2024年9月30日月曜日

大杉栄とその時代年表(269) 1899(明治32)年8月15日~31日 森永西洋菓子製造所創業 ドレフュス釈放 別子大水害(土石流により死者513名以上) 漱石、山川信次郎と阿蘇旅行(『二百十日』の素材を得る) 「鉱毒被害民の建議」(「報知新聞」)  

 

マシマロー(森永西洋菓子製造所 明治38年)


大杉栄とその時代年表(268) 1899(明治32)年7月2日~8月12日 子規が回復し久しぶりに子規庵で歌会(「根岸短歌会」の発端) 虚子、転地療養先の修善寺から帰京 ニューヨーク市1899年の新聞少年ストライキ ヘミングウェイ・壺井栄・ヒッチコック生まれる 軍事探偵石光真清陸軍大尉、出発 より続く

1899(明治32)年

8月15日

森永太一郎、赤坂でキャンディー・ケーキの製造を開始。森永西洋菓子製造所創業、森永製菓の始め。

8月17日

神拳、教会襲撃、神拳6名逮捕

8月17日

「大韓帝国国制」(憲法)発布。絶対主義君主支配の国家統治体制。統帥権・立法権・恩赦権・官制制定権・行政命令権・栄典授与権・外交権を皇帝が大権として専有。

清国宗属関係を破棄した後、国際状況に対応する強力な国内体制(専制権力)確立するため)

「光武改革」実施。量田事業、鉱山・土地占有化、電気・電話・電信事業、官立各種学校、模範工場。

8月20日

仏、ドレフュス再審、ブルターニュのレーヌ

8月21日

ゴーギャン(51)、タヒチ、個人新聞『ル・スリール(微笑)』第1号発刊。 

8月23日

子規、虚子宅を訪問。


「明治三十二年八月二十三日、子規の気分は高揚していた。・・・・・

午後になって子規は人力車を呼んで猿楽町の虚子宅を訪ねた。三月以来、ほぼ半年ぶりの外出であった。近所に住む五百木飄亭も呼ばれ、虚子は西洋料理を供した。子規の食欲は衰えない。デザートのアイスクリーム、食後酒のベルモット、めずらしいもの好きの子規は、みなためらいなく平らげた。

庭には玩具の噴水があった。至るところ、幼い真砂子の遊び道具がちらばる虚子の家には貧乏臭さが感じられなかった。むしろ闊達な印象であった。夕方、突然降り出した雨を、一同そろって座敷から眺めた。雨がやんで子規は車に乗った。そして猿楽町から駿河台、さらに湯島、池之端、上野を走って帰宅した。朧月夜に、東京の街並が黒く沈んでいた。

熱は出ない。短時間なら座していられる。この夏は比較的調子がよい。杖にすがればいくらか歩けそうな気がする。八月二十八日、南隣の陸羯南宅を目ざして歩きはじめてみたが、やはり無理だった。途中でどうにもならなくなり、背負われて帰った。」(関川夏央、前掲書)


8月24日

宮中に帝室制度調査局を設置、伊藤博文を総裁に任命。

8月25日

仏、ドレフュス釈放。大統領エミール・ルーペの特赦。名誉回復は1906年

8月27日

東武鉄道の北千住-久喜間開業

8月28日

台風により別子大水害が発生。土石流により513名以上が死亡

別子銅山は、江戸時代から続く国内有数の銅山で、鉱山開発と人口集中、煙害の発生等により、付近の山々は森林が伐採されたり枯死するなどしてはげ山化となり、豪雨による災害の危険性が高まっていた。

鉱山周辺の環境劣化に対して、支配人伊庭貞剛は、森林復元計画を立案。1894年(明治27年)から植林活動を始め、水害の前年である1898年(明治31年)には工業所に山林課(現在の住友林業の源流の一つ)を設置した。

この日。台風が別子銅山を襲い、1時間も満たない間に300mmを超える雨量の集中豪雨が発生した。このため、はげ山から流出する土砂が土石流化して谷間を流下。鉱山施設とともに谷間の社宅を押し流し、山内で513名、新居浜市側で54名とも数えられる死者を出す大災害となった。

山元の精錬施設や居住施設の一部は放棄され、施設の移転が進められていた四阪島への集約が加速した。

一方、はげ山の回復も、銅の復旧と同時並行的に進められた。1901年(明治34年)3月の帝国議会において、当時、足尾銅山の鉱毒問題を追及していた田中正造は、別子銅山が推進する植樹活動を賞賛する演説を行っている。

1904年(明治37年)、伊庭貞剛の後任の鈴木馬左也は、森林計画を立案して鉱山周辺部の造林事業に着手。植物の生育に適さない鉱山周辺の痩せ地にはカラマツやニセアカシア、クロマツを、その周辺部にはスギやヒノキなどの造林木が植樹された。

現在、植林された木々は山々を覆い、はげ山の面影はない。

8月29日

8月29日~9月2日 漱石、一高に転任しようとしている山川信次郎と阿蘇へ旅行。

『二百十日』の素材を得る。


「熊本から内牧まで馬車を利用し、旧登山道路を行くうちに、二人は大薄原で道に迷った。おりしも二百十日で、荒れた阿蘇山は黒い火山灰をまきちらし、二人は雨の中で難渋した。山はにごった黒雲の上にそびえ、「黒い夜を遇い国から持つてくる」ような風が、たえ聞なく吹きおろしていた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)


「漱石は同僚とともに新年は宇佐八幡や耶馬渓、日田地方に遊び、夏には山川と阿蘇山に登り別れを惜しんだ。それに因む多数の句を子規に送ったが、その中に「ニッケルの時計とまりぬ寒き夜半」という一句がある。旅先か自宅かは不明だが、夜中、ふと目覚めて枕元の時計を見ると、愛用のニッケル時計が停まっていた。「寒さ」は肌に感じた季節の寒さだけではあるまい。おそらく彼にとっては時間が停まり、このまま「目的」も果たせずに生きていくのかという不安が、心を襲ったのである。(十川信介『夏目漱石』(岩波新書))

「八月二十九日(火)、山川信次郎と共に阿蘇に赴く。戸下温泉(烏帽子岳の西南。阿蘇への入口)に泊る。(推定) 「重ぬべき單衣も持たず肌寒し」「山里や今宵秋立つ水の音」

★八月三十日(水)、戸下温泉を出発し、馬車で立野を経て、内牧温泉(現・阿蘇温泉)養神亭(現・山王閥)に泊る。

★八月三十一日(木)、阿蘇神社に詣でる。「朝寒み白木の宮に詣でけり」と詠む。また、明行事に行き、鍛冶屋を眺める。中岳(一千三百二十三メートル)の頂上近くまで登ったと推定される。養神亭に泊る。

★九月一日(金)、二百十日。内牧温泉を出発する。仙酔峡道路を降りるか、中岳の麓から西に向う狭い道二つのどちらかを通り、立野に着く。立野の馬車宿に泊る。

★九月二日(土)、馬車宿を出発し、馬車で熊本に帰る。(『二百十日』の材料になる)直矩宛手紙に、「最初此事件相生じ候節より中間に御立ち被下候は御覚悟の事と存候そば大兄より始めて口を開いて此事件を喚び起され候故に候」と塞く。龍田庄吉に嫁いだ異母姉ふさ、直矩を通じて経済的援助を仰いで来たのに、高田庄吉からは何も云って来ないので腹を立てる。」(荒正人、前掲書)

8月31日

「鉱毒被害民の建議」(「報知新聞」)

「河身大破壊の復旧は、人命を未来に保護し又田宅を保護するの要旨を含有するものなれば、三十年内閣計画の通り大至急施設実行あらんことを重ねて奉請願候以上」

(既に策定された渡良瀬川改修事業の早急な着工を求めている)


つづく


自宅近くの公園の山萩(ヤマハギ)が見頃に 2024-09-29

 9月30日(月)曇り

自宅近くの公園の山萩(ヤマハギ)が見頃になってきた(撮影は昨日9月29日)






寛弘6(1009)1月3日 『紫式部日記』消息文にみる平安時代の美人の標準、清少納言への厳しい批判

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘6(1009)
1月3日
・『紫式部日記』消息文にみる美人の標準
『紫式部日記』寛弘6年正月3日条で、紫式部が、同僚の女房たちの紹介、後宮生活に対する感想、斎院(さいいん)選子(せんし)内親王の女房や、和泉式部・赤染衛門などについて記し、その末に清少納言についての痛烈な批評を下している。
『紫式部日記』のこの随想的な部分は、消息文と称せられる。

