東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘5年(1008)
9月9日
「中宮様(藤原彰子)はいつもよりもお苦しそうなご様子でいらっしゃるので、御加持などもなさるところであるし、落ち着かない気持ちがして御几帳の中に入った。・・・夜中頃から産気がおつきだと騒ぎ出して大声にわいわい言っている。」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月9日条)
9月11日
・中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む。
彰子の出産や産養(うぶやしない)、一条天皇の土御門第行幸(10月16日)、五十日祝(いかのいわい)、百日祝(ももかのいわい)などを記録したのが、彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』で、土御門第がその舞台。
『源氏物語』は彰子の土御門第滞在中に大部分が書き上げられ、中宮が内裏に戻るまでの間に冊子作りが中宮御前の女房たちによって行われたと『紫式部日記』にみえる。
局(つぼね)においてあった草稿本を道長がみつけて持ち去り、中宮彰子の妹である尚侍(ないしのかみ)妍子へ献上してしまったことも書かれている。
「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おはかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきよう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(『紫式部日記』冒頭)
彰子は出産を控えて、土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もつき従った。
『日記』の冒頭、安産祈願の読経と、寝殿と東対の間から南庭の池へ流れこむ遣水の音が入りまじる、初秋の土御門第の美しい情景を描いている。
■彰子の御産と二つの日記
『紫式部日記』はふたつの部分から構成されている。
前半は、一条天皇中宮藤原彰子が皇子敦成親王を出産する前後の記事であり、
後半は消息文と呼ばれ、中宮彰子付きの女房たちや清少納言などに対する批評が有名である。
『紫式部日記』前半は、寛弘5年8月の土御門第の様子から始まり、8月20日頃からしかるべき上達部・殿上人も宿直するようになったこと、里住みの女房たちも参上してきたことなどが記されている。
9月9日夜中から御産の気色が見え始め、10日寅刻には日常使用する御帳台(柱を立て周囲を帳で囲った寝台)を片づけ、白木の御帳を立てて中宮彰子は移った。他の調度類も白一色になる。
天皇の出産関係について男性官人の各種日記類から記事を収集した『御産部類記』があり、その中に後一条天皇の誕生に関する史料が集められている。
その中でも、もっとも公的で詳細な「不知記(ふちき)」(日記の名称不明の意味)と『紫式部日記』を比較してみると、その特徴が明らかになる。
この「不知記」は恐らく中宮職関係の男性官人が記した公的日記だろう。
皇子誕生までの経過をふたつの日記でみていくと、「不知記」では御産の場にまきちらす散米が中宮庁によって準備され、種々の御祈がなされたことが記されている。
一方、『紫式部日記』の記載は詳細で、10日は中宮彰子の不安そうな様子、物の怪を調伏するために修験者や陰陽師が限りなく集められ、御誦経(おんずきよう)の使が寺々へ派遣されたこと、御帳台の周囲には東側に内裏の女房、西側に物の怪の憑人と修験者、南側に僧正・僧都、北側に女房たち40人が伺候している様子が描かれている。
皇子誕生の描写
続いて、「不知記」では「午刻皇子平安に降誕したまう」と、もう皇子が生まれてしまっている。
しかし、『紫式部日記』では、11日に彰子は北庇に移動したこと、北庇二間のうち彰子のいる間には母倫子、乳母となる宰相の君(中宮女房)、産婆役の内蔵命婦(くらのみようぶ)、仁和寺の僧都、三井寺の内供(ないぐ、天皇の安穏を祈る僧官)が伺候し、もう一つの間に紫式部を含めた中宮の主立った女房たちが侍していたこと、凡帳の外に中宮の姉妹の乳母たちや頼通・教通ら中宮の兄弟、親しい貴族たちなどがいて、凡帳の上からのぞいていたことなどが記されている。
彰子は髪の毛を少し削いで受戒し、出産の後産が済むまで僧俗が声を張り上げて礼拝し、東庇では女房たちは殿上人たちに混じって涙で顔を濡らしながら茫然と顔を見合わせている様子などが記されている。
彰子が生む時には、物の怪がののしる声が恐ろしく手強いので、さらに阿闇梨(密教の伝法灌頂を受けた者)を加えたことなど、御産の現場の様子が生々しく描かれている。
