東京 江戸城(皇居)東御苑
*1758年(宝暦8)
7月6日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。カリヨンの戦い。
将軍ルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムと、フランソワ=ガストン・ド・レビに率いられた4,000人のフランス軍が、ジェームズ・アバークロンビー率いる圧倒的に優勢なイギリス軍に、正面から奇襲を仕掛けられた。
イギリス軍は、塹壕で囲まれたフランス陣地を大砲を使わずに攻撃。戦死傷者は両軍合わせて3,000人を超え、うち2,000人以上がイギリス兵。
戦術面での軍事的無能の典型例とされる。
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7月13日
・酒田伝馬町より出火。1500戸を焼く
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7月20日
・幕府、郡上金森藩の本格的な調査を開始。
老中酒井忠寄は、寺社奉行阿部伊予守を長とする5人の詮議掛(裁判官)を任命。
7月21日~12月25日、殆ど毎日裁判。取調は幕府側(老中・若年寄・三奉行)、郡上藩(藩主金森頼錦・藩役人)、美濃国郡上郡・越前国大野郡石徹白村の村人数百人に及ぶ。また、審議には、将軍徳川家重の側衆である田沼意次も参加。
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7月22日
・宝暦事件。
京都所司代、公家へ尊王論を講義していた尊王論者竹内式部を捕縛。
宝暦6年12月以降も、関白ら朝廷の重臣たちは幕府を憚って竹内式部門人の公卿らの弾圧を行い、この日、権大納言徳大寺公城(きみき)、少納言西洞院時名(ときな)、権大納言正親町三条公積(きんつむ)、同烏丸光胤、権中納言坊城俊逸(としやす)などの官を取り上げ、永蟄居を申し付けるなど大量処分を断行した。
重臣らはさらに、式部を京都所司代に告発し、式部は1年近い取調べののち、翌59年5月に重追放となった。
京都町奉行所における取調べの際、役人から「今の天下は危い天下か」と尋ねられたのに対し、竹内式部は、敢然と「成程危き天下と存じ奉り候」と答え、居並ぶ役人たちの顔色を失わせたという。
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7月26日
・北米、フレンチ・インディアン戦争。イギリス軍アマースト将軍、ヌーヴェル・フランスの要塞ルイブール(ルイスバーグ)を奪う。
これにより、イギリスはセントローレンス川への航路を確保し、翌1759年のケベックへの侵攻を可能にした。
ルイブールは、ジェフリー・アマースト・ケープ・ブレトン島(ロワイヤル島)の要塞の町で、1745年(オーストリア継承戦争の間)、ニューイングランド植民地の兵がイギリスの支援により侵攻したが、アーヘンの和約でフランスに返還された。
この年(1758年)早春、フランスはルイブール防衛強化のため、従来の駐屯部隊3千に加え軍艦5隻を派遣。
同じく1758年5月下旬、エドワード・ボスコーエン提督率いるイギリス艦隊が、ノバスコシアのハリファクスからルイブールに到着し、陸軍指揮官ジェフリー・アマーストと共に上陸計画を練る。
一方、ルイブール総司令官オーギュスタン・ド・ボシェンリ・ド・ドリュクールは、イギリス側の企みに気づいて、上陸阻止と包囲への抗戦準備を進めた。
6月8日、准将ジェームズ・ウルフ指揮下の軍が上陸開始するが、強固なフランス軍の防御の前に、上陸船は退却を始める。
しかし、退却の過程で、ガバルス湾の入江の近くのケニントン・コーブに上陸。上陸したイギリス軍は、側面と背後からフランス軍を攻撃し、ルイブールの要塞へ退却させた。
その後、イギリス軍は、物資や大砲を陸揚げし、6月12日、ライトハウス・ポイントを占領。ここに砲台を築いて港を射程内に納めた。
6月19日、ルイブールへのイギリス軍の砲撃が始り、フランス軍もこれに応戦。
7月1日、イギリスのウルフ隊はドーファン門を見上げる小高い土地を占領し、より効果的な砲撃ができるようになる。
フランス軍も必死で反撃、7月19日にはイギリスの包囲一部を破壊し、捕虜28人を連行した。
7月21日、イギリスの砲弾が軍艦ラントルプレナンを直撃し、艦が爆発、そばにいたカプリシエンスとスペルブが炎上。
7月22日、イギリスの砲撃により、ルイブール要塞の中のキングス堡塁とクイーンズ堡塁が破壊された。
7月25日、港に侵攻したイギリス部隊は、フランスの残りの軍艦、ビヤンフェザンを拿捕し、プリュダンを燃やした。
翌日、全てを失ったフランス軍司令官ドリュクールは降伏。
ルイブール陥落は、フレンチ・インディアン戦争の中でも大きな意味を持つ。
イギリスは、翌1759年に、カナダの運命を決するケベック侵攻に向け、セントローレンス川を制した。
またルイブールでのイギリス勝利の知らせは、デュケーヌ砦とフロンテナックの陥落のすぐ後にもたらされ、この勝利が、その後のイギリス軍の戦闘に急激な変化を与えることになった。
ルイブール陥落と同時に、セント・ジョン島も降伏。
デュケーヌ砦は、この年11月にニューイングランド植民地軍に占領され、ピッツバーグと改称される。
イギリス軍は、ルイブールの戦いの後、サンジャン島と、現在のニューブランズウィックからのアカディア人の追放作戦を開始。
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8月
・北米、フレンチ・インディアン戦争。サンジャン島方面作戦。