初めに、同僚の女房たちの、主に容姿について書いてある。
紫式部自身も断っているように、美点のみを挙げて欠点には触れていないが、12人ほどを批評してあるのを見ると、凡そ、美人の標準というものがわかる。

特に目立つのは髪の長さ。
髪が長いことが当時の美人の絶対条件であった。
ここでも髪の長さに言及する場合が最も多く、身長を1尺も越すのが何人もいる。

その他の条件では、ふっくらとして少し肥り気味ぐらいの方が好まれたようである。
色は白いに越したことはないが、それも艶があって光るようなのがよいらしい。
清らかな感じが大切にされるが、美人の標準は健康的である。

目尻はちょっと下がり目くらいが良いようで、つり上がったのはいただけないらしい。
『枕草子』に、藤原行成の言葉として、「女はたとえ目がつりあがり、眉が太く、鼻がひろがっていようとも、口もとが愛らしく、あごの下から頸筋がふっくりして、声もよい人ならば好もしい。とはいっても、あまり顔の造作が悪いのも困るが」
というのがある。
行成は正直で通った男だから、彼の本音であろう。おかげで彼は顎のとがった女に目の敵にされたとある。

次に名ある女房たちの心ばえ、才能などに筆が及ぶ。
第一に出るのが斎院の中将。
斎院は村上天皇皇女の選子内親王で、風情ある女房を集めて一つのサロンを形成していた。
紫式部はこの斎院のサロンと彰子のそれとを比較して、対抗意識を燃やしているようである。
彼女の観察では、斎院の方が多少華やかで、彰子の方はうわついたことを嫌い、少し遠慮がちな気分であったらしい。

「あだになりぬる人」
次に、和泉式部・赤染衛門という名だたる連中が出る。
共にベタ誉めではないがその作歌を賞讃している。

そしてその次が清少納言。
この批評は実に手厳しい。

「清少納言こそ、高慢な顔をしてまったくたいへんな女です。あれほど利口ぶって、いろいろ漢学の才をひけらかしていますけれども、よく見れば、まだまだとても不十分なことも多く見受けられます。こういうふうに、なにかにつけて人と違ったところを現わそうとばかりしている人は、そのうちにかならずポロを出し、行く末はろくでもないことになるもので、むやみに風流ぶる人は、別になんということもないところにも、むりやり情趣を持ちこみ、いちいち風情を見つけようとしてジタバタしているうちに、自然と感心できない浮わついた風に染まってしまうのでしょう。そのあだになりぬる人(軽薄才子になってしまった人)の終末が、どうしてよいはずがありましょうか」

これは、紫式部の随一の激語。
彼女はだいたいが慎み深く、控え目で、生来の学才も聡明さも、成長してからはなるべく人前には出さず、彰子に白氏文集の一部を進講した時もこっそりと人に知られぬようにしたという。
才智を振りまわした清少納言に対して、真の学力からすれば式部の見るに堪えないところであったか。
それにしても、
「そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」
とは、よくも言ったものである。

『古事談』にみる清少納言の末路
清少納言が没落してから、殿上人が多数車に乗って彼女の家の前を通った時、家がすっかり壊れているのを見て、
「やれやれ、清少納言もひどいことになったものだなあ」
と言った。
ところが、ちょうど縁に立っていた彼女はこの声を聞いて、簾をかき上げると鬼のような尼姿をつき出し、
「駿馬の骨を買わないの」
と言いすてたという。

駿馬の骨の故事。
燕の国王が、なんとか賢者を集めたいと、郭隗に相談すると、郭隗は、
「昔、名馬を求めに使いを出した王がありました。ところがその使いが、大金を出して馬の骨を買って来たので、王が怒ると、使いは、死んだ馬の骨でさえ大金を出して買うとなれば、いちいち探しまわらずとも、黙っていても名馬が集まって来ます、と答えました。はたしてしばらくのあいだに天下の名馬が三頭も手に入ったということです。王さまも賢者を集めたいとおっしゃるならば、ひとつまずこのわたくし、郭隗をうんと厚遇してください。そうすれば、賢人はどんな遠くからでも集まってまいりましょう」
と答えた。
「まず隗よりはじめよ」である。
燕王は、そこで郭隗のために壮麗な殿を築き、師として厚遇したところ、天下の賢者が集まって燕の国は栄えたという話。

この話で見ると、清少納言はやはりかなり落ちぶれて、尼になったらしいが、持前の勝気はそれでも衰えなかったようである。
彼女は決して美人ではなかったらしく、尼になってからも男の僧と間違えられた話も伝わっている。鬼のような尼姿とあるのも、いかにも本当らしい、うらさびしい挿話である。

清少納言は、長保3年(1001)頃、宮廷を離れた。
紫式部はその数年後に宮仕えに上がっている。
だからこの二大女流作家は、宮廷で顔を合わせたことはなかった。

しかし、清少納言の逸話は殿上人や公卿の間にも、女房たちに語りつがれていたであろうし、清少納言の枕草子も彼女が宮廷を去ってから手を加えて完成したのだろうといわれているから、式部が清少納言の書いたものを見る機会も多かったろうと思われる。
紫式部がこれほどはっきりと清少納言の末路を記しているのを見ると、寛弘6、7年頃には、清少納言の零落は決定的なものであったのだろう。
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寛弘5年(1008)9月11日 中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む 『紫式部日記』のこと 中宮彰子の御産の様子 五十日の儀の後の宴会の様子(大臣以下公卿・殿上人の酔態) 『源氏物語』の豪華な清書本作り(御冊子づくり) 大晦日、一条院内裏へ強盗侵入      

東京 北の丸公園 2012-11-02
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寛弘5年(1008)
9月9日
「中宮様(藤原彰子)はいつもよりもお苦しそうなご様子でいらっしゃるので、御加持などもなさるところであるし、落ち着かない気持ちがして御几帳の中に入った。・・・夜中頃から産気がおつきだと騒ぎ出して大声にわいわい言っている。」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月9日条)

9月11日
・中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を生む。

彰子の出産や産養(うぶやしない)、一条天皇の土御門第行幸(10月16日)、五十日祝(いかのいわい)、百日祝(ももかのいわい)などを記録したのが、彰子に仕えた女房紫式部の『紫式部日記』で、土御門第がその舞台。

『源氏物語』は彰子の土御門第滞在中に大部分が書き上げられ、中宮が内裏に戻るまでの間に冊子作りが中宮御前の女房たちによって行われたと『紫式部日記』にみえる。
局(つぼね)においてあった草稿本を道長がみつけて持ち去り、中宮彰子の妹である尚侍(ないしのかみ)妍子へ献上してしまったことも書かれている。

「秋のけはひ入り立つままに、土御門殿のありさま、いはむ方なくをかし。池のわたりの木ずゑども、遣水(やりみず)のほとりの叢(くさむら)、おのがじし色づきわたりつつ、おはかたの空も艶(えん)なるにもてはやされて、不断の御読経(みどきよう)の声々、あはれまさりけり。やうやう涼しき風のけはひに、例の絶えせぬ水のおとなひ、夜もすがら聞きまがはさる。」(『紫式部日記』冒頭)

彰子は出産を控えて、土御門第に退出し、女房として仕える紫式部もつき従った。
『日記』の冒頭、安産祈願の読経と、寝殿と東対の間から南庭の池へ流れこむ遣水の音が入りまじる、初秋の土御門第の美しい情景を描いている。

■彰子の御産と二つの日記
『紫式部日記』はふたつの部分から構成されている。
前半は、一条天皇中宮藤原彰子が皇子敦成親王を出産する前後の記事であり、
後半は消息文と呼ばれ、中宮彰子付きの女房たちや清少納言などに対する批評が有名である。

『紫式部日記』前半は、寛弘5年8月の土御門第の様子から始まり、8月20日頃からしかるべき上達部・殿上人も宿直するようになったこと、里住みの女房たちも参上してきたことなどが記されている。

9月9日夜中から御産の気色が見え始め、10日寅刻には日常使用する御帳台(柱を立て周囲を帳で囲った寝台)を片づけ、白木の御帳を立てて中宮彰子は移った。他の調度類も白一色になる。

天皇の出産関係について男性官人の各種日記類から記事を収集した『御産部類記』があり、その中に後一条天皇の誕生に関する史料が集められている。
その中でも、もっとも公的で詳細な「不知記(ふちき)」(日記の名称不明の意味)と『紫式部日記』を比較してみると、その特徴が明らかになる。

