2024年10月31日木曜日

もんじゅ敷地直下に「推定活断層」 国土地理院が新たな地図を公表(朝日 有料記事);「廃炉になった高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)の敷地内に、活断層が通っている可能性を示す地図を国土交通省国土地理院が29日、公表した。活断層の専門家が昨年、学会で可能性を指摘していたが、ほかの専門家によっても認められた形だ。」   

アーノルド・シュワルツネッガー(共和党)、カマラ・ハリス支持表明 / 「選挙結果の否定は米国民らしくない。世界中の人と話し、米国が丘の上に輝く町であることを知る私にとって、世界のごみ箱呼ばわりするのは非国民的で、激怒させるものだ」と述べた。 / 「私は共和党員である以前にアメリカ人だ。ゆえにカマラ・ハリスとティム・ウォルズに投票する。自分と意見の異なるアメリカ人を中国やロシアや北朝鮮よりも敵と見做して内部分裂を煽るだけのトランプでは、問題解決も向上も無い。実に非アメリカ的だ」 / 「相手に投じられた票は尊重せず、ダイエットコーラを飲みながら支持者に議事堂を襲撃させ、寄付者や金持ちが得をする減税以外の政策を通す力もなく、意見が合わない米国民を中国やロシア、北朝鮮より巨大な敵だと考える候補者は、問題を解決しない」    



 

集会で支持者が「プエルトリコはゴミの島」と言って批判されたトランプ、開き直ってゴミ収集車に乗る。しかも顔を茶色く塗ってラティーノを揶揄している。 / トランプ、「プエルトリコはゴミ」からの流れで、自身がゴミ収集者の仮装で登場。そして、顔を茶色に塗りたくっての「ブラウン・フェイス」 / 

 

大杉栄とその時代年表(300) 1900(明治33)年9月20日~30日 巌谷小波、ドイツに向かう 「国民同盟会」(近衛篤麿・頭山満ら) 漱石、シンガポール上陸 ドイツのヴァルデルゼー元帥指揮の連合国軍による義和団掃討作戦(計78回に及ぶ残党狩り) 内村鑑三『聖書之研究』創刊 虚子と碧梧桐の対立顕在化    

 大杉栄とその時代年表(299) 1900(明治33)年9月15日~20日 立憲政友会結成(総裁伊藤博文、憲政党の西園寺公望・星亨らが参加) 漱石、上海~福州~香港 「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」 より続く

1900(明治33)年

9月20日

立石一真、誕生。

9月21日

ロシア、吉林省城を占領。

9月21日

~24日 船上の漱石


「九月二十一日(金)、晴。終日、陸形を見ぬ。 Singapore (シンガポール)に向って、南支那海を南下する。甲板は涼しいが、船室は暑い。船中で奏楽が行われる。

九月二十二日(土)、曇。終日、陸影を見ぬ。正午、香港から六百四十一マイルの海上を航海す。午後三時頃、驟雨。甲板は涼しいが、船中は甚しく暑い。(芳賀矢一「留學日誌」)

九月二十三日(日)、午前、宣教師ら賛美歌を歌い、説教をする。正午、香港から九百四十四マイル(千五百十八キロ強)と標示板示す。

九月二十四日(月)、正午頃、左舷に四つ五つ島影見える。「胃悪ク腹下リテ心地悪シ」(「日記」)午後十時頃、 Singapore (シンガポール)に着く筈が遅れる。」(荒正人、前掲書)

9月22日

巌谷小波(30)、横浜港からハンブルヒ号で出航、ベルリン大学付属東洋語学校講師としてドイツに向かう。尾崎紅葉、石橋思案、江見水蔭、武内桂舟、大橋乙羽、大橋新太郎らが備前丸に便乗して見送る。

9月23日

林瀧野、鉄幹の子「萃」(つとむ)を出産。

晶子は、「このあした君があげたるみどり子のやがて得む恋うつくしかれな」(「みだれ髪」)と祝う。

9月23日

第2インターナショナルの第5回大会、パリで開催(~9月28日)。無政府主義者を排除。ブリュッセルに常設事務局の設置を決定。大会名、「国際社会主義大会」となる。

9月24日

近衛篤麿・頭山満ら、大陸政策の積極化を目指して「国民同盟会」を組織。東亜同文会員、対外硬の議員、玄洋社の大陸浪人ら参加。兆民が参加し世間を驚かせる。1902年4月解散。翌年「対外硬同志会」結成(のち「対露同志会」と改称、開戦後は活動停止)。

9月25日

広瀬武夫、少佐進級。

9月25日

西太后、戦犯9名公表、求刑。

9月25日

漱石、シンガポール着


「九月二十五日(火)、曇。朝、起きると Singapore (シンガボール)沖に到着する。午前八時、朝食後投錨する。「土人丸木ヲクリタル舟ニ乗リテ船側ヲ徘徊ス船客銭ヲ海中ニ投ズレバ海中ニ躍入ツテ之ヲ拾フ」(「日記」)上陸する。意外に涼しい。「土人ニテ日本語ヲ操ル者日本旅館松尾某ノ引札ヲ持シテ至ル命ジテ馬車二䑓ヲ二圓五十銭宛ニテ雇ハシメ植物園ニ至ル」(「日記」)兵営・学校・太守邸・イギリス士官宿舎を通って十時頃、植物園に着く。熱帯樹繁る。動物園で虎・蛇・鰐・魚を見る。博物館は立派ではない。松尾兼松の経営する旅館松尾で昼食する。鯛の刺身・照焼など出る。飯米はインド米である。街頭に、日本人の淫売婦たち徘徊する。午後三時、馬車で松尾を出発する。海岸通りを行く。三時半帰船する。四、五人新たに乗船し、五時三十分、出航する。十時頃、驟雨来る。」(荒正人、前掲書)


漱石の日記

「それより博物館を見る。余り立派ならず。」(9月25日)

妻宛の書簡では、シンガポールについて次のように触れられている。

「熱帯地方の植物は名前のみを承知致候が、来て見れば今更の如くその青々と繁茂せる様に驚かれ候。」(9月27日)


芳賀矢一の感想。

「〔シンガポールの〕市街の美もとより上海、香港には及ばざれども尚大厦の空に聳ゆるもの多し。全市の幅大は遥かに両港に超えたるべし。」


9月26日

~30日 船上の漱石


「九月二十六日(水)、曇、時々細雨。午前十一時頃、近くで龍巻起る。正午、榜示に、 Singapore (シンガポール)から二百二十六マイル(三百六十四キロ強)の位置にいると示されている。室内でも余り気温上らない。夜、風雨強い。

九月二十七日(木)、早朝すでに、 Penang (ペナン)に到着したが、上陸はしない。午前九時出航の予定遅れて、十時半になる。時折小雨降り涼しい感じである。斎藤阿具 (第二高等学校)宛、マレー美人の絵葉書を出す。窓外にインド洋は日本の夏よりも涼しい。波風も穏やかである。夜、風強くなり、波高い。

九月二十八日(金)、朝晴、南方に Sumatora (スマトラ)島を見る。午前十一時頃から、風雨となり波浪高くなる。インド洋を西に向う。「名にしおふ印度荒海波たちてみえがくれするすまたらの山」(芳賀矢一「留學日誌」)

九月二十九日(土)、晴れたり、曇ったり。「印度洋卜雖甲板上ハ風烈シク寒キ位ナリ」(「日記」) ベンガル湾の南を西に向って横断する。鏡に、上海・香港・シンガポール・ペナン迄の旅行の経過見聞を書く。(コロンボ投函) 「頭ノハゲルノモ毎々申通一種ノ病氣ニ違ナク侯必ズ醫者ニ見テ御貰可被成候人ノ言フヿヲ善ヒ加減ニ聞テハイケマセン」

九月三十日(日)、暗。風強い。変ったこともない。宣教師たちはいつもの通り礼拝を行い、説教する。室内は非常に暑い。」(荒正人、前掲書)

9月26日

山県有朋首相、辞表を提出。10月7日伊藤に大命降下。

9月27日

ドイツのワルデルゼー元帥、連合軍総司令官として着任。救出作戦は終了し、指揮を受ける必要なしとの意見が強く、米・仏2国はその指揮下に入らず。ロシアは就任を推挙してドイツの好意をかう。

ヴァルデルゼー元帥率いる数万人の兵力が増強され、彼が連合国総司令官になると、北京周辺の度重なる懲罰的掃討作戦を展開した。各国を合わせると計78回に及ぶ義和団残党狩りが行われ、それは山海関や保定、山西省と直隷省との境界線付近まで含む広大な範囲にわたった。特に多くの掃討戦を行ったのはドイツであって、約半分を占めている。

9月27日

政府、京釜鉄道会社発起人に対し特別保護命令書を下付。

9月28日

足尾銅山所有者古河市兵衛、柳橋亀清楼でチョン髷を切る。介添え人は渋沢栄一

9月28日

東京、暴風雨、死者3人、浸水家屋1万4,700戸。

9月30日

内村鑑三、『東京独立雑誌』を廃し『聖書之研究』創刊。

9月30日

この日発行の「ホトトギス」第3巻第12号の「消息欄」に子規は、「天津聯合軍の消息につぎて騒がしきは俳句の講習の噂に有之候」と書く。


「天津聯合軍とは八カ国連合軍のことで、「俳句の講習の噂」とは、虚子と碧梧桐の対立が「ホトトギス」読者にもあらわになった一件である。一年前から距離を置く間柄となった二人は、この頃はっきりと反目しはじめた。」(関川夏央、前掲書)


