2024年5月6日月曜日

長徳元年(995)3月~4月 関白藤原道隆が病歿し、弟の道兼が関白となるがすぐに病歿「七日関白」。 伊周と道長の正面対決となる。 / 正暦5年(994年)から九州で流行していた疫病(天然痘)は、翌長徳元年(995年)、都においてパンデミック状態となった。五位以上の貴族68人が病死、庶民に至ってはその数を知らずという状態で、都の住民の半数以上が犠牲となったという(『日本紀略』正暦5年7月条より)

東京 北の丸公園
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長徳元年(995)
3月9日
・関白藤原道隆の病により、子の伊周に内大臣・内覧の宣旨が下る
3月に入り死を覚悟した道隆は、伊周を後任とし、関白の職を代行させるよう、一条天皇に要請した。
『小右記』によれば、3月8日、頭中将藤原斉信(ただのぶ)は「関白煩病の間、雑文書・宣旨等、先づ関白に触れ、次いで内大臣に触れ、奏聞を経(ふ)べし」との勅命を伊周に伝えた。
すると伊周は「勅を伝ふるの旨、頗る以て相違す、関白煩病の間、専ら内大臣に委ぬるの由、己に承るところ有り」と、聞いているところと違うと反論し、頭中将は天皇の命で関白の意向を尋ねに向かった。
伊周は天皇の勅命を申し返したのであり、「此の事、大奇異の極みなり、必ず事敗るる有るか」と記されたように異例な事件だった。

翌9日、伊周に内覧させる勅命が、頭弁源俊賢から太政官事務方の外記・史に下された。
「関白病ひの間、官・外記文書、内大臣に見せしむべし」という内容だが、文書を作成する段になり、左少弁高階信順(成忠の男)が「間」の字を除き「病ひの替」に改めよとねじこんだ。
しかし大外記中原致時は、これは蔵人頭が奉じた勅命をそのまま記したものであり、勝手に直せないと拒絶し、官僚として法を守った。
伊周は目の色を変えて画策したが、一条天皇は拒否し、貴族たちも認めなかった。

2月頃から、関白道隆が病気となり、道隆は息子伊周に関白を譲ろうとした。
しかし、一条天皇は許さず、病気の間だけ伊周に内覧の宣旨が下る。
内覧は、天皇へ奏上する文書と天皇から下される文書を予め見ることを職掌とする関白に准じる官職である。

『小右記』長徳元年3月10日条には、「主上の御気色、関白の病の間、見るべき人無し。これを如何せんと、仰せ下す所なり。彼の人等偏に関白の詔を蒙るべきの由を奏すと云々。然れども、天気許さず」とある。
一条天皇はあくまで道隆の病気の間だけと考えていたが、道隆・伊周親子は関白の地位に固執していた。

『大鏡』は、「御酒のみだれさせ給」と酒の中毒といい、『栄花物語』「みはてぬゆめ」は、前年冬から「関白殿水をのみきこしめして、いみじう細らせ給へり」と水をやたらと飲んだと伝え、強いアルコール中毒による糖尿病だったと推定されている。
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4月4日
・伊周に随身(近衛府の下級宮人の護衛)を与えることで悶着。
前日、道隆は関白を辞し随身を返上したので、当然自分に譲られると思った伊周は、参内して随身の支給を奏したが、下された勅命は関白の随身の人数の減少だけであった。

それを知った伊周は「気色を変じて」天皇の前に参入。
頭弁は改めて天皇の前に召され、先例があれば伊周に随身を与えることを関白のところへ行って伝えるよう命ぜられた(従来摂関以外の大臣には随身を与えられていない)。間に入った蔵人頭源俊賢は困りはてている。

翌日、左大臣源融(とおる)の例があるとして伊周に随身を与える宣旨が下されたが、同時に行なった関白を伊周に譲りたいとの道隆の奏請に対しては、一条天皇は許さなかった。
「気色不快」と『小右記』は伝えている。

随身支給の件では、頭弁源俊賢は女院詮子に報告に行っている。東三条院と一条天皇の間には意思の疎通があったらしい。
しかし伊周は東三条院のところへ随身支給の慶申(よろこびもうし、お礼を申上すること)に行き、実資は「定めて嘲弄有るか」(『小右記」)と記している。人間関係がわかっていなかったのだろう。
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4月10日
・藤原道隆(43)歿。
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4月27日
道兼(道隆の弟、右大臣)が関白となる。
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5月8日
道兼、没(7日関白)

4月27日 「太政官の巨細雑事は右大臣に触るべし」、「関白万機(ばんき)」の詔が右大臣道兼に下された。
伊周は嘆き、落胆した。
道兼は、花山天皇退任劇の立役者であり、兼家の後継は自分と自負していたくらい、待ちに待った関白のポストであった。

しかし、疫病に倒れ5月8日に歿。「七日関白」の名を残すのは、5月2日に関白の慶申に参内してから、7日で没したから。

この「大疫癘(えきれい)」は、前年、筑紫から起こって流行した赤斑瘡(あかもがき、麻疹)。4、5月に流行が苛烈で、7月にようやく落ちついた。
起点となった大宰府では多くの死者のため死骸で道がふさがれたと言い、都でも死体は道に溢れ、烏や犬でさえも死体を食べるのに飽き、骸骨で道が塞がったという(『本朝世紀』)。
四位・五位も多く死亡し(四位7人、五位54人)、公卿でも大納言朝光・済時ら道隆の飲み仲間も倒れ、道兼と同日に左大臣源重信・中納言源保光も病に倒れるなど、年頭に14人いた中納言以上のうち、8人が1年のうちに病死。
奈良時代に藤原4兄弟を倒した天平9年(737)の天然痘以来の大流行であった。

生き残った伊周と道長は正面対決することになる
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4月27日
・道長、左大将。
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に続く


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