この「不知記」は恐らく中宮職関係の男性官人が記した公的日記だろう。
皇子誕生までの経過をふたつの日記でみていくと、「不知記」では御産の場にまきちらす散米が中宮庁によって準備され、種々の御祈がなされたことが記されている。

一方、『紫式部日記』の記載は詳細で、10日は中宮彰子の不安そうな様子、物の怪を調伏するために修験者や陰陽師が限りなく集められ、御誦経(おんずきよう)の使が寺々へ派遣されたこと、御帳台の周囲には東側に内裏の女房、西側に物の怪の憑人と修験者、南側に僧正・僧都、北側に女房たち40人が伺候している様子が描かれている。

皇子誕生の描写 
続いて、「不知記」では「午刻皇子平安に降誕したまう」と、もう皇子が生まれてしまっている。
しかし、『紫式部日記』では、11日に彰子は北庇に移動したこと、北庇二間のうち彰子のいる間には母倫子、乳母となる宰相の君(中宮女房)、産婆役の内蔵命婦(くらのみようぶ)、仁和寺の僧都、三井寺の内供(ないぐ、天皇の安穏を祈る僧官)が伺候し、もう一つの間に紫式部を含めた中宮の主立った女房たちが侍していたこと、凡帳の外に中宮の姉妹の乳母たちや頼通・教通ら中宮の兄弟、親しい貴族たちなどがいて、凡帳の上からのぞいていたことなどが記されている。

彰子は髪の毛を少し削いで受戒し、出産の後産が済むまで僧俗が声を張り上げて礼拝し、東庇では女房たちは殿上人たちに混じって涙で顔を濡らしながら茫然と顔を見合わせている様子などが記されている。
彰子が生む時には、物の怪がののしる声が恐ろしく手強いので、さらに阿闇梨(密教の伝法灌頂を受けた者)を加えたことなど、御産の現場の様子が生々しく描かれている。

そして、午の時に、男の子が生まれた。
安産である上に男の子であり、嬉しさは並大抵ではないとある。

御産が無事終わって、伺候していた人たちが退出して、中宮御前には年輩の女房たちが侍している静謐な様を描く。
殿(道長)や北の方(倫子)も退いて、僧や医師、陰陽師らに布施や禄を配り、御湯殿の儀式の準備をされているのだろう、とある。

皇子誕生後の行事についても、「不知記」と『紫式部日記』の記述では違いがある。
「不知記」では、皇子が生まれると一条天皇乳母である橘徳子が哺乳の儀を行い、その後、天皇から御剣勅使(みはかしのちよくし、守り刀をもたらす勅使)が遣わされて来る。そして皇子を産湯につかわす御湯殿の儀と読書・鳴弦が行われる。
『紫式部日記』では、皇子誕生後、中宮の母倫子が臍の緒を切ったことがみえること、女房奉仕の御湯殿の儀の記述が詳しく、御剣勅使と読書・鳴弦の記述はごく簡単である。
以上のように、『紫式部日記』の内容は彰子の近くに侍していた女房だからこそ書けたものだといえる。

記録性からみた共通点
『御堂関白記』『小右記』『権記』など貴族の日記にも彰子の御産についての記事はあるが、それらは夫々の貴族の立場から書かれたものである。
「不知記」『紫式部日記』は、中宮職官人と女房(彰子を支える関係者)によって書かれた公式記録という性格をもっている。
この二つの日記は、その記録内容が違うことによって相補って彰子の御産全体を記録している。
『紫式部日記』は、文章力に優れた紫式部が一大慶事である中宮の御産に関する記録をするよう、道長から要請されたと考えられる。

紫式部の位置
女房の身分は、上臈-中臈-下臈に分かれ、内裏に仕える女房は、乳母(めのと)・典侍(ないしのすけ)-掌侍(ないしのしよう、内侍ないしのかみ)-命婦(みようぶ)-女蔵人(によくろうど)に分類できる

『紫式部日記』から彰子の女房を見ていくと・・・
上臈女房として、まず、一条天皇乳母である「橘の三位(さんみ)」と呼ばれる典侍橘徳子が、内裏女房と中宮女房を兼務していた。
職務のある女房としては「宮の宣旨」もいる。
その他、「宰相の君」「大納言の君」「小少将の君」など上臈女房には道長や倫子の縁者が多い。

内侍には、「宮の内侍」「左衛門の内侍」や「弁の内侍」など、
命婦には、「筑前の命婦」や「左京の命婦」「大輔の命婦」などがおり、
内裏と中宮の女房を兼務している者もいた。

その他、中臈の女房として、「五節(ごせち)の弁」「大輔(たいふ、伊勢大輔)」などがいた。

紫式部は公的な役職にはついていなかったと考えられるので、その他の中臈女房の一人ということになる。
中臈女房には紫式部のように受領層の娘や妻室が多い。
摂関家家司で受領の者の妻には、摂関家出身の中宮やその子どもである天皇の乳母になる例もあった

女房には局を与えられて常に伺候する者と、里住みをして臨時に出仕する者とがいた。
紫式部には、土御門第では寝殿と東の対(たい)を結ぶ北の渡殿(わたどの)の東端に局があり、一条院内では彰子御所である東北の対の東長片庇(ひがしながかたびさし、細殿)の三つ目の間に局があった。

女房の仕事は、御膳や整髪など中宮の衣食住についての奉仕や、中宮の娯楽や諮問に答えるなどの精神的な奉仕、公卿や男性官人の取り次ぎなどであった。

紫式部も女房としての仕事をしており、中宮彰子に漢籍を教示したり、藤原実資の取り次ぎをしたりしている。中宮彰子の御産の記録を書くことも仕事の一つであった。

「11日の夜明け前に、北側のお襖を二間分取り払って、中宮様(藤原彰子)は北廂の間にお移りになる。御簾なども掛けることができないので、御几帳を幾重にも重ね立てて、中宮様はその中においでになる。」
「勝算僧正、定澄僧都、法務僧都などがおそばにお付きして、御加持申し上げる。」
「院源僧都が、昨日殿がお書きになられたご安産の願文に、さらにたいそう尊い言葉なども書き加えて、朗々と読み上げ続けたその重々しい文言が、身にしみて尊く、また心強く思われることこの上ない。」
「加えて殿(藤原道長)がご一緒になって一心に仏の加護をお祈り申し上げているご様子はまことに頼もしく、いくら何でもまさかご安産なさらないことはあるまいとは思うものの、やはりひどく悲しいのでみな涙を抑えきれない。」
「「縁起でもない」「こんな泣くものじゃない」などと、お互いにたしなめあいながらも、なお涙をとどめることができないのであった。」
頭の上には邪気払いの散米(うちまき)がまるで雪のように降りかかっているし、しぼんでしまった衣姿がどんなに見苦しかったことだろうと、あとになって考えるととてもおかしい。
「いよいよ出産なさるというときに、物の怪(け)が悔しがってわめきたてる声などの何と恐ろしいことよ。・・・阿闍梨の験力が弱いのではなく、物の怪が恐ろしく強力なのだ。」
「「中宮様(藤原彰子)に取り憑いた物の怪が早く移るように」と召し集めた寄坐たちも、物の怪がうまく乗り移ってくれないので、大騒ぎをしたことであった。」
「午剋(うまのこく/午前11時~午後1時ごろ)に、中宮(藤原彰子)が平安(たいら)かに男子(敦成親王)をお産みになった。伺候していた僧や陰陽師たちに禄を下賜したことは、各々、差が有った。」
「午の剋に、まるで空が晴れて朝日が差し出したような気持ちがする。ご安産でいらっしゃるうれしさが比類もないのに、そのうえ皇子様(敦成親王)でさえいらっしゃった喜びといったら、どうして並み一通のものであろうか。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月11日条)

9月15日
「お祝いの歌などが詠まれる。「女房、杯を」などといわれたときには、どんな歌を詠んだらよいのかなどと、口々に歌を心の中で試作してみる。

めずらしき 光さしそふ さかづきは
もちながらこそ 千代もめぐらめ」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月15日条)

