東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-04
*天暦元年(947)
6月
・この月、左右に分かれていた検非違使庁(都の警備を行う官庁)を併合し、検非違使と、保長・刀禰などの平安京の有力者とが一緒に夜回りをすることを規定した。
・この月、
「今月以後、皰瘡多く発し、人庶多く殤(しよう)し、童謡(わざうた)の言あり」とある(天然痘の流行)。
悪疫へのおそれは童謡や妖言をうみ、都民はこぞって御霊会に集まった。
朝廷では、建礼門の前で鬼気(もののけ)祭を行なって悪疫の災から免れようとした。
だが、まもなく上皇(朱雀)・天皇(村上)ともに皰瘡にかかった。
10月、女御藤原述子(じゆつし、15歳)は皰瘡にかかって出産し、東三条の父(実頼)の第で没した。
この年、政府は「白米百斛(こく)、塩卅籠」を東西の二京にふるまった。
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6月26日
・元の征夷大将軍藤原忠文(75、参議民部卿正四位下)、没。没後、納言に昇叙された。
彼は、老躯を励ましての東国行に、将門の大乱に戦うことなく都に帰還し、朝廷からなんら報われなかった。大納言藤原実頼(忠平の嫡子)が忠文への嘉賞に反対したといわれる。彼は、その措置に不満を抱いていて、一度は致仕(引退)を願いでたが許されなかった。
この年10月に女御述子が没し、11月にその長子敦敏(あつとし)が没して、宮廷の内外では、左大臣家の相次ぐ凶事は忠文の怨霊の崇りであると取り沙汰された。
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閏7月
・この月の官符で、「公家の知る所に非ず。官物をその所に納め、私計をその中に成す(中略)。府庫これが為に空しく虚(つ)き、公用それに依りて闕乏(けつぼう)す」(『政事要略』)と、弁済使は国司が近年私的に設置したとして厳しく糾弾された。
しかし、11世紀初めには弁済使制を前提にして財政が機能している。
この間、中央財政の変化がおき、その変化の前提には弁済使に表される受領制の構造変化があった。
この構造変化は、弁済所も含む受領による支配機構としての「所」の成立もあるが、財政的には、各国で徴収した税物が、京周辺の弁済所や納所(なつしよ)などの受領の在京機関に収納蓄積されるようになった、その変化の意味が大きい。律令制では、徴収した調庸は、国司が民衆の運脚をひきいて直接大蔵省へ納入することになっていた。
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天暦2年(948)
この年
・空也は比叡山にのぼり、延暦寺座主延昌から戒をうけ、この時から空也と称するようになる。
この天台山受戒を転機に空也の民間布教は新しい段階に入る。
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3月
・この月、群盗が右近衛府少将の曹司(ぞうし)、ついで造酒司(ぞうしゆし)を襲い、年末には内裏に潜入して略奪をは働くこと五度。
その間、火災も相次いで起こっていた。
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