そして、午の時に、男の子が生まれた。
安産である上に男の子であり、嬉しさは並大抵ではないとある。
御産が無事終わって、伺候していた人たちが退出して、中宮御前には年輩の女房たちが侍している静謐な様を描く。
殿(道長)や北の方(倫子)も退いて、僧や医師、陰陽師らに布施や禄を配り、御湯殿の儀式の準備をされているのだろう、とある。
皇子誕生後の行事についても、「不知記」と『紫式部日記』の記述では違いがある。
「不知記」では、皇子が生まれると一条天皇乳母である橘徳子が哺乳の儀を行い、その後、天皇から御剣勅使(みはかしのちよくし、守り刀をもたらす勅使)が遣わされて来る。そして皇子を産湯につかわす御湯殿の儀と読書・鳴弦が行われる。
『紫式部日記』では、皇子誕生後、中宮の母倫子が臍の緒を切ったことがみえること、女房奉仕の御湯殿の儀の記述が詳しく、御剣勅使と読書・鳴弦の記述はごく簡単である。
以上のように、『紫式部日記』の内容は彰子の近くに侍していた女房だからこそ書けたものだといえる。
記録性からみた共通点
『御堂関白記』『小右記』『権記』など貴族の日記にも彰子の御産についての記事はあるが、それらは夫々の貴族の立場から書かれたものである。
「不知記」『紫式部日記』は、中宮職官人と女房(彰子を支える関係者)によって書かれた公式記録という性格をもっている。
この二つの日記は、その記録内容が違うことによって相補って彰子の御産全体を記録している。
『紫式部日記』は、文章力に優れた紫式部が一大慶事である中宮の御産に関する記録をするよう、道長から要請されたと考えられる。
紫式部の位置
女房の身分は、上臈-中臈-下臈に分かれ、内裏に仕える女房は、乳母(めのと)・典侍(ないしのすけ)-掌侍(ないしのしよう、内侍ないしのかみ)-命婦(みようぶ)-女蔵人(によくろうど)に分類できる
『紫式部日記』から彰子の女房を見ていくと・・・
上臈女房として、まず、一条天皇乳母である「橘の三位(さんみ)」と呼ばれる典侍橘徳子が、内裏女房と中宮女房を兼務していた。
職務のある女房としては「宮の宣旨」もいる。
その他、「宰相の君」「大納言の君」「小少将の君」など上臈女房には道長や倫子の縁者が多い。
内侍には、「宮の内侍」「左衛門の内侍」や「弁の内侍」など、
命婦には、「筑前の命婦」や「左京の命婦」「大輔の命婦」などがおり、
内裏と中宮の女房を兼務している者もいた。
その他、中臈の女房として、「五節(ごせち)の弁」「大輔(たいふ、伊勢大輔)」などがいた。
紫式部は公的な役職にはついていなかったと考えられるので、その他の中臈女房の一人ということになる。
中臈女房には紫式部のように受領層の娘や妻室が多い。
摂関家家司で受領の者の妻には、摂関家出身の中宮やその子どもである天皇の乳母になる例もあった
女房には局を与えられて常に伺候する者と、里住みをして臨時に出仕する者とがいた。
紫式部には、土御門第では寝殿と東の対(たい)を結ぶ北の渡殿(わたどの)の東端に局があり、一条院内では彰子御所である東北の対の東長片庇(ひがしながかたびさし、細殿)の三つ目の間に局があった。
女房の仕事は、御膳や整髪など中宮の衣食住についての奉仕や、中宮の娯楽や諮問に答えるなどの精神的な奉仕、公卿や男性官人の取り次ぎなどであった。
紫式部も女房としての仕事をしており、中宮彰子に漢籍を教示したり、藤原実資の取り次ぎをしたりしている。中宮彰子の御産の記録を書くことも仕事の一つであった。
「11日の夜明け前に、北側のお襖を二間分取り払って、中宮様(藤原彰子)は北廂の間にお移りになる。御簾なども掛けることができないので、御几帳を幾重にも重ね立てて、中宮様はその中においでになる。」
「勝算僧正、定澄僧都、法務僧都などがおそばにお付きして、御加持申し上げる。」
「院源僧都が、昨日殿がお書きになられたご安産の願文に、さらにたいそう尊い言葉なども書き加えて、朗々と読み上げ続けたその重々しい文言が、身にしみて尊く、また心強く思われることこの上ない。」
「加えて殿(藤原道長)がご一緒になって一心に仏の加護をお祈り申し上げているご様子はまことに頼もしく、いくら何でもまさかご安産なさらないことはあるまいとは思うものの、やはりひどく悲しいのでみな涙を抑えきれない。」
「「縁起でもない」「こんな泣くものじゃない」などと、お互いにたしなめあいながらも、なお涙をとどめることができないのであった。」
「頭の上には邪気払いの散米(うちまき)がまるで雪のように降りかかっているし、しぼんでしまった衣姿がどんなに見苦しかったことだろうと、あとになって考えるととてもおかしい。」