10月16日
一条天皇の土御門邸行幸があり、皇子は敦成(あつひら)親王と名づけられ、彰子の母倫子は、その外祖母として従一位を授けられた。

「早朝、土御門第の御室礼が終わった。内裏に参った。巳二剋(午前9時~午前11時ごろ)に、(一条)天皇は東門から御出された。午一剋(午前11時~午後1時ごろ)に土御門第に幸着(こうちゃく)された。西中門から御入された。」
「私(藤原道長)は(一条)天皇の御前に参った。天皇は若宮(敦成親王)を見奉りなされた。私が若宮を抱き奉った。上(一条天皇)もまた、抱き奉りなされた。」
「(一条)天皇は(源)道方を召されて、若宮を親王とするという宣旨を私(藤原道長)に仰せられた。私はすぐに道方に命じて、宣旨の作成を命じた、敦成親王家の勅別当は、右衛門督(えもんのかみ/藤原斉信)となった。」
(『御堂関白記』寛弘5年(1008)10月16日条)

11月1日
生後五十日を祝う五十日(いか)の儀が、土御門邸で、大臣以下公卿・殿上人雲集して盛大に行なわれる。若宮に祝の餅を道長が進めたのが午後8時、それから大宴会となって、人々はすっかり酩酊した。
右大臣藤原顕光などは、六十五歳の老人のくせに几帳のほころびを引き破ってしまうほどの荒れかただし、女房と袖引き合うのもあり、歌をうたい、盃はめぐり、乱酔の宴となりはてたなかに、右大将実資がシャンとして、落ち着いて女房の衣裳の袖ぐちを手に取って、その色あいを楽しんでいるのがひときわ立派に見える。

ふと、中納言公任が、「恐れ入りますが、この辺に若紫はおいでになりますか」と言う。
若紫は源氏物語の女主人公、紫の上のことで、つまり紫式部を探している。
式部は、光源氏そのままのような人などいないのに、その相手の紫の上なぞいるものですかと思いながら放っておく。
あまりの乱酔ぶりに恐れをなして、同僚の宰相の君としめし合わせて凡帳の蔭に隠れたところ、二人とも道長につかまってしまった。
「和歌一首ずつ詠みなさい。そうしたら許してやる」とのことで、しかたないから一首を口ずさむ。

いかにいかがかぞへやるべき八千歳(やちとせ)の あまりひさしき君が御代をば
(若宮の八千年にもあまるご寿命はとても数えられるものではありません。最初に五十日(いか)ということばがちゃんと詠みこんである)

すると道長は、「うん、よくできた」と二へんばかり式部の歌を口ずさむと、すらすらとつぎの歌を詠みあげた。

あしたづのよはひしあれば君が代の 千歳(ちとせ)のかずもかぞへとりてむ
(わたくしに千年という鶴の寿命があったらば、若宮の千年のおん年もかぞえられるだろう)

道長もだいぶ酔ったらしい。声を上げて、
「中宮、お聞きになりましたか、われながら上出来」
と自慢して、さらに、
「中宮の父として、わたくしも不足な男ではなし、中宮もわたくしのよい娘だ。母の倫子も幸せを喜んでご機嫌上々らしい。いい亭主を持ったものだと思っているようですよ」
という。
中宮のご退座をお送りするとて、いそいで立ってゆきながら、「中宮もきょうのわたくしを失礼なとお思いかも知れないが、親のおかげで子供も立派になれるんだぞ」とつぶやいているのを聞いて、人々がほがらかに笑う・・・

「若宮(敦成親王)の御五十日(いか)の儀があった。若宮の御前の食膳は、新宰相(藤原実成)と四位の殿上人が取り次いで、女房(弁内侍・中務命婦・小中将)に授けた。大納言(藤原道綱)が陪膳を勤めた。」
「戌二剋(午後7時~午後9時ごろ)に、私(藤原道長)は若宮(敦成親王)に餅を供した。その後、また座に就いて、数献の宴飲があった。後に籠物(こもの)五十捧(ささげ)と折櫃(おりびつ)五十合を若宮の御前に奉った。」
(『御堂関白記』寛弘5年(1008)11月1日条)

「上達部の席はいつものように東の対の西側だ。・・・渡殿の上に参って、今度も酔い乱れて騒いでいらっしゃる。」
「御簾(みす)があくと、大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍というように座っていらっしゃる。右大臣(藤原顕光)が寄っていらして、御几帳の垂絹(たれぎぬ)の開いたところを引きちぎって酔い乱れなさる。
「下座の東の柱下に、右大将(藤原実資)は寄りかかって、女房たちの衣装の褄(つま)や袖口の色や枚数を数えていらっしゃるご様子は、ほかの人とは格段に違っている。」
「左衛門の督(藤原公任)が、「失礼ですが、このあたりに若紫はおいででしょうか」と、几帳の間からお覗きになる。」
「源氏の君に似ていそうなほどのお方もお見えにならないのに、ましてあの紫の上などがどうしてここにいらっしゃるものですか、と思って、私(紫式部)は聞き流していた。」
「権中納言(藤原隆家)は隅の間の柱の下に近寄って、兵部のおもとの袖を無理に引っ張っているし、殿(藤原道長)は殿で、聞くに堪えない冗談を口にされたりもしている。」
「(宰相の君と)二人で御帳台の後ろに座って隠れていると、殿(藤原道長)は隔てている几帳をお取り払いになって、二人いっしょに袖を捉えてお座らせになった。「お祝いの和歌を一首ずつお詠み申せ。そうしたら許そう」と殿は仰せになる。」
うるさくもあり、おそろしくもあるので、こう申し上げる。

いかにいかが かぞへやるべき 八千歳(やちとせ)の
あまり久しき 君が御代(みよ)をば」
「ほお、うまく詠んだものだな」と、殿(藤原道長)は二度ばかりお声に出してうたわれて、即座に仰せられることには、

あしたづの よはひしあらば 君が代の
千歳の数も 数へ取りてむ」
「あれほどひどく酔っておられる御心地にも、詠まれたお歌はいつもお心にかけておられる若宮(敦成親王)のことの趣なので、ほんとうにしみじみとそのお心もごもっともに思われる。」
「「中宮様(藤原彰子)、お聞きですか。上手に詠みましたよ」と、殿(藤原道長)はご自分でおほめになって、「中宮様の御父として、わたしは不相応でないし、中宮様もわたしの娘として恥ずかしくなくいらっしゃる。・・・」
「・・・母上(源倫子)もまた幸福だと思って笑っておいでのようだ。きっとよい夫を持ったことだと思っているのだろうな」と、おふざけ申し上げなさるのも、格別のご酩酊の勢いにまぎれてのことと見受けられる。」
「殿(藤原道長)の戯れ言を聞いておられた北の方(源倫子)は、聞きづらいと思われたのか、お部屋へ引き上げるご様子なので、「お送りしないといって、母上がお恨みなさるといけないな」と言って、殿は御帳台の中をお通り抜けになる。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)11月1日条)

11月17日
彰子は土御門邸から内裏一条院に入る。
その頃、彰子のもとでは女房たちが手分けをして、『源氏物語』の豪華な清書本作りに精出しているらしい。
式部が草稿本を部屋に隠しておいたら、道長が探しして見つけだし、次女でやがて東宮居貞親王(三条天皇)の妃となった妍子に贈ってしまった。
このほか、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませて聞き、式部の才を賞したという話もあり、宮廷では評判の物語だったらしい。
道長がこの『源氏物語』製作のスポンサーだったと見る向きもある。

「(御冊子づくり)中宮様(藤原彰子)が内裏へ還御なさる時期が近づいたけれど、女房たちは行事がいろいろと続いてくつろぐ暇もないのに、中宮様は物語の御冊子をおつくりになられるという。」
「私は夜が明けると真っ先に御前に上がって差し向かいで伺候し、色とりどりの紙を選び整え、物語のもとの本を添えては、あちらこちらに書写を依頼する手紙を書いて配る。また一方では、書写したものを綴じ集めて整理するのを仕事にして日を送る。」
「殿(藤原道長)は、「どのような子持ちが、この冷たい時節にこんなことをなさるのか」と中宮様(藤原彰子)に申し上げなさるものの、上質の薄様紙(うすようがみ)、筆、墨などを何度か持っておいでになる。」
(『紫式部日記』)

「中宮様(藤原彰子)が内裏にお帰りになるのは11月17日である。戌の剋(いぬのこく/午後7時~午後9時ごろ)と聞いていたけれど、だんだんと伸びて夜も更(ふ)けてしまった。」(『紫式部日記』寛弘5年(1008)11月17日条)

