2024年7月31日水曜日

【民営化すれば値段は下がるというのは幻想】 東京の火葬料、千葉の15倍 民営がコスト増を積極転嫁(日経);「日本に住むほとんどの人が人生の最後に迎える「火葬」。東京23区の料金は全国でも際立って高い。6月に9万円に上がり、6000円で済む千葉市の15倍になった。背景には、域内9カ所の火葬場のうち7つが民営という特殊性がある。電力や鉄道と異なり、寡占企業が価格を上げやすい状況だ。」  

 



 

トラブル相次ぐ福島第一原発、東電の重大な責任 汚染水漏洩など事故が多発。管理体制は大丈夫か(東洋経済);「いつか重大事故に発展しかねない──。そう思わざるをえないトラブルが、東京電力ホールディングス・福島第一原子力発電所で、2023年10月以来、相次いでいる。」    

 



 

大杉栄とその時代年表(208) 1896(明治29)年11月1日~25日 「二十六世紀」事件 一葉永眠(24歳8ヶ月) 〈一葉家族のその後〉

 


大杉栄とその時代年表(207) 1896(明治29)年10月1日~31日 台湾総督(桂太郎→乃木希典) 漱石、転職の気持ちを持ち始める 一葉、青山胤通の診察を受ける 雲龍寺に栃木・群馬県鉱毒事務所設置 より続く

1896(明治29)年

11月

朝鮮、漢城に独立門、建立。

11月

高橋新治輸入のキネトスコープ、神戸で上映。

11月

稲畑勝太郎、フランスで同窓生のオーギュスト・リュミエールからシネマトグラフを2台購入。

11月

二葉亭四迷、翻訳集「かた恋」(春陽堂)。ツルゲーネフ「かた恋」「奇遇」「あいびき」収録。

11月

大西祝「社会主義の必要」(「六合雑誌」)

11月3日或いは4日

彦根から上京した馬場孤蝶が一葉宅を訪れると、妹邦子は、「会つてくれとは言い兼ねる。唯見て行つて呉れ」と言うほほどの一葉の病状。病室をあけると、髪を乱した一葉が赤い顔で苦しそうに寝ていた。孤蝶が、「此の歳暮(くれ)には又帰つてきますから、その時又お目にかゝりましよう」と言うのを邦子が取り次ぐと、一葉は「呻くやうな苦しさうな声で『その時分には私は何に為って居ましょう、石にでも為って居ましょうか』と、ときれぎれ云った」(馬場孤蝶「一葉全集の末に」)。


また、(日付不詳)、一葉の危篤を知って病床に訪れた秋骨に、一葉は「美しい、才気のほの見える言葉づかいで」「皆様が野辺をそゞろ歩いてお居での時には蝶にでもなって、御袖の辺りに戯れまつはりませう。」(「一葉女史の追憶」大正7・9)と語ったという。

11月8日

「古事類苑」の刊行はじまる

11月9日

「二十六世紀」事件。この日付の新聞「日本」、「宮内大臣」(雑誌「二十六世紀」10月)を転載、伊藤博文と土方久元による「宮中支配」を痛撃。清浦内相と山県系議員の反撥により、両紙は発行停止処分となる。

宮内省は「日本」に全文取消しを求め、政府系紙「東京日日」「時事新報」などに、土方宮内相自身が反論を要請。「東日」「日本」間で、「皇室への大不敬」を巡り激しい記事の応酬。宮相は政府の処分を要求、臨時閣議は処分の是非・方法を巡り議論が分れる。山県系清浦法相・野村靖逓相ほか3閣僚は発行停止処分を主張。対して、大隈と、松方以下薩派閣僚は、第10議会まえに進歩党との連携破綻を怖れ、発行停止処分に反対。閣議は一旦、処分なしを決定するが、清浦は山県系勅選議員平田東助と協議の上、山県系の田中光顕宮内次官を通じて土方を動かし、この閣議決定に抵抗させる。結果、政府は閣議決定を覆す

「二十六世紀」は新聞紙条例の治安妨害条項による発行禁止、転載した「日本」や「宮中支配」批判を支持した「万朝報」「国民新聞」は発行停止。新聞「日本」主筆陸羯南は、条約改正運動以来進歩党や三曜・懇話会派に近く、松隈内閣支持の立場であったが、松隈内閣への幻滅を記す(品川は「陸実久々振り来訪云ク『トンダ馬鹿ヲ見満した。カカル弱キ人々は真ニシラサリシ、何カ好事ヲ一二遣ラセ度卜思ヒシカ殆絶念仕候。議会マデ持テレパヨイガ』などなどの話アリタリ」)。

11月13日

岸信介、誕生。山口県吉敷郡山口町。県庁役人佐藤秀助の2男、中学3年の時、父の実家に養子、岸と改姓。

11月14日

漱石、五高天草・島原修学旅行の引率。5泊6日で熊本~宇土~三角~町山口~富岡~小浜~雲仙~島原~百貫~熊本。

11月15日

この日付けの漱石の子規宛ての手紙。漢詩人本田種竹への漢詩添削を依頼。


「「俳句頗る不景気につき差控へ申候其癖種切の有様に御座候」と、句稿を送ることが出来ないと伝える一一月一五日付の手紙では、「日本人は当地にて購読の道を開き候へば御送に及ばず候」と、新聞『日本』と共に子規の主要な発表の場であった雑誌『日本人』も購読していることに言及している。子規は八月から『文学』という題名の時評と、新体詩を『日本人』に掲載していた。

同じ手紙で漱石は、「大兄の新体詩(洪水)拝見致候音頭瀬抔(など)よりも余程よろしくと存候」と新作をほめている。『洪水』は一一月五日号の『日本人』に発表された、二百九十八行の長詩。比較されている「音頭瀬」とは、一ケ月前の一〇月五日号の同じ雑誌に発表した『音頭の瀬戸』という新体詩で、一連五行を十七連続けた八十五行の詩であった。漱石は子規の新体詩の力量がついて来ていることを、明確に伝える評言を選んでいる。

この漱石の気遣いと心くばりを、子規も意識していた。・・・・・」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))

11月18日

農商務省農務局長・鉱山局長より、群馬県知事石坂昌孝宛に、渡良瀬川鉱毒被害調査依頼書が届く。関係町村民の足尾銅山営業停止、被害検分の請願による調査。以後、頻繁に調査書類の提出を命じられる。〔群馬県庁文書〕

11月23日

午前10時、一葉永眠。24歳8ヶ月。

11月24日

川上眉山・斎藤緑雨・戸川秋骨らで通夜。

11月25日

葬儀は、築地本願寺で、他人に来てもらうだけの営みができないからという家族の断りで、内輪に質素にとり行われる。参列者は、親戚知友合わせて僅か「十有余名」。萩の舎からでさえ、田中みの子と伊東夏子しか参列しなかった。森鴎外が馬上参列を申し出るが、これも家族が辞退。

棺は、水道橋を渡り、三崎町、仲猿楽町、麹町を経て一橋から丸の内、霞が関、有楽町、銀座を経て築地本願寺に。葬儀が行われ、同墓所に葬られる(本願寺は関東大震災で焼失。墓地は、同寺の杉並区の墓所に移された。)

香典は博文館の10円を最高額として合計78円70銭であった。

なお、葬儀に係わる支払いなど一切は緑雨が取り仕切った。

晩年の一葉を数回訪問して「下層社会の救済の急務」について談話した副島八十六は、一葉の葬儀に駆けつけた。


「早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子、次に伊東夏子乃婦人二三名腕車に乗ず四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。水道橋を渡り三崎町仲猿楽町錦町を経て一つ橋より丸の内に入り霞ヶ関より有楽町を通り銀座街をよぎり築地本願寺の葬儀執行所に着けり。余は道々思へらく「今此葬儀中擔夫(たんぷ)、一足、車夫等の営業者を除く時は、真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅に十有余名に過ぎず。洵(まこと)に寂(せき)々寥(りょう)々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖(こうこ)に顕如たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず」(副島八十六の日記より)


「お葬式は淋しうございました。私などは残念でございましたけれども、お返しが出来ないからといふので、家の方が御会葬をみんなお断りしてひました」(伊東夏子の発言、塩田良平『樋口一葉研究』)


