大杉栄とその時代年表(207) 1896(明治29)年10月1日~31日 台湾総督(桂太郎→乃木希典) 漱石、転職の気持ちを持ち始める 一葉、青山胤通の診察を受ける 雲龍寺に栃木・群馬県鉱毒事務所設置 より続く
1896(明治29)年
11月
朝鮮、漢城に独立門、建立。
11月
高橋新治輸入のキネトスコープ、神戸で上映。
11月
稲畑勝太郎、フランスで同窓生のオーギュスト・リュミエールからシネマトグラフを2台購入。
11月
二葉亭四迷、翻訳集「かた恋」(春陽堂)。ツルゲーネフ「かた恋」「奇遇」「あいびき」収録。
11月
大西祝「社会主義の必要」(「六合雑誌」)
11月3日或いは4日
彦根から上京した馬場孤蝶が一葉宅を訪れると、妹邦子は、「会つてくれとは言い兼ねる。唯見て行つて呉れ」と言うほほどの一葉の病状。病室をあけると、髪を乱した一葉が赤い顔で苦しそうに寝ていた。孤蝶が、「此の歳暮(くれ)には又帰つてきますから、その時又お目にかゝりましよう」と言うのを邦子が取り次ぐと、一葉は「呻くやうな苦しさうな声で『その時分には私は何に為って居ましょう、石にでも為って居ましょうか』と、ときれぎれ云った」(馬場孤蝶「一葉全集の末に」)。
また、(日付不詳)、一葉の危篤を知って病床に訪れた秋骨に、一葉は「美しい、才気のほの見える言葉づかいで」「皆様が野辺をそゞろ歩いてお居での時には蝶にでもなって、御袖の辺りに戯れまつはりませう。」(「一葉女史の追憶」大正7・9)と語ったという。
11月8日
「古事類苑」の刊行はじまる
11月9日
「二十六世紀」事件。この日付の新聞「日本」、「宮内大臣」(雑誌「二十六世紀」10月)を転載、伊藤博文と土方久元による「宮中支配」を痛撃。清浦内相と山県系議員の反撥により、両紙は発行停止処分となる。
宮内省は「日本」に全文取消しを求め、政府系紙「東京日日」「時事新報」などに、土方宮内相自身が反論を要請。「東日」「日本」間で、「皇室への大不敬」を巡り激しい記事の応酬。宮相は政府の処分を要求、臨時閣議は処分の是非・方法を巡り議論が分れる。山県系清浦法相・野村靖逓相ほか3閣僚は発行停止処分を主張。対して、大隈と、松方以下薩派閣僚は、第10議会まえに進歩党との連携破綻を怖れ、発行停止処分に反対。閣議は一旦、処分なしを決定するが、清浦は山県系勅選議員平田東助と協議の上、山県系の田中光顕宮内次官を通じて土方を動かし、この閣議決定に抵抗させる。結果、政府は閣議決定を覆す。
「二十六世紀」は新聞紙条例の治安妨害条項による発行禁止、転載した「日本」や「宮中支配」批判を支持した「万朝報」「国民新聞」は発行停止。新聞「日本」主筆陸羯南は、条約改正運動以来進歩党や三曜・懇話会派に近く、松隈内閣支持の立場であったが、松隈内閣への幻滅を記す(品川は「陸実久々振り来訪云ク『トンダ馬鹿ヲ見満した。カカル弱キ人々は真ニシラサリシ、何カ好事ヲ一二遣ラセ度卜思ヒシカ殆絶念仕候。議会マデ持テレパヨイガ』などなどの話アリタリ」)。
11月13日
岸信介、誕生。山口県吉敷郡山口町。県庁役人佐藤秀助の2男、中学3年の時、父の実家に養子、岸と改姓。
11月14日
漱石、五高天草・島原修学旅行の引率。5泊6日で熊本~宇土~三角~町山口~富岡~小浜~雲仙~島原~百貫~熊本。
11月15日
この日付けの漱石の子規宛ての手紙。漢詩人本田種竹への漢詩添削を依頼。
「「俳句頗る不景気につき差控へ申候其癖種切の有様に御座候」と、句稿を送ることが出来ないと伝える一一月一五日付の手紙では、「日本人は当地にて購読の道を開き候へば御送に及ばず候」と、新聞『日本』と共に子規の主要な発表の場であった雑誌『日本人』も購読していることに言及している。子規は八月から『文学』という題名の時評と、新体詩を『日本人』に掲載していた。
同じ手紙で漱石は、「大兄の新体詩(洪水)拝見致候音頭瀬抔(など)よりも余程よろしくと存候」と新作をほめている。『洪水』は一一月五日号の『日本人』に発表された、二百九十八行の長詩。比較されている「音頭瀬」とは、一ケ月前の一〇月五日号の同じ雑誌に発表した『音頭の瀬戸』という新体詩で、一連五行を十七連続けた八十五行の詩であった。漱石は子規の新体詩の力量がついて来ていることを、明確に伝える評言を選んでいる。