紫式部
父は藤原為時、母は藤原為信娘。本名、生没年は不明。生年は、天禄元年(970)説、天延元年(973)説、天元元年(978)説がある。
姉と弟惟規(のぶのり、一説に兄)がいた。
父為時は冬嗣の子良門(よしかど)の子孫で、祖父為輔は堤中納言と称された著名な歌人。
為時は文章生出身の学者で、花山天皇と関係が深く、永観2年(984)、花山天皇即位後、式部丞で蔵人になったが、花山天皇が退位すると、官位に恵まれなくなり、長徳2年(996)年ようやく越前守に任じられた。その後は越後守となる。
母の父為信は冬嗣の子長良の子孫で、曾祖父文範は文章生出身で権中納言にいたっているが、為信も受領であった。
つまり、紫式部は父母とも文化人ではあるが地方国司たる受領層出身の中級貴族であった。

紫式部の若い頃のことは殆ど不明だが、父為時が弟惟規に漢籍を教えるのをそばで聞いていた紫式部の方がよく覚えてしまうので、父が男の子でないのを残念がったという話が『紫式部日記』にみえる。
父為時が越前守に任命されると、紫式部も共に越前国へ下っている。
『紫式部集』には越前へ下る途中や越前国で作った和歌がみえる。

その後、長徳3年冬から4年春に、紫式部は帰京した。
以前から交際のあった藤原宣孝(のぶたか)と結婚するためであった考えられる。
長徳4年(998)年晩秋から冬にかけて2人は結婚。宣孝は45歳くらいで他にも妻がいた。紫式部は30歳くらいで晩婚だった。
長保元年(999)年には長女賢子が生まれた。

ところが、新婚生活もつかの間、夫宣孝が亡くなってしまう。
その後、つれづれなる生活のまにまに紫式部は『源氏物語』執筆を始めたと考えられる。
そしてその評判によって、寛弘2年(1005)年または3年、一条天皇中宮藤原彰子のもとに女房として出仕することになった。
紫式部が出仕する頃には、『源氏物語』は宮中で広く読まれていたらしく、一条天皇が『源氏物語』の作者は「日本紀」(『日本書紀』)を読んでいるにちがいないと評したことが『紫式部日記』にみえている。
その漢学の学識がかわれて、中宮彰子から依頼されて自居易の楽府を講じたことも同じく記されている。
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12月29日
(実家から)宮中に参内する(『紫式部日記』)

12月31日
・『紫式部日記』に、この年の大晦日の夜、一条院内裏に盗賊が入って、女官2人が衣裳をはぎとられた記事がある。
都の治安は乱れ、内裏に盗賊や暴漢が入って来た例はこの他にもある。

「大みそかの夜、・・・中宮様(藤原彰子)がいらっしゃるお部屋の方角からものすごい悲鳴が上がる。・・・火事かと思ったが、そうではない。」
「「内匠の君、さあさあ」と私(紫式部)は彼女を先に立てて、「何はともあれ、中宮様(藤原彰子)がお部屋にいらっしゃる。まずそちらに参上してご様子を確認いたしましょう」と、弁の内侍を乱暴にたたき起こして・・・」
「三人してぶるぶると震えながら、足も地につかない有様で参上してみると、裸の女性が二人うずくまっている。靫負(ゆげい)と小兵部であった。さては引きはぎであったのかと、事情がわかるとますます気味が悪い。」
「中宮様(藤原彰子)は、納殿(おさめどの)にある衣装を取り出させて、被害にあった二人の女房に賜った。」
(『紫式部日記』寛弘5年(1008)12月30日条))
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2024年9月29日日曜日

大杉栄とその時代年表(268) 1899(明治32)年7月2日~8月12日 子規が回復し久しぶりに子規庵で歌会(「根岸短歌会」の発端) 虚子、転地療養先の修善寺から帰京 ニューヨーク市1899年の新聞少年ストライキ ヘミングウェイ・壺井栄・ヒッチコック生まれる 軍事探偵石光真清陸軍大尉、出発   

 

恵比壽ビヤホール

明治32年(1899年)8月4日、日本麦酒株式会社(後のサッポロビール株式会社)が東京の銀座8丁目に「恵比壽ビヤホール」を開店。これが、日本で初めて「ビヤホール」の名称が使われたお店

大杉栄とその時代年表(267) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉 『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ 防長回天史編集所入社 兄の死 長男誕生 「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」(余の半生) 「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳) 福沢諭吉の女性論に共感 より続く

1899(明治32)年

7月2日

子規庵で歌会


「(3月14日のあと)歌会は四月十八日にも持たれた。しかし、子規の病状が悪化した五月は休会となり、六月も休んだ。

七月二日の日曜日、ひさかたぶりに開かれた歌会が「根岸短歌会」の発端だといえるのは、子規がこの月から歌会記録・批評を「日本」に掲載するようになったからである。

そのときは七人がつどった。なかに碧梧桐の顔もあった。以後、毎月第一日曜日を例会の日とし、俳人を数人混えつつ催された。

午後一時にはじまる会は、ときに深夜十二時まで至ることがあったが、その間おおかたは、病床にあることさえ忘れているのではないかと思われるほど子規は元気で多弁であった、と門人のひとり赤木格堂は回想している。子規の短歌改革への情熱は、自身の作品においてもそのピークをなす明治三十三年へと疾走して行く。」(関川夏央、前掲書)

7月3日

子規、竹村鍛宛て書簡に「パインアップルとバナナを得て本望」と記す。

7月5日

国民協会解散、帝国党を結成、山県内閣支持を決議。

7月8日

堺利彦の妻美知子、胃腸の具合が悪化しこの日から子の不二彦と共に栃木県塩原の温泉で療養。結局、なかなか回復しないので、東京市の郊外に引っ越して家族3人で暮らすことする(8月12日転居)。

7月9日

活版工組合演説会。桑田熊蔵(社会政策学会)、労使協調主義を唱える。

この頃、労働組合期成会の運動は、創始者高野房太郎が労使協調を唱え、片山潜は機関誌「労働世界」に社会主義欄を設けて社会主義運動との結合を図り、指導方針をめぐる基本的対立が生ずる。

労働組合期成会の危機:鉄工組合(5400名)は共済制度により発展するが、疾病・死亡多く、財政難に陥る。赤字対策による支出減のため、組合費滞納者が増大、納入者が1000人に激減。活版工組合(2千余)は、資本家側(印刷営業組合)の了解のもと夜業賃銀2割増をうたい全国に支部ができる。しかし、資本家側組合の責任者を交代させ、賃上げ約束を破棄。組合員大量脱会のため、成立後半年で組合機能停止、自然消滅の道辿る。

7月10日

天皇、東京帝国大学の卒業式で成績優秀者に銀時計を授与。恩賜の銀時計の始り。

7月15日

軍機保護法・要塞地帯法公布

7月17日

改正条約実施。外国人内地雑居承認・治外法権撤廃。

7月17日

日本電気(通称NEC)が設立

7月20日

虚子、転地療養先の修善寺から帰京

7月21日

汽船「布引丸」、フィリピンの独立運動派への武器弾薬(日本陸軍払い下げ武器・弾薬)供給の為に航行中、上海沖で難破。

7月21日

ニューヨーク市で、1899年の新聞少年ストライキ始まる。同年8月2日終結。

リーダーのルイス・バラットのもとに5,000人の新聞少年が結集。ストライキ参加者は数日間ブルックリン橋でデモ行進。一般の人々も味方となり、ストライキが終わるまでどの新聞も買わないことにした。新聞社は少年たちの代わりに大人を雇おうとしたが、大人たちも子供の立場を理解し、少年たちに敵対するようなことはしたがらなかった。

バラットは、ストライキ参加者たちに「仲間たち、友人たちよ。時が来た。団結する時が来たのだ。たとえ困難であろうと私たちの意志を通さなければならない」と語った。

新聞社(『ワールド』紙、『ジャーナル』紙)は1束60セントから値下げしなかったが、売れ残りを買い戻すことで合意し、1899年8月2日にストライキは終結。

7月21日

米、ヘミングウェイ、誕生。イリノイ州シカゴ市住宅地オ−ク・パ−ク(当時はシカゴ市とは別個の行政都市)。父は医師クラレンス・エドモンド・ヘミングウェイ、第二子。

7月24日

「免租更生ニ付キ免租ノ辞令アリタリ」(室田忠七の鉱毒事件日誌より)

8月

軍事探偵石光真清陸軍大尉、参謀本部第部長田村怡与造大佐の命令で東京出発。ブラゴウェシチェンスク(シベリア鉄道「アムール線」基地)へ。ロシア軍人宅に住みこみシベリアの形勢をうかがう。「私費留学生菊池正三」として。