〈一葉家族のその後〉

同年12月14日、妹邦子が樋口家の相続戸主となる

1897(明治30)年

1月、初の『一葉全集』全1巻(博文館)出帆

6月、緑雨校訂『校訂一葉全集』全1巻(博文館)出帆。定価40銭。

夏、緑雨と孤腸が丸山福山町の樋口家で初めて顔を合わせる。緑雨と樋口家との交際は続く。


1898(明治31)年

2月4日、母たき(65)没。緑雨が葬儀を手配。妹邦子は荷物を西村釧之助の店・礫川堂に預け、身柄は大橋乙羽宅、次いで新吉原仲之町の伊勢久に寄せながら礫川堂に出入りするうち釧之助の子を身ごもる。

9月30日、姉久保木ふじ(42)没

12月5日、妹邦子が吉江政次を婿として迎える。西村釧之助から文房具店礫川堂を譲られる。

12月11日、妹邦子が西村釧之助の子を産み、多喜と名付ける


1901(明治34)年

6月1日、大橋乙羽(33)没


1904年(明治37)年

4月11日、自らの死期を悟った緑雨が孤蝶を呼び、妹邦子から預かっていた一葉の日記の稿本をたくし、樋口家に返すよう依頼する

4月13日、緑雨(37)没


1912年(明治45、大正元)年

5月、孤蝶の校訂による『一葉全集』前後編全2巻が博文館から出版。この前編によってはじめて一葉日記が公開される。


1926(大正15、昭和元)年

7月1日、妹邦子(52)没


つづく


「NEWS23」識者キッパリ「五輪?全然見てない。ボイコット。反五輪」苦笑の小川彩佳に「少しでも抵抗したい」(デイリースポーツ);「スポーツウォッシュに加担したくない。イスラエルの問題ですね。ロシアは戦争を理由に参加することはできない。ところが、国際司法裁判所がイスラエルのやっていることはジェノサイドであり、国際法違反であると勧告しているにもかかわらず、国際社会がイスラエルとしての参加を認めているダブルスタンダードがある」  さらに「これでみんなが盛り上がって『平和の祭典よかったね』となったら、パレスチナの人、ガザの人が忘れられてしまって、ジェノサイドを覚えている人がいないということに、私は少しでも抵抗したい」と話した。 / NEWS23動画

 

2024年7月30日火曜日

通報制度「適切な運用検討」 上川外相、米軍性暴力事件で(時事); 米兵性暴力事件、97年日米合意による通報制度を無視した日米双方の運用が大きな焦点。 ところが外務大臣は、米側が通報しなかったことも政府が沖縄県に通報しなかったことも問題視せず、制度の方を変えると言う。いまある制度を守ろうともせず、見直しなどあったものではない。(山添拓) / 川崎重工からパー券を買って貰ったか聞かれ、NOと答弁できない木原大臣    

 

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警官が「大麻パーティ」で書類送検、監察官室長の警視が泥酔トラブルも…!「内田梨瑚事件」であぶり出された北海道警の「ヤバすぎる不祥事」 / 未成年との飲酒を口止め…!「リコ」と呼んで仲良く記念撮影まで…!カラオケスナックのオーナーが独占告白「内田梨瑚と旭川警察」「乱痴気騒ぎ」の一部始終(週刊現代)   

マスク氏「これはすごい」とハリス副大統領の偽動画を拡散、1億3000万回超閲覧…自ら規約違反か(読売);「Xの規約では、「著しく改変・ 捏造ねつぞう された内容を含む投稿」は削除対象となるが、マスク氏の投稿は29日時点で削除されず」 / マーク・ハミルやジェフ・ブリッジスも参加する「カマラ・ハリスを応援する白人男性」のアカウントがLockされた。        

 

大杉栄とその時代年表(207) 1896(明治29)年10月1日~31日 台湾総督(桂太郎→乃木希典) 漱石、転職の気持ちを持ち始める 一葉、青山胤通の診察を受ける 雲龍寺に栃木・群馬県鉱毒事務所設置

 

雲龍寺

大杉栄とその時代年表(206) 1896(明治29)年9月9日~28日 一葉最後の外出(萩の舎9月例会) 漱石、正七位に叙せられる 土光敏光・ 村山槐多生まれる 第2次松方正義内閣 より続く

1896(明治29)年

10月

台湾、田中長兵衛(釜石鉱山田中製鉄所)・藤田組、夫々金瓜石・瑞芳各金山の採掘権を得て、牡丹坑金山(1897年発見)を入手した木村組とともに、台湾銀行による資金供給・産金買収契約に支えられつつ拡張を重ね、1902年には同行への売却高が100万円台に達する。台湾産金は朝鮮産金と並んで日本の金本位制を支える。

10月

台湾総督桂太郎、在任5ヶ月で辞任。この月、中将乃木希典が新総督に就任。「朝日新聞」は、すぐにも赴任しょうとする乃木が、「余不日台湾に渡らば先ず土匪を征伐せんよりは暴官汚吏を征伐せん」と知人に語ったことを伝え、「此決心あり統治初めて庶幾すべし」と、乃木に期待。

10月

「宮内大臣」(雑誌「二十六世紀」21号)。山県系の(大隈らへの)反撃。

宮内大臣(明治20年9月~)土方久元と伊藤博文の関係を取り上げ、「土方伯は宮内省に坐して、常に伊藤侯その人の顔色を伺い、指縦を受けて、しこうして事を執り来らざるか。今公けの秘密として民間に伝え、人々の知らざるなき事実の二、三例を列挙せんか」と宮内省の疑惑を指摘。疑惑は、伊藤だけに天皇拝謁を取り次ぐような専断、日清戦争の功労で土方が伊藤の為に恩賜金10万円を奏請し、伊藤は土方の5万円を奏講するような馴れ合い、宮内人事の私物化、皇室御料鉱山・御料林原野の払下げにの問題など。新華族への下賜金100万円を捻出する為、宮内省御料局管轄の佐渡金山・生野銀山・大阪精練所を民間に払い下げる計画は根拠薄弱と、佐渡金山などの現場はこれに反対している事実を挙げる。

東西「朝日」も、岩村通俊御料局長が4月末の帝室経済会議へ提出した3事業所の収支計算書が実際を隠した変造書類で宮内省でも大問題になったこと、払下げ反対の3事業所の関係技師が辞表を懐に、土方を面詰したことを伝え、さらに数回ずつ長文の反対論を掲載。

宮相土方久元が伊藤博文と結び宮中を壟断していると土方を攻撃。土方が、老臣中反長閥とみられる大隈・谷干城(貴院懇話会)・曾我祐準(同上)らを天皇を不当に中傷したとして非難。

10月

漱石、転職の気持ちを持ち始める


「十月にはいると、金之助は岳父中根重一にあてて、ふたたび転職依頼の手紙を書いた。

金之助はあらためて自分の教師としての適性を疑いはじめていた。それに東京在住は、もともと中根家から持ち出された結婚の条件でもあった。・・・・・

中根からいって来たのは、外務省の翻訳官の口である。・・・・・

しかし金之助がこの報告に逡巡を示したのは、いざ具体的な話がはじまってみると、急に外務省勤めが自分に向いていないような気がしはじめたからである。彼には法律の知織もなく、外交文書の慣用文をあつかった経験もなかった。三十歳になんなんとする男が、ようやく専門的な機構を整備しつつある明治の官界で方向転換をするのが容易ではないことを、彼は切実に思い知らされずにはいられなかった。しかも彼は、自分がいったいなにを欲しているのか、明確に知っているというわけでもなかった。」(江藤淳『漱石とその時代1』)


「この前後、漱石は、帝国図書館なるものができるようだが、そこへ就職できぬかと中根重一に依頼する。中根重一は、文部次官牧野伸顕に会って事情を聞いたところ、第二次松方正義内閣成立(九月十八日(金))の直後で、どうなるやら夢のような話だという。その旨を伝えてくる。」(荒正人)


10月

一葉、青山胤通の診察を受ける。

斎藤緑雨の連絡を受けた鴎外の働きで一葉は青山胤通の診察を受ける。妹邦子は、この時に初めて病名が結核であることを知らされ、治癒の手段を尽くしても回復は絶望的と聞かされた。家族は入院させたいと言ったが、青山医師は最早無効だと断じた。