サンジャン島(現プリンスエドワード島)に住むアカディア人と、最初の追放を逃れてサンジャン島にいたアカディア人の追放を目的とする。
アカディア人はイギリスへの絶対的忠誠の誓文への署名を拒み続け、イギリスへの軍事抵抗に参加し、ルイブールやボーゼジュールなどのフランスの砦へ重要な補給業務に就いていた。
フレンチ・インディアン戦争の間、イギリスは、アカディアの兵力を無効にしようと努め、また、追放されたアカディア人がルイブールへの補給線を維持するのを、阻止しようとした。
アカディア人追放の第一弾は、1755年のファンディ湾方面作戦から始まった。
多くのアカディア人がこの作戦を逃れてサンジャン島(現プリンスエドワード島)のフランス人集落に向かった。
サンジャン島の市長で指揮官のガブリエル・ルーソー・ド・ヴィユジュウィンは、このファンディ湾作戦時に、折に触れてミクマク族をアカディアにやって、イギリス軍から略奪をさせ、また、絶え間ない攻撃を仕掛けさせた。
1756年夏、ヴィユジュィンは7人のミクマク族をエドワード砦に送り込み、イギリス兵2人の頭皮を剥がせて、その頭皮と捕虜を連れて戻って来させた。
この年、ロワイヤル島(ケープ・ブレトン島)でのルイブールの戦いの後、イギリス軍はサンジャン島と、現在のニューブランズウィックからのアカディア人の追放作戦を開始した。
ジェフリー・アマースト少将の命により、アンドリュー・ロロ中佐がアカディア人追放作戦を指揮。アマーストは、ロロにサンジャン島をフランスから奪い、ラ・ジョイ砦の場所にアマースト砦を築くように命じる。
8月17日、ロロがラ・ジョイ砦の港に軍艦「ハインド」と4隻の輸送船、スクーナーで近づいたところ、指揮官のヴィユジュィンは直ちに降伏した。
8月18日、ロロの兵たちはヒルズボロー川を上り、フランス人を捕虜にして戻った。同様に、3台の大砲が、砦の近くのラムズアイランドに据え付けられた。
3,000人の追放者の中で、ざっと600人が早い時期にロワイヤル島に向かい、その次は、メアリー号で11月4日以前にうまく大西洋をわたった。
11月4日に12隻の船がラ・ジョイ砦に向かったが、この船隊も1隻はカンゾ海峡で難破し、1隻がアゾレス岬、そして2隻がランズ・エンドでそれぞれ沈没した。
残る8隻はフランスを目指したが、その途中に、1,500人のアカディア人が病死または溺死した。
アカディア人の多くがヴィユジュィンと共に降伏したが、約1,250人(30%)のアカディア人は降伏せず、サンジャン島から逃亡。
アカディア人たちは島を離れて、シャルル・デシャン・ド・ボワシェール・エ・ド・ラフェトの難民キャンプ(現在のニューブランズウィック州ミラミチ近くのボーベアル(ボーベアーズ)島にあり「キャン・ド・レスペランス」として知られていた)や、シャリュー湾やレスティグーシュ川に辿り着いた。
また、約150人のアカディア人が1759年半ばまで島に留まった。
サンジャン島方面の作戦が始まってから、アマースト少将は、ジェームズ・ウルフ准将を沿岸部北東に送り、セントローレンス湾方面作戦を展開した。
ウルフが他の地域の任務に就いて後、1760年のレスティグーシュ川の戦いで、ボワシェベールの難民キャンプにいた数百人のアカディア人が捕囚され、1761年には、大尉のロデリック・マッケンジーがレスティゴーシュ川のブルドンのキャンプの330人のアカディア人を捕虜にした。
イギリス軍はまた、当時のベ・フランソワーズ(フランソワーズ湾、現在のファンディ湾)の北岸に向かった。
1758年11月、少佐のジョージ・スコットと数百人の兵が、カンバーランド砦を発って、プティクーディアク川を多くの艦隊で上り、行く先々で集落を破壊した。
同じ頃、ロバート・モンクトン中佐が、2,000人規模の部隊を率いてセントジョン川での作戦に従事していた。
また、ケープサーブル島でも似たような作戦を展開。
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8月25日
・ベルリンへ迫るロシア軍に対して、この日、プロイセン軍はキュストリン北東のツォルンドルフの戦いでロシア軍を破った。
ロイテンの戦いに勝利したプロイセン軍はそのまま南下し、オルミュッツを包囲。
しかしドームシュタットルの戦いで補給部隊が敗れ、さらに東からロシア帝国軍がベルリンに迫っていることを知ったフリードリヒはロシア軍の迎撃を決意する。
フェルマー率いる4万3千の軍勢は既にベルリンまで100kmの地点に迫り、そのままオーストリア軍と合流する気配も見せていた。
フリードリヒが軍を北上させ、ロシア軍の後方に追い着くと、キュストリンから10km南のツォルンドルフで両軍は対峙した。
両軍共に弾薬が尽き白兵戦に突入。
凄惨な戦いは日没まで続き、ロシア軍は8割の損害を被った。
全体的な損害としては、プロイセン軍が全体の32%にあたる1万2800名を失い、ロシア軍は全体の40%におよぶ1万8000を失った。
しかし、勝敗ははっきりとせず、数日の間は砲撃戦を続けていた。
ロシア軍は自軍の損害が甚大であることを認め、最初に退却し、この退却によってオーストリア軍の合流は妨げられた。
ロスバッハやロイテンの戦いの勝利ほどではないが、フリードリヒがの3度目の勝利は彼の評価をさらに高めた。
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8月26日
・身を隠していた前谷村定次郎(駕籠訴人)・切立村喜四郎(同)・前谷村吉良治(歩岐島騒動の際江戸へ逃亡)・切立村吉十郎(同)の4名、箱訴が無駄になることを心配して北町奉行依田和泉守の役宅へ訴状をもって訴え出て(駆込訴)、直ちに入牢。
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