8月

高野盂矩事件。高野の後を追い辞職しその後弁護士になった戸口・加藤・竹内に加え、花井卓蔵・小川平吉ら弁護士22名が、原告高野盂矩の代理人となり当時の蔵相松方に対して俸給支払請求訴訟。

10月9日東京地裁は訴えを却下。

翌明治33年2月12日控訴院が控訴棄却。

同6月14日大審院も上告棄却。

8月

社会政策学会趣意書、放任主義と社会主義ともに排し、「現在の私有的経済組織を維持し、其範囲内に於で個人の活動と国家の権力とに依て階級の軋轢を防ぎ、社会の調和を期す」と述べる。社会政策学会内部で、社会主義を主張する片山潜と反対する金井らの対立が目立つ。

8月

漱石「小説エイルヰンの批評」(「ホトトギス」2巻11号)。

8月3日

田中正造、本郷順天堂病院の病床より鉱毒運動地元指導者大出喜平・野口春蔵に手紙(明治28年3月「異カタル」で70日間入院以来度々入院)。沿岸被害者による「公議体」(議会)を組織し、各自責任分担を提案。この前後、被害激甚地に小児死亡者が多いため非命死者調査を急ぐよう手紙。

8月3日
私立学校令、公布。私立学校の監督強化。

8月4日

日本麦酒会社、京橋区にビアホールを開店。

8月4日

室田忠七の鉱毒事件日誌より


8月4日 (久野)村事務所で村行政について協議し、次の2件を決議する。

「鉱毒費賦課方免租積算額ニ課ス」

「高等科設置ノ件高等科ヲ置クコト」

8月5日

足利税務署に出頭し、久保田の新荒地免租について陳情する。"

8月5日

壺井栄、香川県小豆郡坂手村(現在の内海町坂手)に樽職人の岩井藤吉・妻アサの5女として誕生。

8月13日

米、アルフレド・ヒッチコック誕生

8月10日

与謝野鉄幹(26)、大阪時代の親友河野鉄南宛てに、浅野信子が出産したことを知らせる書簡(女児「ふき子」)。発信地が「東京下谷区金杉町上町五六 文学書院」。子供が没し、戸籍簿に「明治三十二年九月十七日午後拾弐(12)時東京市下谷区上野桜木町ニ於テ死亡」と登載。鉄幹は信子と別れる。

8月12日

堺利彦、荏原郡入新井村(現・大田区大森北)の藁葺きの農家に転居、妻美知子と長男不二彦も療養先の塩原から戻って同居した。

8月28日、不二彦が脳膜炎でひきつけを起こして人事不省に陥る。翌日、危篤状態になったが、もちこたえて入院した。不二彦はそのまま昏睡を続ける。回復の見込みがないまま日が過ぎて、入院費もままならず、やむなく退院してさせ、看護婦を雇って自宅看護に切り替える。彼は、原稿を書いては雑誌や新聞に売り、そのための費用を稼いだが、その甲斐もなく12月22日、不二彦は没する。僅か2年の命だった。


つづく

2024年9月28日土曜日

横浜上永谷の「円山」さんで大井川共水うなぎのランチ(2024-09-26) 川崎の「鮨 よこ田」さんで寿司ランチ(2024-09-19) 横浜市戸塚区の「茅ヶ崎海ぶね」さんで昔の同期会(2024-09-22)

最近の「ゴハン」関係の記事、少しサボってたので、以下三つだけ纏めて記録。

9月26日(木)

 横浜市の上永谷にある「円山」さんで、大井川共水うなぎのランチ。

うなぎの前に、タコ、イカ、ニシンとか出てきてまずまず満足。








9月19日
川崎にある「鮨 よこ田」さんで寿司ランチ。
このお店は、8年連続ミシュランとか。










9月22日(日)
横浜市戸塚区の「茅ヶ崎 海ぶね」さんで前の会社の同期会
お彼岸の三連休の中の日曜日ということで、参加者は8名と少なかった。
昔、よく行った居酒屋さん。蕎麦が出て来たけど、写真撮り忘れ。






石破茂さんてどんな人(自民党内ではずっと傍系、安倍政治には批判的、でもバリバリ右翼、防衛安保理解は中学生なみ?) → 「7条解散」封印宣言 / 教育・子育てについては、「手当より無償化へ」 / クリスチャンであるとともにオカルト団体顧問 / 「モリカケ桜」を含め安倍政治には批判的 / 領空侵犯に「危害射撃」検討 / 日韓関係「併合した歴史を認識すべき」 / 「平成の琉球処分」 / 今月の演説会では、沖縄戦終結の日を「6月13日」と間違えた / 「リニアはつまらない」 / 「逆進性の高い消費税に社会保障を委ねることが本当に正しいのだろうか」 / アジア版NATO(集団的自衛権と集団安全保障の混同) / 「いずれは日米の合同司令部が必要」 / 「日本はまだ真の独立国とは言えないと思っている」 / デモは「テロ行為」 / 「憲法改正しないと死んでも死にきれない」 / 憲法9条2項削除、自衛隊を「国防軍」に / 国民主権、国民皆兵、徴兵制は同じ概念



 

「空飛ぶクルマ」が「サウナ」に変更!?新しい大阪万博の目玉企画に「サウナに未来の技術はあるのか…」との声(ABEMA TIMES) / 吉村知事の肝いり「空飛ぶクルマ」商用運航“完全消滅”…大阪万博いよいよ見どころなし(日刊ゲンダイ) / 「空飛ぶクルマ」 大阪・関西万博での商用運航見送りへ(NHK) / 「やけくそで放り込んでる」大阪万博、1日100人のサウナに大相撲、FANTASTICSから伊勢神宮の木材まで…開催200日前に “ごった煮” はじまる(FLASH) / 「ミャクミャク」東欧で酷評 「ゾンビ」「モンスター」万博開催も認知されず(産経新聞) ← 東欧だけじゃないと思いますが、、、   

 



 

大杉栄とその時代年表(267) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉 『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ 防長回天史編集所入社 兄の死 長男誕生 「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」(余の半生) 「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳) 福沢諭吉の女性論に共感     

 


大杉栄とその時代年表(266) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉 母の死 父を連れて上京(二度目の東京生活)『実業新聞』入社 『実業新聞』廃刊 父の死 生活態度を改める 堀美知子と結婚 『福岡日日新聞』入社 より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴⑤終〉


1897年5月、『福岡日日新聞』退社、三度目の東京へ

堺は最初から『福岡日日新聞』主筆の高橋光威とは折り合いが悪く、社員たちは残念がったが、入社1年後に退社することになる。

一方で、東京の乙槌から肺結核で先は長くない、との連絡が来る。乙槌は堺の上京を止めたが、堺は1897年5月に、東京へ向かう。


防長回天史編集所入社

征矢野に紹介された末松謙澄(豊前出身、伊藤博文の娘婿、ケンブリッジ大学のマスター・オブ・アーツの学位と日本の文学博士と法学博士の学位)より、『防長回天史』編集員の一人として雇われる。

末松は毛利公爵家の依頼で、『防長回天史』(維新前後の長州藩の歴史)を編集することになっていた。毛利家で以前から旧藩の歴史の編纂事業が行われ、材料の蒐集と整理も進んでいた。防長回天史編集所は芝区の白金猿町(現・港区白金台2丁目)にあり、所員たちはその近辺に住んで毎日通っていた。堺の「予の半生」には「東京とは云へ殆んど市中から隔絶して、二年の間、浮世離れた隠遁の生活を送つた」と書かれている。堺は身重の妻の美知子を連れて高輪に家を借り、下宿をしていた兄の乙槌も、引き取って面倒をみることにした。

1894(明治30)年8月10日、乙槌(32)没


10月、長男不二彦誕生

防長回天史編集所には総裁の末松謙澄のほか、古くからいる毛利家旧臣たちが5、6人と、末松が呼び集めた所員が6、7人いた。所員の首席格は山路愛山(本名・弥吉)、次席格の笹川臨風(本名・種郎)、斎藤清太郎、黒田甲子郎、末席に堺利彦という顔ぶれだった。毛利家旧臣は筆頭の中原邦平の他数人いたが、その一人で予備陸軍中尉の荒川銜(かん)次郎は、のちに堺が売文社で世話をする荒川義英の父親である。末松は旧長州藩の伊藤博文の娘婿だが、末松が招集した山路愛山は旧幕臣で、笹川臨風も斎藤清太郎も黒田甲子郎も堺利彦も全員が他藩人だった。