つづく


自民「絶対得票率」最低 96年以降 党勢弱体化あらわ(毎日); 立憲民主党も前回から約150万票減の約1574万票。絶対得票率は1.2%減の15.2%だった。

CBSテレビの夜のトークショーで放送された動画。トランプが医療保険や児童福祉手当などについて「代替案がある」と10年前から言い続けながら一度も案を提示しなかったのがわかる。この動画を投票日直前にテレビで放送するのがアメリカ。 / NYのトランプ集会に並ぶ人たちに毒舌犬トライアンフが「これってナチ集会だよね。ナチはトランプ大好きだしさ」と絡んでいる後ろでトランプ支持者がWhitePower(白人至上)サインを出している。     

2024年10月30日水曜日

【橋下徹氏に聞く!】維新が『大阪で全勝』の背景 有権者が"大阪維新と混同"?「大阪の政策で維新の国会議員がやったことは何もない」(MBS NEWS)

 

大阪府内17自治体で職員の半分以上が“非正規” 大阪労連「同じ仕事なのだから正規職員にしていくべき」 各自治体に労働条件の改善を求めていく方針(MBS NEWS)

ひろゆきまでもが、こんな事を言ってる ⇒ 「裏金問題を暴いたのは、共産党の『しんぶん赤旗』でした。 裏金問題が議席増の要因と立憲民主党の代表が言ってるのに、裏金事件を暴いた共産党は議席減。 仕事をした人が評価されなくて、宣伝の上手い人が利益を得ると言う社会の縮図」(ひろゆき) ← 宣伝の上手い下手の問題だけではないと思うけど、、、

ハン・ガンのノーベル文学賞ですごいと思ったのは韓国の大手書店が「中小書店との共生のためにハンガン作品の発売を10月中は停止します。地元書店でお買い求めください」と発表したこと。日本では考えられない。

小学校教諭7割強が辞退 採用試験合格者280人中204人 高知県教委 | 高知新聞

大杉栄とその時代年表(299) 1900(明治33)年9月15日~20日 立憲政友会結成(総裁伊藤博文、憲政党の西園寺公望・星亨らが参加) 漱石、上海~福州~香港 「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」

大杉栄とその時代年表(298) 1900(明治33)年9月9日~14日 子規庵で初めての「山会」 漱石、長崎に上陸、入浴と昼食 漱石と芳賀、上海に上陸、一泊する 「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」(芳賀) より続く

1900(明治33)年

9月15日

韓国、京畿道沿岸での漁業に関する日韓往復文書交換。

9月15日

韓国、国外に鉄道を敷設する帝国会社に関する法律公布。京釜鉄道に準用。

9月15日

立憲政友会結成。総裁伊藤博文、所属議員152人(憲政党から110人、無所属その他から41人)。憲政党は13日解党。憲政党の西園寺公望・星亨らが参加。政友会の幹部は、松田正久・片岡健吉・尾崎行雄・大岡育造・原敬ら(総務委員は13名中7名が伊藤系、幹事長は原敬)。支持者は、実業家・地方議員・地主ら(実業家層は伊藤の予想に反して少ない)。板垣退助は、自由党を伊藤博文に譲渡したと批判される。

山県は伊藤の政党設立に反対であり、その結果、中立を意識した中央の大商工業者たちは殆ど政友会に参加せず、貴族院からの参加者も少ない。衆議院議員は、152名(定足数300名)過半数に達し、その73%が旧自由党系の憲政覚からの参加者。西園寺は政友会結党は、「一言にいえば救世の二字」であると述べる(9月24日付酒井雄三郎宛書状)

伊藤の手兵は党首脳部にいる若干の幕僚のみ。党内の事実上の中心は旧憲政党系で実権は星亨が掌握し、星は当初の意図通り伊藤を利用しながら旧憲政党の実質的党勢拡張を推進。旧憲政党の政友会への合流は、板垣の引退に象徴される自由民権運動の伝統との断絶を伴う。星の台頭とともに板垣の比重は落ち、第2次山県内閣下では事実上引退していたが、憲政党解党に及び、一片の感謝状とともに完全に政界を去る。

9月15日

外国において鉄道を敷設する帝国会社に関する法律公布〔法〕。

9月15日

漱石、暴風雨の為、上海出航が延びる。


「★九月十五日(土)、呉淞を出航のはずだったが、九月十四日(金)から暴風、気圧降下。午前十時頃からは雨も降りだし、揚子江の濁流はすさまじい。「檣頭ニカゝゲタル白地ニ錨ヲ黒ク染メヌキタル旗ヲ吹キチギル許リニ吹ク、」(「日記」)出航できぬ。午後二時ようやく抜錨、二時間ほど航行し、再び大風を避けるため停泊する。(芳賀矢一「留學日誌」)」(荒正人、前掲書)

9月16日

漱石、上海(呉淞)を出航


「九月十六日(日)、午前二時頃、暴風やや衰えたので再び航行する。呉淞を出航する。イギリス・アメリカの宣教師たち、家族連れで二十人余り乗り込む。大部分は、他人を感化する風采ではない。(藤代禎輔)汽船の動揺甚しく、終日船室に閉じこもる。(「日記」)(芳賀矢一だけ食堂に行き、他は船室に残る。イギリス人・ドイツ人が十数人いたが、甲板で祈祷しない)午後、勇を鼓して食堂に行ったものの、スープ半分飲んだだけである。高浜虚子宛に葉書を出す。」(荒正人、前掲書)

9月17日

漱石、福州着。18日、出航。


「九月十七日(月)、風波いくらか静まる。同行諸氏元気回復する。午後五時、福川湾に入り、六時に投錨する。中国人商人、陶器・漆器・絹布その他の雑貨を売るために、船中に来て騒がしい。奏楽隊長で風呂番を兼ねている男は、中国人の売りに来た中国服を付けて得意である。船では、茶の積荷をする。下痢をする。不愉快である。


九月十八日(火)、雨。鬱陶しい。甲板濡れて、気持悪い。晴雨計平常に復す。胃腸の調子少しよくなる。(芳賀矢一、喫煙室で国学史の校訂をする。羽織、袴の日本服である)午前十時半頃出航したと思われる。」(荒正人、前掲書)

9月17日

米、炭鉱労働者11万2千人がストライキ。無煙炭価格が6.5倍に

9月18日

米、初の直接予備選挙、ミネアポリスで実験的に実施。

9月19日

漱石、香港着。この日、九龍港に着き小蒸気船で香港に行き、鶴屋という日本宿で食事後、船に帰る。虚子宛てに航海の無事を知らせる手紙を書く。 20日午後出帆。


「九月十九日(水)、「微雨尚已マズ 天漸ク晴レントス」(「日記」)午後、快晴。午後二時、香港に入港とのことで喜ぶ。(推定)四時、香港の陸影を認める。午後四時半、九龍の埠頭に着く。下痢と船酔いに弱っていたけれども、元気を回復する。小蒸汽で香港に渡り、不潔な日本旅館鶴屋で、夕食に味噌汁・焼魚・鯛の刺身・番茶の茶漬などが出る。 Queen's Road を見て、九時に帰船する。香港の夜景に驚く。暑熱甚し。中国人商人雑貨を売りに船中に来る。高浜虚子宛の葉書に俳句二句を添えて出す。


九月二十日(木)、朝食をおえて、渡し舟朝星(渡し賃、上等十銭)で再び香港に至り、 tramway (鋼条鉄道 cable railway 鋼索鉄道)で傾斜四十五度の山背を登る。峰の上に、 Peak-hotel ある。少し行くと兵営がある。眺望よし。風が吹いて快い。雑草と喬木が全山を覆う。イギリス人士官の住居眼につく。道路は極めて良いが、暑熱耐え難く、約二キロを喘ぎながら登り、 Victoria Peak (ヴィクトリア頂上、三百五十一メートル)に達す。頂上には、大きい砲台がある。その下に、中国人の喫茶店あり、立ち寄る。(推定)十一時、再び鋼条鉄道の停車場に戻り、三十分余り待つ。十一時三十分過ぎ、発車して香港に降りる。十二時、九龍に戻る。午後四時、出航する。」(荒正人、前掲書)

「航海は無事に此処まで参候へども、下痢と船酔にて大閉口に候。昨今は大に元気恢復、唐人と洋食と西洋の風呂と西洋の便所にて窮窟千万一向面白からず、早く茶漬と蕎麦が食度候。・・・・・熱くて閉口、二百十日には上海辺にて出逢申候。

阿呆烏熱き国にぞ参りたる

稲妻の砕けて青し海の上」(9月19日付け日記)

〈香港の印象(芳賀矢一)〉

「香港の市街たる繁栄は上海に及ばざるが如しといへども、巍然たる層楼相連なりて、昇降にはエレヴェーターを用ふ。全屋悉く大理石なるが如きは、欧米の大都といへども及び難かるべし。」