この漱石の気遣いと心くばりを、子規も意識していた。・・・・・」(小森陽一『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(集英社新書))
11月18日
農商務省農務局長・鉱山局長より、群馬県知事石坂昌孝宛に、渡良瀬川鉱毒被害調査依頼書が届く。関係町村民の足尾銅山営業停止、被害検分の請願による調査。以後、頻繁に調査書類の提出を命じられる。〔群馬県庁文書〕
11月23日
午前10時、一葉永眠。24歳8ヶ月。
11月24日
川上眉山・斎藤緑雨・戸川秋骨らで通夜。
11月25日
葬儀は、築地本願寺で、他人に来てもらうだけの営みができないからという家族の断りで、内輪に質素にとり行われる。参列者は、親戚知友合わせて僅か「十有余名」。萩の舎からでさえ、田中みの子と伊東夏子しか参列しなかった。森鴎外が馬上参列を申し出るが、これも家族が辞退。
棺は、水道橋を渡り、三崎町、仲猿楽町、麹町を経て一橋から丸の内、霞が関、有楽町、銀座を経て築地本願寺に。葬儀が行われ、同墓所に葬られる(本願寺は関東大震災で焼失。墓地は、同寺の杉並区の墓所に移された。)
香典は博文館の10円を最高額として合計78円70銭であった。
なお、葬儀に係わる支払いなど一切は緑雨が取り仕切った。
晩年の一葉を数回訪問して「下層社会の救済の急務」について談話した副島八十六は、一葉の葬儀に駆けつけた。
「早朝本郷福山町一葉女史の葬儀に会す。恰も出棺せんとする間際なりき。先導二人、博文館寄贈花一対、燈灯一対、位牌次に女史の妹くに子、次に伊東夏子乃婦人二三名腕車に乗ず四五のものは輿の前後左右に散在粛々として進む。水道橋を渡り三崎町仲猿楽町錦町を経て一つ橋より丸の内に入り霞ヶ関より有楽町を通り銀座街をよぎり築地本願寺の葬儀執行所に着けり。余は道々思へらく「今此葬儀中擔夫(たんぷ)、一足、車夫等の営業者を除く時は、真実葬儀に列するもの親戚知友を合して僅に十有余名に過ぎず。洵(まこと)に寂(せき)々寥(りょう)々仮令裏店の貧乏人の葬式といへども此れより簡なることはあるべからず。如何に思ひ直すとも文名四方に揚り奇才江湖(こうこ)に顕如たる一葉女史の葬儀とは信じ得べからず」(副島八十六の日記より)
「お葬式は淋しうございました。私などは残念でございましたけれども、お返しが出来ないからといふので、家の方が御会葬をみんなお断りしてひました」(伊東夏子の発言、塩田良平『樋口一葉研究』)
〈一葉家族のその後〉
同年12月14日、妹邦子が樋口家の相続戸主となる
1897(明治30)年
1月、初の『一葉全集』全1巻(博文館)出帆
6月、緑雨校訂『校訂一葉全集』全1巻(博文館)出帆。定価40銭。
夏、緑雨と孤腸が丸山福山町の樋口家で初めて顔を合わせる。緑雨と樋口家との交際は続く。
1898(明治31)年
2月4日、母たき(65)没。緑雨が葬儀を手配。妹邦子は荷物を西村釧之助の店・礫川堂に預け、身柄は大橋乙羽宅、次いで新吉原仲之町の伊勢久に寄せながら礫川堂に出入りするうち釧之助の子を身ごもる。
9月30日、姉久保木ふじ(42)没
12月5日、妹邦子が吉江政次を婿として迎える。西村釧之助から文房具店礫川堂を譲られる。
12月11日、妹邦子が西村釧之助の子を産み、多喜と名付ける
1901(明治34)年
6月1日、大橋乙羽(33)没
1904年(明治37)年
4月11日、自らの死期を悟った緑雨が孤蝶を呼び、妹邦子から預かっていた一葉の日記の稿本をたくし、樋口家に返すよう依頼する
4月13日、緑雨(37)没
1912年(明治45、大正元)年
5月、孤蝶の校訂による『一葉全集』前後編全2巻が博文館から出版。この前編によってはじめて一葉日記が公開される。
1926(大正15、昭和元)年
7月1日、妹邦子(52)没
つづく