2015年2月14日土曜日

1787年(天明7年)1月~2月 モーツアルト夫妻のプラハ旅行(『フィガロ』の成功) 松平定信老中登用の画策失敗 フランスで第1回名士会召集(財政危機打開のため) 【モーツアルト31歳】

カワヅザクラ 2015-02-13 北の丸公園
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1787年(天明7年)
1月
・墺領フランドル(ベルギー)で反乱勃発。
オーストリア領フランドル(ベルギー)で、皇帝ヨーゼフ2世は、行政・司法改革(同業組合廃止、多くの修道院閉鎖)を行う。住民は反発するが、反対派は分裂。弁護士ファン・デル・ノート率いる「現状維持派」はアンシアンレジーム存続を支持し、フォンクを頭とする「愛国派」は民主主義的改革とベルギー独立を望む。
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月初め
・モーツアルト(31)、2つの教会用歌曲「おお、神の子羊/エジプトよりイスラエルの民が」(K.343(336c))作曲。
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1月8日
・モーツアルト夫妻、シュタードラーと共にウィーン出発。プラハでの「フィガロの結婚」(K.492)の成功により、「識者愛好家協会」からプラハに招待。
モーツアルト夫妻は人生で最も幸せであったろう1ヶ月をプラハで過ごす。

前年12月、「フィガロ」が登場して以来、プラハは「フィガロ」一色となる。空前の大当たりをなした、興行師バスクワーレ・ボンディーニは経営破綻を切り抜けたという。

8日、ウィーン出立の前に、モーツァルトはエートムント・ヴェーバーの記念帳に
「勤勉であられよ - 怠惰をのがれたまえ ー そしてあなたを心より愛するあなたの従兄弟を決して忘れることなかれ。
                                   ヴォルフガング・アマデー・モーツァルト
                                   ウィーン、一七八七年一月八日
                                   朝五時、旅立ちを前に」
と記入する。
エートムント・ヴェーバーは、モーツァルトの妻コンスタンツェの父フリードリーン・ヴェーバーの弟フランツ・アントーン・ヴェーバーの息子で、兄フリッツ・フリードリーンとともに、ヨーゼフ・ハイドンの弟子。父フランツ・アントーンは、2人の息子とともに1784年ウィーンに来て、翌1785年、歌手ゲノフェーファ・プレナー(21歳)と結婚。この2人の間に生まれたのが、カール・マリーア・フォン・ヴェーバー。
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1月11日
・昼、プラハ到着。「ツム・デン・ドライ・ゴルデネン・レーヴェン(三金獅子館)」に宿をとる。 トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵邸で伯爵家の楽師たちによる奏楽のもてなしを受ける。
午後6時、神学校寄宿舎で行われた、クローネンブルク男爵が主催する舞踏会に行く。

「友よ・・まるで君がそこにいるようだったね - 君が美しい未婚、既婚の御婦人方全部のあとを - 追いかけるって思ってるのかね? - いいや、びっこをひいてやっとこさついて行くのをまのあたりにする思いだったよ! - ぼくは踊らなかったし、御婦人方にいちゃつきもしなかった。第一にぼくはほんとうに疲れていたし、それにだいたい生まれつき気が弱いからね。- でも、ぼくはこうした人たちがみんな、正真正銘のコントルダンスやドイツ舞曲に変身しちゃったぼくのフィガロの曲で、ほんとに心から満足しきって跳びはねていたのを、まったく嬉しくなって眺めていたのだ。 - 当地じゃ、フィガロの話でもちきりだし、弾くもの、吹くもの、歌うもの、口笛吹くもの、すべてフィガロだけさ。オペラを観に行くといやあ、いつもフィガロっきり、いつまでもフィガロさ。確かにぼくにとっちゃ大きな名誉さ。」(15日付け友人ジャカン宛ての手紙)
疲れきって伯爵邸に帰ったモーツアルトは、そのままぐっすり眠り込み、長い時間目を覚まさなかった。
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1月11日
・[露暦1786年12月月31日]フランス・ロシア、通商条約締結。
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1月12日
・モーツアルト、 トゥーン・ホーエンシュタイン伯爵邸で奏楽をする。伯爵邸に宿を移す。彼の部屋には<とても素晴らしいピアノフォルテ>が運び込まれた。その部屋で皆で演奏を楽しむ。それは<ちょっとした四重奏曲(クラヴィーア四重奏曲変ホ長調(K493))>と『リボンの三重唱』。