10月1日

川崎造船所(のちの川崎重工業)、設立

10月5日

田中正造、群馬県邑楽郡渡瀬村早川田雲龍寺(鉱毒激甚地のほぼ中央)に栃木・群馬県鉱毒事務所設置。

雲龍寺は、さらに足尾銅山鉱業停止請願事務所として栃木、群馬、埼玉、茨城の4県鉱毒被害民の闘争本部となる。また、明治34年(1901)12月28日、三つ作られた足尾鉱毒被害者救済施療所「救現堂」の一つが雲龍寺にも設けられた。

10月5日

一葉、小原与三郎から原稿「霜夜の月」を博文館に送ってくれたことを感謝される。

10月11日

孫中山、ロンドンにて清朝官憲に拘束

10月11日

オーストリア、作曲家ブルックナー(72)、没。シェーンブルン。

10月12日

松方首相、地方長官会議で、新施政方針を明らかにする。戦後経営の眼目である軍備拡張、教育、産業振興、人材登用、言論・出版・集会の自由の保障を盛り込む。

翌月、内閣の試金石となる「二十六世紀事件」が起きる。

10月14日

石阪昌孝辞任を受けて衆議院議員補欠選挙。森久保作蔵と青木正太郎が争う。森久保、初当選。

10月15日

川崎造船所(後の川崎重工業)設立

10月16日

東武鉄道㈱、設立

10月17日

チェーホフ「かもめ」、サンクトペテルブルクで初演

10月23日

第一次エチオピア戦争、エチオピア帝国の勝利で終結

10月26日

鷗外、子規庵句会へ二度目の参加。この日の参加者は碧梧桐、把栗、子規、鷗外、虚子、秋竹、露月、鳴雪である。鷗外の句は「水落す音に寐心よき夜かな」。(「句会報」)

10月26日

伊東夏子からの手紙で一葉の病状が絶望的であることを知った副島八十六が見舞いに来る。妹邦子が応対し、病状を知る。

10月28日

有明文吉より北里博士に診て貰うことを勧められる。

10月29日

アルバート・アインシュタイン、チューリッヒ連邦工科大学入学資格を与えられ、チューリッヒに転居。学友は、マルセル・グロスマン、ミレーヴァ・マリッチら。高等学校で教える資格を得るための教職コースで勉強を始める。

10月31日

ゴンパーズの書簡。高野房太郎(27)が運動に参加できないことに遺憾の意を表し,機会が来たら活動を始めるように勧告

10月

田山花袋、初めて渋谷村に国木田独歩を訪ねる。11月末にも訪れるが、独歩は留守で、机上にあった発行されたばかりの四迷「かた恋」を読みふける。独歩は四迷に影響されて「武蔵野」を書く。


つづく


中絶の権利「トランプに剥奪されたくない」 米国では21州が違法 ハリスに期待する(AERA) / ハリス氏、トランプ氏との違い明確化 有力な教員連盟の支持獲得(ロイター) / ハリス旋風がSNS席巻、「不人気」覆す勢い保てるか 若い世代連帯(朝日) / 自分は強盗や詐欺師、ペテン師を相手にする検察官だったから、ドナルド・トランプがどんなタイプか知っている、というカマラ・ハリス氏 / ハリス氏、トランプ氏をリード - 世論調査、2ポイント(共同) / ハリス氏とトランプ氏 支持率「きっ抗」全米対象 最新世論調査(NHK) / ハリウッドが一転して前のめり、大物が相次ぎハリス氏の「後ろ盾」に(ブルームバーグ) / ハリス氏に米産業界から期待の声 ソロス氏ら支援表明(日経) / ハリス氏、素早い「次の一手」 大口献金者の支持固め(ウォール・ストリート・ジャーナル日本版) / 黒人女性4万人超がハリス氏支援で結集、3時間で2億円の寄付集まる(Bloomberg) / ハリス氏、演説し大統領選へ事実上始動 1日間の献金「史上最高額」(朝日) / 米民主党がカマラ・ハリス副大統領を大統領候補に選べば、歴史的な賭けに出ることになるだろう。それは黒人女性が、人種差別や性差別、そして政治家としての自身の失策を克服し、共和党のドナルド・トランプ氏を破ることができるという賭けだ(ロイター)  

 



 

2024年7月29日月曜日

予測ズレまくる「財政検証」の不可解…年金は減る一方「20年前は夫婦で49.1万円⇒最新試算21.4万円」(日刊ゲンダイ): 現役世代が将来受け取る年金の見込みを示す「財政検証」の結果が公表されました。2004年の検証では49.1万円(夫婦2人分)とされていた金額が、今回の検証では21.4万円にまで激減。20年でこんなにコロコロ変わる試算に意味はあるの?   



 

万博の大屋根、雷予報で立ち入り不可に 会期中7~9月「落雷の危険」で協会方針(産経);「大屋根の下にいる人などは感電の恐れがあるため、雷の危険があるときは大屋根に上らせないことに加え、近づかせないようにする対策」 / 「350億かけて雨よけにもならない」大阪万博リング “カミナリ予報” で立ち入り不可に…ゲリラ雷雨激増で「移動できない!」の無惨(FLASH)     



 

立民、安保・原発「現実路線」 リベラル系反発、代表選争点も(時事); 泉代表「●日英伊の戦闘機開発は必要 ●統合作戦司令部創設に賛成 ●当面の再稼働容認  ●批判ばかりのイメージを拭い、保守・無党派層を取り込む」   

 

自民党の大企業優遇政策について 荻原博子氏 「今回、電気料金が滅茶苦茶上がったけど…電力会社10社は空前の儲けですよ、8社は史上最高、事故を起こした東電も黒字で、しかも原発の費用とか廃炉の費用とか保証金とか全部電気代に乗せてるんですよ、だからね、それってあまりのことですよね」(朝生)   

 

大杉栄とその時代年表(206) 1896(明治29)年9月9日~28日 一葉最後の外出(萩の舎9月例会) 漱石、正七位に叙せられる 土光敏光・ 村山槐多生まれる 第2次松方正義内閣 

 

松方正義

大杉栄とその時代年表(205) 1896(明治29)年9月1日~8日 漱石夫妻、北部九州を汽車旅行 白馬会結成 子規、鉄幹ら新体詩人の会に参加 一葉の許に副島八十六来訪 「余は、、、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき」 渡良瀬川この年2度目の大洪水 鉱業停止請願の方向に大きく展開 より続く

1896(明治29)年

9月9日

一葉、頭まで結核に冒されて頸に湿布の包帯をした姿で萩の舎の9月例会に出席。一葉、最後の外出

「明治二十九年の九月の九日の初秋の歌会にも、夏ちゃんに逢ひたければと身重き身を、人の止むるを強いて許を得て行きしも、この君の勝れぬよし聞て心もとなかりし故なり。この日夏ちゃんは咽喉を巾に巻きて、顔色すぐれず、何かと病苦を訴へ給ひつつ、書簡文集を書きしが、気分すぐれねば思はしくもかきがたかりきなど物語り給ひ」(花圃『一葉女史を憶ふ』)

(遅くとも4ケ月前に脱稿したはずの『通俗書簡文』が思わしく書けなかったと、一葉が口にしたという。緑雨には見られることも恥ずかしが『通俗書簡文』のことが気に懸かっていたらしい。)

9月9日

ユタ州、合衆国加盟(45番目)。

9月10日

「峯の残月」などを著して、一葉につぐと言われた女流作家田沢稲舟(23、いなぶね)、没。自殺と伝えられる。

9月10日

高野房太郎(27)、ゴンパーズ宛書簡。アドヴァタイザー紙翻訳者として働いていること、日本でストが頻発していることなどを通報。

9月10日

漱石、正七位に叙せられる。正七位高等官六等は陸海軍武官でいえば大尉に相当する官等である。

9月15日

土光敏光、誕生。

9月15日

村山槐多、横浜神奈川町に誕生。父は中学校の教師。

9月18日

第2次松方正義内閣、成立

伊藤の後継首班候補者は、山県及び松方で、伊藤と自由党との提携に反撥した勢力は、山県による超然内閣を期待し、山県の奮起を促す。国民協会と密接な関係を持つ京都府知事山田信道は、京都無隣庵に滞在する山県を説得するが、山田が描く山県内閣構想は、かつて大選挙干渉を主導した第1次松方内閣の最強硬派を主力とし、これに山県を首班とするもの。しかし、山県は伊藤の意向が松方に傾いているの知っており、元老会議では、従来の薩長政権交代の慣行に従い、進んで松方を推す。