「いよいよ出産なさるというときに、物の怪(け)が悔しがってわめきたてる声などの何と恐ろしいことよ。・・・阿闍梨の験力が弱いのではなく、物の怪が恐ろしく強力なのだ。」
「「中宮様(藤原彰子)に取り憑いた物の怪が早く移るように」と召し集めた寄坐たちも、物の怪がうまく乗り移ってくれないので、大騒ぎをしたことであった。」
「午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に、中宮(藤原彰子)が平安(たいら)かに男子(敦成親王)をお産みになった。伺候していた僧や陰陽師たちに禄を下賜したことは、各々、差が有った。」
「午の剋に、まるで空が晴れて朝日が差し出したような気持ちがする。ご安産でいらっしゃるうれしさが比類もないのに、そのうえ皇子様(敦成親王)でさえいらっしゃった喜びといったら、どうして並み一通のものであろうか。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月11日条)
9月15日「お祝いの歌などが詠まれる。「女房、杯を」などといわれたときには、どんな歌を詠んだらよいのかなどと、口々に歌を心の中で試作してみる。
めずらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代もめぐらめ」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月15日条)
10月16日
一条天皇の土御門邸行幸があり、皇子は敦成(あつひら)親王と名づけられ、彰子の母倫子は、その外祖母として従一位を授けられた。
「早朝、土御門第の御室礼が終わった。内裏に参った。巳二剋(午前9時~午前11時ごろ)に、(一条)天皇は東門から御出された。午一剋(午前11時~午後1時ごろ)に土御門第に幸着(こうちゃく)された。西中門から御入された。」
「私(藤原道長)は(一条)天皇の御前に参った。天皇は若宮(敦成親王)を見奉りなされた。私が若宮を抱き奉った。上(一条天皇)もまた、抱き奉りなされた。」
「(一条)天皇は(源)道方を召されて、若宮を親王とするという宣旨を私(藤原道長)に仰せられた。私はすぐに道方に命じて、宣旨の作成を命じた、敦成親王家の勅別当は、右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)となった。」
(『御堂関白記』寛弘5年(1008)10月16日条)
11月1日
生後五十日を祝う五十日(いか)の儀が、土御門邸で、大臣以下公卿・殿上人雲集して盛大に行なわれる。若宮に祝の餅を道長が進めたのが午後8時、それから大宴会となって、人々はすっかり酩酊した。
右大臣藤原顕光などは、六十五歳の老人のくせに几帳のほころびを引き破ってしまうほどの荒れかただし、女房と袖引き合うのもあり、歌をうたい、盃はめぐり、乱酔の宴となりはてたなかに、右大将実資がシャンとして、落ち着いて女房の衣裳の袖ぐちを手に取って、その色あいを楽しんでいるのがひときわ立派に見える。
ふと、中納言公任が、「恐れ入りますが、この辺に若紫はおいでになりますか」と言う。
若紫は源氏物語の女主人公、紫の上のことで、つまり紫式部を探している。
式部は、光源氏そのままのような人などいないのに、その相手の紫の上なぞいるものですかと思いながら放っておく。
あまりの乱酔ぶりに恐れをなして、同僚の宰相の君としめし合わせて凡帳の蔭に隠れたところ、二人とも道長につかまってしまった。
「和歌一首ずつ詠みなさい。そうしたら許してやる」とのことで、しかたないから一首を口ずさむ。
いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)の あまりひさしき君が御代をば
(若宮の八千年にもあまるご寿命はとても数えられるものではありません。最初に五十日(いか)ということばがちゃんと詠みこんである)
すると道長は、「うん、よくできた」と二へんばかり式部の歌を口ずさむと、すらすらとつぎの歌を詠みあげた。
あしたづのよはひしあれば君が代の 千歳(ちとせ)のかずもかぞへとりてむ
(わたくしに千年という鶴の寿命があったらば、若宮の千年のおん年もかぞえられるだろう)
道長もだいぶ酔ったらしい。声を上げて、
「中宮、お聞きになりましたか、われながら上出来」
と自慢して、さらに、
「中宮の父として、わたくしも不足な男ではなし、中宮もわたくしのよい娘だ。母の倫子も幸せを喜んでご機嫌上々らしい。いい亭主を持ったものだと思っているようですよ」
という。
中宮のご退座をお送りするとて、いそいで立ってゆきながら、「中宮もきょうのわたくしを失礼なとお思いかも知れないが、親のおかげで子供も立派になれるんだぞ」とつぶやいているのを聞いて、人々がほがらかに笑う・・・
