2012年7月10日火曜日

天暦3年(949)8月14日 関白藤原忠平歿。子の右大臣師輔が国政の実権を掌握。

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-04
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天暦3年(949)
この年
・安南に大越国が成立
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1月
・この月、東大寺僧50~60人が朝廷に同寺別当寛救(かんきゆう)の暴状を愁訴するために入京した。その中の10人ばかりが、式部少録賀陽真正(かやのしんせい)の宅に寄宿していて、原因不明ながら、争いをおこして殺害事件になった。
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2月
この月、天台の智淵(ちえん)の弟子の僧が延暦寺で斬殺される。
村上朝末年近くには、南都大安寺の別当禅教が仁和寺から観空寺へ向かう途中、嵯峨広沢の辺で何者かに襲われている。
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6月
この月、院(不明。朱雀院か)の下人が諸衛府の舎人の住居を破壊した。
数日後に、舎人数100人がその院の御厨預(みくりやあずかり)の中務丞佐忠(なかのつかさのじようすけただ)の宅に押しかけ、仕返しの乱暴を働いた。
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8月14日
・関白藤原忠平(70)、小一条第で没。
彼が建立した法性寺(ほつしようじ)のほとりに葬られた。朝廷は忠平に貞信公という諡号をあたえた。
村上天皇は関白をおかなかったが、母后藤原穏子を中心に、忠平の子の左大臣実頼・右大臣師輔とともに政治を行ない、以降18年間は形の上では村上親政時代とはいうものの、天皇と藤原氏との結束はむしろ強まった。

村上親政の盛時である前期(天徳4年(960))における国政指導の立役者は、右大臣師輔
師輔は、忠平の2男。母は昭子(しようし、宇多朝末年の右大臣源能有(よしあり)の女)。
長兄実頼の母は宇多帝の皇女源傾子(けいし)であったが、師輔は兄の順調な栄達に遅れをとることなく官途を歩む。承平5年(935)、28歳で参議。
ごく若年の頃に、武蔵守藤原経邦の女盛子(せいし)をめとる。
もうひとりの妻も常陸介藤原公葛(きみかつ)の女。
地方で産をなした受領は、娘を権門の貴公子に嫁がせようとし、権門の側は彼らの巨富に目をつけていた。
父忠平は、除目(人事)の際には必ず任官したものから賄賂をとったという話が伝えられている。

彼は栄達に従って、自分よりも氏素姓の優る家の女たち、醍醐先帝の皇女、勤子(きんし)・雅子(まさこ)・康子(やすこ)の3内親王を手に入れた。


師輔と康子内親王の場合。
康子は朱雀・村上両帝の同母の妹で、父醍醐に愛しまれて育ち、朱雀はこの内親王を一品に叙し、村上もこれを厚遇した。
『大鏡』によると、幾人もの妻をもつ師輔は、この内親王を我が物しようとし、康子づきの女房をかたらい、その手びきによってついに通じてしまった。村上天皇はこれを知ってすこぶる不満であったが、師輔の勢威を憚って譴責を加えることなく黙過したという。
彼は、天皇家との関係をできるだけ密にして、おのれの家系を権威づけようと企んでいた。

彼の子らは肩をならべて宮廷で活躍し、また出家した者は寺門の高い地位を占めた。
娘たちは、父の思惑で閥族をつくるための生きた道具になっている。
東宮時代の村上の妃となった安子の果した役割は極めて大きい
安子は、村上即位に際し女御となった。
天皇を巡ってライバル関係にあった女御藤原述子は、天暦1年(947)10月、生家の実頼の第(東三条第)で若くして没していた。
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9月29日
・陽成上皇(82)、冷然院で没。
村上朝の台閣で中納言の首座を占めていた源清蔭(きよかげ)は、この上皇の第一皇子である。
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11月
・冷然院が焼亡。
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