この内閣は薩長両派に加え、大隈を外相として入閣させ、進歩党も与党とする内閣。しかも進歩党との提携は、貴院の親進歩党勢力の三曜・懇話両会派との提携ももたらす。この内閣での進歩党の比重は決して小さくなく、松隈内閣と云われる。

この内閣の2つの顔

①薩長両派閣僚、就中内相樺山資紀に代表される超然内閣的側面。品川弥二郎が「蟹の甲の如き堅固ナル人物」と評す樺山は、政府内外の正統派超然主義者の期待を一身に集め、松方内閣に強い懸念を抱く山田信道も、「樺山内務拝命是ハ大ニ人得申候」と述べる。品川は松方に対し強い不信感を持ち、その非政党内閣主義の立場についても「例ノグラグヲの事故、イツドの様ニ変更スルカ何事ヲ云ハルルか、決行の上ならでは信用出来ぬなり」と述べるが、樺山には「唯々樺山之言行一致のみを神かけて国家将来之為二祈り居候」と期待を寄せる。品川は進歩党勢力の防波堤としての樺山の困難な役割には同情を寄せ、「松方サンヲ首トシ、大隈ヲ相手ニ国家主義ヲ貫徹セントハ、嘸かし御心配ならんと御察申上候。国民協会ハ・・・決シテ理ヲ非ニ曲ゲテ現内閣ヲ攻撃スル如キ卑劣ナル事ハ致サセ申候」と樺山を支持。品川ら正統派超然主義者は、松方に代って樺山の首相就任を期待する者もあり、松方内閣はもっぱら樺山を通して、正統派超然主義者の支持を引きつけている

②大隈の存在。地方長官に対する首相の基本方針表明演説で、「内は国民の輿論を考へ、外は外国の形勢に察し、以て戦後の経営を画し、帝国議会をして協賛を完うせしめ、上下一致の効を図り、至尊に対し大政の責に任ぜんとす」との趣旨をのるが、大隈の意見によりこの中に「国民の輿論」を重視する趣旨が入る。大隈によれば、松方演説は、「国務大臣ノ責任ハ直接ニハ君主ニ対シ、間接ニハ議会ニ対シ有スルノデアル。即チ議会ニ多数ヲ制シテモ責任ガ立タヌハ当然デアル」ことを明らかにしたもの。しかし大隈とは逆の解釈もあり、松方演説の翌日、樺山内相は同じ地方長官に対し松方演説の意味を説明し、内閣がもっぱら天皇にのみ責任を負うものと強調。山田京都府知事は、「十二日に松方演舌有之。・・・十三日樺山より右演舌を敷延して是帝室内閣の軍団ヲ確メ実ニ愉快ヲ究メ申候」と書く。松方は同演説で、財政整理を前提とした軍備拡張・産業育成等を説き、大隈の意見を容れて「言論出版の自由を保障すること」をあげる(具体的には新聞紙条例改正による内務大臣の発行停止権廃止を含意する)。山田京都府知事・松平正直熊本県知事ら反政党内閣論者はこの方針に強い衝撃をうけ、2日後松平と共に松方を訪ねた山田はこれについての松方の弁明について書く。「松方演舌第三項集会出版云々の人格論ニ至り、聊凝点有之健ニ付松平同席ニ而種々質問候所、新聞停止等の事件ハ同氏も大ニ苦心之模様ニ相見エ、其意を察スルニ大体論ニ於テヒドク隈之頭ヲ抑キタレハ、人権論ニ於テ譲レル丈ハ譲ラサレハ将来団結ヲ欠クとの恐レより苦心セル者と認メ候而、停止権ノ如キ一度放棄スルトキハ再ヒ取戻出来不申候。行政施行上外交軍機及風俗壊乱等如何とも不能勢ニ立至可申相考候間、深御考慮有之度旨ニ而相別申候」。

「大阪朝日」主筆格高橋健三は内閣書記官長として、神鞭知常法制局長官と共に、政綱、施政方針を担当し、文章は「大朝」客員内藤湖南が引受ける。「東京朝日」は長州閥を一掃した新内閣を「太く短かかれ」と激励し、藩閥政府の積年の弊の改革を期待。

9月20日過ぎ(推定)

漱石、同市合羽町237(現坪井2丁目)に転居する(熊本での三回目の住所)。


「鏡子が回復すると間もなく、金之助は下通町から合羽町二百二十七番地の借家に移転した。熊本は、二十年を経てまだ西南戦役の戦災から癒え切っておらず、借家払底で、彼はようやく新開地の合羽町に、建って日の浅い間数の多い角屋敷を借りたのである。・・・・・家賃は十三円であった。「かかる処へ来て十三円の家賃をとられんとは夢にも思はざりし」(九月二十五日付)と、彼は病む子規に書き送っている。

・・・・・

・・・熊本在住の四年のあいだに、彼は五度引越しをしているが、そのうちの少くとも三回は、鏡子のためにおこなわれた転居と考えられる。彼女はあるいは、彼女自身が自覚していた以上に緊張の多い結婚生活を送りはじめていたのかも知れない。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

この頃、漱石の同僚長谷川貞一郎、山川信次郎が漱石の家に下宿する。

"

「明治二十八年八月に赴任した長谷川貞一郎同居する。同居した月日は分らぬ。明治二十九年秋ではないかと想像される。毎晩、刺身その他いろんなご馳走出され、お銚子も一本つく。(長谷川貞一郎)下宿料は五円。長谷川貞一郎は、帝国大学文科大学史学科を明治二十六年七月(第五回卒業)に卒業、斎藤阿具と同級である。後に、明治三十年四月に赴任した同僚の山川信次郎と住む。下宿料は、後に七円になる。山川信次郎は、明治二十八年七月、帝国大学文科大学英文学科第三回卒業である。玉蟲一郎一と同級生である。」(荒正人、前掲書)


「この下宿料も、皆さんの方は、ただ厄介になつて食ふといふいはれはないと仰しやるし、夏目の方では友人から下宿料をとる奴があるものかといふわけで、両方で頑張つて言ひあひをしてゐるのを、それでは果てしがつかないので、たしか私が中に入つて、では五円も戴いて置きませうといふ事でけりをつけたのでした」(『漱石の思ひ出』ー四「新家庭」)

9月21日

イギリス・エチオピア連合軍、ドンゴラ占領。イギリス、スーダン再占領。

9月25日

漱石、子規宛てに手紙を送る。句稿を送り、俳壇の様子を教えてほしいことと転居のことなど報告。


「正岡子規宛の句稿その十七に、「内君の病を看護して」として「枕邊や星別れんとする晨(あした)」とある。悪阻の看病ではなく、ヒステリーの発作によるものかと思われる。(高木文雄)」(荒正人、前掲書)

9月26日

漱石、正岡子規宛手紙に、『故人五百題』・『七部集』(以上、活字本)購入したいので高浜虚子に頼んで欲しいと伝える。「竹の里人」とは、正岡子規の別号かと尋ねる。

9月28日

赤痢病予防および渡良瀬川大洪水(8、9日)対策のため臨時群馬県会開会。石阪昌孝、開会式出席、開会の辞朗読。10月3日、閉会。石阪昌孝、臨場し閉会の辞朗読。


つづく


長保3年(1001)山城守藤原宣孝(紫式部の夫)没 藤原実資、右近衛大将 藤原道綱、正二位・大納言筆頭 3月 源信の最後の出仕 「年来宿願有りて、都て出仕せず。御願やんごとなく、・・・仍りて今日共に参入す」 東三条院詮子の四十の算賀 出家剃髪 