〈香港の印象(漱石)〉

「山巓(さんてん)に層楼の聳ゆる様、海岸に傑閣の並ぶ様、非常なる景気なり。」(「日記」9月19日)

これは、プロイセン号が停泊した九龍側から香港島を見た光景。この時、香港島の中心街では埋立により「新たな海岸通り(new praya)」の開発が進んでいた。埋立はほぼ終わり、香港クラブ(1897年竣工)やクウィーンズ・ビルディング(1899年竣工)など数棟の新しいビルが聳えていた。しかし、更地も多く、海側からは、「古い海岸通り(old praya)」にあった、一世代前の商館や六階建ての香港ホテルなどの「傑閣の並ぶ様」が見えた。

漱石一行が食事をした日本旅館鶴屋について、芳賀は「海岸通り五層楼に在り外観甚だ美なり」と記しているが、これも「古い海岸通り」にあった。

しかも香港では、新旧の海岸通りだけでなく、山頂にも「層楼」が聳えていた。翌日、ヴィクトリア・ピークに登った漱石たちは、これらの建物を間近に見た。

芳賀による、ケーブルカーを降りて山頂に至る光景。

「峰上peak−hotel あり。更に進むこと少許、兵営あり。・・・元来香港は海上の一島にして全島花崗岩なり。樹木繁茂するもの少なけれども雑草矮木全山を掩ふ。処々丘陵を開きて高楼大厦を架す。皆英人の家にして多くは兵営に関する士官の住居たり。」

「兵営」は、マウント・オースティン・ホテルを買い上げたもので、有名なピーク・ホテルよりもさらに「宏壮」なものであった。

香港の夜警については、日記には

「船より香港を望めば万燈水を照し空に映ずる様、綺羅星の如くといわんより満山に宝石を鏤めたるが如し。diamond 及びruby の頸飾りを満山満港満遍なくなしたるが如し。」

とある。

妻への手紙にも、

「上海も香港も宏大にて立派なることは到底横浜・神戸の比には無之、特に香港の夜景などは満山に夜光の宝石を無数に鏤めたるが如くに候。」(9月27日)

と書かれている。


つづく


2024年10月29日火曜日

鎌倉 光則寺のサザンカとホトトギス 2024-10-24

 10月24日(木)はれ

先週木曜日(10/24)、鎌倉の長谷方面にプチ散歩。

光則寺にもうサザンカが咲き始めていた。

まだ、時々夏日(25℃)の日があったりする中なのにね。

以下、インスタグラムより。


▼長谷駅にて




 

組織的な隠蔽工作ですよね → アベノマスク裁判で省庁職員に証人尋問(上)。被告側に座る厚労省職員と思しき女性は声を殺して泣き続けた / (下)。なぜ実態のない会社に31億円の巨額発注が行われたのか?(赤澤竜也) / 《アベノマスク契約》がXでトレンド入り…血税約600億円費やす契約を「口頭」でやり取り?の真偽(日刊ゲンダイ) / アベノマスク契約めぐる訴訟 裁判長も「全て口頭で?」と突っ込み(朝日);複数省庁による「合同マスクチーム」職員ら「やりとりは口頭が基本で、文書は残していない」 自身が受け取ったメールは「容量が限られているため2~3日に1度消去し、保存していない」   



 

BBCニュース - 【米大統領選2024】 トランプ候補、NYで大規模集会 登壇者がプエルトリコ中傷し大勢反発 / トランプ陣営、ヒスパニック系に差別的発言 ハリス陣営が非難(AFPBB);「コメディアンのトニー・ヒンチクリフ氏は、米自治領のプエルトリコについて、「今まさに海の真ん中にごみためのような島が浮かんでいる。プエルトリコという名前で呼ばれているはずだ」とやゆ。ヒスパニック系住民の出生率の高さも指摘した。」 / 「ハリスはサモア人でマレーシア人、低IQ」 かつて Fox News で最人気だったタッカー・カールソン(一応ジャーナリスト)も解雇されて落ちぶれた今、再度這い上がるためならなんでも言う。      



 

イスラエル、ガザ支援機関の活動禁止法案可決 数百万人に壊滅的な影響の恐れ(CNN); 〈イスラエルのクネセト(国会)は28日、約80年にわたりパレスチナの避難民に必要不可欠なサービスを提供してきた国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の活動を禁止する法案を可決〉

BBCニュース - 【米大統領選2024】 マスク氏を検察が民事提訴、激戦州有権者への100万ドル贈与めぐり

マーク・ハミル 「トランプは1798年制定の外国人敵対法を使って不法移民を国外退去させるため『1798年に戻ろう!』と言っている。トランプは奴隷制が合法で女性に参政権が無かった時代が良かったと思っているのだ」

 

大杉栄とその時代年表(298) 1900(明治33)年9月9日~14日 子規庵で初めての「山会」 漱石、長崎に上陸、入浴と昼食 漱石と芳賀、上海に上陸、一泊する 「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」(芳賀)

 


大杉栄とその時代年表(297) 1900(明治33)年9月1日~9日 坪内逍遥「(小学校用)国語読本」 英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言 但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く 漱石、英国留学のため横浜より離日 藤代禎輔・芳賀矢一同行 より続く

1900(明治33)年

9月9日

子規庵で句会例会。初めての文章練磨の会「山会」を開いて写生文を唱える。松瀬青々・河東碧梧桐・坂本四方太・寒川鼠骨・岡麗ら集る。第2回「山会」は、9月30日に開く。


「九月九日は日曜日、定例の句会であった。参加者は子規を含めて十九人、隆盛である。子規は門人たちで混雑する座をたのしみつつ、同時にうっとうしくも思った。


鶏頭の十四五本もありぬべし  子規


この句を詠んだ座の終了後、ひきつづき文章会を持った。少しのち「山会」となる散文批評の会、その第一回であった。それはやがて「ホトトギス」の編集会議に発展する。」(関川夏央、前掲書)

9月9日

ハリケーン、テキサス沿岸直撃。ガルベストンの町が高潮に飲まれ、死者4千人超。

9月10日

西太后ら、太原城着。山西巡撫毓賢が出迎え。巡撫官庁を行宮とする。

10月1日、太原発。26日、西安着。10ヶ月滞在。

9月10日

漱石、関門海峡通過。


「九月十日(月)、体弱り苦しむ。午前十一時、喫煙室で奏楽を聞きながら、中根重一宛て手紙に、留守中の区役所その他の用事は、湯浅廉孫か土屋忠治に頼んで欲しいと伝える。午後三時頃、関門海峡を通過する。(船中では、朝起きると、紅茶(推定)、午前八時頃朝食、十二時に昼食、午後三時に紅茶(推定)、六時に夕食、九時頃紅茶(推定)である。ドイツ船ではあったが、コーヒーは出なかったらしい。)」(荒正人、前掲書)

9月11日

漱石、長崎着。上陸を許され、筑後町の迎陽亭で入浴と昼食


「九月十一日(火)、快晴。午前四時、夜の明けぬうちに長崎に着く。午前八時、朝食の席に就く。(推定)食事をおえて、小汽艇で大波止場に行き、一行と共に人力車で二百二、三十メートル行き(推定)、長崎県庁に馬淵鋭太郎(参事官)を訪ねる。鈴木兼太郎(参事官)も出て来る。三十分ほど話す。迎陽亭(長崎市上筑後町十八番地、現・玉園町、現在はない)に、人力車で約二キロ行く。入浴し、昼食をとる。しっぼく料理である。(推定)午後三時、人力車を列ねて、大波止場に向う。馬淵鋭太郎・鈴木兼太郎・池田賢太郎(技師)(推定)と共に、長崎県庁の小汽艇に乗り、 Preussen 号に赴く。四時三十分乗船する。五時出帆の筈であったが、水先案内人来ないので、九時に漸く出帆する。西洋人の女性多く乗り込む。熊本市で一度会った Mrs.Nott (ノット夫人)乗船する。長崎埠頭から出航する際、上海から入港してきた Hamburg (ハンブルク)号(三千二百七十八トン)で、「君が代」を奏したので、Die Wachtam Rhein (「ラインの護り」、ドイツ国歌)を奏する。「夜月色頗ル可ナリ」(日記)(満月は九日(日)である)」(荒正人、前掲書)

9月11日

上野駅と新橋駅の構内、公衆の自動電話が初めて設置。

9月11日

米・ペンシルバニア、炭鉱労働者15万人がストライキ開始。

9月12日

「明星」第6号発行。新聞型から雑誌型に変わり、表紙は一条成美(なるみ)の絵。この号より発行兼編集人鉄幹となる。与謝野鉄幹「子規子に与ふ」。子規に論戦を挑む。

16日、子規は、誤解によるものであろう、として、「ご面会の機を得て申上度候」と書簡を鉄幹に送る。両者が話し合い、歌の本筋でないところの対立の融和を図る。子規没後、新詩社対アララギの対立が鮮明になる。