編集作業は、他藩人が主体となり、毛利家旧臣たちは顧問役、案内役となって、他藩人に説明しながら進んでいった。堺は「予の半生」で「此の二年間ほど気楽な時は無かつた」と述懐している。また、この編集作業を通じて、堺は維新史の知識を得ることもできた。

臨風は「堺君は我々呼んで愛妻居士と云つてゐた。社会主義などを唱へる人でなく、寧ろ家庭改良論者であつた」とも述べている。

堺は編集所の仕事で防長2州に出張し、吉田松陰の兄の杉民治の案内で松下村塾の旧跡などを訪ねている。この出張での見聞を、1897年12月6、13、20日の3回、『読売新聞』に「たもと草」と題して寄稿した。


このころ、堺は高輪から同じ芝区の白金今里町(現・港区白金台)に引っ越している。2棟ある大きな家なのに家賃は5円。裏手には浪華文学会時代からの友人の加藤眠柳が住んでいた。この家には美知子の妹の保子も同居するようになり、隣家には上司小剣が来て住み始めた。上司小剣が大阪から上京したいといってきたので、堺は堀紫山に頼んで彼を『読売新聞』に入れてもらった。堺の生活はにぎやかだった。編集所の給与は月30円から40円に上がり、生活に窮することもなかった。

1898年5月5日、「哀史梗概」(『レ・ミゼラブル』の翻訳、『福岡日日新聞』)


1899年5月、『防長回天史』編集解散が決まる(6月末に一部を除いてほぼ編集作業は終了)。


将来への展望

(「三十歳記」)によれば、3月16日、将来について考え、政治家、教育家、文学者のどれを選ぶべきかで悩む。尊敬していた内村鑑三の影響で、教育家ということも考えたが、学閥があるのは嫌な心地がし、教育文学者、道義文学者、宗教文学者のどれが望ましいか、と迷う。

1899年4月頃、妻の美知子が胃の病気で衰弱。8月、長男の不二彦も脳膜炎を起こして入院。


堺は田川大吉郎が主筆の『報知新聞』か、黒岩涙香が主宰する『萬朝報」のどちらかに入りたいと考えていた。この二紙が当時の東京の新聞では発行部数が多く、勢いがあった。


1899年4月9日、堺の日記にはじめて「幸徳」の名前が見える。我は萬朝に入らんの望あり。久津見、幸徳の二人に相談中なり」と記している。


堺は久津見の家で、当時は『萬朝報』に籍を置いていた批評家・小説家斎藤緑雨(本名・賢)にも会っている。堺はその日の日記に「緑雨は病に衰へながら皮肉の言を吐くに苦心せり」と書いている。


福沢諭吉の女性論に共感

1899年4月9日の日記にも「時事新報の女子論を読む、至極よしと思ふ、予も今後此事につき研究し実行せんと欲す」と記している。


福沢諭吉は『時事新報』紙上に「女大学評論」と「新女大学」を順次掲載し、それをまとめた『女大学評論 新女大学』(1899年10月)を刊行している。福沢にとっては数十年前に考えていた内容だが、明治初期には誰も耳を傾けない状況だったので、時機が到来するのを待っていたという。その『女大学評論新女大学』を執筆している最中に福沢は脳溢血で倒れ、残りの部分は、病床での談話を筆記してもらって本にした。その後、脳溢血が再発して、福沢は1901年に逝去する。

同書は、結婚した男性が妾をもつことへの非難、女性が離婚でいかに不利な立場に置かれているかなど、(堺の)『家庭の新風味』の内容と重なる部分が多い。堺は『時事新報』に掲載されていたときから福沢の女性論に共感し、『家庭の新風味』のなかに生かしたと思われる。

1899年6月末、『防長回天史』編集事業終了。以後、数年間にわたって全12巻の書物として発行。


6月26日、毛利家当主から午餐会に招かれ、山路愛山、笹川臨風、斎藤清太郎らと共に、堺も小切手で1,000円を受け取っている。堺の日記には、その1,000円の使い道の内訳が細かく記されている。100円を借金返済に、100円を質からの受け出しに、親戚や病人のお見舞いなどで約100円を、妻美知子に衣服代として100円を渡した。堺は自分のために初めて懐中時計を買い、交際費にもいくらか使った。その他、友人や知人に頼まれて370円を貸すと、手元に残ったのは100数10円だけだったという。


『堺利彦伝』は、この朝報社への入社が決まった時点で終わっている。

『萬朝報』時代は、堺の言葉を借りれば、「士族出身の、半独学の、中流知識階級者としての君が、個人的の立身出世思想から中流階級本位の社会改良主義に移り、更にそれから一転して社会主義者になるまでの、四年間の過渡期」となるのだった。


つづく



古い自民党のボスが決める → 岸田首相「どんな状況でも高市以外に入れろ!」旧岸田派100人に通達… 石破氏勝利に繋がった模様(ShareNews) / 石破茂氏、議員票呼び込み逆転 3人の「首相」の暗躍(日経);「党内で議員人気は低いとされてきた石破氏。1回目の投票で得た議員票は46票にすぎません。決選投票で議員票を積み上げた背景にキーパーソンとなった3人の「首相」の暗闘がありました。」 / 「あれで石破さんに決めた議員は多いと思う」 決選投票前、最後の訴えで石破茂氏が語った「お詫び」 自民総裁選(東京) / 三原じゅん子氏「石破新総裁をしっかり支えたい」決選投票では石破茂氏に投票と明かす(日刊スポーツ)   



 

論点ずらしに〝炎上〟も 急失速の小泉氏 自民党総裁選(西日本);「自民党総裁選で、世論で高い人気を誇る小泉進次郎元環境相は、父純一郎氏が巻き起こした「旋風」の再現を狙ったが、結果は3位。要職の経験不足に加え、討論会での論戦の拙さが露呈し、急激に失速した。」   

危険なネット工作! → 「チーム石丸」が今度は再選挙に賭ける元兵庫県知事斎藤元彦に移ったようだとのこと / 躍進の高市氏、地方回りとネット戦術奏功 石丸氏支援者がSNS拡散(朝日);「陣営関係者は、7月の東京都知事選で165万票以上を獲得し、2位に食い込んだ石丸伸二・前広島県安芸高田市長を支援した民間スタッフ約50人が、SNS上での拡散に寄与したと明かす。 この関係者は「石丸氏同様、ネットのどぶ板とリアルのどぶ板による相乗効果だ」と話した。」 ← ネットの力というよりもお金の力で世論誘導。国民投票になったとしたら怖ろしいことが起こるかも。

 



 

「ひどい態度」「大人げない」麻生太郎 “犬猿の仲”石破茂の“勝利宣言”後の「あからさまな対応」に批判続出(女性自身)

 


 

メリル・ストリープさん「アフガンでは少女よりもリスの方が権利ある」(AFPBB)

2024年9月27日金曜日

ふ~ん → 総裁選最下位の加藤勝信氏、議員票16票で推薦人数に届かず 5人が引きはがしか(産経) / 加藤勝信氏の議員票20人下回る、推薦人より少なく 自民党総裁選(日経) / カツカレーの食い逃げとか、、、なんなん?

