2012年10月9日火曜日

ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(42) 「第2章 もう一人のショック博士 - ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その12、終)

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ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン』を読む(42)
 「第2章 もう一人のショック博士 
- ミルトン・フリードマンと自由放任実験室の探究 -」(その12、終)

アジェンデ政権転覆を画策する人々にとって、ブラジルとインドネシアは対照的な研究材料
スハルトの経済プログラムが始動した頃にちょうどアジェンデ政権転覆を画策していた人々にとって、ブラジルとインドネシアでの一連の動きは対照的な研究材料となった。
ブラジルではショックの力をほとんど利用せず、残虐性をあらわにしたのは何年も経ってからだったが、これは致命的な誤りだった。
その間に反対派は再編成し、一部は左翼ゲリラ軍を結成した。
軍事政権は街頭からデモ隊を追放することはできたものの、反対派が勢力を伸ばすに従い、その経済政策は減速を余儀なくされた。

インドネシアの教訓Ⅰ:まずショック(恐怖)を
他方スハルトは、大規模な弾圧が先制的に行なわれれば、国全体が一種のショック状態に陥り、抵抗運動が起きる前にそれを排除できることを実証してみせた。
その恐怖の与え方はあまりにも容赦なく、最悪の予想すら超えていたため、つい数週間前には仲間たちとともに祖国の独立を主張していた人間が、恐怖のあまりスハルトとその子分の支配に完全に屈した。
クーデターの時期にCIAの作戦担当幹部だったラルフ・マッギーは、インドネシアの「作戦は模範的だった」とふり返る。
「主要な流血の出来事はすべてワシントンの指令までたどっていくことができた。この成功は、今後また同じことを何度でもくり返せるということを意味していた」

インドネシアの教訓Ⅱ:海外の多国籍企業に対して開放的な環境に転換させる
もうひとつインドネシアから学ぶことのできた重要な教訓は、クーデター以前のスハルトとバークレー・マフィアとの協力関係に関わるものだ。
彼らは新政権でトップ「テクノクラート」の地位を占めることになっており、すでにスハルトを自分たちと同じ考え方に”転向”させていた。
したがってクーデターには、ただ単に民族主義の脅威を払拭するだけでなく、インドネシアを海外の多国籍企業に対してきわめて開放的な環境へと転換させるという成果があった。

「ジャカルタがやってくる」
アジェンデ政権転覆への気運が高まるなか、サンティアゴ市内の壁には赤いペンキで書かれたゾッとするような警告 - 「ジャカルタがやってくる」 - があちこちに現れた。

「国の破綻を回避するには、現政権を転覆する以外に方法はない」
アジェンデの当選直後から、チリ国内の反対派はインドネシアのやり方を不気味なほど精確に真似し始めた。
シカゴ・ボーイズの根城であるカトリック大学は、CIAの言う「クーデター環境」を創出するための拠点となった。
多くの学生がファシスト組織「祖国と自由」に加入し、ヒトラーユーゲントさながらに脚を高く上げたグースステップで街中を行進した。
アジェンデの大統領就任から一年後の一九七一年九月、チリ実業界の大物たちは体制転換に向けて首尾一貫した戦略を練るため、海辺の都市ビニャ・デル・マールで緊急会議を開いた。
全国製造業者協会(CIAおよびワシントンでそれぞれの策謀をめぐらす幾社もの多国籍企業から、多額の資金提供を受けていた)のオルランド・サエンス会長によると、「アジェンデ政権はチリの自由および私企業の存在と相容れない。したがって国の破綻を回避するには、現政権を転覆する以外に方法はない」というのが会議の結論だった。
会議では「戦争のための組織」なるものが結成され、その一部は軍と連携を取り、別の一部は(サエンスによれば)「政府のプログラムに代わる具体的なプログラムを策定し、それを計画性を持って国軍に伝える」ものとされた。

「反政府派による研究組織」資金の「七五%以上」がCIAから直接提供
サエンスは主要なシカゴ・ボーイズ数人を採用し、サンティアゴの大統領官邸近くに新たに設けたオフィスで、この代替プログラムの策定にあたらせた。
シカゴ大学に留学したセルヒオ・デ・カストロとカトリック大学での仲間であるセルヒオ・ウンドゥラガの二人をリーダーとするこのグループは週一回秘密会議を開き、祖国を新自由主義路線に沿って根本から作り直すための詳細にわたる提案を作成した。
米上院がその後行なった調査によれば、この「反政府派による研究組織」の資金の「七五%以上」がCIAから直接提供されていた。

軍がアジェンデとその支持者の壊滅を、経済学者が彼らの思想の壊滅を
当面は、二つの明確な路線に沿ってクーデター計画が立案された。
軍がアジェンデとその支持者の壊滅を、経済学者が彼らの思想の壊滅を、それぞれ計画するのである。
武力による解決に向けての動きが加速するなか、CIAの資金供給を受けていたチリ最大の新聞『エル・メルクリオ』に関係する実業家ロベルト・ケリーを仲介役として、両者間に対話が開かれた。シカゴ・ボーイズはケリーを通し、五ページにわたる経済プログラムの要約を海軍の担当大将に渡した。
海軍はこれを承認し、それ以降、シカゴ・ボーイズはクーデターまでにプログラムを完成させるべく必死で準備を進めた。

軍事政権成立後の指針となる経済プログラムを詳細にわたって記した”バイブル”は、五〇〇ページにも及ぶ厚さから、チリでは”レンガ”と呼ばれた。
のちに設置された米上院委員会によれば、「CIAの協力者は、軍事政権のもっとも重要な経済政策を決めるための土台となった初期包括的経済計画の策定に関わっていた」。
”レンガ”の主要な著者一〇人のうち八人までが、かつてシカゴ大学で経済を学んだ者だった

アジェンデ政権の転覆は一般に軍事クーデターと呼ばれているが、アジェンデ政権の駐米大使オルランド・レテリエルはこう書く。
「チリで「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれている連中は軍の将軍たちに、軍の持つ残虐性をさらに強化するとともに、軍に欠けている知的資産を補完することを確約した」

チリのクーデタにおける三つの明確なショック
実際に起きたチリのクーデターは、三つの明確なショックを特徴としており、これはその後近隣諸国で、そして三〇年後にイラクでくり返されることになる。
クーデターによる最初のショックの直後に続く二つのショックのうち、ひとつはミルトン・フリードマンの資本主義的「ショック療法」である。
今やラテンアメリカには、シカゴ大学およびその多様なフランチャイズ組織でこの技術の教えを受けた経済学者が数百人にも上っていた。
もうひとつはユーイン・キャメロンのショックで、薬物と感覚遮断を用いるこの方法はクバーク・マニュアルに拷問技術として体系化され、ラテンアメリカの警察や軍で実施されるCIAの訓練プログラムを通じて普及していた。

この三つの形態のショックはラテンアメリカ全体およびその地域の国民に集中砲火を浴びせ、それによって破壊と再建、抹消と創造が相互に強化しあう、止めようのない嵐が吹き荒れることになった。
クーデターの衝撃は経済的ショック療法を実施するための素地を作り、拷問室のショックは、経済的ショックを阻もうと考える人たちすべてを恐怖に陥れた。
この生きた実験室から「シカゴ学派国家」第一号が生み出され、シカゴ学派が推進する国際的反革命に初めての勝利がもたらされたのだ。
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