「お前の弟は、今、妻といっしょに、もうプラハにいるはずだ。前の月曜日にそちらに向けて出発すると私に書いてきたからだ。あれのオペラ『フィガロの結婚』はプラハで上演されて大喝采を浴びたので、オーケストラの人たちや識者愛好家協会が招待状を書き、あれのことを歌った詩ともども、あれに送ってきたのだ。私はそれをお前の弟から、またシュタールヘムベルク伯爵はプラハから受け取った。次の郵便日にそれをお前たちに送ってあげよう。ドゥーシェク夫人はベルリーンに行っています。それにお前の弟が英国に旅行するという話は、まだずっとヴィーンからも、プラハからも、またミュンヒェンからも確かめられるのだ」(1月12日付けレオポルトのナンネルル宛て手紙)。
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1月13日
・モーツアルト、カール・ラファエル・ウンガー師の案内で、「クレメンティーヌム」の王立図書館(現国立図書館)と神学校を訪問。
夜、パイジェッロのオペラ「鷹揚な競争」を観に行く。

「昨夕、われらの偉大にして親愛なる作曲家モーツァルト氏がヴィーンより当地に着いた。われわれが信じて疑わないのは、ボンディーニ氏がこの人物に敬意を表して、彼の楽才が生んだ人気ある作品『フィガロの結婚』を上演し、われらの名声嘖々(さくさく)たるオーケストラがひき続きその技倆の新たな証左を必ずやもたらすだろうことと、またプラハの鑑識眼豊かな住民諸氏が、この作品をすでにくりかえし聴いているにもかかわらず、まことに多数立ち会われることである。またモーツァルト氏の演奏も、なお讃嘆し得ればと願うものである。」(プラハの新聞報道)
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1月17日
・モーツアルト夫妻列席、「フィがロの結婚」上演。プラハ国立劇場
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1月19日
・プラハ、モーツアルト自身の音楽会。
「プラハ交響曲(第38番)」ニ長調K504)披露(初演)。国立劇場。他に「フィガロ」の愛好曲「もう飛ぶまいぞ」の主題による12の変奏曲など即興曲3曲が演奏。

「十九日金曜日にモーツァルト氏は当地国立劇場においてフォルテピアノで演奏会を催した。この偉大な芸術家から期待されるものはすべて完全に満たされたものである。昨日、歌劇『フィガロ』、彼の天才が創造したこの作品が彼自身によって指揮された。」(『プラハ中央郵便局時報』1月23日号)
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1月22日
・モーツアルト、「フィがロ」再演。自ら指揮。