東京 北の丸公園
*
長保3年(1001)
この年
この年=長保3年(1001)から寛弘5年(1008)頃までの約10年間のうちに「源氏物語」が書かれたであろうといわれている。
父藤原為時の任地越前国から戻り、山城守藤原宣孝と結婚、娘賢子が生まれた。
この娘はのちに越後の弁とか大弐三位とかいわれた女房になったが、宣孝と式部の仲も3年ほどで、長保3年(1001)、夫宣孝は没した。
その後、彰子に仕えたのが寛弘2年(1005)とも寛弘2年とも言われる。
*
・この年、藤原実資(『小右紀』作主)、右近衛大将となる。42年間勤める。
実頼の三男斉敏(ただとし)の四男として天徳元年(957)に生まれた。
実資17歳の時、斉敏は参議46歳で没し、祖父実頼の養子となった。
安和2年(969)元服と同時に従五位下、侍従に任ぜられ、天禄2年(971)右兵衛佐、同4年に右近衛少将となり、大元4年(981)に円融天皇の蔵人頭に補せられる。
永観元年(983)に少将から左中将に進み、翌年花山天皇即位に際し再び蔵人頭。
更に一条天皇が即位後しばらくして永延元年(987)三度目の蔵人頭になる。
永祚元年(989)、33歳で蔵人頭と左中将の労もあり、参議に任ぜられた。
その後長寿を保ち、後冷泉朝の永承元年(1046)に90歳で没。
その間、長保3年(1001)より42年にわたり右近衛大将の任にあった。
更に後一条天皇の治安元年(1021)に右大臣に任ぜられている。
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2月29日
・藤原行成創建の世尊寺の供養。
仏師康尚の三体に彩色不動尊(先年発願のか)と降三世明王を加えた等身仏五体を安置した。
道長も供養前日に世尊寺を訪れている。
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3月
・源信の名声は広まり、この月の内裏仁王会に参入し、同門の覚運とともに法橋に叙せられている。
「件等の人、年来宿願有りて、都(すべ)て出仕せず。御願やんごとなく、綸旨慇懃なるにより、仍(よ)りて今日共に参入す」(『権記』)。
覚運はこれを機に宮中や道長の下に出入りするようになるが、源信は、度重なる天皇の召しで参入したこの時が朝廷への最後の出仕であった。
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10月
東三条院詮子(道長の姉、一条天皇母后)の四十の算賀があり、和歌屏風が作られる。
道長の命で四帖屏風が作られた。
この時の和歌は、道長3首、源兼澄3首、橘為義2首、藤原輔尹、大中臣輔親、藤原為時、源道済各1首の計12首(月次屏風だったことがわかる)が採用された。
行成が色紙形の清書を担当。
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閏12月16日
詮子は亡くなる6日前の長保3年閏12月16日(1002年2月1日)、東三条邸にて出家剃髪した。
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長保4年(1002)
・この年、惟宗允亮『政事要略』が成立
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7月
・この月、宋に赴いた円通大師寂照と、宋の天台山諸徳和尚に宛てた道長の返書を行成が清書。
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10月
・仏師康尚、故東三条院のため、法華八講に用いる本尊三体(釈迦三尊)を造る。
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【パリ2024】フランスの歴史作った10人の女性、開会式で紹介 : 読売新聞オンライン 

パリ五輪開会式の入場航行中、アルジェリア選手団は、1961年のアルジェリア独立デモ中、フランス当局に弾圧されセーヌ川に投げ込まれて亡くなった同胞のために、花を捧げた。 この虐殺の事実は、21世紀に入るまで隠蔽されていたが、現在は川沿いの記念碑に刻まれ、フランス政府も謝罪している。 / 当時の警視総監は、ヴィシー政権下でユダヤ人の迫害に携わって、戦後は官僚として出世し、VGE政権の予算大臣にまでなったパポン。 / 映画『いとこ同志』(1959)は当時のパリ警察の腐敗を、ハネケの『隠された記憶』(2005)は虐殺の事実を暴く映画。        

 

トランプ演説 「(自分に)投票しなさい!(当選すれば制度を)完璧に改良するから、2度と投票しなくていい!(次回選挙の)4年後はもう投票する事はない!」 / トランプ氏、キリスト教徒に投票呼びかけ「今後は不要に」 (ロイター);「11月の大統領選で自身に投票すれば「4年後にふたたび投票しなくて済む。状況が極めて改善するので、必要なくなる」と述べた。」       



 

「申し訳ない」と言いつつ徹底抗戦の原電 規制委もあきれた迷走 データ書き換え、誤記1000カ所以上(東京); 審査に関する「検査」までする事態に 本店に立ち入り検査も 「これが最後」通告突き付けられても 活断層につながるうっかり説明  断層の特徴見逃さず     

〈維新の落日〉 維新、大阪・河内長野で「連敗」 府議補選で敗れ市長選は「不戦敗」(朝日)

2024年7月28日日曜日

「危険な暑さ」が続く今日この頃 半ば冗談の「暑中見舞い」 毎日花を咲かせるハイビスカス 今年の味噌の天地返し なだ万横浜でランチ 2024-07-25~28

7月28日(日)

▼毎日35℃近くの「危険な暑さ」が続いている。
半ば冗談で「暑中見舞い」を作ってみたが、まだ7月なので通例ならば早すぎのだけれど、ホントの意味での「お見舞い」はいまこそ出すべきではないか、とマジで思った。
白のサルスベリは自宅近くの公園にて。

 
▼我が家のハイビスカス、ほぼ毎日花を咲かせてくれる。
このハイビスカス、もとはと言えば、長男一家が1ヶ月ほど海外生活をするので、面倒見れないとのことで貰ったもの。


▼今年の味噌の天地返し
仕込みは2月5日だった
今年の味噌の仕込み 2024-02-05

▼横浜なだ万でランチ(@インターコンチネンタル横浜)
いまは回復したけれど、この日の2~3日前から夏風邪(クーラー風邪)をひいていて、調子がイマイチだった。食欲は全く問題ないけれど、スーパードライの苦かったこと! 初めてビールを呑んだ時のようだった(大笑)。





佐渡金山展示に「強制」の文言なし 「日本の先制的措置に意味」=韓国政府(聯合ニュース) / 朝鮮半島出身労働者らに関する展示、「佐渡島の金山」の地元で始まる(朝日) / 佐渡金山、現場展示で日韓合意 世界遺産委で朝鮮人労働の歴史表明へ(朝日 有料記事)

パリオリンピック開幕式 中国CCTVのアナが、LGBTQのシーンをどう解説良いか分からなく、黙りに黙った結果「愛は自由な小鳥のよう」と言い放った / 男性も女性も服にとらわれない。 彼らは自由に選択できる。 彼らは世界の前で本当の自分を表現できる。 ー 中国SNSの投稿より

 

大杉栄とその時代年表(205) 1896(明治29)年9月1日~8日 漱石夫妻、北部九州を汽車旅行 白馬会結成 子規、鉄幹ら新体詩人の会に参加 一葉の許に副島八十六来訪 「余は、、、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき」 渡良瀬川この年2度目の大洪水 鉱業停止請願の方向に大きく展開   

 

白馬会同人

大杉栄とその時代年表(204) 1896(明治29)年8月1日~31日 一葉、医師より最早全く望みは無いと宣告される 『読売新聞』が「一葉女史病に臥す」を報じる 宮沢賢治生まれる 第2次伊藤内閣総辞職 陸羽地震(マグニチュード7.2、死者209、負傷779) より続く

1896(明治29)年

9月

シベリア鉄道建設中のロシア、ハルピン経由の東清鉄道、大連までの支線・満州鉄道建設交渉に関して、この月、清露条約調印。

12月、東清鉄道条例、公布。一漁村の大連が要地となる。

9月

与謝野鉄幹、落合直文の門下となり、直文の紹介を得て鷗外を知る。

直文は1903年12月没するが、以後鴎外は、鉄幹・晶子夫妻に協力を惜しまず。『明星』に「ただ中は蓮華にかふる牡丹の座仏しれりや晶子曼荼羅」の歌など発表。観潮楼歌会で鉄幹をひきたて、根岸派との融和を計ろうとする。『スバル』では晶子は啄木らと内部執筆者になっているが、鴎外は鉄幹らと外部執筆者になっている。

9月

与謝野鉄幹・大町桂月、新体詩人の交流のため新詩会設立。月1回の会合、詩集「この花」出版。直文、信綱、子規、湖処子らが集る。

9月

鴎外(34)「雲中語」(「めさまし草」)