9月12日

漱石、東シナ海を上海に向って進む。


「九月十二日(水)、晴。「夢覺メテ既に故郷ノ山ヲ見ズ」(日記)束支那海(東海)を上海港に向って進む。鞄に『几董集』と『召波集』を入れてきたけれど、周囲は西洋人なので読む気にならぬ。芳賀矢一のほか、一行船酔に苦しむ。そのなかで最もひどい。日本人だと思われる乗客がいたので話しかけると、香港生れのポルトガル人である。(神戸からも日本人女性が乗ったと思ったら中国人で、その夫と思われる人物はイギリス人である)」(荒正人、前掲書)


この日の漱石日記。


「横浜ヲ出帆シテ見ルト、右モ左モ我々同行者ヲ除クノ外ハ、皆異人バカリデアル。其中ニ一人日本人ガ居タカラ、是ハ面白イト思ツテ話ヲシカケテ見タラ驚イタ。香港生ノ葡萄牙人デアッタ。神戸カラモ一人日本人ガ乗タト思ツテ喜ンデ居ツタラ、是モ豈計ランヤ組デ、支那ノ女ニ英(イ)ギリスノ男ガツガツテ出来夕相(アヒ)ノコデアツタ。是カラ先モ気ヲツケナイト、妙ナ間違ヲシテシクジルヿ(コト)ガアル。注意々々」

9月13日

上海。この日、呉淞に着き小蒸気船で2時間ほどの上海へ向かう。

「九月十三日(木)、午前五時前に、呉淞に入港する。(長崎から約八百三十キロ)午前九時前、小蒸汽船 Bremen (ブレーメン)で、黄浦江を二時間潮り、上海に上陸する。(五キロ余り)揚子江(長江)に注ぐ黄浦江の河口で、日本軍艦「厳島」、少し溯ると「豊橋」、「摩耶」、「八重山」停泊する。「八重山」には、将旗掲げている。歩いて江北海関の税関で立花政樹(英文科の第一回卒業生)を訪ね、大いに喜ぶ。車をやとって長崎人某経営の日本旅館東和洋行(北蘇州路四十二号、金玉均の殺された場所である)に投じ昼食をする。四時三十分、立花政樹来る。一行と共に立花政樹の寄宿先旭館(日本旅館)で夕食に招かれる。芳賀矢一、食前酒にウィスキーとラムネを飲みながら、立花政樹たちと話す。階下で水夫たちの宴会あり、三弦の音響く。九時、公家花園(Public Gardenn)に行き、椅子に腰かけて、一、三曲聴く。南京路(大馬路)を通り、左折し九江路(四馬路)・漢口路(三馬路)を遊歩する。芳賀矢一、書店に寄り、「梨園叢書」の有無を聞いたところ、売っていないと答える。十一時、東和洋行に帰る。立花政樹、再び来てラムネを飲んで帰る。狩野亨吉宛葉書を出す。」(荒正人、前掲書)


「夢ニ入ル者ハ故郷ノ人、故郷ノ家。醒ムレパ西洋人ヲ見、蒼海ヲ見ル。境遇夢卜調和セザルヿ(コト)多シ」(13日付け日記)

立花政樹;帝国大学文科大学英文学科第一期生、漱石の帝大英文学科唯一の先輩。立花が3年の時、漱石がただ1人入学して英文学科は2人になった。


漱石と芳賀は13日呉淞に停泊上海に上陸して、清国上海税務司になっていた立花政樹を江海北関(芳賀は江北海関と誤る)に訪問したが、家屋宏大にて容易に分らず困却、東和洋行(長崎人経営の日本旅館)を教えられて午餐をとっていると立花が来た。立花の家(旭館。日本旅館)に行き夕餐を共にし大いに歓談した。午後9時、3人で公家花園(パブリック・ガーデン)に行き音楽隊の奏楽を聞いた。それより南京路・四馬路の遊技場・寄席・酒楼・書店を見た。漱石は「頗ル稀有ナリ」と書き、芳賀は「京都京極通りの趣あり・・・提灯の大さ吉原遊郭の古図を見るが如し」と記した

11時東和洋行に帰り、立花も来てラムネを飲んで別れた。

翌14日午前中は張園と愚園を観覧、東和洋行に帰り立花も来て午餐を共にする。食卓の上は常にパンカ(天井から吊るし綱で引いてあおぐ大うちわ)を動かして涼をとるので、立花に聞くと、税関でパンカを動かす人を雇う一日の賃金15銭という安さだった。午後3時小蒸気で本船に帰り、ロンドンに向かった。

9月13日

憲政党、伊藤博文の新党参加のため、解党決議。総務委員星亨より「自由党史」編纂提案。残務委員5名(末松謙澄・星亨・林有造・松田正久・片岡健吉)に委ねられる。

翌年、星が暗殺され、編纂は旧盟主板垣に委ねられ、監修者板垣の史観が色濃く投影。直接執筆者は宇田友猪・和田三郎。

9月14日

津田梅子は、麹町区5番町(現・千代田区5番町)に女子英学塾(後の津田英学塾)を設立し、開校式を行う。塾長津田梅子、顧問山川捨松、教師アリス・ベーコン。

9月14日

上海にいる漱石


「九月十四日(金)、朝、物売りの呼び声が高い。売り手も買い手も秤を使う。車は一輪車が多い。両側に人間や荷物を乗せて押して行く。人力車は、「東洋車」と云い、車夫はみんな浅黄の衣服を着ている。午前九時、一行は車を連ねて、南京路を西に二キロほど行くと左側に張園がある。園は頗る広い。蓮池や芝生もある。草木など日本と変りないが、松はない。広壮な西洋料理店や喫茶台もある。張園を出て約二キロ行くと、愚園に至る。入場料十銭。高楼が錯綜し、中国の古画を見る感じである。高楼の中間に小さい池があり、橋が架せられている。小さい建物のなかに入ると、名人の書画などを掲げ、喫茶台や喫煙台がある。紫檀の机である。演劇の舞台のある亭もある。亭長はしきりに茶を勧める。阿片を喫して眠る客もいる。廊下や壁間に飾ってある絵は、浅草の奥山のものに似ている。人工の巌石が多い。その傍らには、芭蕉が高く聳えている。(実際の芭蕉かどうかは分らぬ)愚園を一覧して、帰途につく。(芳賀矢一「留學日誌」)「愚園張園ヲ見ル愚園頗ル愚ナリ、」(日記)帰途、街路に柳や槐が植えてあり、日光を遮り、清涼の感を抱く。樹上に弱い蝉の声がする。東和洋行に戻り、立花政樹も共に昼食をする。パンタで扇いでくれるので涼しい。食後、中国人来て筆墨を勧める。芳賀矢一も購う。掛け値が甚しい。午後三時、一行は波止場に行き、小汽船 Bremen (ブレーメン)号に乗り、黄浦江を下って Preussen (プロイセン)号の停泊している呉淞まで行く。沿岸で漁夫が四つ手網で漁をしている。新しい旅客が乗り込んで来て、談話室や食堂は賑う。七時頃、見送り人たちは接吻をして立ち去る。夜、風が強くなる。」(荒正人、前掲書)


9月14日

仏、労働総同盟(CGT)、原則的にゼネスト戦術採択。


つづく

20万人がワシントンポストを解約 / 米大統領選、リベラル主要2紙のハリス氏支持見送りに激しい反発(AFPBB) / 米大統領選 ワシントン・ポストが支持候補表明せず オーナー判断か (毎日) / ワシントンポスト紙が ハリス推薦の社説記事を出稿直前でとりやめ オーナーのベゾスが命じたと報道 / ワシントンポストとLAタイムズは今までずっと大統領選で支持する候補を表明してきた。今年は両紙ともに編集部はカマラ・ハリス支持を決めたが社主が表明を止めた。トランプが大統領になったら自分を批判したメディアに報復すると宣言しているからだ。



 

米IT大手経営者、トランプ氏に続々と連絡 大統領選目前に関係構築の動き(CNN)

2024年10月28日月曜日

唖然とする大阪の選挙報道番組

BBCニュース -【米大統領選2024】 トランプ支持者にとって「MAGA」とは? NYの大集会で聞く

 

〈比例票の前回比較〉 ⓵大勝した立憲は実は比例票を伸ばしていない。維新の減らす300万票が入ってくるはずだったのに。  ②自民も500万票減らしたが、一番票が流れたのは国民で350万票も伸ばした。 ③参政・保守も300万獲った。   

 

電通に、ですか ⇒ 片山さつき氏 自民党のSNS戦略で改善点指摘「頼んで作っちゃったり」「本人がやっている感ないとダメ」(スポニチ);「「うちの場合はネットで上げるものも電通に頼んで作っちゃったりしている。広報がそういうやり方だけど、本人がやっている感がないとダメで」と打ち明け、出演者を驚かせた。」

大杉栄とその時代年表(297) 1900(明治33)年9月1日~9日 坪内逍遥「(小学校用)国語読本」 英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言 但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く 漱石、英国留学のため横浜より離日 藤代禎輔・芳賀矢一同行     

 

第二次ボーア戦争

大杉栄とその時代年表(296) 1900(明治33)年8月23日~31日 袁世凱、山東省に義和団はいなくなったと宣言 漱石、子規と最後の面会 幸徳秋水「自由党を祭る文」 より続く

