元暦2/文治元(1185)年
3月24日
壇ノ浦合戦
壇ノ浦合戟は海戦(船戦)である。海戦の戦闘法としては、まず船上から矢を射合い、敵の船に乗り込み、太刀や長刀による打物戦や組討戦になる。敵の船に乗り込む時には、鉄熊手で相手の船を引き寄せることも行われた。
ただ、壇ノ浦での源氏は、長門に範頼の陸上部隊がいて陸上からの攻撃も行われている。延慶本『平家物語』によれば、範頼は長門で平氏を待ちかまえていたという。また、緒方惟栄が、九州の軍勢を率い「唐地」を塞いだという。平氏の退路を断つためであり、唐地を塞いだというのは、平氏が外海へ出るのを防いでいることで、平氏の外海への逃亡も想定されていた。豊後に渡った範頼が長門に戻っていたかどうかは不明だが、覚一本『平家物語』によれば、範頼軍に属していた和田義盛は陸上から平氏に向かって遠矢を射ている(延慶本では義盛は船上から遠矢を射ている)。これに対し、平氏は船団だけである。
戦闘は3月24日早朝からはじまる(覚一本では卯刻、延慶本では「夜のあけぼの」)。午前中に戦闘があり、その点では『吾妻鏡』にも共通している。
延慶本『平家物語』は、壇ノ浦合戦における平氏水軍の陣容を、次のように叙述する。
第一陣を山鹿秀遠が率いる筑紫の武者の精兵200艘、第二陣を粟田重能が率いる四国の水軍200艘、第三陣が平氏の公達が率いる本隊の200艘、第四陣が菊池氏・原田氏など九州の水軍100艘の700艘。
(覚一本では、一陣は山賀秀遠、二陣は松浦党、三陣が平氏の本隊)
山鹿秀遠は、寿永2年の平氏大太宰府落ちの時から平氏を支えてきた九州の家人で、葦屋浦合戦に敗れて山鹿の地から退かなければならなくなるまで、北九州を確保していた。第二陣の粟田重能が指揮した四国の水軍は、一ノ谷合戦敗北の時から戦意の低さを見せ、平氏の軍勢を内部崩壊させてきた。第三陣は平氏の本隊である。第四陣は、太宰府官人大蔵氏の一族と肥後国の菊池氏の軍勢である。
また、平氏の船団には唐船(外海にも出られる大型船)も混じっていた。唐船は、本来は安徳・建礼門院・宗盛などの身分の高い人々が乗る船であったが、壇ノ浦合戦では天皇以下の身分の高い人々は兵船に乗せ、唐船には戦闘員を乗せ、源氏が唐船に向かってくるところを討つという作戦を採ったという。
兵船の数は平氏の方が劣っていた。覚一本では、平氏1,000余艘に対し、源氏3,000余艘、延慶本では源氏は同じく3,000余艘で、平氏は700余艘。『吾妻鏡』でも、平氏500余艘に対し、源氏840余艘であった。
〈合戦の展開〉
満珠(まんしゆ)・干珠(かんしゆ)の島辺りに勢ぞろいした源氏方は、潮の流れに誘い出されるように西に移動、平家方と接触した。双方鬨をあげ合う。鬨の声が静まって、総大将の新中納言知盛が大音声に叫ぶ。「天竺震旦でもわが朝でも、ならびなき名将勇士も運命が尽きてしまえばせんないことだ。しかし名は汚したくはない。東国の者どもに弱気を見せるな。戦え、ものども。知感のいいたいことはこれだけだ」、と。それが合戦開始の宣言だった。
序盤は、山鹿秀遠率いる第一陣の弓射が追討使に勝り、平氏の水軍が押していた。追討使の和田義盛と平氏の四国水軍の新居家長(にいのいえなが)の遠矢(遠距離射撃)比べでは、新居家長の飛距離が勝り、平氏水軍の弓射の技量の高さを示した。これは、水軍の戦は遠距離からの弓戦で序盤・中盤が展開し、相手の陣形を崩してから接近戦となるため、遠矢は水軍の武者として必須の技だったためである。