9月

漱石、妻鏡子と一緒に鏡子の叔父を博多に訪ね、北部九州一円の汽車旅行をした。


「しかし鏡子は、「夜具の襟なども垢だらけで、浴槽はぬるぬるすべつて、気持の悪い」九州の宿屋や温泉宿を不愉快がって、この旅行をあまり楽しまなかった。彼女はおそらく、人の出入りも多く、万事派手好みの中根家の生活から、夫婦に下女一人という地方都市の地味な学究の生活に突然移植されて、とまどいもし、また疲れてもいた。彼女は熊本に帰って間もなく病臥した。」(江藤淳『漱石とその時代1』)

9月

穴沢清次郎が第二高等学校合格の報をもって一葉を訪れる。病臥していた一葉は喜んで起き上がったが、顔は真っ青で頬だけが赤らんでいた

9月

大山巌、陸軍大臣辞任

9月

ラフカディオ・ハーン、帝国大学文科大学英文科教師となる。(明治36年3月まで)

9月

黒田、久米らは明治美術会を脱退し、白馬会を結成

9月

~1907年7月。ロレンス、オックスフォドのハイスクールに在学

9月1日

東海道線の新橋~神戸間、急行旅客列車の運行開始

9月2日

子規に鉄幹与謝野寛から「新体詩人の会」設立の案内状が届く。

佐佐木信綱、大町桂月、武島羽衣と鉄幹の連名で4人が発起人、ほかに子規、宮崎湖処子ら6人を招いた、という。

9月2日

鉄幹の母初枝(57)、没。

9月2日

スーダン、イギリス=エジプト軍と回教徒軍との戦闘開始。回教徒軍は約1万1千の戦死者とほぼ同数の戦傷者を出し撤退。遠征軍の戦死者48人で戦傷者も400人未満。

9月5日

子規、与謝野鉄幹ら新体詩人の会に人力車で参加

■子規の新体詩

「子規は、明治三十年三月まで新体詩づいた。しかし明治三十年三月二十七日に自宅で腰の切開手術を受けたのちは、その数が極端に減じ、明治三十一年いっぱいでほぼ新体詩をやめた。

新体詩への情熱もまた、子規の「野心」のほとばしりであった。

(略)

・・・・・子規の「野心」も結局新体詩では実を結ばずに終り、明治三十一年正月から、関心ははっきりと和歌に移ってゆく。」(関川夏央、前掲書)

9月6日

一葉の許に基督教青年会の副島八十六が伊東夏子の紹介状を持って来訪。一時間程会談。

副島八十六の日記にある病床の一葉を訪問した記録。

「女史病をつとめて隣室に予を延ひて会談せり。談話は殆ど一時間に亘りき。予は予の閲歴の多困多難なりし次第をかたり、下層社会の救済の急務なるを説くや、彼女最も熱心に之に同意し彼女亦予に説く所多かりき(「日記鈔-一葉女史に関する記事抜萃-」新世社版『樋口一葉研究』昭和17年4月 新世杜)とある。

一葉は、横山や副島との交流の中で、「二葉亭四迷が、下層社会へ接触して、社会主義と結びついたと同じコースを一葉は歩いていた」(和田芳恵『樋口一葉』昭和47年5月 講談社新書)との指摘もある。

尚、副島八十八「日記鈔」には金子喜一に関する記述もある。。

「帰途本郷台町北辰館に金子喜一を訪ひ八時半に到る迄快談にふける。彼は一種の抱負を有するもの、将来永く交るに値せり。特に彼は一葉女史の真の知己たり。女史を追憶するの情更に一層切なるを覚ゆ」(明治29年12月3日)

6月に小説の指導を求めて一葉を訪れていた小原与三郎の手紙によると、金子喜一はしばしば一葉を見舞っていることがわかる。

金子喜一は、明治8年神奈川県久良崎郡笹下村(現、横浜市)生まれ。明治学院に学び、一葉と交流のあった頃はジャーナリスト。一葉没後、毎日新聞掲載の追悼文は「K・K」のイニシャルで書かれている。

「憶ひ起す、今夏七月余が笹下の草庵に厭きて再び都に上らむとし、端なく君を訪れし時」とあり、しばしば病床を訪れて、母について語り悲しむ一葉のことばを「終焉の辞」と書く。

「吾人は女史を通じて到底忘るべからざるもの一あり、何ぞや、曰く女史の同情これなり、女史が製作を読みし者は知らむ、彼が作る所の文字は悉くこれ同情の涙なるを」(『毎日』明治29・11・26)

金子は、一葉の没後明治31年に組織された社今王義研究会に入会、翌年には渡米してハーヴァード大学に在学、当地で結婚、帰化し、米国社会民主党員となる。ハーヴァード大学では、有島武郎に思想的影響を与えることになる。

9月8日

渡良瀬川でこの年2度目の大洪水。この洪水を契機に、被害村は示談仲裁の取消しを求め、鉱業停止請願の方向に大きく展開

この年7月、正造の警告にも拘らず、安蘇郡植野・界・犬伏3ヶ町村代表は、旧仲裁委員横尾輝吉に仲裁を依頼、9月10日に永久示談交渉を行う予定となっていた。

15日、田中正造起草「足尾銅山鉱業停止請願(草案)」、被害地に配布。鉱業停止請願行動強まる。

(正造日記による方針転換の様相)

27日、梁田郡全村、請願に決する。10月2日、安蘇郡全村(植野村除く)、請願に決する。14日、安蘇郡植野村、請願に決する。


つづく


2024年7月27日土曜日

ガザで起きていることはヨーロッパの死であると語るジジェクの動画 / 「かつては秘密裏に行われていたような悪事が今や公然と行われるようになった。新たな時代に突入しつつある。極めて危険な時代だ」

【2024年米大統領選】 ハリス氏とトランプ氏、支持率ほぼ並ぶ=WSJ調査(7/27) / 接戦4州でハリスとトランプは互角(Foxニュース有権者調査7/26)

大杉栄とその時代年表(204) 1896(明治29)年8月1日~31日 一葉、医師より最早全く望みは無いと宣告される 『読売新聞』が「一葉女史病に臥す」を報じる 宮沢賢治生まれる 第2次伊藤内閣総辞職 陸羽地震(マグニチュード7.2、死者209、負傷779)    

 

秋田県仙北郡美郷町「千屋断層」(天然記念物)

大杉栄とその時代年表(203) 1896(明治29)年7月22日~27日 7月22日の一葉日記(2)一葉日記の最後の日 緑雨来訪 「めざまし草」同人に勧誘されても断るよう説得 子規、「松蘿玉液」で図を描いてベースボールを説明 より続く

1896(明治29)年

8月1日

梁啓超(主筆)・黄遵憲ら、「時事報」発刊(68号)。梁啓超の寄稿文「変法通議」などを通じて、前近代的な科挙を改めて学校制度を起こすことを説くが、やがて発行禁止となる。

8月

伊藤内閣と自由党の提携、断絶。伊藤が板垣のライバル大隈重信(進歩党)を入閣させようとしたため。

伊藤はあくまで「挙国一致」内閣構想を追及し、自由党との提携に満足せず、第10議会を乗り切る為、薩派及び進歩党(この年3月改進党を中心に5会派が合同、議員100名)の支持を得るべく、陸奥外相・渡辺国武蔵相辞任を機会として、夫々の後任に大隈・松方起用を考え、閣議に諮る。板垣は、進歩党の与党化が自由党の内閣に対する影響力を低下させることを怖れ、大隈入閣に反対。他方、薩派と進歩党は相互に連携し、あくまで松方・大隈の同時入閣を主張。自由党との提携を放棄しない限り、松方・大隈入閣の実現が不可能となり、伊藤は辞任を決意

8月

佐々城信子に逃げられた国木田独歩、アメリカ行きを決意し、この月、京都の内田鑑三に面会。理想とは異なる内田に接し、「恋女房の逃亡、貧窮、ヨシヨシ何事にも耐えん」「断乎文学界に突入せんと欲す」と日記に書く。月末、東京に戻り民友社復帰を希望するが、社主徳富蘇峰は許さず。9月初、独歩は山路愛山の近く、渋谷村の借家に弟収二と共に住む。