1900(明治33)年

9月

坪内逍遥(41)、前年から編纂に従事していた小学校用「国語読本」刊行。教育界に大きな反響を与える。

9月

大杉栄(15)。幼年学校2年に進級。1学年終了時の試験での成績は7,8番

9月上旬(日不詳) 

漱石、虚子(神田区独楽町25番地、現・千代田区神保町1丁目4の20の22)を訪ね、散歩に連れ出し、西洋料理店に立ち寄る。鶏を食べる時、指で鶏の骨をつまんで、しゃぶりつく、虚子が鶏はそんなふうにして食べるのですか、と聞くので、西洋では、鶏は手で食べていいことになっていると教える(高浜虚子「漱石と私」)。虚子と共に寄稿先(中根重一方)に戻り、『蝿丸』を謡う。寺田寅彦も同座する。

9月1日

この日付け「労働世界「(第65号)、「◎高野房太郎氏は愈清国へ渡航せらるるよし。氏や其共営店に尽瘁し我組合振起策に熱心にして今や渡清以て大いになすあらんとす。吾人は氏の健全無事其志望を達して帰朝されんとことを待つ」

9月1日

漱石、藤代禎輔(素人)・芳賀矢一と共に横浜に行く。午前10時30分の汽車で出発。ロイドに船便のことを問合せ、切符を買う。停車楼で洋食を食べる。午後3時に帰る。

9月1日

通信省、郵便規則公布。私製葉書・封緘葉書・私書函制度などを開始。施行は10月1日。

9月1日

産業組合法(3月7日公布)、施行。

9月1日

内務省、清涼飲料水営業取締規則施行(公布は6月5日)。

9月1日

英、ボーア戦争勝利(トランスヴァール併合)宣言。但し、以降もゲリラ戦として戦争は続く

〈これまでの経緯〉

ボーア戦争とは;

イギリス(保守党内閣植民相ジョセフ=チェンバレン)が、南アフリカのイギリス領ケープ植民地の北方に位置するオランダ人(ボーア人)の2国家(トランスヴァール共和国・オレンジ自由国)を侵略し、2年7ヶ月(189910月~1902年5月)に及ぶ戦争でこの2国家を併合した帝国主義戦争。

ボーア人(ブール人)

イギリス人より先に1652年に南アフリカに入植していたオランダ系の白人の子孫。ナポレオン戦争の時期、1806年にイギリスがケープ植民地を占領して以来、イギリスの支配を避けて北方に移住し、現地のアフリカ人の土地を奪ってオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建設。その地でダイヤモンドと金が発掘されたことを機に、イギリスは植民地支配をその地に拡大しようとした。

イギリスのブール人国家への侵略

 オレンジ自由国でダイアモンド鉱が発見されると、イギリスはケープ植民地への併合をねらい、1877年、トランスヴァール共和国の併合を強行。それに対してトランスヴァール側の激しい抵抗が起こり、1880年に両軍が衝突(第一次ボーア戦争)。ボーア人は果敢に戦い、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦した。

セシル=ローズの強攻策

1886年、トランスヴァールに金鉱が発見されると、現地のイギリス人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地首相に就任するとともにイギリス南アフリカ会社(BBAC)を設立、1890~94年にかけてトランスヴァールの北方の広大な土地に武装した遠征隊を派遣し、現地アフリカ人を制圧して強引に領有し、ローデシアを建設した。さらにその地からトランスヴァール介入の機会をうかがい、1895年12月、トランスヴァール内のイギリス人を保護するという名目で軍隊を侵入させた。しかし、侵入部隊はボーア軍によって阻止され失敗。この強引な干渉策は内外の批判を浴び、イギリス政府もセシル=ローズを首相の地位から解任せざるを得なくなった。

ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策

イギリスの植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、セシル=ローズのアフリカ植民地拡大策を継承し、ボーア人を盛んに挑発した。チェンバレンによって任命されたケープ植民地首相ミルナーは、トランスヴァールとオレンジ自由国在住のイギリス人に選挙権を与えることを要求、イギリス国内に向かっては両国内のイギリス人が無権利な「奴隷状態」に置かれていると宣伝して、開戦をあおった。チェンバレンは議会で軍隊増員が認められない場合に備えて、議会の承認の必要のないインド兵を動員し、さらにオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから義勇兵を募集した。

南アフリカ戦争(第二次ボーア戦争)の開始

トランスヴァール共和国側も戦争は避けられないと判断し、同じボーア人の国であるオレンジ自由国と同盟して開戦に備えた。1899年10月に開戦したこの戦争は激しい抵抗によって1902年5月までの2年半つづいた。

戦争の経緯

1899年10月に始まった戦争は、1900年9月1日を境として二期に分けられる。

イギリス軍は「マジュバの復讐」(1881年の第1次戦争でイギリス軍が大敗した戦い)を叫び、ボーア軍は侵略阻止、独立維持を掲げて結束した。ボーア軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器で装備されており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争(同時期のマフディーの反乱や義和団事変ではまだ鉄砲や槍しかない相手だった)であったため、12月のケープ北方のシュトルムベルクの戦闘では約3千のイギリス軍がわずか800人のボーア軍に大敗するなど苦戦した。イギリス軍は、総司令官にインド大反乱を鎮圧したことで知られるロバーツ陸軍元帥、参謀長にマフディーの反乱を鎮圧したばかりのキッチナー将軍を任命し、一挙に18万の大軍を派遣した。これによって態勢を立て直したイギリス軍が攻勢に転じ、翌年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンを陥落させ、さらに6月にトランスヴァール共和国の首都プレトリアに入城し、9月1日にトランスヴァール併合が宣言された。

しかし、その後もゲリラ戦の形態で戦争は続く。

コナン=ドイル、チャーチル、ガンディー

 ボーア戦争には、コナン=ドイルが軍医として参加、彼はイギリス軍の行動を正当な愛国心の発露であるとしてに弁護している。

ウィンストン=チャーチルは、25歳で、新聞記者として従軍。1899年11月、前線に向かうチャーチルを乗せた装甲列車が攻撃され、チャーチルは捕虜となる。ナタールの捕虜収容所に送られたチャーチルは、約1ヶ月後に脱出しモザンビークに逃れる。彼はその体験を記事にして、一躍有名になり、1900年の総選挙で保守党から立候補し初当選する、

南アフリカのナタールで弁護士をしていたガンディーは、1899年ボーア戦争に遭遇したときのことを自伝には次のように記している。

「宣戦の布告が行われると、わたしの個人的な同情は、ことごとくボーア人側に集まった。しかしわたしは、そのとき、このような場合自分の個人的信念に執着することは正しくない、と思ったのであった。・・・(中略)・・・イギリスの支配に対する忠誠心にかられて、わたしはイギリス側に立ってその戦争に参加した、と言っておくだけで十分だろう。わたしがイギリスの市民として諸権利を要求したとすれば、イギリス帝国の防衛に参加することもまた、当然私の義務であると思った。そのころわたしは、イギリス帝国の枠内で、またそれを通してのみ、インドは完全な解放を達成できる、という見解を持っていた。そこで、できるかぎりたくさんの同志を呼び集めた。そして非常な努力をして、野戦病院隊として働くことを彼らに承諾させた。」(蝋山芳郎訳『ガンディー自伝』)

ガンディーの野戦病院隊は後方だけでなく、戦況の激化にともなって前線にも出て負傷者の救出にあたった。その活躍はイギリス兵からも感謝され、インド人もヒンドゥー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、タミール人、グジャラート人のべつなく、みなインド人だという感情が深く根を下ろした。ガンディーら病院隊指揮官全員に戦功賞が与えられた。"

9月1日

米、フィリピンへの立法権行使開始。フィリピンの立法の全権、マッカーサー軍政長官からタフト委員会に移管。

9月1日

南方熊楠、ロンドンの南ケンジントンの下宿を出発、テムズ川港で日本郵船「阿波丸」に乗船、帰国の途につく。イギリスには8年滞在、その前にアメリカ6年滞在。10月15日神戸着。


「南方熊楠は、明治二十五年(1892)に、五年に余る放浪を切り上げ、 London に渡り、 Britishi Museum (大英博物館)で、東洋関係の資料の整理に当る傍ら、粘菌類の採集を行い、民俗学の研究を行う。 ""Nature"" そのほかに発表する。」(荒正人、前掲者)


9月2日

アイルランドのダブリンのフェニックス・パーク、ナショナリズムを掲げる大規模デモ。アイルランド民族同盟の綱領を決議採択。民族自治・地主制廃止を要求。アイルランドの政党に英諸政党と一線を画するよう要求。

9月3日

6六代目三遊亭円生、誕生。

9月5日

救世軍と二六新報社、東京新吉原で娼妓の自由廃業運動を行い、午後1時すぎ遊郭側と乱闘。8月に自由廃業できぬことを訴えた娼妓を連れ出し、日本堤警察署で「二六新報」記者立会いで廃業手続きを行う。