延慶本『平家物語』では、遠矢では勝てないとみた和田義盛は、小舟で平氏の軍船に接近し、近距離から狙った相手は百発百中で射落としたという。これが、坂東武者の弓射である。距離を取られて一方的に射られる追討使の水軍の劣勢は明らかであり、序盤戦は平氏水軍の第一陣が一方的に押していた。
この形勢を一変させたのが、第二陣の四国水軍の寝返りである。「阿波民部成良(重能)忽ちに心替して返忠してんければ、四国の軍兵百余艘進み戦わず、船を指退く、平氏怪しみをなす所に、成良申しけるは『唐船には大将軍は乗り給わず、兵船に召したるぞや、兵船を責め給へ』とで、民部大夫が-類、四国者共指合て、後ろより平家の大将軍の船をぞ責めたりける」という行動に出た。重能は200艘余の軍船を指揮していたので、その半分以上が重能の指示に従って行動したという。
第一陣の山鹿秀遠は、優勢と判断しているので軍船を率いて前進していた。ところが、第二陣を率いる粟田重能が追討使側に付くと宣言したことで第二陣は混乱し、重能の指示に従った半数以上の軍船が船の前進を止めて第三陣を攻撃できる位置に移動した。追討使側の軍船は、平氏の公達や侍大将が乗る和船を狙って攻めはじめた。第一陣は追討使の軍船と戦っているので動けず、救援に向かえるのは大蔵・菊池の人々が率いる第四陣だけであった。
一方の、山鹿秀遠に攻め込まれている序盤の義経は、「源氏よわく見えて、平家かつにのる、心うくおぼえて」と、数で勝りながらも劣弊な戦況に憂鬱な心境になっていた。義経は、最後は数で押しつぶせることを承知しているので、坂東では知られた存在になっている三浦一族の水軍を中核に第一陣を組み、平氏水軍の消耗と疲労を待っていた。三浦水軍が頑張っているので、互角に戦えばいずれは勝てるとわかっていても、目の前で押されているのをみるのは、憂鬱であった。ところが、平氏の側から寝返りが出て、状況は一気に勝勢に傾いた。
追討使の攻撃に、平氏の軍船は「乗移々々(のりうつりのりうつり)責けりかかりければ、平家の船の水主梶取(かこかじとり)、櫓(お)を捨て、かひをすてて、船をなおすにおよはす、射伏せられ、切り伏せられて船底にあり」という状況になった。
平氏の本隊をなす第三陣は、個々の軍船が操船できない状況になり、船団としての進退はもはやできなかった。この段階になっても、宗盛は陰陽師安倍清基を召して、合戦の勝敗を占わせている。清基は、「今はかう(占いの結果は平氏の敗北)候ぞ」と伝えている。宗盛は、現実を受け入れられないままに、最終局面を迎えた可能性がある。
一方、知盛は建礼門院以下の一門の女性たちが乗る船に説明に行って、まもなく平氏方の抵抗も終わるので東夷(あずまえびす)をご覧になることができるでしょうと伝えた上で「御所の御船にも見苦しき物候はば、よくよく取り捨させ候へ」と、乗り込んで来る追討使の軍勢に対して混乱している姿を見せないようにと指示している。一方、最後の抵抗を続けている一門の人々に対しては、「侍共に禁(ふせ)がせて、とくとく自害し給へ、敵に(首を)取られて憂名残すな」と死に支度を命じた。壇ノ浦合戦は、平氏水軍の自壊によって突然最終局面に入ったので、第一陣を率いる山鹿秀遠以外はまともな戦いをしないままに、終わろうとしていた。