「若宮(敦成親王)の御五十日(いか)の儀があった。若宮の御前の食膳は、新宰相(藤原実成)と四位の殿上人が取り次いで、女房(弁内侍・中務命婦・小中将)に授けた。大納言(藤原道綱)が陪膳を勤めた。」
「戌二剋(午後7時~午後9時ごろ)に、私(藤原道長)は若宮(敦成親王)に餅を供した。その後、また座に就いて、数献の宴飲があった。後に籠物(こもの)五十捧(ささげ)と折櫃(おりびつ)五十合を若宮の御前に奉った。」
(『御堂関白記』寛弘5年(1008)11月1日条)
「上達部の席はいつものように東の対の西側だ。・・・渡殿の上に参って、今度も酔い乱れて騒いでいらっしゃる。」
「御簾(みす)があくと、大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍というように座っていらっしゃる。右大臣(藤原顕光)が寄っていらして、御几帳の垂絹(たれぎぬ)の開いたところを引きちぎって酔い乱れなさる。」
「下座の東の柱下に、右大将(藤原実資)は寄りかかって、女房たちの衣装の褄(つま)や袖口の色や枚数を数えていらっしゃるご様子は、ほかの人とは格段に違っている。」
「左衛門の督(藤原公任)が、「失礼ですが、このあたりに若紫はおいででしょうか」と、几帳の間からお覗きになる。」
「源氏の君に似ていそうなほどのお方もお見えにならないのに、ましてあの紫の上などがどうしてここにいらっしゃるものですか、と思って、私(紫式部)は聞き流していた。」
「権中納言(藤原隆家)は隅の間の柱の下に近寄って、兵部のおもとの袖を無理に引っ張っているし、殿(藤原道長)は殿で、聞くに堪えない冗談を口にされたりもしている。」
「(宰相の君と)二人で御帳台の後ろに座って隠れていると、殿(藤原道長)は隔てている几帳をお取り払いになって、二人いっしょに袖を捉えてお座らせになった。「お祝いの和歌を一首ずつお詠み申せ。そうしたら許そう」と殿は仰せになる。」
「うるさくもあり、おそろしくもあるので、こう申し上げる。
いかにいかが かぞへやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば」
「「ほお、うまく詠んだものだな」と、殿(藤原道長)は二度ばかりお声に出してうたわれて、即座に仰せられることには、
あしたづの よはひしあらば 君が代の
千歳の数も 数へ取りてむ」
「あれほどひどく酔っておられる御心地にも、詠まれたお歌はいつもお心にかけておられる若宮(敦成親王)のことの趣なので、ほんとうにしみじみとそのお心もごもっともに思われる。」
「「中宮様(藤原彰子)、お聞きですか。上手に詠みましたよ」と、殿(藤原道長)はご自分でおほめになって、「中宮様の御父として、わたしは不相応でないし、中宮様もわたしの娘として恥ずかしくなくいらっしゃる。・・・」
「・・・母上(源倫子)もまた幸福だと思って笑っておいでのようだ。きっとよい夫を持ったことだと思っているのだろうな」と、おふざけ申し上げなさるのも、格別のご酩酊の勢いにまぎれてのことと見受けられる。」
「殿(藤原道長)の戯れ言を聞いておられた北の方(源倫子)は、聞きづらいと思われたのか、お部屋へ引き上げるご様子なので、「お送りしないといって、母上がお恨みなさるといけないな」と言って、殿は御帳台の中をお通り抜けになる。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)11月1日条)
11月17日
彰子は土御門邸から内裏一条院に入る。
その頃、彰子のもとでは女房たちが手分けをして、
『源氏物語』の豪華な清書本作りに精出しているらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておいたら、道長が探しして見つけだし、次女でやがて東宮居貞親王(三条天皇)の妃となった妍子に贈ってしまった。
このほか、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて聞き、式部の才を賞したという話もあり、宮廷では評判の物語だったらしい。
道長がこの『源氏物語』製作のスポンサーだったと見る向きもある。
「(御冊子づくり)中宮様(藤原彰子)が内裏へ還御なさる時期が近づいたけれど、女房たちは行事がいろいろと続いてくつろぐ暇もないのに、中宮様は物語の御冊子をおつくりになられるという。」
「私は夜が明けると真っ先に御前に上がって差し向かいで伺候し、色とりどりの紙を選び整え、物語のもとの本を添えては、あちらこちらに書写を依頼する手紙を書いて配る。また一方では、書写したものを綴じ集めて整理するのを仕事にして日を送る。」