9月5日

ラービフ帝国滅亡。チャド、仏の軍事保護領となる。

9月6日

この日付け漱石の寺田寅彦宛ての葉書。


「小生出発は滊船出発の時刻変更の為め午前五時四十五分ノ滊車と相成べくと存候。是も正確ならず御見送御無用に候


秋風の一人をふくや海の上」

9月7日

漱石、芳賀矢一・藤代禎輔・稲垣乙丙と連名で留学に出立する旨を新聞広告する。

9月7日

ガーナ、アシャンティの蜂起の主な反乱指導者、英に無条件降伏。

9月8日

漱石、横浜よりドイツ汽船「プロイセン」に乗船し離日。ドイツに留学する藤代禎輔(独文)、芳賀矢一(国文)らが同行。


「金之助が「西征の途に上」ったのは、明治三十三年九月八日である。その日の未明、彼は鏡子や岳父中根重一ら数人に伴われて、牛込矢来町中ノ丸の中根家を出た。まだ赤痢の予後を養っていた鏡子の母は、辛うじて玄関まで見送りに出た。横浜の波止場に着いてみると、やはり寅彦は来ていた。船はドイツ・ロイド社のプロイセン号という客船で、乗客中日本人は金之助と芳賀矢一、それに藤代禎輔の三人だけであった。同行するはずだった第二高等学校教授高山林次郎(樗牛)は、七月におびただしく喀血し、胸部疾患のために留学を断念していた。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

「九月八日(土)、晴。鏡の母中根カツは健康を回復し、玄関まで見送る。人力車で新橋停車場へ行く。出発予定の一同集合する。午前五時四十五分、新橋停車場を出発、六時四十分横浜停車場着。(予定)残月見え、横浜も晴。鏡、狩野亨吉らは横浜で見送る。埠頭に赴き、.....(プロイセン)号に乗り込む。一行は、中等船室で戸塚機智(軍隊医学)と同室である。隣りの百三号室には、芳賀矢一(国文学)・藤代禎輔(素人)・稲垣乙丙乗り込む。.....北ドイツ・ロイド社.....プロイセン船長.....キルヒネル、二檣二煙突総トン数三千二百七十八トン、平均時速十二・五ノット)号で横浜を八時に出航する。出航に際しては、.....(ラ・マルセーエーズ)が奏せられる。プロイセン号を選んだのは、藤代禎輔の主張に従ったもの。給仕頭は軍隊式に厳格で、一同悩まされる。交渉には藤代禎輔があたる。船酔い、下痢、暑熱などに苦しみながらもイギリスの文学書を熱心に読む。午後三時頃、驟雨来る。「遠洲(州)洋ニテ船少シク揺ク晩餐ヲ喫スル能ハズ」(「日記」・小宮豊隆校訂)」(荒正人、前掲書)


「★九月九日(日)、午前九時三十分頃、神戸湾に入る。十時三十分投錨する。小汽艇に乗って、埠頭に着く。大阪市に住む鈴木禎次・時子(鏡の妹)夫妻見送りに来たが行違いで会えず、残念に思う。鈴木時子から餞別に万年筆を貰う。諏訪山温泉(鉱泉、現在、展望台)の中常盤で湯に入り、浴衣がけで日本料理の昼食をする。(この順序は推定)一行と共に、芳賀矢一の立寄り先を訪ね夕食をする。漱石は下痢のため食べない。午後八時半、人力車で埠頭に向う。十時、出航する。空に雲なく、海上に金波銀波漂う。イギリス人と中国人の混血児乗込む。」(荒正人、前掲書)

つづく

林官房長官「牧原法務大臣と小里農林水産大臣が落選したことについて「両大臣が落選したことは大変残念だが、引き続き大臣として責務を果たしていただきたいと考えている。辞任の申し出も受けていない」」と。 / 「法相退く意向」との報道あったけど、、、    

裏金事件に関わった46人は18勝28敗だった(時事) / 衆議院の安倍派の勢力、公示前の57名から21名に / でも、安倍派五人衆のうち、四人は国会に戻ってくる

「あぶり出す意味で」って、人々の願いを政争の手段に使うスタンスがミエミエ。野田さんらしくない言葉使い ⇒ 立憲・野田代表 選択的夫婦別姓導入へ「自民党あぶり出す意味でも採決したい」

《スーパーボランティアの尾畠さんが能登半島入りも 1日で活動断念した理由》被災地を前に初めて涙した日、明かした「85歳を区切りに引退」発言の真意(NEWSポストセブン); 大分から20時間かけてようやくたどり着いた輪島市だったが、尾畠さんを待ち受けていたのは意外な“壁”だったという。 「(登録や許可が必要で)すぐにボランティア活動はできないと。『県庁と市役所、社会福祉協議会に許可をもらってOKならチームに入って行動してください』と聞いてちょっとダメだなぁと思った。これまでは被災地のボランティアセンターに行けばすぐに始められたけど。車中で1泊だけして帰りましたが被災地を前に何もできず、初めて涙が出ました」 

改憲勢力3分の2割れ(共同);「自民、公明、維新、国民などによる改憲勢力が衆院3分の2を下回った。」 / 立憲、共産、社民、れいわの4党の議席が定数の3分の1に到達 ← 「めでたさも中くらい」だった今回の選挙で、まずまず良かったところかな。

2024年10月27日日曜日

寛弘8年(1011) 藤原為時(紫式部の父)は越後守に任官。藤原惟規(紫式部の弟)、越後で急逝。一条天皇(32歳)病歿。 三条天皇(36歳)即位。敦成親王が立太子。

東京 江戸城(皇居)東御苑
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寛弘8年(1011)
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1月5日
藤原惟規(紫式部の弟)、従五位下に叙位され、貴族の仲間入りを果たす。
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2月1日
藤原為時(紫式部の父)は越後守に任官した。越後国は遠方ではあったが「上国」にランクされる国であり、海上交通の要衝として栄えていた。そのせいか歴代の越後守には坂上田村麻呂、藤原成親、木曾義仲、新田義貞など歴史上の大物の名が並んでいる。
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春頃
藤原惟規(紫式部の弟)、父為時の任地の越後で急逝、満37歳。
彼の辞世の歌 「みやこには恋しき人の多かれば なほこのたびはいかむとぞ思ふ」 は秀歌として評価され、後拾遺和歌集に収録された。
また、惟規の玄孫・藤原邦綱は平清盛の側近として活躍、その娘・輔子は清盛の五男・平重衡の妻となっている。
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5月22日
「殿上間(てんじょうのま)に伺候(しこう)していたけれども、(一条)天皇は中宮(藤原彰子)の御在所に渡御されているということであったので、退出した。」(『権記』寛弘8年(1011)5月22日条)
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5月下旬
・一条天皇(32歳)発病
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5月23日
「主上(一条天皇)は、この何日か、尋常ではいらっしゃらなかった。今、頗(すこぶ)る重く病みなされた。そこで内裏(だいり)に参上した。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月23日条)
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5月25日
5月22日に一条帝が病に倒れたのを受けて、同月25日、道長は赤染衛門の夫・大江匡衡に命じて譲位についての易筮(算木による易占い)をさせたところ「帝の崩御」という卦が出た。卦の内容と道長が自身の譲位の準備にかかっている事を知った一条帝は、ショックを受け病状が悪化してしまったという。
「内裏(だいり)から退出した。土御門第の法華三十講の結願であった。講が終わって、また内裏に参った。女方(にょうぼう/源倫子)も同行した。(大江)匡衡朝臣(あそん)を召して、易占(えきせん)を奉仕させた。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月25日条)
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5月27日
「(一条)天皇は、私を遣わして、東宮(居貞親王)と御対面なされるということをお伝えになられた。これは御譲位に関する事であろうか。東宮が内裏(だいり)に参られる際の御室礼(しつらい)について、すぐに承って奉仕させた。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)5月27日条)
一条帝としては、最も信任厚き側近である行成が敦康親王の立太子を進言してくれる事を期待していたが、行成にその事を反対された挙句徹底的な理詰めで敦成親王の立太子を進言され、気骨も意地も砕けてしまった。この日以降、一条帝の容態は急速に悪化していった
「(一条)天皇から召しが有った。御前に伺候した。おっしゃって云(い)ったことには、「譲位するということは、決定がすでに行われた。一親王(いちのみこ/敦康親王)については、如何(いかが)すべきであろうか」と。」
「すぐに奏上して云ったことには、「この皇子(敦康親王)の事について、思い嘆かれるところは、もっとも当然のことです。そもそも忠仁公(ちゅうじんこう/藤原良房)は、寛大の長者でした。」
「昔、水尾天皇(みずのおてんのう/清和天皇)は文徳天皇の第四皇子でした。文徳天皇は、愛姫(あいき)紀氏(紀静子)の産んだ第一皇子(惟喬親王)を、その母への愛情によって、また優寵(ゆうちょう)されていました。」
「帝(文徳天皇)は正嫡であるというので、惟喬親王に皇統を嗣がせようという志が有りました。ところが第四皇子(惟仁親王)は、外祖父の忠仁公(藤原良房)が朝家の重臣であるという理由で、遂に皇太子となることができたのです。」
「今、左大臣(藤原道長)はまた、現在の重臣外戚、その人であります。外孫である第二皇子(敦成親王)を定めて儲宮(もうけのみや)としようと思われるのは、最も当然のことです。」
「今、聖上(一条天皇)は、正嫡であることによって第一皇子(敦康親王)を儲宮としようと思われたとしても、丞相(藤原道長)は未だ必ずしもすぐには承引しません。現に御病悩されたならば、時代はたちまち変事がもしかしたら嗷々とするでしょう。」
「このような大事は、ただ宗廟社稷の神に任せて、あえて人力の及ぶところではないものです。・・・今、皇子(敦康親王)の為に怖れるところがないわけではありません。能く伊勢大神宮に祈り謝られるべきです。」
「それでもなお愛憐(あいれん)の御意向がお有りになるのでしたら、年官・年爵および年給の受領(ずりょう)の吏を賜い、一、二人の宮臣(きゅうしん)に恪勤(かくご)の便宜を得させれば、これが上策でしょう」ということだ。」
「すぐに(一条)天皇が重ねて勅して云(い)われたことには、「汝(なれ/藤原行成)は、このことを左大臣(藤原道長)に伝えるか、如何か」と。」
「すぐに奏上して云(い)ったことには、「あれこれ、仰せに随(したが)います。ただし、このような事は、御意向の趣旨を直接、仰せ事として賜るべきでしょうか」と。そこで天許(てんきょ)が有った。」
「(大江)匡衡朝臣(あそん)が易筮(えきぜい)に云(い)ったことには、「豊の明夷(めいい)、豊卦(ほうけ)は不快である」と云うことだ。」
「占った者が伝えて云ったことには、「この卦(け)は、延喜(醍醐天皇)と天暦(村上天皇)が、御病脳が終わった際(崩御)に、共に遇(あ)ったものです。それのみならず、今年は移変(いへん)の年に当たります。・・・」
「・・・特に慎まれなければならないということを、去年の春、奏上したところです」と云うことだ。「これらの結果を左大臣(藤原道長)は覚悟して、二間において権僧正(慶円)と占文を見、共に涕泣してしまった。・・・」
「・・・その時、上(一条天皇)は夜大殿(よるのおとど)の内にいらっしゃり、御几帳の帷の継ぎ目からこの事を御覧になって、疑い思われる事が有った<『御病悩が重くなって、崩御が有るだろう』という趣旨である>。・・・」
「・・・それで御病悩は、ますます重くなってしまわれた。その時に、この譲位の議が起こった」と云(い)うことだ。」
「後に聞いたところによると、「后宮(きさいのみや/藤原彰子)は、丞相(藤原道長)を怨(うら)み奉(たてまつ)られた」と云(い)うことだ。」
(『権記』寛弘8年(1011)5月27日条)
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6月2日
「一条天皇と東宮(居貞親王)の御対面が有った。これは御譲位についてである。巳剋(午前9時~午前11時ごろ)に、東宮が渡御された。御対面の儀の際は、清涼殿南廂の御東障子の許に御茵一枚を敷いて、東宮がお座りになられた。」
「(一条)天皇が出御なされ直ちに譲位を仰せになられた。「私の次には東宮(居貞親王)がおられるでしょう」と仰せになられたということだ。私は天皇の御前に参った。次に天皇がおっしゃって云われるには「東宮はお聞き入れになった」と。」
「また(一条天皇が)おっしゃって云われたことには、「敦康親王の処遇について、あの宮(居貞親王)から申し出て欲しい欲しいと思っておったのであるが、東宮が早く退出されたので聞くことができなかったのである。・・・」と。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月2日条)
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6月13日
・一条天皇(32歳)が譲位し出家。
居貞(いやさだ)親王(36歳、三条天皇)が受禅、敦成親王が立太子する