平清盛の妻二位尼時子は、安徳天皇を背負い、帯で二人の身体を結び合わせ、三種の神器のひとつ宝剣(天叢雲剣あめのむらくものつるぎ)を腰に差し、神璽(しんじ、八尺瓊勾玉やさかにのまがたま)を脇に挟んで入水した。二位尼の入水をみた建礼門院以下の女性たちも続いて入水したが、追討使の軍船はすでに近づいていた。二位尼の入水によって安徳天皇と宝剣は失われたが、神璽は箱が浮かび上がってきたところを拾い上げられた。建礼門院は、摂津国渡辺党の源番(つがう)の子昵(むつみ)が海に飛び込んですくい上げた。船に残っていた平時忠は、御座船に乱入して唐櫃(からびつ)から神鏡(しんきよう、八咫鏡やたのかがみ)の入った箱を取り出して開けようとした軍兵を叱りつけ、義経に引き渡した。
後白河と頼朝が、1年2ヵ月にわたって努力してきた戦いの構想(安徳天皇を上皇として帰京させ、後鳥羽天皇に対して禅譲の儀を行わせる)は崩れた。崇峻天皇暗殺(592年)以後連綿と受け継がれてきた禅譲による譲位が途絶え、宝剣が失われたことにより、歴代天皇が継承していく神器のひとつが失われた。追討使として前線で指揮する範頼・義経は、課せられた最大の課題を失敗したことになる。
安徳天皇の入水を聞いて、同船していた経盛(つねもり)・教盛(のりもり)兄弟が碇を抱いて入水し、小松家の資盛は敵に囲まれて自害した。資盛の弟有盛も人々に続いて入水した。
門脇家の教経は、人々が入水を始めてもまだ戦いを続けていた。最後は義経を狙って攻めかかったが、追いつけないことがわかると、追討使の武者を道連れに入水した。この光景をみた知盛は、「見るべき程のことは見つ」と側近に語り、鎧二両を着て入水した。これが、合戦の終わりを告げる合図となった。
『醍醐雑事記』によると戦死者は850人という。
平氏の一門で生け捕りとなったのは、平宗盛・清宗父子の他は僧侶であった。最後まで生き残った侍たちも、知盛の自害を合図として思い思いの道を歩んでいった。ここを最期の場所と思った者は自害し、思いを残す者は落ちていった。
海域は義経の水軍が制圧し、北九州から中国側の関門海峡の出口は九州の水軍が塞ぎ、山陽道側の海岸線は範頼の軍勢が海岸線を固めていたが、戦巧者の平氏家人はそれなりに落ちていった。勇名を馳せた平家の侍大将たち、主馬八郎左衛門(平盛久)・越中次郎兵衛(平盛次)・上総五郎兵衛(伊藤忠光)・悪七兵衛(伊藤景清)・飛騨四郎兵衛(伊藤景俊かげとし)らである。残党狩りと彼らの頼朝への復讐劇は、後世、謡曲に歌舞伎にさまざま脚色された。
「長門の国赤間関壇浦の海上に於いて、源平相逢う。各々三町を隔て、舟船を漕ぎ向かう。平家五百余艘を三手に分け、山峨の兵籐次秀遠並びに松浦党等を以て大将軍と為し、源氏の将帥に挑戦す。午の刻に及び平氏終に敗傾す。二品禅尼宝劔を持ち、按察の局は先帝(春秋八歳)を抱き奉り、共に以て海底に没す。建禮門院(藤重の御衣)入水し御うの処、渡部党源五馬の允、熊手を以てこれを取り奉る。按察大納言の局同じく存命す。但し先帝終に浮かばしめ御わず。若宮(今上兄)は御存命と。前の中納言(教盛、門脇と号す)入水す。前の参議(経盛)戦場を出て、陸地に至り出家し、立ち還りまた波の底に沈む。新三位中将(資盛)・前の少将有盛朝臣等同じく水に没す。前の内府(宗盛)・右衛門の督(清宗)等は、伊勢の三郎能盛が為生虜らる。その後軍士等御船に乱入す。或いは賢所を開き奉らんと欲す。時に両眼忽ち暗んで神心惘然たり。平大納言(時忠)制止を加うの間、彼等退去しをはんぬ。」(「吾妻鏡」同日条)。
つづく
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