8月初め

一葉は容易に診察を受けようとしなかったが、日記も書けない容態になって、8月初め、山龍堂病院(神田区小川町40)で診察を受ける。

孤蝶によると、妹邦子が夏にもかかわらず一葉に「袷(あわせ)と袷羽織を着せ、抱へるやうにして」病院に連れて行き、病院長樫村清徳の診察を受ける。一葉を控室に戻して病状を聞くと、「最早全く望みは無いと宣告された。邦子君は落胆の余り少時身動きも出来なかった。手巾を目にあてゝ帰ると、一葉君は『何うしたのか』怪み問うた。邦子君は『今彼方で何か燻されたので、烟が眼に入って、痛いのだ』と答えた」という(『一葉全集の末に』)。

この頃、一葉、「智徳会雑誌」に寄稿を依頼され、執筆できず、和歌8首を寄せる。

8月1日

日本郵船、北米航路を開設。

8月1日

子規、『早稲田文学』の子規選「名所雑詠」で漱石の句を一句選ぶ。


尼寺や芥子ほろほろと普門品


8月1日

桃水は、一葉宅に来客が多いと聞き、飯田町の自家の二階に移って静養することを勧める手紙を一葉に出す。一葉の返事は不明。

8月2日

一葉、樋口勘次郎と友人としての交際復活。かつて依頼していた巌谷小波の昔話を教科書体にする作業を再度請われる。

8月3日

清、山東巡撫、東湍事件に関して上奏。根本的理由は教民(キリスト教徒)による農民の圧迫にある、とする。

8月3日

一葉に長井行より「大倭心」への寄稿催促。5日にも。

8月5日

子規の新体詩「父の墓」、時評「文学」(7回、『日本人』~11月20日)。

「父の墓」(竹の里人)は、須磨の保養院を出て、ひと夏松山で静養した際に父隼太常尚の墓に詣でたときの感慨


父の御墓に詣でんと

末広町に来て見れば

鉄軌寺内をよこぎりて

墓場に近く滊車走る。

石塔倒れ花萎む

露の小道の奥深く

小笹まじりの草の中に

荒れて御墓ぞ立ちたまふ。


学問はまだ成らざるに

病魔はげしく我を攻む。

書(ふみ)を抛(なげう)ち門を閉ぢ

一年半ばは褥(じよく)に臥す。

何事も過去に成らざりき。

未来も成ることなかるべし。(・・・・・)

わが去る後は、草むらの

人より高く生ひ茂り

御墓隠さん。さりながら

そを刈る人もなかるべし。(・・・・・)

父上許したまひてよ。

われは不孝の子なりけり。

8月5日

日本郵船「三池丸」、米国へ向けて初出航

8月6日

フランスがマダガスカルの植民地化を宣言

8月8日

禿木が手紙で新作の代わりに「うつせみ」を文学界に再掲することを依頼。24日、再掲見合わせとなる。

8月10日

独、リリエンタール(48)、没。

8月12日

石阪昌孝、群馬県知事となる。

8月17日

文部省、満6歳未満の就学を厳禁する訓令

8月17日

カナダ・クロンダイクで金脈が発見される。クロンダイク・ゴールドラッシュの幕開け。

8月18日

一葉に、泉谷氏一より「智徳会雑誌」第31号に和歌を寄せたことの礼と、一部献上される

8月19日

御史の宗伯魯、黄河治水実態暴露の上奏文。決壊の惨状・その原因を述べる。

①公金「侵蝕」(使い込み)。②「河工委員(河川工事監督委員)」、「夫頭(人夫総括現場責任者)」、「料販(工事資材を売る商人)」の結託。③減水期のやっつけ工事。決壊個所の虚偽報告。④巡回防備の手抜き。

8月19日

『読売新聞』が「一葉女史病に臥す」を報じる。

8月19日

フィリピン、秘密結社カティプーナンの存在が発覚。

8月23日

伊藤博文首相、辞表提出。

30日、榎本武揚農商務相を除く全閣僚、辞表提出。

31日、枢密院議長黒田清隆に首相臨時兼任を命じ、伊藤博文首相・板垣退助内相・渡辺国武蔵相を除く閣僚辞表を却下。

8月24日

(露暦8/12)ロシア、ナジェジュタ・クルプスカヤ、ストライキのかどで逮捕。シベリアでレーニンと合流。

8月26日

朝鮮、スイス系ロシア人J・ブリンナー、韓国国境全域(鴨緑江河口~豆満江)の森林伐採権獲得。但し、有効期限5年で、1901年9月までに「朝鮮木商会社」を設立して事業を始めなければ権利消滅との条件。資金集めに失敗し1897年5月、この権利を売りに出す。

8月27日

宮沢賢治、誕生。岩手県稗貫郡花巻町(現花巻市)。父政次郎(22)と母イチ(19)の長男。家業は祖父喜助開店の質・古着商。

8月27日

イギリス・ザンジバル戦争

8月30日

フィリピン革命。ボニファシオの率いる秘密結社カティプーナン部隊、武装蜂起。サン・ファン・デル・モンテ弾薬庫襲撃。ルソン8州に戒厳令公布。内部の主導権争い激化。

31日、アギナルドをはじめカビテ州カティプーナン派地主勢力、蜂起。

9月上旬までに州内の植民地権力を打倒。

8月31日

第2次伊藤内閣総辞職

8月31日

陸羽地震。マグニチュード7.2。に、秋田・岩手県境にある真昼山地の直下で発生した逆断層型の内陸直下型地震(大陸プレート内地震)。

震源は10kmより浅く、震源地付近で震度6、一部では震度7の揺れと推定。被害は、横手盆地の内部と東側の山地に集中し、仙北郡の千屋・長信田・畑屋・飯詰・六郷などの集落では、全戸数の7割以上が全半壊した。全体では、死者209人、負傷者779人、家屋全壊5,792戸、半壊3,045戸、山崩れ9,899箇所。

約2か月半前の6月15日に発生した明治三陸地震の影響を受け、その震源域および余震域から離れた地域で発生した誘発地震と考えられている。


つづく


バンス氏「子供の数だけ親に投票権追加を」 過去発言がまた波紋(毎日) / JDヴァンス 「カマラ・ハリスのような出産経験のない女性は、惨めな人生を送っている『変わり者』で、アメリカにとって直接的な利害を産まない」(cat lady=変わり者と訳しましたが、ニュアンスとしてはもっと侮辱要素含みます。) / トランプが指名した副大統領候補のJ.D. ヴァンスは『ヒルビリー・エレジー』の作者 ; 「その後のヴァンスの変貌ぶりにはかなり失望していた。今回VP候補になったのは驚かないが、失望は絶望に変化した」(渡辺由佳里) / Netflix『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』予告編 / (JDヴァンス)ハイオ州の上院議員に共和党から立候補するに当たって、これまでの反トランプ的な発言を謝罪し、ツイートを撤回 / 世界的ベストセラー作家がトランプ派に寝返って大勝利(ニューズウィーク日本版2022年5月9日 ) / 貧しい白人を描いた『ヒルビリー・エレジー』は、本当に「トランプ支持者の物語」なのか(藤崎剛人 21.02.18) / 2017.12.27「ヒルビリー・エレジー的言説がどうしても必要だった理由」(中山俊宏) /     

2024年7月26日金曜日

大杉栄とその時代年表(203) 1896(明治29)年7月22日~27日 7月22日の一葉日記(2)一葉日記の最後の日 緑雨来訪 「めざまし草」同人に勧誘されても断るよう説得 子規、「松蘿玉液」で図を描いてベースボールを説明

 

正岡子規「松蘿玉液」(7月27日)より

大杉栄とその時代年表(202) 1896(明治29)年7月20日~22日 7月20日の一葉日記(2)三木竹二・幸田露伴来訪 7月22日の一葉日記(1)一葉日記の最後の日 緑雨来訪 「めざまし草」同人に勧誘されても断るよう説得 より続く

1896(明治29)年

7月22日 

7月22日の一葉日記(2)一葉日記の最後の日

現代語訳

(二十二日の夜更けに緑雨氏来訪。

「露伴と三木竹二がお訪ねしたとのこと、また『めざまし草』への寄稿を承諾なきったと聞いたが、本当ですか」

と問われる。

「いや、はっきり決めた訳でもありません。私はご存知のように遅筆なので、いつの何号にとはっきり言ったのではありません。もし書けたら、その時にと言ったのです。いつになるやら全くあてのないことです」