皇太子に彰子が生んだ一条天皇の第二皇子敦成親王が立ったというは、敦成の外祖父にあたる道長にとって、即位の折には摂政となることが確定したことを示す。

「この日、旧主(一条天皇)は、御病悩が極めて重かった。そこで旧主は、譲位の儀に際しての様々な事を行うことができなかった。私は、旧主の御前に伺候していた。戌剋の頃は、旧主の御病悩は頗る宜しくいらっしゃった。」
「東宮(敦成親王)の御在所に参って、慶賀を啓上した。拝礼(はいらい)が有った。皆、靴を着していた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月13日条)
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6月21日
・一条天皇の病は既に絶望の状態。
2日前、重体のために天皇は剃髪を済ませる。
この日夜10時頃、侍臣や僧侶が粛然と見守るなか、中宮彰子が見舞に参上。凡帳の下に寄ったのを知った天皇は、しばらく起きなおり、遺詠を口ずさむ。

露の身の草のやどりに君をおきて 塵をいでぬる事ぞかなしき (『御堂関白記』)

翌22日午前8時、殆ど臨終と思われるに至るが、その後一旦持ち直すかに見えたが、正午頃歿する。

一条天皇と道長
道長が天皇の手習いの反故紙などが入っていた手箱を開けると、その反故の中に、
「叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国」(叢蘭(そうらん)茂らんと欲して秋風吹き破り、王事章(あき)らかならんと欲して讒臣(ざんしん)国を乱(みだ)る」
と書いたものがあった。
これは、『帝範(ていはん)』にある文章に少し変更を加えたもので、せっかく蘭が美しく茂ろうという時に、秋風が吹いてこれをめちゃめちゃにしてしまうように、国王が正しい政治をしようとすると、よこしまな臣が邪魔してぶち壊す、という意味。
『帝範』は、唐の太宗の作った、帝王にたいする訓戒を記した本で、平安時代初めから、帝王学の教科書として用いられていた。

道長は、「讒臣」は自分のことと思い、その紙を破り棄てたという。
この話は、道長の威勢に抑えられて、手も足も出せなかった一条天皇が、手習いのおりに心中の不満を帝範の文句に託して書いたもので、一条天皇の世に、道長の勢力の強大さを示す話としてよく使われる。

道長の勢力は大きく、一条天皇も勝手な振る舞いはできなかったが、この話だけから、一条天皇と道長との関係を捉えられない。
道長は一条天皇の時、15年間、左大臣であったが、その間、天皇は道長を第一の臣として尊重していたが、決してロボットではなかった。
道長も威勢を示しながらも天皇の外叔父としてよく後見し、天皇の意向を尊重した。
天皇と道長とは、けっして不穏な関係にはなかった。

関白になれなかった道長
一条天皇は英明の主といわれ、詩歌管絃にも長じ、笛の名手であったという。
思いやり深く、情におぼれて無茶に陥ることもなく、節度を守り、ほどのよさを心得た天皇であった。学問にも関心は深く、道長や行成との間にも、和漢の書籍や仏典のやりとりがあったと記録に見える。
この天皇は、政治的にも延喜・天暦の世にならう気持があったと思われ、第一の臣下で外叔父である道長を関白とせず、終始左大臣として遇したこともそのあらわれと考えられる。

長徳元年(995)、関白道兼の没後、天皇は後任を決するのを渋った。
この時、既に天皇は関白を置きたくない気持があったと思われる。
結局、生母東三条院詮子の勧めがあって、道長に内覧の宣旨が下ったが、関白ではなかった。
当時一般には関白の宣旨が下ると考えられていたことが実資の日記にも見えるが、ついに関白は置かれなかった。

この歌にある「君」は中宮彰子の事と考えられるが、亡き皇后定子であるとする説もあり、帝の真意は定かでない。

「中宮(藤原彰子)が御几帳(みきちょう)の下におられたので、一条院が仰せられたことには、

露の身の 草の宿りに 君を置きて
塵を出でぬる 事をこそ思へ」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月21日条)

「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時)の頃、法皇(一条院)はしばらく起き上がり歌を詠んで云われたことには、