「殿(藤原道長)は、「どのような子持ちが、この冷たい時節にこんなことをなさるのか」と中宮様(藤原彰子)に申し上げなさるものの、上質の薄様紙(うすようがみ)、筆、墨などを何度か持っておいでになる。」
(『紫式部日記』)
「中宮様(藤原彰子)が内裏にお帰りになるのは11月17日である。戌の剋(いぬのこく/午後7時~午後9時ごろ)と聞いていたけれど、だんだんと伸びて夜も更(ふ)けてしまった。」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)11月17日条)
紫式部
父は藤原為時、母は藤原為信娘。本名、生没年は不明。生年は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説がある。
姉と弟惟規(のぶのり、一説に兄)がいた。
父為時は冬嗣の子良門(よしかど)の子孫で、祖父為輔は堤中納言と称された著名な歌人。
為時は文章生出身の学者で、花山天皇と関係が深く、永観2年(984)、花山天皇即位後、式部丞で蔵人になったが、花山天皇が退位すると、官位に恵まれなくなり、長徳2年(996)年ようやく越前守に任じられた。その後は越後守となる。
母の父為信は冬嗣の子長良の子孫で、曾祖父文範は文章生出身で権中納言にいたっているが、為信も受領であった。
つまり、紫式部は父母とも文化人ではあるが地方国司たる受領層出身の中級貴族であった。
紫式部の若い頃のことは殆ど不明だが、父為時が弟惟規に漢籍を教えるのをそばで聞いていた紫式部の方がよく覚えてしまうので、父が男の子でないのを残念がったという話が『紫式部日記』にみえる。
父為時が越前守に任命されると、紫式部も共に越前国へ下っている。
『紫式部集』には越前へ下る途中や越前国で作った和歌がみえる。
その後、長徳3年冬から4年春に、紫式部は帰京した。
以前から交際のあった藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためであった考えられる。
長徳4年(998)年晩秋から冬にかけて2人は結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
長保元年(999)年には長女賢子が生まれた。
ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
その後、つれづれなる生活のまにまに紫式部は『源氏物語』執筆を始めたと考えられる。
そしてその評判によって、寛弘2年(1005)年または3年、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が出仕する頃には、『源氏物語』は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が『源氏物語』の作者は「日本紀」(『日本書紀』)を読んでいるにちがいないと評したことが『紫式部日記』にみえている。
その漢学の学識がかわれて、中宮彰子から依頼されて自居易の楽府を講じたことも同じく記されている。
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12月29日
(実家から)宮中に参内する(『紫式部日記』)
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12月31日
・『紫式部日記』に、この年の大晦日の夜、一条院内裏に盗賊が入って、女官2人が衣裳をはぎとられた記事がある。
都の治安は乱れ、内裏に盗賊や暴漢が入って来た例はこの他にもある。
「大みそかの夜、・・・中宮様(藤原彰子)がいらっしゃるお部屋の方角からものすごい悲鳴が上がる。・・・火事かと思ったが、そうではない。」
「「内匠の君、さあさあ」と私(紫式部)は彼女を先に立てて、「何はともあれ、中宮様(藤原彰子)がお部屋にいらっしゃる。まずそちらに参上してご様子を確認いたしましょう」と、弁の内侍を乱暴にたたき起こして・・・」
「三人してぶるぶると震えながら、足も地につかない有様で参上してみると、裸の女性が二人うずくまっている。靫負(ゆげい)と小兵部であった。さては引きはぎであったのかと、事情がわかるとますます気味が悪い。」
「中宮様(藤原彰子)は、納殿(おさめどの)にある衣装を取り出させて、被害にあった二人の女房に賜った。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)12月30日条))
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