東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-07-04
*天暦4年(950)
この年
・下総守藤原有行は、先例どおり、押領使の兼任ならびに随兵30人を付けることを申請し、許可された。
そのなかで、彼は、「坂東諸国、不善の輩、所部(国内)を横行し、道路の間、物を取り入を害し、かくのごとき物忩(ぶつそう)、日夜絶えず」というありさまで、下総国や隣国などですでに許可されている状況を述べ、その先例として前司菅原名明(なあき)の天慶9年の例をあげている(『朝野群載』巻22)。
菅原名明の例は将門の乱直後であり、坂東の国司が押領使を兼任するようになったきっかけは、将門の乱であったことがわかる。
また、「不善の輩」には、群盗のほかに、それらと気脈を通じている反受領の土豪・有力農民もいた。
受領たちは、押領使の肩書を帯びて武力を振りかざさなければ、徴税の実をあげることができなかった。
天慶の大乱で朝廷側について活躍した藤原秀郷は、そのときには押領使であった。
そういう伝統をもつ押領使を受領が兼ねることの一般化は、国府の力を強め、中央政府を安心させるが、その反面、受領自体の兵力支配を培い、武士団の形成の方向に進む契機となった。
受領たちはたえず土着のために備えていた。
坂東の有力な受領は、秀郷のように殆ど土着化した勢力であった。
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・後漢が滅ぶ。
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5月24日
・憲平親王、誕生。母は師輔の娘の安子。
実頼・師輔兄弟の後宮合戦は師輔が勝利。
この時、村上天皇は25歳。
実頼(51歳)と師輔(43歳)の兄弟が左右大臣として筆頭の地位にあった。
実頼は村上天皇即位の初めから娘の述子(じゆつし)を女御として後宮に送り込み、師輔は安子(あんし)を女御として入内させた。
しかし、実頼の娘の述子は、皇子が生まれないままに天暦元年(947)5月に没していた。
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7月23日
・憲平(のりひら)親王(村上天皇の第二皇子、母は師輔の娘の安子、生後2ヶ月)が立太子する。
■中納言藤原元方(もとかた)の失意
憲平親王は、村上天皇の第二皇子で、兄に広平(ひろひら)親王がいた。
広平親王の母は中納言藤原元方の娘で、更衣祐姫(すけひめ)。
広平親王の誕生年月は不明だ、年齢から計算して、憲平親王と同じ天暦4年の生まれになる(広平親王の方が何ヶ月か早く生まれた)。
当時の皇室制度は、皇子が生まれても直ちに親王と呼ばれるのではなく、親王宣下の手続きがとられて初めて親王となる。皇太子の地位も、長男の親王が自動的にこれを占めるのではなく、適当な時期に諸親王の中から一人をえらんで東宮と定めるの。従って、天皇の弟を皇太弟として立てることも、叔父甥の関係にある親王を皇太子にすることも多かった。
しかし、第一皇子は常識的にいちばん有利な立場にあるから、その外祖父の元方は秘かに広平親王立太子を期待した。
しかし、東宮の外祖父としては、元方は非力であった。彼は藤原氏の四家の中でも、羽ぶりのよい北家の出ではなくて南家の生まれ。父の菅根は、学者の出身で、53歳でやっと公卿の最末席の参議に辿りついてすぐに没した(延喜7年(907)正月に参議となり10月に没す)。
また、祖父は公卿にもなれなかった。
元方の地位・家柄は公卿の中でも目立たない部類で、もし師輔の娘の安子に皇子が生まれたならば、形勢はまったく不利。
関白太政大臣の忠平の子、北家の嫡流、右大臣の師輔に、元方は太刀打ちできない。
師輔の娘の安子が女御となり、元方の娘の祐姫が一段低い更衣という資格であるのもそれぞれの親の地位・家柄による格差である。
元方の孫に広平親王が生まれ、師輔の娘の安子が妊娠中の時、当事者たちは一心に祈祷に励み局面の有利な展開を祈った。
その頃、宮中で庚申(こうしん)の御遊(ぎよゆう)があった。
庚申の日は、夜、寝ていると体内に住んでいる三戸虫(さんしちゆう)という虫がぬけ出し、天帝にその人の悪口を報告するという迷信がある。悪口を防ぐ為、その夜は寝らずに徹夜するようになり、庚申の夜は人々が集まって、詩歌管絃・碁・双六などで夜を明かすという風習があった。
こうして宮中に集まった中に師輔と元方がいた。
例によって双六が始まる。昔の双六は絵双六ではなくて、将棋盤のような目盛のついた盤をはさんで向かい合い、互いに12個の駒を一列に並べ、サイコロ2つを筒に入れて振り、出た目の数だけ駒を進めて早く敵陣へ送りこむというもので、人が集まる時によくおこなわれた遊びである。
師輔はサイコロを持ち、
「今度お生まれになるのが皇子であるならば、重六(じようろく、二つとも六の目が出ること)が出ますように」
と唱えて筒を振ると、重六が出た。
思わず感嘆の声が起こるなかで、元方の顔は真青であったという。
そして、重六の目の通り憲平親王が誕生し、運命は決まったと知ったとき、元方と娘の祐姫は、湯水も喉に通らぬほど悲しみ、身の不運をなげいた。
広平親王の将来に望みを託していた元方は、第二皇子立太子に落胆して心身衰え、天暦7年(953)3月に没す。
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9月
・空也、金字の大般若経の書写を人々の支持によって達成するために活動を開始。達成までに14年、応和3年(963)に至る。
『本朝文粋』巻13にある三善道統(どうとう)筆の「空也上人の為めに金字の大般若経を供養する願文」の中で空也は言う。
「市中に身を売る、我が願にありといえども、人間、信を催す、すでに群緑を寄す、半銭の施すところ、一粒の捨つるところ、漸々(ぜんぜん)力を合わせ、微々功を成せり
(市中に身を売るを何とも思わない。しかし、諸人に縁があり、人々は信心をおこし、あるいは半銭、あるは一粒(米)を喜捨してくれたから、しだいに力を合わせ、少しずつ功をつんだ)。・・・」
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