モーツァルトのプラハ滞在の様子。
モーツァルトの初期の伝記作者のフランツ・クサーヴァー・ニーメチェク『宮廷楽長ヴォルフガング・ゴットリープ・モーツァルトの生涯』(1798)。
「彼は一七八七年二月にプラハへとやってきた。到着した日に『フィガロ』が上演され、モーツァルトがそこに現われた。すぐに、平土間席に彼がいるという噂がひろまり、序曲(シンフォニーア)が終ると観衆一同は彼に拍手喝采を送り、歓迎の意を表したのだった。そのあと、みんなの要望に応じて、オペラ劇場で催された音楽会で、彼はピアノフォルテを聴かせたものであった。この機会ほど劇場が満員になったことはかつてなかった。彼の神技のような演奏ほどに強烈で満場一致の恍惚感が惹き起こされたことはかつて一度もなかった。実際のところ、非凡な作品、あるいは非凡な演奏のいずれをいっそう強く感嘆すべきなのか、私たちには分からないのであった。両者は一体となって、私たちの魂に全体的印象を与えてくれたが、その印象は甘美な魔術にも比せられるものであった! だが、この状態は、モーツァルトが音楽会の最後に、一人ピアノフォルテに向かって半時間以上も即興演奏を行ない、私たちの恍惚たる気分を絶頂にもたらした時に、高い喜びにあふれた喝采となったのだ。そして、実際にこの即興演奏は、およそクラヴィーア演奏について想像し得るすべてを凌駕したものである。なぜなら最高度の作曲技術が、この上なく完壁な演奏の熟練と一体となったからである。この音楽会がプラハの人たちにとって類い稀なものだったと同様、モーツァルトはこの日を彼の生涯のもっとも美しい日の一つに数えたものであった。」
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1月30日
・モーツアルトの友人ハッツフェルト伯爵の死。
昨年知り合ってすぐ「イドメネオ」K.366のためのシェーナ(劇唱)「もういいの、私は全てを聞いた」K.490のヴァイオリン独奏パートをかき、3月13日のアウエルスベルク侯爵邸での上演に使う。後、「ハイドン四重奏曲」を演奏した親しい仲。
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2月1日
・一橋治済・御三家、大奥の年寄大崎をに尾張江戸藩邸へ呼ぶ。松平定信の老中就任に関する事情。
26日、幕閣は定信の老中登用を拒否。
28日、老中より御三家に対し定信の老中就任を正式に拒否する回答。

大奥老女大崎が一橋治済に語る内情。
将軍家斉は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向だが、老中水野忠友が反対。大奥年寄の高丘と滝川は、将軍から意見を求められ、9代将軍家重の代に将軍縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉とは同族であり、そのうえ定信の実妹種姫が10代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある「将軍の縁者」であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答える。

老中水野忠友はじめ幕閣中枢や将軍側近役人は、いずれも田沼派が占める。
そのうえ田沼意次自身、老中解任後も雁間詰として、なお中央政界に隠然たる発言権を有す。
両派の対立は続き、正規の幕閣による政治に対し、御三家・御三卿による田沼政治の匡正という政治の二元的緊張関係が続く。
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2月6日
・モーツアルト、四つのドイツ舞曲 (K509)。プラハ滞在中、ヨハン・パハタ伯爵での舞踏会のため。招かれてすぐ作曲を求められ、1時間で仕上げる。
8日、モーツアルト夫妻、プラハ出発。
12日、ウィーン到着。

プラハでの「フィガロの結婚」の大ヒット。招かれてプラハを訪問したモーツァルトは感激して帰って来るがウィーンは冷たい。
モーツァルトはプラハに1787~91年、4回訪問。 彼の死(1791年12月5日)に際し、真っ先に盛大な追悼ミサをあげた(12月14日)のはプラハの人々)。
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2月12日
・フランス、ミシェル・ネー(後、ナポレオンの元帥)、法律事務所勤めをやめ、国王の軍隊のユサール連隊に志願し兵卒として入隊。
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2月13日
・この頃、モーツアルトの父レオボルトは謝肉祭のミュンヘンに滞在している。
この日付けナンネルル宛ての手紙
「今までお前の弟の手紙は一通も受け取っていません。だからあれがどこにいるのか分からない」
「この旅行中、私の健康はいつもより悪くはなく、むしろ私はこうして空気が変わったり、動いたりすることがずっと為になるようにと望んでいます。だって、そもそも私の齢も六十七歳が終って六十八歳に入るところだから、年取った私の体に大きな変化があっても、これは当り前だからね! 老人はもう決して若くほならないのだ!」
この月23日、ザルツブルクに戻る。
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2月13日
・フランス、シャルル・ヴェルジェンヌ(69)、没。モンモランが外相となる。
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2月22日
・フランス、第1回名士会召集。ヴェルサイユ、国王の諮問機関。
計144(親王7、公爵・廷臣・元帥36、最高法院長・検事長33、司教11、国務顧問官12、ペイ・デタ(議会州)代表12、大都市市長・助役25など)。
カロンヌ提案の新税反対の姿勢を示す。議長プロヴァンス伯(ルイ16世弟、後のルイ18世)。