 

安田菜津紀さん、ロバート キャンベルさんが読み解く『虎に翼』(NHK) / 「虎に翼」最後はまた「女性の問題」に戻る理由 脚本家・吉田恵里香さんが込めた思い(AERA) / だから朝ドラ「虎に翼」は名作に…女性差別に切り込んだ脚本家が「寅子には謝ってほしくない」と死守した一線  「納得できない花束は渡さない!」というセリフに込めたもの(プレジデント) / 「虎に翼」で戦争を考えた人へ 空襲に左足奪われた私が伝えたいこと(朝日 有料記事) / 『虎に翼』が切り拓いた法律ドラマの新境地──社会と法の進化を描く(松谷創一郎) / 「虎に翼」少年&バッドエンド想定→寄り添う物語に変更 片岡凜“怪演”も影響 脚本家語る美佐江&美雪(スポニチ) / 「虎に翼」脚本家 吉田恵里香インタビュー(後編)「難しい問題でも、今回の座組ならやれると確信して書けました」(ステラ)         



 

大杉栄とその時代年表(266) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉 母の死 父を連れて上京(二度目の東京生活)『実業新聞』入社 『実業新聞』廃刊 父の死 生活態度を改める 堀美知子と結婚 『福岡日日新聞』入社   

 

大杉栄とその時代年表(265) 1899(明治32)年7月 〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴③〉 浪華文学会設立され、堺利彦はこれに加わる 小学校教師を辞め『大阪毎日新聞』(2ヶ月) 『新浪華』入社 より続く

1899(明治32)年

7月 

〈「萬朝報」入社までの堺利彦の閲歴④〉

1893(明治26)年4月、紅葉らを迎えて巌谷小波が関西文学会を開催

4月12日、尾崎紅葉(硯友社のリーダー、『読売』文芸部主任)は硯友社の江見水蔭(本名・忠功)、中村花痩(本名・壮)、渡部乙羽(本名・又太郎)と共に、『京都日出新聞』の巌谷小波に会う目的で関西旅行をした。その機会に巌谷小波が開催した関西文学会には、関西在住の若手文士やジャーナリスト、東京から来た紅葉ら4人も出席した。

1894年7月、日清戦争が始まると、堺は『新浪華』に連載していた「生ぬるい小説」を中止して、代わりに戦争美談を載せるほど、当時の風潮に染まっていた。

1894年末、6年ぶりに上京、元旦から兄とともに房州多々良に滞在

兄乙槌は『大阪朝日』に借金がかさみ退社。結果、家庭不和となり、妻子は豊津に引き揚げ、乙槌は身一つで東京へ流れていく。その乙槌からの手紙を読み、堺は東京への憧れを募らせる。折よく機会があり、1894年暮、堺は6年ぶりに東京を訪れた。かつての知り合いたちと再会し、羽目を外して連日ドンチャン騒ぎをくり返す。ところが、借りていた下宿が火事で焼けてしまったため、堺は乙槌と一緒に大晦日の夜に船に乗り、1895年元旦から房州の多々良(現・千葉県南房総市富浦町多田良)に滞在する。

東京に戻ると、母コト危篤の電報が届いており、急いで大阪に戻る。大阪に戻ると幸いにも母はまだ生きていた。暫くして兄も戻ってきて、兄弟2人で母を看病する。

1895年2月23日、「二夫婦」(兄弟合作、『大阪朝日』連載)

筆名は「某氏」で、いかにも急ごしらえの感じがする。この「二夫婦」が、堺と乙槌の兄弟合作の小説である可能性が高い。堺によればこれも西洋小説の翻案で、その原稿料で母の医療費を支払うことができた。

1895年2月24日、母コト没

兄乙槌は東京に戻って『都新聞』に入社する(『都新聞』主筆の田川大吉郎と乙槌は、長崎に遊学したときからの知り合い)。給料は30円。生活はそれまで以上に放縦になる。

7月に「女喰い』、10月に「刀痕浪人」を同紙に連載。

1895年9月、父を連れて上京、『実業新聞』入社

田川大吉郎が改進党機関紙『改進新聞』を受け継いで『実業新聞』を創刊することになり、堺は乙槌の推薦で同紙に入ることになった。1895年9月に堺は父を連れて上京する。堺にとって二度目の東京生活

「堺枯川」の名前は東京でも知られるようになっていく。

堺はこのころ博文館が創刊した『少年世界』にいくつか短篇小説を書いている。博文館は『太陽』と『文芸倶楽部』と『少年世界』の三誌を一度に創刊し、文学を志す若者たちに大きな期待を抱かせた。創刊時の『少年世界』の編集主任には、京都から呼び寄せられた巌谷小波が就任している。巌谷小波は京都にいたとき、浪華文学会に参加していたので、堺は自分の作品を『少年世界』に売りこんだのだろう。

荒畑寒村は、堺枯川という名前を記憶したのは、『少年世界』で作品を読んだのが最初だった、と述べている(『うめ草すて石』)。とくに、堺の「百物語」の数篇は強く印象に残ったという。「百物語」は、古ぼけた山高帽や折れ釘が、役立たずの状態で放置された自分の身の上を嘆くという話だが、荒畑寒村がそこに、すでに堺の「社会主義的人生観」の片鱗を感じ取ったというのは興味深い。もちろん、当時の堺には、自分が社会主義者だという意識はまったくなかった。

堺の給料は25円(当時の新聞記者としてはまずまずの金額)。編集局には年配の三品蘭渓(本名・長三郎、戯作者)や、まだ若い岡本綺堂(本名・敬二)がいた。

堺は『実業新聞』で小説や雑報を書きながら新聞の編集もした。小説「いろは」を連載。挿画は当時は無名の日本画家の寺崎広業で、この小説はとくに評判にはならなかった。

その後、堺は一面の「時論一斑」欄を担当する。これは各新聞の論説の大意を3~5行に要約して掲載するもので、横浜の英字新聞も含まれていた。

1896(明治29)年2月、『実業新聞』廃刊と父の死

1896(明治29)年2月、『実業新聞』は廃刊する。さらに月末には父得司が突然昏倒して、意識を取り戻さないまま、翌日息を引きとった。失業したために無一文に近い状態だった彼は、書きかけだった原稿を堀紫山の世話で『読売新聞』に買い取ってもらい、ようやく父の葬式を出すことができた。その原稿は、両親に愛されて育ったなつかしい豊津のことを書いた「望郷台」だった。

当嘩堺はかつての浪華文学会のメンバーで、その後上京した加藤眠柳、上司小剣、堀紫山らと「落葉社」という俳句の親睦団体をつくって句会を催していたが、落葉社の人々も葬儀の費用を分担してくれた。初七日の晩には霊前で書画の合作をし、それぞれが思い思いに詩歌や俳句を書きつけたが、堺が大書きしたのは「不孝児」という三文字である。

母を失った翌年に父も亡くし、さすがに心の底から悔悟と慙愧の念が起こった。ずいぶん回り道をしたが、以後、堺は別人のような人生を送ることになる

1896(明治29)年4月6日、堀美知子と結婚

堺は堀紫山の妹美知子(23)と婚礼を挙げた。「私は、忽然として、生れかはつた様な幸福の人となつた」。しかし、すぐに生活費に困窮し、仕事を探す必要を感じ始める。


1896年5月、『福岡日日新聞』記者となる

豊津時代、堺が崇拝していた征矢野半弥(衆議院議員、『福岡日日新聞』社長)の誘いを受ける。

二人は、橋口町(現・福岡市中央区天神)の橋のたもとにある福岡日日新聞社の社屋の近くの借家に住む。堺はすぐに編集部になじみ、主に小説を執筆し、随筆や雑報記事も書いている。


「何しろ東京新下りの文学者と云ふわけで、『枯川』の名が多少の評判になつてゐた。東京を立つ時、尾崎紅葉君が『これなどはチヨット面白い』と云つて餞別に呉れた英文の小説も、翻案の役に立つた。その頃、私の崇敬してゐた小説家は、新しい紅葉、露伴、一葉の三人であった。(中略)私は耻(はず)かしながら、いつか必ず小説家として売りださうといふ『大望』を持つてゐた。」

『福岡日日』にでは5月に短篇を書き、5月末から翌年春までほぼ連続して「女独身宗」「朝顔籬」「狂胡蝶」「怪談警固村」「短篇十種」「人不知」などの小説を連載している。「朝顔籬」は短編の連作で、1896年7月14日から8月14日まで10篇が20回掲載された。

連作最後の「女の忍耐」の第1回の末尾には「是は伊太利国の昔話、ボツカシオの『デカメロン』とて名高き物の一節なり。一字々々を追ひたる正しき訳にはあらず、筋を摘みて書きつけたるのみ」と書かれている。

これは、『デカメロン』の第十話とストーリーが同じで、登場人物の名前も原作通りだった。堺の「女の忍耐」の1年前の一1895年7月には、紅葉も同じく『デカメロン』を翻案して、「冷熱」「鷹料理」「三箇条」という3つの小篇を書いている。このことから、紅葉が堺に餞別として渡した英文小説の本は、『デカメロン』の英訳版だったと考えてほぼ間違いないだろう。紅葉がその本を贈ったのは、堺に翻案を勧めるためにはかならず、地方では洋書が入手しにくい、という事情も汲んだ上での厚意だったのではないか。

過去の放縦な生活の反動で、堺は克己節制に努めるようになる。禁酒をし、冷水浴を始め、『論語』や『孟子』を愛読する。内村鑑三の著書を初めて読み、強く心を惹かれるようになった。博多には中洲や柳町など風流の地が多かったが、堺はもはや以前のように遊ぶことはなかった。


つづく