「露の身の 草の宿りに 君を置きて
 塵を出でぬる 事をこそ思へ」」
「ただし、はっきりとその意味を知ることは難しい。その時、近侍していた公卿(くぎょう)や侍臣(じしん)、男女の道俗(どうぞく)でこれを聞いた者は、この為に涙を流さない者はなかった。」
(『権記』寛弘8年(1011)6月21日条)
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6月22日
「巳剋(みのこく/午前9時~午前11時ごろ)に、一条院は崩じなされた。私は、伺候していた人々に、座を立つことを命じた。伺候すべき人々を定めて、お側に侍(じ)させた。」
「「一条院のお側に伺候したいと思います」と申した者が多かったのではあるが、朝廷の行事が有る。そこで伺候させなかったのである。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月22日条)
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6月29日
「右大弁(源道方)を遣わして、(三条)天皇の内裏への遷幸について奏上させた。先日は来月11日に行うということを申した。ところが、故一条院の御葬儀は来月8日である。・・・甚だ近い。・・・陰陽師たちを召して、また事情を聴取した。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)6月29日条)
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7月1日
「右大弁(源道方)が来て、三条天皇の仰せを伝えて云(い)ったことには、「内裏への遷幸の事を定め申しなさい」と。」
「内々に(安倍)吉平を召して問うたところ、申して云(い)ったことには、「8月11日が、まず(賀茂)光栄朝臣とも意見が一致して、宜しい日でしょう」と。・・・然るべき御祈祷を行うならば、その日に遷幸を行うのは吉日であると申していた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)7月1日条)
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7月3日
「(源)道方朝臣(あそん)を介して、8月11日が遷幸に吉(よ)いということを、(安倍)吉平と(賀茂)光栄が申していることを(三条)天皇に奏上させた。内々の事である。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)7月3日条)
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7月11日
「民部大輔(藤原)為任が、月に乗じてやって来た。多くの事を談じた。新主(三条天皇)の御事である。「聴されることになるであろう内外の卿相は、左大臣(藤原道長)・大納言(藤原)道綱・中納言(藤原)隆家・三位中将(藤原)教通」と云うことだ。」(『小右記』寛弘8年(1011)7月11日条)
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7月26日
「近日、上下の者が云(い)ったことには、「(藤原)斉信・(源)俊賢両人は、左相府(藤原道長)の直廬(じきろ)に於いて、毎日、尊卑(そんぴ)を讒言(ざんげん)している。特に俊賢は、狂ったようである」と。」
「或いは云ったことには、「(源)俊賢は、先主(一条天皇)の代のように、顧問の臣となるということを、書状で女房(三条天皇の御乳母。謂うところの本宮宣旨)の許に送った。すぐに奏聞を経たところ、天皇の機嫌は不快になった」と云うことだ。」
(『小右記』寛弘8年(1011)7月26日条)
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8月11日
この日が、故一条院の七七日の御正日である。・・・この日、新帝(三条天皇)は内裏に参内なされた。・・・未剋(午後1時~午後3時ごろ)に天皇は私を御前に召され、蔵人・殿上人・蔵人所雑色を定められた。その儀は、常と同じであった。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)8月11日条)
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8月23日
「女御宣旨が下った。(藤原)妍子と(藤原)娍子であった。参入していた公卿や殿上人が、慶賀を奏上した。(藤原)能信を遣わして、女御とするという(三条)天皇の御書状を、尚侍(藤原妍子)の許に届けさせた。」
「私の関白の事については、(三条)天皇が故一条院と御対面なされた後、度々仰せが有った。ところが、今年は重く慎むべきであったので、辞退し申したものである。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)8月23日条)
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8月
・道長、内覧となる

三条天皇と藤原道長
三条天皇の治世となり、道長は引き続いて内覧の左大臣であった。
一条天皇の時代と比べて大きな変動はないように見えるが、実際は、以後4年半は、天皇にとっても道長にとっても、極めて不愉快な時期だった。

三条天皇は冷泉天皇の皇子で、母は道長の姉超子。
一条天皇も母はやはり道長の姉の詮子。
従って、道長は両天皇の外叔父にあたり、血縁では差はないけれども、実際には道長は一条天皇とはうまくいっても、三条天皇とは初めから駄目だったらしい。
また、三条の母超子は若いうちに(天元5年(982))没し、一条の場合の詮子のように道長と三条との間の調整役にはなれなかった。

三条天皇は既に36歳(一条天皇より4歳年長)であり、道長に対抗する振る舞い多かった。
一方の道長は、孫の一条皇子の敦成(あつひら)親王を新東宮として、早く後一条天皇即位を望んだこともあり、両者の間には軋轢が多かった。

8月23日、三条天皇から蔵人頭を通じて関白に任じたいと言ってきたが、道長は「前々この仰せ有り、しかるに不能の由を申す」と答えた。
また、天皇と対面の後、度々関白の仰せがあったが今年は重く慎むべきであるので辞退したと『御堂関白記』に記している。
その結果、「上下の文書触れ示すの後奏聞すべき宣旨」(内覧宣旨)が下った。

つまり、後に不仲になる三条天皇が、道長に関白就任を求め、道長は自らの意思でこれを断っている。

この20日ほど前、一条院追悼の念仏の座で、道長と内大臣公季と実資とで、貞信公忠平が太政大臣についたのは、醍醐天皇が臨終の直後だったか朱雀天皇の後だったかで、「清談(せいだん)」していて、左府(左大臣=道長)の気色は「太(はなは)だ温和で、和して不快なし」だった、と実資が記している。

内覧と関白
内覧は、「太政官申す所の文書」をまず道長に触れよという宣旨と「宮中の雑事」を行なえという宣旨からなる。
太政官内の雑事の掌握と太政官から奏上する文書の内覧からなり、文書と機構を把握して太政官政務を掌握したのである。
このことは関白の主要機能であり、これに拒否権が加わるのが関白だといわれており、この点では関白と差はない。
内覧すべき文書の範囲は、「奏聞を経るの文を以て内覧を経べし」とのべられていて、太政官から天皇に奏上すべき文書すべてを対象としたようだが、蔵人所から奏上する文書については制度上は対象とならないらしい(ただし道長など一上は蔵人所別当を多く兼ねていた)。
内覧も関白も摂政も、太政官の統轄が中心となる権能だった。

関白にならない違いは・・・
それは左大臣にとどまり政務を行なったこと、左大臣を筆頭の上卿の意で一上と呼ぶが、一上の事(一上の政務)を手放さなかったことにあったと思われる。

一上は、太政官の諸公事を執行する職能であり、通例筆頭公卿の左大臣である(欠であれば右大臣以下になる)。
ただし当日、一上が都合が悪く欠席すれば、右大臣以下の出席公卿の上首が臨時に行なうので、一上道長のもとでも右大臣顕光や内大臣公李がさまざまな公事を主催した。
しかし左大臣が関白になると、右大臣が一上となり、関白は一上の職能を行なわないようになる。つまり関白は陣定など公卿議定には加わらないのが慣行となっていき、兼家が大臣を辞して摂関を独立の官としてからは、それが明確になった。また太政大臣も一上の事を行なわない。

それに対し、道長は、寛弘2年の諸国申請雑事定や長和の元号定にみえたように、みずから一上左大臣として陣定を主催、出席し、大臣以下の公卿を統轄した。

結局、藤原道長は、内覧となった長徳元年(995)から長和五年(1016)までの21年間、筆頭の右大臣、そして左大臣の地位にあり一上の地位にあった。
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8月
・この月、三条天皇大嘗会の悠紀(ゆき)・主基(すき)にあたる近江・丹波国から、大嘗会役を神寺王臣家庄を論ぜずに賦課したいという申請がみえる。
一国平均役の申請の早い事例。
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10月5日
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、尚侍(藤原妍子)が内裏に参入した。飛香舎を御在所とした。輦車(てぐるま)宣旨が下った。・・・輦車が内裏に入った後、饗宴が有った。」(『御堂関白記』寛弘8年(1011)10月5日条)
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10月16日
「(三条)天皇の御即位式が行われた。卯剋(午前5時~午前7時ごろ)に、大極殿に行幸があった。内弁の大臣(藤原顕光)が幄に就くのが遅かった。・・・辰剋(午前7時~午前9時ごろ)に、天皇は高御座に着しなされた。」
「亥剋(いのこく/午後9時~午後11時ごろ)に、東宮(敦成親王)が凝華舎に御入された。子剋(ねのこく/午後11時~午前1時ごろ)に、中宮(藤原彰子)は枇杷殿に移られた。」
(『御堂関白記』寛弘8年(1011)10月16日条)
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10月
・居貞親王(三条天皇)が即位。
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10月24日
・冷泉上皇、没。
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11月
・この月、上東門大路南、陽明門大路北、帯刀町(油小路)東、洞院西大路南(「洞院東大路西」の誤りか)で火事が起こり、「七百余家」が焼失した(『日本紀略』)。
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12月
・8日、9日の両夜、道長邸から膳所の銀の提戸(ひさげ)や衣裳が盗まれた。
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12月18日
「修理大夫(藤原)通任が参議を兼任した<蔵人頭(くろうどのとう)の上臈である右大弁(源)道方は、左大弁に(藤原)説孝がいたので、任じることはできない。説孝は、大弁を経ること6年の功労をすでに積んでいる。・・・」
・・・ところが主上(三条天皇)は、旧意が許さず、任じなかった。また、大弁が蔵人頭である時は、他官の頭が超越(ちょうおつ)する例はない。「ところが朝恩がすでに深かったので、任じたものである」と云(い)うことだ>。
(『権記』寛弘8年(1011)12月18日条)
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12月19日
「丞相(藤原道長)が密々におっしゃって云(い)ったことには、「(藤原)顕信を蔵人頭とするということについて、頻(しき)りに(三条)天皇の仰せの事が有る。・・・」
「・・・ところが衆人の非難を避ける為に固辞する<『不覚の者(藤原通任)の替わりに、不足の職の者(藤原顕信)を補される。きっと云(い)われるところが有るであろう』と云うことだ>」と。」
(『権記』寛弘8年(1011)12月19日条)
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旧ジャニーズ補償本部長を解任 「NHKスペシャル」放送で批判集め(毎日) / スマイルアップ(旧ジャニーズ事務所)の補償本部長の対応(動画) / 

ガザ再入植を求めるシオニストたち  22日 ガザ境界近くでシオニストらが集まり、ガザ再入植を求める集会を開いた。 彼らが訴えたのはパレスチナ人の追放・殺害。