1778年、アメリカ独立戦争にフランスが巻き込まれて以降、国家財政は絶望的状態にあり、この月には、国庫は殆ど空になる。
この財政危機打開の為、明白な目的なもって名士会が召集される。
財務総監カロンヌは、印紙税拡大と土地財産に対する新たな一般税などを提案。
しかし、彼ら自身が苦情と要求をもつ名士たちは、協力を断る。

検閲にもかかわらずフランスで出版されたパンフレットやカリカチュア、オランダやイギリスで印刷されたフランス語新聞は、政府の言うなりにしかなりえないこの議会を揶揄。名士たちは、痛いところを突かれて、自分たちの独立性を示すためにカロンヌ提案の改革案を退ける。

ミラボー「投機を告発す」。
カロンヌが国家資金で取引所で投機を行ったとして非難。また、カロンヌは、ディスパニャック僧正が東インド会社に対して行った投機事件にも関与。
4月8日カロンヌ罷免(パリ高等法院による浪費審問が命じられイギリスに逃亡) ⇒ ブリエンヌ登用。
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2月23日
・ウィーン、ナンシー・ストレース(21)の告別演奏会。モーツアルトが前年12月26日(or27日)のレチタティーヴォとアリア『どうしてあなたが忘れられるだろうか - 心配しなくともよいのです、愛する人よ』(K.505)が歌われ、その伴奏を務める。この日の演奏でナンシーは4000フローリンを得る。

それに憤慨したフランツ・クラッターの警告文。「下手な演奏会でなげやりにアリアを2~3曲歌う外国人を争って求め、モーツァルトのような優れた自国の芸術家の演奏会にはまったく収入がない。こんな祖国に何が期待できるのか。 」。
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月末
・ウィーンに滞留していた英国の音楽家たちの一行がザルツブルクに立ち寄り、レオボルトの許を訪れる。
レオボルトは彼らを案内してザルツブルクの市内を巡る。その夜、一行はザルツブルクを出発。

この一行とは、
<ストレース夫人>とその母親。ストレース夫人は訪問の夜にはアリアを3曲歌った。
<ウィーンの歌劇場のテノール歌手オケリー(マイケル・ケリー)>、<彼女のお兄さんのマエストロ、ストラッチ>、<英国少年アットウッド>など。
ナンシー・ストレースとマイケル・ケリーは『フィガロ』の初演歌手。

マイケル・ケリー(1762~1826):
『フィガロ』でバジーリオとドン・クルツィオの両役を受けもった人物で、『フィガロ』初演の反響についての証言を提供している。1783年初めにウィーン宮廷劇場と契約して活躍した。

ストレース夫人の実兄ステファン・ストレース(1762~96):
作曲家、ウィーンでオペラを上演している。

<英国少年アットウッド>=トマス・アットウッド(1765~1838):
ウェールズ公の命により、音楽理論・作曲を学ぶべく外国留学の旅に出て、はじめナポリで2年間勉強し、そのあとウィーンでモーツァルトに就き、1785年8月頃から87年2月まで、モーツァルトの作曲の弟子として勉強した。
彼がモーツァルトから受けたレッスンを克明に記しているのが、現存する『トマス・アットウッドの練習帳』(K6=506a)(大英博物館所蔵)。これはモーツァルトの手になる訂正が加えられている貴重な資料であり、教師としてのモーツァルトをあらわなかたちで示してくれる唯一の資料。
アットウッドはストレース一家と帰郷したあと、オルガニスト、指揮者、作曲家として英国で活躍する。
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