と言うと、

「いや、お書きになる、ならないはさておいて、ただ『めざまし草』に必ず書くと約束されたかどうか、そこをお聞きしたいのです。書けたら出そうというお言葉は、その辺の新聞屋から頼まれた時もおっしゃるお言葉でしょうから、そんな無声任なものでなく、はっきり言われたのですか」

と、詰めよってくる。

「そうおっしゃっても、こうしかお答え出来ません。責任論がどうのこうのと、そんなむずかしい事は知らない私ですから」

と、ただ微笑んでいると、

「私が今夜お訪ねしたのは、ここにむずかしい意味があるのです。これは秘密に属する事なので、あなたのお気持ちをはっきりお聞きしてから申しあげるべきか、まず申しあげてからご決心のほどをお聞きすべきか、どうしようかと迷っているのです。

わが『めざまし草』で、あなたの作品をほしいというのは、実際の作品というのではなくて、お名前を私たちの仲間に入れたいのです。『めざまし草』の同人であることのご承諾を願っているのです。もとは、わが『めざまし草』は一出版社の計画に過ぎないとは言っても、実はそうではないのです。鴎外、露伴、および私の連帯責任で起こした雑誌です。しかもお互いに夫々肉体も考え方も違った人間の連合体です。万事に何かと一致しないで、これまでにも波風がしばしば起こったのです。私も露伴も、ともすれば退去しょうとする様子が折々見えるので、鴎外の苦痛は充分推察出来るのです。世間の人は言うのです、『めざまし辛』の廃刊は間近であろうと。これは嘘ではないのです。露伴は、春陽堂の『新小説』の編集者であり、尾崎紅葉はかりに『めざまし草』に名前だけを貸したとしても、本来は硯友社を根拠として雑誌『雪月花』の発刊を計画している。そこで森兄弟は驚き慌てて急遽、森田思軒や依田学海を説いて『めざまし草』の社員を依頼するに至ったので、私としても傍観できなくなったのです。そんな見苦しい有様まで演じて、今更世間体を飾る必要があろうか。わが社はわが社の者の力にょって立つべきです。もし私の考えが入れられないならば、私もやむをえない、涙をふるってこの『めざまし草』を見棄てるほかはないのです。私はこの『めざまし草』をはなれたら、たとえ三号でつぶれようとも必ず一つの雑誌を創刊しようと思っているのです。今こうして崩壊し姶めたのを、どんなにしても引き戻す方法もなかろうが、他から人を入れる勇気があるのなら、あんな老朽の人を集めて何になるというのでしょう。門を開くというのなら新しい人にこそ開くべきだと私は言ったのです。では新しい人にはどんな人がいるのかと鴎外が言ったので、私はその時あなたのことを言ったのです。しかしこれは窮余の一策で、私の本当の志ではなかったのです。一昨日、三木竹二が露伴を訪ねてどんな話をしたのかは知らないが、その後で一緒にあなたをお訪ねしたのです。そして昨日、私のところへはっきりした報告があったのです。樋口一葉がいよいよ『めざまし草』の一員となることを承諾した、合作小説の相談もまとまった、というものです。私はひどくおかしいと思ったが、それ程はっきりした報告なら、もしかしたらご承諾されたのかと思ったのです 。

このことはすべて秘密のことです。あなたは絶対に世間に漏らすことはしない人だと知っておりますので、何の心配もなくこうしてお話するのです。隠さずに本当のことを言えば、あなたの承諾の一語で、『めざまし草』の利害は大体悪い方に向かうのです。そしてあなたの利害も同様に悪い方に向かうのです。私はつくづくと文壇の様子を見ますと、泉鏡花の評判が絶頂に適したとき、私が初めて一撃を加えてからその名声が急に落ちて、泉鏡花の存在は消えてしまったのでした。あなたの此の頃のご様子は既に全盛の頂上と思われますのに、今もし、わが『めざまし草』に入会ということにでもなったら、文壇からの憎しみを一身にお受けになって、あなたへの非難はそれこそ大変なことでしょう。わが『めざまし草』の人々にしても同じ事です。あなたの『たけくらべ』を賞賛してからというものは、『早稲田文学』などが我々に冷評を加えることは、毎月毎月ますます激しくなり、私があなたをお訪ねしたと聞くと、どうだ黒焼きは本家へ行って求めることが出来たかなどいう批評がまことにやかましい程です。こんどあなたが『めざまし草』に入社されたとなったら、ますますこういう噂がひどくなって、思いもかけない事から、つまらぬことで悪名まで立てられることになるかもしれないのです。とにかく入社は見合わせられた方がよろしいのではないかと、私は思うのです。しかしこれは、邪魔をしてでもお止めしょうというのではないのです。ただ、あなたのために、また私のために、心の底をうち割って申し上げるまでのことです」

と繰り返し繰り返し、このことを言うのでした。この男の心の中は、いくらかは理解出来ない私でもないのです。しかし、どうして今さら世間の評判など)

7月22日

信濃川の堤防各所が決壊、被災面積18000haに及ぶ(横田切れ)

7月23日

この日付「朝日新聞」の「台湾近事(五日発) 在台北九江生」の記事、統治の拙劣さが、良民をも土匪に走らせていること、民衆反乱はシナ大陸の援助を受けていることを指摘。

台湾総督府条例公布とともに、樺山資紀(海軍大将)は総督を辞任、29年6月、第3師団長桂太郎陸軍中将が後任に発令。しかし桂は、6月下旬、台湾視察の伊藤博文首相らと共に内地に帰還し任地に行かず、台湾の抗日武装攻撃に現地で対処できず。統治の拙劣さを衝いた現地通信を受け、「朝日」は名古屋の師団長官舎にいる桂総督と会い、「ゲリラ鎮圧について総督府内の文武官に意見の対立が激化している最中に、総督が名古屋に安眠して土匪の驚くに足らざるを壮語しているのは納得できない」と紙面で批判。結局、桂は5ヶ月で辞任。

7月24日

島田三郎(43)、横浜・港座での横浜停車場問題演説会で演説。

7月25日

西園寺・陸奥の援助を受け、竹越与三郎が雑誌「世界之日本」創刊。~1900年3月2日(通巻94号)。

7月25日

『文藝倶楽部』第2巻第9編臨時増刊海嘯義捐小説に随筆「ほとゝぎす」を寄稿。

7月27日

子規、「松蘿玉液」で図を描いてベースボールを説明する(7月19日、23日と続く3回目)

ベースボール(正岡子規)(青空文庫)

「ベースボールに要するもの は凡そ千坪許りの平坦なる地面(芝生ならば猶善し)皮にて包みたる小球(ボール)(直径二寸許りにして中は護謨、糸の類にて充実したるもの)投者(ピッチャー)が投げたる球を打つべき木の棒(バット)(長さ四尺許りにして先の方稍々太く手にて持つ処稍々細きもの)一尺四方許りの荒布にて坐蒲団の如く拵えたる基(ベース)三個本基(ホームベース)及投者(ピッチャー)の位置に置くべき鉄板様の物一個宛、攫者(キャッチャー)の後方に張りて球を遮るべき網(高さ一間半、幅二三間位)競技者十八人(九人宛敵味方に分るるもの)審判者一人、幹事一人(勝負を記すもの)等なり」


つづく


ネタニヤフ氏がトランプ氏私邸を訪問、「もしトラ」で関係修復狙う(朝日) / ネタニヤフ、アメリカ合衆国議会で、イスラエルがラファで民間人を一人も殺していないと言ってる(子ども、赤ん坊までもがハマス戦闘員ということか!) / カマラ・ハリス副大統領やペロシ下院議長を含む多くの民主党議員がネタニヤフ首相の議会演説をボイコット / カマラ・ハリスはネタニヤフに対して〈子どもたちの遺体や絶望的に飢えた人々が逃げ惑う姿。こうした悲劇を前に、我々は目をそらすわけにはいかない。苦しみに無感覚になることは許されないし、私は黙ってはいない〉 / 握手を求むネタニヤフを無視してあからさまな不機嫌な顔で立ち去るトランプ / 女優スーザン・サランドンが国会議事堂の前で演説 / バーニー・サンダース演説