愈千代紙と御定めの由千代紙は至極思つきと存候表紙の意匠は東洋城擔任の由先日の面令の折色合模様等逐一講釈を承はり候校正も小宮氏引受のよし是又好都合に候発刊の日は君もうれしく候両人も嬉しく候小生もうれしく候さて頂戴の栄螺は大に結構あれも甚だうれしく候 以上」。(鈴木三重吉は、この手紙をそのまま『千代紙』の序(四月一日)に使っている)」(荒正人、前掲書)"

2月22日

露外相、本野公使に日ロ協商案を提示。


つづく

読売新聞、「中露爆撃機、東京方面に」という見出しで「国民の不安煽り」。「飛行ルートの遠い延長線上に関東周辺がある」というだけで、「東京方面」に近づいてなどいない。 / 中国軍機のレーダー照射1週間 日中米、駆け引き続く 中国、米の「レッドライン」模索 日本、米以外の同志国とも連携探る 米は対立から距離置く(北海道新聞);「「(米中が)うまくやろうとしているのに、邪魔しないでくれ」。政府関係者によると、トランプ氏は11月末の日米首脳電話会談で、首相に対し厳しい口調でくぎを刺したという。官邸筋は「首相は会談後、かなり落ち込んでいた」と明かす。」 / 小泉防衛相は自衛隊機へのレーダー照射をめぐり中国側から訓練海空域に関し「事前に通報されていたとは認識していない」と答弁。 中国メディアは中国軍と自衛隊のやりとりとされる音声を公開した。 「『当打撃群は計画通り艦載機の飛行実施』と通報し日本の護衛艦は無線で通報受けたことを確認した」 / 台湾の退役少将の栗正傑氏は、日本の情報収集能力の低さを露呈していると指摘。   

 

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〈全文〉

 台湾の元少将が語る遼寧艦通過の裏側

退役少将の栗正傑氏によると

日本の防衛大臣が「中国からの通知がなかった」と発言したことは


日本の情報収集能力の低さを露呈していると指摘します。


なぜなら

中国の艦隊が日本の海域を通過する際

日本の自衛隊は常に追尾・監視をおこなっており

航空機の発着回数も把握しているはずだからです。


また

中国艦隊の動きをアメリカも把握しており

アメリカの空母が事前に日本の海域から移動していたことから

米中間で暗黙の了解があった可能性を示唆しています。

これは元大臣の発言が事実と異なり

中国の動きを知っていたのに「知らなかった」と嘘をつき

アメリカにも見放されている状況を浮き彫りにしていると批判しています。

さらに

この問題が

台湾関連の発言で窮地に立たされた高市早苗議員が

人々の関心を軍事衝突の懸念にそらそうとする目的で利用されていると分析しています。




2025年12月11日木曜日

「中国関係者が和歌山の水源七つ購入」デマ拡散、アベマ番組から広がったか…県・国は情報を否定(読売);「和歌山県の九つの水源のうち、七つが中国関係者に買われた」とする誤情報がSNSで拡散している。読売新聞の取材に対し、県や国はこうした情報を否定した。インターネットテレビ「ABEMA(アベマ)」の番組から広がったとみられ、番組責任者は「やや話を盛っているというか、ナレーション部分に強い決めつけ表現があると思う」としている。 ■154万回表示

 

浜田宏一独占インタビュー「サナエノミクスで日本は不況になる」《アベノミクス生みの親が「安倍さんの時代とは状況が真逆。このままでは庶民が苦しむ」と…》(週刊文春);「外国から見て今、日本は安売りになっています。湯船の温度が違いすぎるのだから、インフレにならない方がおかしい。そのため日本は物価が上がりすぎている。手を打たなければならない」  「私はかつて、大規模な金融緩和を安倍氏に提言した立場です。しかし、今の日本に必要な政策は真逆」 / 「限度を超えた円安」はさらに進む可能性が高い...「片山シーリング」に効果はあるか?(ニューズウィーク日本版); <「限度を超えてきている」「これ以上の円安はまずい」の声が......。だが、高市首相が掲げている方針では円安が今後さらに進行する可能性が高い>